作:王欣太、原案:李學仁『蒼天航路』その三百二十八「涼州掃討」(週刊モーニング 8/14 2003 No.35)より。
「孟起殿!
東方約100里に張合*1が5千!
後づめには夏侯淵!」「かなわぬ数だ」
「ならば韓遂殿に合流して和解し
略陽にて敵を迎え討てばよい!!」「時は戻らぬ
ひとたび穿たれた信は繕えぬ」「否!
ほころびを繕い
傷口をおさえ
寒さと痛みに耐え
慟哭をこらえて
鍛え上げられるものが
人の義心!
少なくとも今あなたの後ろに侍る
臣の忠義とはそういうものだ」
今日はこのシーンでした(とはいえ、この後の馬超もイイ!)。『プラネテス』も良かったんですが、ヤマはまだ先なので。
黒田硫黄特集『ユリイカ』も買ってきました。
*1 実際の文字は「合」偏に「おおざと」。
来年の入試をにらむ小学生が、勉強漬けの日々に「毎日苦しいばっかりだよ」とグチをこぼしていたので、「大人になってからも苦しいばっかりだよ」と諭してみた。
昨日または今朝の「朝生」では、人間を「去勢」する社会的な装置≒規範もしくは反面教師とするための「型」が欠如しているというところに結論が行きそうになっていた*1。
幼児的な全能感や責任なき自由は否定されるべきだけど、問題なのはそれが否定された後に社会の中で位置づけを模索していくための手がかり・足がかりがないことだと。で、まずは「自由」を制限し、「型」にはめていくという作業が必要だと(その前に「型」を作らなければいけないわけだけど)。言い換えれば、いま現状において認識されている「自由」の意味づけを変えていく作業ということになるんだろう。
さて。自分自身が育った環境について考えてみると、この「朝生」の文脈に沿って言うなら「誤解された『自由』」を与えられ、あるいは強制されて育ったという感覚がある。自分で考え、判断し、「個性的」となることが求められていた。少なくとも僕の中には今でもそうしたものへのこだわり(それこそ「複雑なもの」という意味での「コンプレックス」)がわだかまっていると感じる。
見習うものとしてか、反面教師としてかどうかはわからないが、僕自身もある種の「型」を求めているとは思う。10代への教育課程だけではなく、フリーターやひきこもりという問題まで射程に入れるとすれば、この「型」の適用はいま30歳前後の世代に対しても必要なものだということになる——可能なのか、どういう形でなのかはわからないけど。
だとすれば、「自由」を与えられ、強制されてきたらしい僕にとって、厳しい時代がくるんだろうか。それとも生きやすい時代になるんだろうか。「型」が必要であるということを客観的に理解してはいても、それに対する窮屈さをも感じてしまうところが「コンプレックス」なのである。とりあえず、どちらへの準備(心構え、覚悟)もしておこうかとは思いながら。
*1 そのあたりのメモ。
福島「しかし、かつてのそれに対する反発が現状を招いたはず」
宮台「今は過去のようなシゴキは通用しない」(「型」の必要性は否定していない)
田原「殺しちゃうのはシゴくのが下手なだけ」
喜入「今は言葉で型にはめてやるのが子供にもやさしい」
和田「精神医学では行動療法で型にはめる方法が主流」
田原「(『型』、『らしさ』などは)中曽根時代に否定された」
和田「内申書に教師の主観が入ることを許容した」
誰か「全共闘世代が『らしさ』を壊した」
宮崎・藤井「『らしさ』はまったく壊れていない、いびつな形で残ってしまっただけだ」
井尻「『しゃべり場』を見ていると、型を否定されたあと『個性的』の要求に本気で悩んでいる」
などなど。わかりづらくて申し訳ない。
7月24日にDVDが発売されていたわけですが、ツタヤが旧作半額キャンペーンをやっていたのでついでに借りてきました。ていうか新作も半額になるとカン違いしてました。
で、「『式日』主演」というのはいつも岩井俊二の公式プロフィールに載ってないので、東京都写真美術館での公開を見逃してからずっと気になってたんですが、岩井演じる「男・カントク」はすごく良かった。映画監督は演技がうまいという定説はここでも守られてますね。ちょっと足りない少女に振り回される情けない男役がかなりハマっているので、これからも俳優業をやっていってほしいと思いました。塚本晋也のようなポジションもいいのではないかと、勝手に思ったり。
これまで何度かカリフォルニア州立大学のエドワード・カストロノバ教授がリネージュを題材としてオンライン・ゲーム上の経済活動に関する論文を発表してることを紹介しました*1が、日本でもやっとオンラインゲームに関する論文が出てきました。東大人文社会研究科の池田謙一教授(紹介/個人ページ)による調査です。
この調査はカストロノバ教授のものとは異なり、ゲーム内の社会活動を独立的に捉えるのではなく、あくまで現実社会との関連を捉えようとしているようですね。現実のプレーヤーが「社会性」を持っているか、他人とコミットする可能性があるかどうかという点に着目しています。この調査は、オタクや引きこもりといった観点からも注目すべき結果でしょう。
ただ、「オタク≒社会性がない」という命題が真実味を持たなくなってきたことは、インターネット登場直後あたりから(あるいはそれ以前から)オタク社会の周辺では気づかれていたことだと思います。オタクであっても同じ趣味を持つ人同士は常にコミットしていたのだし、最近のコミックマーケットの参加人数は1日あたり10万人を超える*2とも言われますから、まったく他人との接点がないとは言えません。「同じ趣味を持たない人とコミュニケーションがとれない」というなら妥当性がありますが、少なくとも記事の中にそういう観点はないようです。
学術研究によって広く認知されるという意義はともかく、何をいまさらという感じがしなくもありませんが、これを叩き台としてオタクと引きこもりの間には一線を引くべきだという点を再確認するのはいいでしょう。単純化してしまうけど、「オタクで社会性がある」、「オタクで引きこもり」、「オタクではなく社会性がある」、「オタクではないが引きこもり」という四象限分類ができそうだと*3。だから、 CNET と ZDNet の記事が「オンラインゲームユーザー=オタクではない」という言い方をしているのはちょっとずれていると思います*4。
ほかにもこの論文には、韓国におけるリネージュ・ユーザーに対する調査と日本のそれを比較した比較文化論の側面もあるらしく、こちらも興味深いです。特に韓国よりも日本のほうが「血盟」(クラン)への参加率が高いらしいという結果は意外でした。前に(ツッコミ欄で)韓国のほうが階層秩序が強そうだというような予測もしましたが、韓国より日本のほうが帰属意識は強いんですね。むしろ血縁よりも地縁や偶然の結びつき(プロジェクト型?)による結束が強くなるということなんでしょうか。
とりあえず論文を読んでみたい。
*1 ギル価 (20030216) と 「『エバークエスト』に女性差別? 米経済学者発表」(20030627)
*2 コミケに参加するだけで社会性を持っていると言えるかどうかも検討の余地がありますが、これ以外にもオタクが「同類」とコミュニケーションをとる例はいくらでもあるでしょう。
*3 でも、テレビのドキュメントで見た「今夜の皿洗いをどっちが担当するかをゲーム内のPK勝負で決める夫婦」を考えると、まっとうな社会性があるのかどうかはちょっと疑問。ヤラセかもしれませんが。
*4 「池田氏は『リネージュは社会性の強いコミュニティゲームであり、オタクのものと考えると本質をとらえ損ねる』と結論付ける」(CNET の記事)というあたりはイヤな予感が。
B00006I4GZ始まってしばらく見てたら、Beltorchicca で紹介されてた "80s Ending" を思い出した。
★80s Ending 80年代アメリカン青春映画のエンディングのパロディムービー。勝ち誇るナードたち!くやしがる体育会系!金髪のチアリーダーもナードにキャー!
「あれーこの映画は去年公開されたんじゃなかったか」と若干のタイムスリップ感を味わいながら、しばらく見ててもエイティーズ感がまったく薄れてこないので「最後までこの調子なのかなー、オチはやっぱりナード大喜び?」と思っていたら、最後ではしっかりダークヒーローっぷりを見せつけてくれたので「ああマーブルはこうじゃなければ、ダークヒーローはカッコイイなー」と思いつつラストシーンの星条旗を見て、「そういやツインタワーを登るシーンがあったんだけど 9.11 のおかげでカットされたし公開も遅れたんだよね」と思い出したところでふと気がついた。
強いアメリカのヒーロー像は、マーブルのダークヒーローなんだった。アメリカの物語はディズニーだけじゃなくて、暗い影を背負った超人的な力が綿々と語られてきたわけで。
"With great power comes great responsibility."
「大いなる力は 大いなる責任が伴う」
という、この映画の中で大きく扱われている台詞は 9.11 の後で付け足されたのかもしれないけど、こういう姿勢がカッコイイという価値そのものはずっと前からアメリカにあったものなんだ。愛するものを失い自分が醜い姿になっても正義のために戦い続ける自分の姿に泥酔するのが最高に気持ちいいんだ。
要するに、ブッシュはマーブル・ヒーローになりたがってて、腕から白い糸を出したり鋼鉄の爪を出したり目からビームを出したりしたいという願望の延長線上にイラクがあるんだろうな。
『ハルク』も見たくなってきた。キレるとムキムキになって大あばれ。
『ユリイカ』黒田硫黄特集号をぼちぼち読み進める。最近、評論のような硬い文を読むとすぐ疲れるようになった気がする。
以下、黒田硫黄(漫画家)・穂村弘(歌人)・西いづみ(アシスタント)の対談から。
穂村 五、六年前に初めてお会いしたとき、なんて思い切ったマイナーな作風なんだろう、と驚いたけど、それが映画になっちゃうくらいメジャーになったんだからすごいよね。今日、来る前に「黒田硫黄」で検索したら「柴田ヨクサル」よりもはるかに多くヒットしたし (笑)。真にマイナーな作家で真にメジャーになるのは天才しかいないから、やっぱり天才だったんだと思うしかない (笑)。
黒田 それはネットで日記を書く類の人にピンポイントで当たっているということで、それはぜんぜんメジャーじゃない (笑)。だから、すごいメジャーな漫画家が意外とヒットしないということはよくありますよ。
穂村 それはたとえば「わたせせいぞう」とか名前を出すことが自分を傷付けることになる名前と、自分を高めてくれそうな名前とがあって、「黒田硫黄」は断然後者なんだよね。
黒田 でも、ネットを見ていると、不当に評価が高い気はします。
穂村 黒田硫黄について書かれた文章って内容の正しさとは別に、黒田硫黄を選んだ自分を誇るみたいなところがあるよね。
—— 読者ということで言うと、黒田さんは「大衆性」と「アート生」のバランスって意識して書かれているんですか。
黒田 意識してできるんなら、やってますよ (笑)。
—— 再三、マンガに没入してほしいということを言ってますよね。
穂村 それもまた人をムラムラさせる憎い発言で、この作風でそんな口を利くか、自分だって知っているんだろうと思うよね (笑)。没入というよりは、読者が我に返ってオマージュを捧げたくなるという作風でしょう。
黒田 それはいやらしい言い方だけど、まだまだ修行が足りないなと思いますよ (笑)。
穂村 つげ義春は好きですか。(……)
スネに傷があるので思わず笑った。最近だと、マンガなら黒田硫黄だろうし、日本映画なら黒沢清とか青山真治とか、アニメだと新海誠がそういうところから出たんだろうし、小説ならメフィスト系作家とかいうことになるのかもしれない*1。
こういう層を狙いすまして作品を作るということは、少なくともモーニング娘。をプロデュースするより難しい*2ことだと思うんだけど、かといってバカにしきれない市場を形成しつつあるんじゃないかと思ったりするのは「ネットで日記を書く類の人」らしい感想だなぁ。でも、そこに共通してるものを探ってみるのもおもしろそう。
それはともかく、自分がそういうものを中心に追いかけてばかりいるような気がしたので、もうちょっと他に目を向けてみようと思った——ところで、どうやったらそういうものをみつけられるのか見当がつかなかった自分はかなりヤバイと一瞬思った。
リリースにともなって、さっそくここもバージョンアップ。プラグインの設定もWEB経由でできるようになったのがとても便利。ただしプラグイン側でも対応する必要があるので、これからが楽しみなかんじ。
リンクをクリックしたとき別窓で開くかどうか選べるスクリプトを The Ultimate Insult からそのまま移植。これに伴い、いままで外部へのアンカーに入れていた target="_blank" を廃止します。
Win + IE をお使いの方は Shift + クリックで、チェックを入れずに別窓で開くこともできます。
以前、友人(♀)と「鬱には周期があるよね」という話をしたときに「生理と同じであらかじめわかってるとラク。だいたい28〜35日周期くらいだと思う」てなアドバイスをもらってから、しばらく自分の周期を測ってたんだけど、先月のピークが10日くらいだったので(サブタイトルからもわかる)、友人の理論はなかなか正しいと言ってよさそう。また今月も来ています。鬱の周期は生理と同じ。
「若者が最も恐れているのは孤独になることだった」という調査結果を、いつか新聞だかテレビだかで見た記憶があるんだけど、いま探したらぜんぜんみつからないので困った。調べてる間に「孤独恐怖」傾向があるというような論文や記事も見つけたけど、同時に友人関係が希薄になっているという論文や記事も見つかって、何がどうなってるんだかよくわからなくなった。
まぁダメなときはしょうがないので日常でも書いていこうよと思った。
横浜市が積極的にパブリックスペースの灰皿を撤去してます。記者発表はこちら。関係ないけど、プレスリリースって言わないのいいですね。
でだ。僕は友人の喫煙者から「偽善者」と罵られながらも携帯灰皿を使用してるんだけど、このようにパブリックスペースの灰皿がなくなると、少し人から離れたところで携帯灰皿を構えつつ煙草を吸うことになる。同じように、煙草を吸う人々は「吸ってもいいですよ」という場所がなくなると、色々なところに拡散すると思うのだ。だから、ちょっと離れた場所でもいいからどこかに置いておくのはいいんじゃないかと。
喫煙者とて分煙への協力はやぶさかでないという人も多いだろう。近々予想されてる総選挙で、喫煙者を保護した分煙政策をオマケ的にでも打ち出すと議員1人くらいは通るんじゃないかと思った……が、小選挙区制じゃ難しいかなぁ。マイノリティを押しつぶすシステム。
こうやって少しずつ吸わない人が増やされていくんだろうか。そのうちゲリラ喫煙しなきゃいけなくなるとか。
_ しかし「ゲリラ喫煙」て貧困だなぁ。歳を重ねると妄想にもジャンプ力がなくなる気がする。
Google に、特定トピックのニュースが投稿されたことをメールで知らせてくれるサービス登場。オークションアラートみたいなもんですね。ニュースを知りたいという普通の用途のほかにも翻訳系ブロガーさんあたりが重宝しそう。co.jp のURLでも同じページが出るけど、英語のみなのか Google News の他の言語のソースも拾うのかというあたりは今のところ不明。
とりあえず使ってみようと思うんだけど、ワード設定に悩む。英語ボキャブラリーが足りない。
ヤケクソ気味に "al qaeda" で作ってみた。貧困だ。 "Create News Alert" を押すと入力したアドレスに確認用のメールが届くので、ブラウザから "Verify this News Alert request" のURLを開いて設定完了。
アラートを作るごとにメールで確認しなきゃいけないのか。ヤフオクみたいにアカウント単位で管理できるといいのに……と思いながら、ガス室生還犬のその後が気になるので "gas dog" も設定。
届いたらまたレポートします。
どこまでネタなのかわからないあたりとか。
Google News をいじってるうちに発見、自分用にメモ。今まで使ってなかったのは大失敗だなぁ。
結論からいくとですね
という結果でした。テストで設定したキーワードは、昨日からさらに追加して以下の通り。
で、すべて英語メディアの記事のみが届きました。Google News のソースには朝日・読売両新聞やプラウダなどの英語版も含まれているので、英語圏以外のニュースも英語表記でキーワードを設定すれば、かなり細かく拾えると思います。さらに gas dog や front national は、語順や隣接関係などは考慮されず、この2語が含まれているページが届きました。もしかしたらダブルクォートで囲ってみると連結語だけにヒットするかも、と今思いましたが。(追記:試してみたら、予想通り連結語として扱われました)
アラートを設定後はじめて届くメールには、過去のアーカイブを設定キーワードで検索した結果から上位10件が送られてくるの*1で「古いじゃん!」と思うかもしれませんが、その次からはきちんと新しいニュースが届きます。
*1 ただし How often : as it happens 設定のみテスト。
いわゆる*1技術をムダに使う系サイト。ヒューが開発した、GPSの軌跡を3次元で記録するシステムを駆使して、ジェレミーが絵を描きます。
地上・空中・水中など各部門があり、アンテナを持ったままスカイダイビングしたりパラグライダーしたり芝刈り機に乗ってみたりと好き放題。タテの大きさが 112km もある「世界最大の "IF"」や、ひとつの街をまるごと使って描いた船がすごい。
*1 いわゆらない。
日々「メガネっ娘萌え〜」とか言いつづけてる喪前らのために漏れがハケーンしてやったメガネっ娘写真を教えてやりますよ。右の写真の拡大版と、ナル系フランス人 Rod のギャラリー。
たぶん行くとガッカリしますが。あと、HENTAI.COM などのエロ広告が開くかもしれませんが気にしないように。つか、完全なエロサイトでもないのにそんな広告出すなよ。
はてなダイアリーをパラパラとめくっていたら突然目にした「マシーン日記」の文字。さっそくぐぐってみたら、やっぱり舞台のドラマ化だった。しかも、もう本編の放送はすべて終わり、メイキングを残すのみ……気づかなかった。
『悪霊』の再演を見に行ったときに戯曲本を買って、「マシーン日記」も見たかったんですよ。最近テレビとは縁が薄いので、まったくわからなかった。ううううう。
母親がネットをしたいというので、家に眠っていた FMV-5120 NA2/W Pentium 120Mhz 48MB、画面サイズ 640x480、色数 256 色という遺物を無線LANでネットにつなぎ、メールとWebブラウジングくらいはできるものにするというタスクに着手。
Win95 が入っていたところに無線LANカードのドライバとユーティリティをつっこんでみたところ、ネットにはつながったようだ。しかしインストールされていたブラウザが IE3.01 のみだったので、身動きがとれない。「このままじゃブラスターにザッピングされちゃう!」と思いつつ対策を考えるが、Windows Update もできないし、 IE5.x の単体インストーラは配布中止になっている。
仕方がないので Win98 へアップグレードしようと試みるが、何度セットアップしても必ず同じところでフリーズする。そのたび再起動してたのだが、「もしや」と思ってそのフリーズ状態を放置してみたら、単に処理速度がとてつもなく遅いというだけの話だった。
なんとか Win98 はマシンに収まって、無線LANカードの設定も完了、Windows Update をして一段落……あれ? コントロールパネルから「ネットワーク」を開こうとすると
システム管理者により制限されています
というダイアログが出る。イヤな予感がしたのでレジストリエディタを試してみると、やっぱり同じ。「ネットワークコンピュータ」も表示されていない……LANが見えないのはまずいでしょ。
そもそもマシンにスーパーユーザを設定した覚えはないっていうか、いままで起動時に自動ログオンされていたマシンであるから、おそらく工場設定で入っているIDが権限を持っているんだろうけど、それを知る術はない。
レジストリが臭いと睨んで Google さんにお伺いを立ててみると、「レジストリエディタを使用不可にする (Nacelle) というVBスクリプトを発見。レジストリエディタを一箇所変えるだけで済んじゃうわけね。このスクリプトは逆に制限を外すこともできるので、さっそくレジストリエディタを解除。
その後、\HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Policies\ 以下の設定値を0にしていくだけで次々と制限解除に成功、にわかクラッカー気分を味わう。こんなに簡単だったのか……とはいえ、こんなの突破しても何も面白くないかも。
というわけで、なんとか今この日記を 640x480 で書いています。このページは 640x480 に対応していないことがわかりましたが、対応する予定はありません。ごめんなさい。
昨日の朝型、ニューヨークにいる友人とMSNメッセンジャーで「いいなぁニューヨーク、こっちは朝だよ。チャット距離感ないねー。おみやげにウォーホルが描いたエルジェの肖像のポストカード買ってきて」なんて話をしたばかりだったところ、いきなり大停電。
んで、つい今しがた、やっとネットに接続した彼と話せました。とりあえず平気ではあったけど、地下鉄に乗ったまま2時間閉じこめられて、やっと出たあと10ブロックくらい歩いて、そこでやっとバスに乗って部屋に帰れたんだとか。話題の中心にいるかんじで、ちょっとうらやましかったり。
「すわテロか?」とどうしても思ってしまうけど、米政府は否定。まぁ人為でも事故でも天災でもいいんだけど、とにかく今アメリカはツイてない。そういうときは何もしないでじっとしてればいいのに。カナダとの責任のなすり合いもちょっと注目。
サブマシンにパッチあててなかったので、あわてて修正。ちょっと笑ったのが、シマンテックのリリース (via ABC, ABC, ハーン, E男…)。
このワームには次のテキストが含まれていますが、画面に表示されることはありません。
I just want to say LOVE YOU SAN!!
billy gates why do you make this possible ? Stop making money and fix your software!!
ウィルス作成者よりも、このテキストをわざわざ引用したシマンテックの担当者の意志を感じる。他のウィルスにもこのテのメッセージは入ってると思うけど、このように引用されてる例は他に見当たらなかった。引用にもメッセージは乗ってしまう。
シマンテックの社員には、「それで食えてるんでしょ」と言ってみたくなるけど。
げ、知らなかった。「穂村 弘」で検索してきてた人がいたのでそれを逆にたどっていて発見。そうか……片岡Kの作品に出ていたことといい、井出薫を思い出したり。
今月も携帯電話の課金明細が届いていた。5月には基本料金に含まれている3000円分の無料通話マージンを700円ほど残してしまったので「もう少し人に電話をかける」という目標を掲げ、6月はほぼキッチリ使い切ったのだが、7月は870円も残っていた。増えてる。
ただでさえ人に電話をかける用事は少ないし、一緒に何かするとかどこかに出かけようともなかなか思わない。かといって、ただ電話を目的として電話をかけようとも思わない。人と話すことにそれほど期待できないんだろう。独りで過ごしていてもそれほど楽しくはないが、複数になったところでそれが変わるという期待も、残念ながらできない。たとえば寂しいと思ったとして、人から埋め合わせてもらえるとも思わないし、誰かのそれを埋められるとも思わない。誰かが僕を楽しませようとしても僕はそれを楽しまないだろうし、だからこそ誰かを楽しまることもできない。楽しませれば、楽しくない。少なくとも今はそんなかんじだ。
僕だけが悪いのではないし、また「友人」たちだけが悪いのでもないだろう。素晴らしい共犯関係——もしそこに「関係」と呼べるようなものがあるとすればの話だけど。
この二人、韻を踏むのは意図ですか? 吉村萬壱、花村萬月。と最初から気になって仕方なかった芥川賞受賞作/家。初出は「文學界」五月号。
高校の倫理教師が、ビジネスライクな関係を一度だけ結んだソープ嬢と半年後に再会、というよりは半ばムリヤリ押しかけられたまま、その関係に押し流されて……という話。
きもちわるい。といっても読んで本当に吐いたりはしないのだが、とにかく今の自分のコンディションで読むにはキツかった。三浦哲郎が選評「感想」で述べている「今の私にはちと荷が重すぎた」というコメントに思わず共感していた。色情狂とか暴力魔とかキチガイとか変人とかサブカルはいらないから、もっとまともな人が出てくる話が読みたい。
この作品を推す委員は多かったが、私にはそのようなものに何も目新しさを感じなかった。それどころか、また古臭いものをひきずり出してきたなという印象でしかなく、読んでいて汚ならしくて、不快感に包まれた。(宮本輝)
まさに。前期受賞作の『しょっぱいドライブ』が地味目でどうも評判よくなかった*1ことを受けて、今回はわかりやすい話にしたのかなと邪推したり。
とはいえ、ほとんど倦むことなく最後まで読み通してしまったことに後から気づき、この違和感も含めて狙ったところに誘導されてるのかしらんと思ったりしてしまい、複雑な心理描写に踏み込まずただ事件を叩きつけてゆくあたりはやはり巧いのか。後追いで事件に深みを与えないということは、この違和感もそれほど後を引かずに抜けていってしまうのかもしれないけど、そこをどう評価するかは意見が分かれそう。暴力が後に何も残さないことのほうがむしろ重苦しいとも思える。
作品自体よりも、選評のバラバラぶりというか身勝手ぶりというか、みんなで好きなことを言ってるのが面白かった。選評は受賞後に書いてるので、もちろんそれなりにまとまっている部分もあるんだけど、その外でそれぞれが好き勝手なことを言う。石原慎太郎は『ハリガネムシ』かなり好きそうなのに納得。
しかし何と言っても注目は、今回初参加の山田詠美。ひとりボケツッコミ、疑問符に感嘆符、「指くわえたら、本当にイモ虫だった、とかさ。(安易ですいません)」、「ガールパワーここにありって感じで」などなど、Web日記じゃねえかこれ*2。それを悪いとは思わなくて、むしろ「これでいいんじゃん」という無意味な安心感を得られた。これだけでも立ち読みする価値はある、かも。次回はお歴々からのプレッシャーで文が固くならないことを祈る。無用か。
中村文則『遮光』は「前作で期待してたのに……」みたいな言い方が多かったので、前作『銃』を読みたくなった。
はてなダイアリーでは「ロンmemo」を書き、XREA にはてなの注目URLをリストアップする「はてなのおかず」を作成されている ron さんのサイト。かわええー。MacOS に模したサイトはけっこうありますが、CSS と JavaScript でここまで凝ってるのはすごい。
特に SimpleText が Wiki と連携してて本当に書けるところは泣きました。イカス。
む、これはうまく調整するとおもしろそう。XREA で chasen を使う方法がよくわからないこととデザイン上の理由と負荷率怖い病により、とりあえず導入は見送るんですが、偶然の発見は楽しいはず。はてなダイアリーの「おとなり日記」も楽しいし。
毎日新聞の朝刊1面に連載されているコラム「余録」8月20日で、「トリビアの泉」がネタになっていた。で、新聞コラムお約束*1の「思い出した」ネタで引き合いに出されていた山崎方代の短歌を読みたくなった。
今日はたまたま横浜方面まで出る用事があったので、大きめの本屋に入って短歌コーナーを探してみると、しっかり平積みになっている。「ほほうこれが」と立ち読みしてたら欲しくなってきたのだが、『こんなもんじゃ 山崎方代歌集』(文藝春秋)というセレクション本と、「余録」で紹介されていた田澤拓也『無用の達人—歌人山崎方代伝』(角川書店)という評伝のどちらにするか迷っていた。
と迷いながら、ふいと横に目を遷すと穂村弘+東直子『回転ドアは、順番に』(全日出版)という新刊が出ていることに気づいたが、少しだけめくれている表紙の向こうの見返しに、サインが入ってる! こ、これは買わなくては。というわけで1冊確定。
さらに迷いは大きくなるばかり。今日の候補には、まだ中村文則『銃』、夏目漱石『それから』(岩波、新潮、講談、ちくま、角川など)、永井荷風『珊瑚集』(岩波文庫)も入っているというのに。
『銃』と『珊瑚集』は在庫がないとのことだったので、候補から消え。迷ったときには「全部」と答えるのがオタクの正しい姿なので、『こんなもんじゃ』と『無用の達人』は両方ゲット。『それから』は買い忘れてしまったのだが、「まぁ青空文庫でいいやー」と思いつつ帰ってきて調べてみたら、作業中だった。永井荷風は著作権切れてないしー*2。
佐藤和歌子『間取りの手帖』(リトルモア)が出てるのにびっくり。直筆PRが書かれていた。しかも4月16日初刷で6月6日には4刷になってて、スゲェ。
フランスのブログ界隈では更新感知システムのようなものが普及していない。 Blogrolling は使っててもいいような気がするけど、あまり Ping なぜか使われておらず、アンテナのようなシステムもない。
そこがニッチだと判断し、こういうものを作っておいたら、珍しがってもらえたようだ。思い切ってキャラクタセットを ISO-8859-1 に設定した甲斐があるというもの。実は MilkandCookies のサイドバーの下のほうにも入れてもらっていて、かなり光栄*1。もしかして、アンテナスクリプトの英語キットを作ったら世界中に普及するんじゃないのかな*2。
しかしこのジャン・リュック(上のサイトの管理者)のログの貯めかたは異常だと思う。
あと、「なつみかん」で PHP のサイトの更新をうまく割り出す方法をご存知の方がいましたら、教えてください。いまいちうまくいかない。「たまてばこ」とかだったら問題ないのかな?
久しぶりに困った文章っつうか談話だけど、そういうものを読んだ。一例。
でもあえて言うなら、死んで楽になる保証はないんです。人は自分が死ぬってことを観念では知ってると思う。毎日、人は死んでますからね。でもそれは、他人の死なんです。誰も自分が死んでないから本当のところはわからない。
死んですべて無になる、と思ってるかもしれないけど、「無は存在するか」というのは、哲学の大問題です。無が存在したら無じゃないでしょう? 何もないっていうことはないんですよ。これは驚くべき事実で、あらゆる哲学者はこれにびっくりしてものを考え始めるんです。
死ねば苦しさを解消できると思うかもしれないけど、自殺という逃げ道は「無い」んです。
ええと、「無は存在するか」とかいう問いが突然出てくるけど、つながってるの? あなたのシナプス構造がわからない。べつに死が「すべて無」じゃなくても人は死ぬだろうし、そもそも哲学的問いにおける「無」を人間の意識活動に適用できるのかどうかも怪しい。そこまでして「哲学」って単語を出さなくても、あなたが「哲学者」だってことはわかるから。ちゃんと見出しに入れてくれるから。
「死んだあと人間は存在するか」という問いもけっこう意味のない話というか、生物学的な死をミクロでつきつめたら境界線は曖昧になっていくわけで、定義次第で「人は死んだあとも存在し続ける」と言うことはいくらでもできる。「生きているとはどういうことか」だって、生物学でも哲学でも大きなテーマでしょう。それに、哲学は「存在とは何か」に明確な答えを出すことができるんだっけ?
自殺者に大してこの話を持ち出して「リスク」を伝えたら自殺者が思いとどまるとすれば、方便として有効であるとも思ってあげよう。でも、自殺するのは現実がつらいからじゃないの? たとえ死の先に苦しみがあるとしても、そのリスクを背負うぐらい現実がいやだったり面倒だったりするんじゃないのか。んで、仮に死の後にも存在が継続するとしたら、死んだって何も変わらない、したがって死んでもいいってことにもなりかねないし。あと、もしこの話をするとしたら、「死んだらあなたは無間地獄で永遠の苦しみを味わうのよ」とでも言うの? あなたの立場からそれは許されるの? ……頭痛い。
その直前に読んだ「『トリビアの泉』はウスいからウケる」(裏モノ日記 2002年8月20日 via 日記のノビジュース)という唐沢俊一のコメントを思い出した*1が、はたして池田晶子がウケているのかどうかがよくわからなかったので結論を出すのはひかえることにした。
とりあえず、世にはびこる「哲学者」を名乗る人々すべてを射程に入れて語らなければならないとき、「哲学はうさんくさい」という人の言い分を僕は否定できない。本当にそうだと思う*2。
そして、池田晶子の言葉に説得される人も、やはり大勢いるんだろう。死にたい。
半分壊れかけているとのことで友人からもらい受けた VAIO PCG-R505R/GK を、ここ数日の間なんとか復活できないものかと試行錯誤してたんですが、マザーボードを露出させるためにカバーを外して各種配線を外す過程で部品をひとつ基盤のプリントごと引き剥がしてしまい、最悪の状態に陥っています。
数年ぶりに、「浄化」されるべき街こと秋葉原に出向いて精密電子機器用の細い半田ごてを買ってきたり、それでも足りないツールを求めて東急ハンズまで行ったらセール前の棚卸で今月唯一の休日に当たったり、すでにトータルで1万円以上投資しているにもかかわらず状況は一向に進展しなかったりと、ドツボにハマっています。
むかついてきたので、たった今、剥がれた部品を基盤にアロンアルファで接着してやりました。乾くまでの待ち時間中に日記を書いてます。アロンアルファが「瞬間」接着剤だなんて言ったのは誰なんですかね。まぁ東亞合成とコニシなんですけどね。 JARO の電話番号はどこだ。
というわけで、まぁ半ば諦めムードなわけですが、接着した後に金属部分とプリント部分の切れ端を銅線とハンダでつなげてなんとかならないかなーと淡い期待を抱いているわけなんですけども、ツッコミ欄であっさり「ムリ」とか言うのはヘコむのでやめてください。いや、フリじゃないから。マジだから。
8月下旬公開かぁ……って、8月もあと5日なのに公開されてませんよ? 大丈夫なのか? 撮影はさすがに終わってるよなぁ。
例によって(こちらはきちんと)発売されている DVD つきキットカットは買いました。例によって監督プロフィールに「主演作:『式日』」とは書いてありませんでした。そして、感想も例によって「長い」で。
今日から「hirokiazuma.com@はてな」開始。「hirokiazuma.comの『経歴と近況』を分解し、近況欄をこちらに移」したとのこと。おほほほ、色々な意味で注目。トラックバックしちゃおうかなー。早くも12件もついてるけど。「エスタブリッシュメント*1を批判すると嫌われる」という村上春樹の言葉*2を思い出しておこう*3。傍観傍観。暴漢じゃなくて。
関係ないけど、彼がネット上で使用する "hazuma" はフランス語読みで「アズマ」なのが係ってたりするのかと一瞬思ったがぜったい違うと思った。 "hozuma" にして「オズマ」と読むのもいいなぁ(いやべつに)。
あ、シネマのほうに直接跳んでたからトップページの告知を読んでなかった。
「花の嵐 II 乱舞」は8月29日公開予定!(8/25)
だそうです。岩井スレでは、ソース不明だけど「午後」という情報も。
*1 その内容は諸説。
これ……東直子さん本人のサイトより上に来てる(現時点で)のはまずいんじゃないでしょうか。うれしい以上に、申し訳ない。素晴らしかったです。
Google や goo では、さすがにそんなことないみたい。Yahoo! って goo と連動してるんだと思ってたけど、違うんですね。
すでに超話題になっておりカウンタが900万に至ろうとしている「リアルへぇボタン」(僕の見た秩序)は、サーバ限界を超えたとのことで今日ずっと Unavailable になってたんですが、今見たらジオシティーズに移転したようです。でもやはり激重。ミラーで分散すべきか?
本当に無くそうとしてるのは誰? どうすればいい?
日本→アメリカ→ヨーロッパと、オフイベント・ブームは波及してるようですね。8月28日、ルーブル美術館入口ピラミッド内のエスカレーター横にある広場が会場。
という流れだった模様。ちゃんと公式サイトとまとめサイトもできてて、参加者のオフレポもいっぱいある(たとえばここ)。
こういうオフイベントは未だに参加したことがなく、いまのところ参加する気もおきないんですが、面白い動きだとは思うのでヲチしたりしてるわけで。
携帯電話の普及によるライフスタイルの変化というお題で思い出したのは、以前ケーブルテレビで『尻を撫でまわしつづけた男 痴漢日記2』という作品を見たとき (リンク先の10月31日分) に、ラストシーンで主人公が最後の告白をしようとヒロインに電話(お互い据え置き)をかけるんだけどヒロインは不在、そのまま主人公があてもなく電車に乗ると、併走する電車にヒロインが乗っていて主人公ではない男に痴漢されている*1……という、やや説明不足だけどその作品の文脈では切ないシーンがあって、そのときに「今これを作っても説得力ないよなぁ」と思った覚えがある。そんな思い出しかないんですが。
「Smart Mobs が〜」とか「ラインゴールド曰く〜」とやる気にはならないんですが、なんつーか米国人の目で我々の風景を見たら、もっとショック受けただろうなとは思います。内側から見ると、ふと気がついてみれば大きく変わってるけど、その実何か変わったか? と考えてみるとあまり変わってないような。と言いつつ逆戻りはできないんだろうけど。
待ち合わせの時間に(もっと)ルーズになったとか、文句を言われたことはあります。
*1 記憶が曖昧なので詳細は違うかも。
「LAST HEAVEN TOUR」終了と共に解散。このスキャン画像はファンクラブの会報とのこと。
わりと熱烈めなファンであり、10月11日に幕張で行われる、文字通り「最終」公演のチケットも確保している友人は「まぁ予想はしてた。ツアータイトルもねぇ。『ロッソまたやりてー』って発言もあったみたいだし。もちろんショックだけどね」(大意)とコメントしていました。
赤みのかかった月が昇るとき
それで最後だと 僕は聞かされる
うーん、ラストライブのアンコール2曲目は「世界の終わり」しかないよなぁ。だったらマジで聴きたいもんだけど、そんな資格ないかも。でも聴きたいなぁ。
また光栄な検索結果(一時的なものだと思うけど)。しばらく根元作品には触れてないけど、久々に読みたい。
頭頂部は禿ではなく、カラーリングですよね? 左右をカラーリングしてるのかもしれないけど。やはり一昨日のリストに彼のニュースを入れたのは正解だった……と一人で納得した一枚。
30日の深夜に再放送された『眠れない夜はケータイ短歌』(NHK)を見ていたら、携帯メールをモチーフにした短歌が紹介されていた。内容は「ケータイのメールを送ったけど返信がなくて、眠りたいんだけど眠らずに待ってしまう」みたいなもので、それに対するふかわりょう*1のコメントが「メールって、基本的に個人の都合のいいときに読んだり書いたりするものじゃないですか。ケータイっていうのは、現代人を以前よりも一層孤独にしてしまってもいるわけですよ」というようなコメントをしていた。
さて、昨日は避けたラインゴールド。まだ著書を読んでいないので彼の意志をきちんとつかめているかどうかは疑わしいが、どうやらその周囲の人々の発言を目にするにつけ、スマート・モブズが形成する社会がよいものであるかのように扱われているようだ。特にビジネス方面からの興味が強いのはよくわかるが、警戒的な視点にしても「監視社会」に対する危惧であったりする。
だけど、本当にケータイを使うと他人の事がわかるようになんてなるのか? むしろ、他人がなにをやっているのかさっぱりわからなくなっているような気がして仕方がない。動きながら連絡できるということは、他人と常に連絡が取れると同時に、他人の居場所に囚われず人々が動き回れる、つまり分散することを許す技術でもある。
どうも人々の社会参加が促進されて民主主義がよくなるのだ、というような意見もあるようだ*2*3。あくまで日本人の、一日記書き(ブロガーでもかまわないけど)からすると違和感がある。以前、三浦展の「コンサマトリー」について云々したとき(20030524)にも言ったことだけど、それが一瞬のつながりでしかないという感覚はフラッシュ・モブであろうと2chオフだろうと拭い去れない。三浦による「プロジェクト型の共同性しか生まれてこない」という指摘も、「フラッシュ」モブズというネーミングも、重要なものだと思う。人々は集まっていても「孤独」なままでしかない。それが果たして「賢い」ということなのか?
「スマート・モブズ」が形成する社会においては、タコ壺化/島宇宙化というモデルすら雲散してしまうかもしれない。2ch的なコミュニケーションが創造的か否かということではなく、そもそもそれは集団にすらなり得ないようなものであるかもしれないということだ。ラインゴールドの言う「新しいつながり」は、「つながり」としての役目を果たさないかもしれない。それは冒頭のふかわりょうが述べた言葉にも表れている。8月1日の朝生において、適切な「型」の必要性が、少なくとも60年代生まれの世代まで含めて同意されていた*4。それは、「個性」の呪縛に囚われ分散している人々に対し、ある種の共有事項を生み出すことが必要だという意見である。
仮に、ふかわりょうの言う通り、携帯電話やネットなどを介したコミュニケーションが人間同士の距離を広げているとして、問題は、僕自身も含めてそうした技術を前提とした方向をすでに選択し、これからも望んでしまっているということだ。それを嫌だとも思いながら、どうしても携帯電話やメールを使ったコミュニケーションを、それが生み出す距離感も含めてラクだと感じてしまう部分がある。それが生んでいるのであろう孤独には危機感を抱きつつも、この生活を便利だと感じてしまっている。普及した技術を後戻りさせるのは難しい。携帯電話の契約数は6500万台を超え、この流れは緩むことはあっても止まらないものであるように見える。それは単に人とのつながりを求めるばかりではなく、人にわずらわされない自由な行動を求める動きでもあると思う。「進歩とは常に反面で後退だ」とどこかで読んだ記憶がある。
この先、個人にとってはさらにキツい時代になる——というのは、すでに古い世代の感覚なんだろうか。生まれたときから携帯電話がある世代は、そんなことに悩まないのか。それが本当に「賢い」群衆ってこと?
以下、事前に目を通した文書リスト。