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2003-08-24

_ なぜ集団自殺なのか 哲学者、池田晶子さん (毎日インタラクティブ 2003年6月9日)

久しぶりに困った文章っつうか談話だけど、そういうものを読んだ。一例。

 でもあえて言うなら、死んで楽になる保証はないんです。人は自分が死ぬってことを観念では知ってると思う。毎日、人は死んでますからね。でもそれは、他人の死なんです。誰も自分が死んでないから本当のところはわからない。

 死んですべて無になる、と思ってるかもしれないけど、「無は存在するか」というのは、哲学の大問題です。無が存在したら無じゃないでしょう? 何もないっていうことはないんですよ。これは驚くべき事実で、あらゆる哲学者はこれにびっくりしてものを考え始めるんです。

 死ねば苦しさを解消できると思うかもしれないけど、自殺という逃げ道は「無い」んです。

ええと、「無は存在するか」とかいう問いが突然出てくるけど、つながってるの? あなたのシナプス構造がわからない。べつに死が「すべて無」じゃなくても人は死ぬだろうし、そもそも哲学的問いにおける「無」を人間の意識活動に適用できるのかどうかも怪しい。そこまでして「哲学」って単語を出さなくても、あなたが「哲学者」だってことはわかるから。ちゃんと見出しに入れてくれるから。

「死んだあと人間は存在するか」という問いもけっこう意味のない話というか、生物学的な死をミクロでつきつめたら境界線は曖昧になっていくわけで、定義次第で「人は死んだあとも存在し続ける」と言うことはいくらでもできる。「生きているとはどういうことか」だって、生物学でも哲学でも大きなテーマでしょう。それに、哲学は「存在とは何か」に明確な答えを出すことができるんだっけ?

自殺者に大してこの話を持ち出して「リスク」を伝えたら自殺者が思いとどまるとすれば、方便として有効であるとも思ってあげよう。でも、自殺するのは現実がつらいからじゃないの? たとえ死の先に苦しみがあるとしても、そのリスクを背負うぐらい現実がいやだったり面倒だったりするんじゃないのか。んで、仮に死の後にも存在が継続するとしたら、死んだって何も変わらない、したがって死んでもいいってことにもなりかねないし。あと、もしこの話をするとしたら、「死んだらあなたは無間地獄で永遠の苦しみを味わうのよ」とでも言うの? あなたの立場からそれは許されるの? ……頭痛い。

その直前に読んだ「『トリビアの泉』はウスいからウケる」(裏モノ日記 2002年8月20日 via 日記のノビジュース)という唐沢俊一のコメントを思い出した*1が、はたして池田晶子がウケているのかどうかがよくわからなかったので結論を出すのはひかえることにした。

とりあえず、世にはびこる「哲学者」を名乗る人々すべてを射程に入れて語らなければならないとき、「哲学はうさんくさい」という人の言い分を僕は否定できない。本当にそうだと思う*2

そして、池田晶子の言葉に説得される人も、やはり大勢いるんだろう。死にたい

*1 ウスさも含めて、あの番組は好きです。

*2 このインタビューを読んだ限りという限定をつけておきます。新聞だし。