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2003-06-01

_フリーター急増、01年は417万人 国民生活白書」(asahi.com)

「仕事への意識の変化」という理由づけは、公的機関や企業の側が「自分たちのニーズに合わせないからだ」というわがまま。逆に職を求める側には「就職の口をせまくしている間、フリーターにとどまらざるを得ず、さらに評価は下がる悪循環」から「フリーターへの不当な低評価と、教育システムの不備」というわがままが。どっちが真実なのやら。

実は、システム変化によって端的に人がいらなくなってきてるだけなのでは……とつぶやいてみる。あ、みんなわかってて言わないだけですか、もしかして。空気読めてませんか。

_ 情報の「仲卸」

長いことネットの辺境に住んでいるので「『俺ニュース』閉鎖」とか言われても「へぇ〜」という程度でして、実際「俺ニュース」もあまり読んでなかったんですが、それでもちょっと思ったことをメモ。情報の「仲卸」が注目を集めてるけど、それは過渡的な現象なのかもしれないと思います。

「俺ニュース」というページタイトルが秀逸だと思うのは、マスメディアにあふれかえっている情報をあるひとつの主観を元にフィルタリングするという作業を、たった全角5文字で表しているからです*1。これは原初的な blog が持っている作用にあたります。

ここしばらく、産業界や流通界では仲卸を廃して生産者と消費者の距離を縮めようとする動きが進んでいます。デフレ時代を生き残る、みたいなやつですね。ユニクロとか、家電の量販店とか。逆に、インターネットでは blog や「俺ニュース」のような動きがあり、アパレル業界でも「セレクトショップ」が大きな影響力を持つようになったりと、「情報」に関しては「仲卸」的な機能・役割が、注目を集めています*2

「モノ」に関する仲卸が減っているのに、「情報」の仲卸は増えている。どうしてなんでしょうか。

ここでは理由を推測することしかできませんが、「モノ」にしても「情報」にしても、受け取る側の慣れや成長が大きく関係していると思います。我々は大量の「モノ」を受け取ることには慣れたけど、まだ大量の「情報」を受け取ることに慣れていない。

「仲卸」というのは、一箇所で大量に生産されるものを広く細かく流通させるために必要とされたシステムでした。社会全体の平均はそれを扱うほど成長していない段階に、いち早く物量を扱うのに長けた人々がその仲介をしていた。

しかし、社会は成熟して「モノ」を扱う手法はこなれてきたし、個人も通信技術の発達によって直接情報を得られるようになった。すると、次第に「仲卸」は必要なくなってきます。実際、不効率が表面化しはじめて以降、「仲卸」を抜いていく作業はスムーズに進んでいるように見えます*3

一方、「情報」はまだうまく扱われておらず、ただ量ばかりが増えている。だから「仲卸」に活躍の余地があり、blog やニュースサイトが人気を集めるわけです。メディアリテラシーの必要性が叫ばれているのも、人々が十分に情報を扱えていないからこそでしょう。

こう考えてみると、「仲卸」を媒介にして「モノ」と「情報」をパラレルに見ることができるのではないでしょうか。さらに時間を進めてみると、情報の「仲卸」は「モノ」のそれと同じ運命をたどる可能性が強まります。「俺ニュース」の閉鎖は、メディアリテラシーの普及を示す、一つの必然なのかもしれません。

*1 「私のニュース@2ch」のような、私的/個人的ニュースという意味にもなるけど。こっちだと、まさに日記。

*2 「セレクトショップは物流じゃないの?」というツッコミが入りそうですが、代謝の早い流行を追いかけたり提案したりする役割に注目して「情報」を扱っていると捉えています。

*3 いろいろ副作用もあるはずですが。

_ みなおし

かなり粗い議論ではあります。たとえば、通信技術の発達が物流効率を促進させたのなら、個人のリテラシーが向上した成果だとはいえない。でも社会全体が「モノ」を扱う方法として情報・通信技術を用意した=リテラシーの向上、と考えることはできると思います。社会を擬人化してしまいますが。

「モノ」を扱うために情報・通信技術が生まれたとすれば、その先に現れるのは、増えすぎた「情報」を扱うための、情報・通信技術ではない技術、ということになるのかな? そんなのあるか?


2003-06-03

_9月でファミコン、スーファミの生産打ち切り 任天堂」(asahi.com)

予想はしてても、やはり少し切ない。ていうか今まで受注生産だったのか。

中古市場とエミュレータという地下アーカイブのおかげで、保存の面ではまったく問題ないんだろうけど、その二つが寿命を縮めてしまったのも確かなことなんだろう。

あと、「ココリコ田中、小日向しえと入籍…FAXで報告」(SANSPO.COM)も一応フォロー。

_ ミコミコナース!! ミコミコナース!!(しゃがれ声で)

これとかこれを踏んでしまったおかげで頭にこびりついてしまう。調べてみたら、エロゲですか。準備中の某氏はやってるんでしょうね。

つか、ケムマキのタイトルまで!


2003-06-05

_ 個人がアニメを作るということ

新海誠『ほしのこえ』のおかげで個人でアニメを作れるようなムードが出ていて、現場のアニメーターが動揺してると。

問題はそれ[『ほしのこえ』]がDVDになって二万本も三万本も売れてしまったこと。それでアニメスタジオの若いアニメーターとか演出家とかが動揺していること。「もしかして、出遅れたんじゃないか」と思っているんですね。
(押井守)

でも、心配しなくても大丈夫そうです。新海誠と同じく DoGA CGA コンテストでグランプリを受賞しているロマのフ比嘉のインタビューから。押井発言に直接答えたわけではありませんが、「個人でアニメを作れる時代が来た」というムードについての質問に対する答えです。

それは……、まだ無理です! 僕の場合、5分つくるのに3ヵ月かかりました。それも1日16時間、作業に没頭してです。誰か製作期間中の食事を保証してくれる人か、よほど貯金のある人じゃないと難しいですよ。個人でつくってそれを公開して評価を得る、という試みは今のところ、ギター1本かかえてニューヨークに渡るくらい無謀な挑戦だと思います(笑)。
(ロマのフ比嘉)

あくまで技術インフラが今のレベルのままなら、という条件つきですが、いずれ幻想だと気がつかれて「動揺」もおさまるでしょう。個人でアニメを作ろうとすれば、クオリティや売れ行き云々の話にたどりつく前に、それよりもさらにきつくて長い上り坂があることは身近な例を見ていても本当に感じます。ただ、「絶対に不可能なことではなくなった」とは言えるのかもしれませんが。

それを知ってもなお試みる人々はいるかもしれませんが、押井守もそれなりに地位があるんだから、少しは若者の挑戦を認める余裕は持っててほしい気がします。

_キムタク禁煙ならわたしも たばこやめてコンテスト」(Yahoo! ニュース)

これもつかれた経由。なんつー権力的な……。「冗談半分」的な姿勢のほうが、与えるダメージは大きくなる。それが冗談として通用してしまうほど強固な背景が連想されるから。「私たちが正義ですよ」と思っていて、微塵も疑わないきもちわるさ。

いじめがエスカレートしすぎてるのに誰も気がついてない(つこうとしない)状況に似た不快感がある。「葬式ごっこ」を思い出した。

喫煙者の側から「煙草吸ってね」とは言えない状況がすでにできあがっているんだから、あくまで健康被害で勝負してほしいところだ。


2003-06-08

_ 歩きたいわけじゃないけどひとりでに足は荒れ地のほうに向かって

さて、はてなダイアリーばかりじゃなく、こっちも更新しましょう。つまりWeb更新に忙殺されて日々の憂いから免れようとしているわけです。どうせ殺されるなら相手を選びたいじゃない。

今日は Lou Reed "Take a walk on the wild side" を聴きながら「あー、これがフリッパーズ・ギター『奈落のクイズマスター』の元ネタかぁ」なんて10年くらいズレたことをつぶやきつつ憂いをやりすごしています。

_ Supermodels Are Lonelier Than You Think ! 閉鎖

名前が気に入っただけでブックマークしておいたブログが消えてました。いつからなんだろう。

これが一時的な状況だと願ってる。でも何週間かは確実にかかるね。

とのこと。せっかく読んでみようと思ってたのに。

というわけで、もう一つ名前だけでブックマークした "TooMuchSexy.blog - Too much is not enough" (サブタイトルが好き)を読んでみたら、最初の「今日のジョーク」がとてもつまらなかったのでブックマークから消した*1

カップルでゴージャスな毛皮を試着して、「小切手で買わせてもらうよ」って言ったら「では、審査が終わる月曜日に受け取りにいらしてください」と言われ、月曜日に受け取りにいったら小切手は無効で店員はキレてて、カップルの男が「最高の週末をありがとう」って……。

*1 ここもこんなことされてるんだろうなーと思ったりもした。

_ Web隔世

cssがこなれてきてからWebの見た目はだいぶ変わったわけだけど、HAGAKURE理論とか X51.ORG とか Tokyo Ouja とかを見てると、開いた瞬間にどうしても面白そうなものを期待させる力がある、気がする。隔世の感ですよ。ここもリニューアルしたい。


2003-06-09

_式日』DVD、7月24日発売

B00009SEI4DVDキター。6月5日から予約受付がはじまりました。庵野秀明監督、岩井俊二主演。





2003-06-10

_ 社会関係を面倒くさく感じてぼーっとしていると、自分以外のところにもいろいろな滞りが出はじめるところを見ると、自分もそれなりに社会の中にいるのかもしれないと思ったりする。とりたててうれしいことでも悲しいことでもなく、意外なかんじ。少し調整をしないといけない。

自分で書いたこれを思い出したけど、もう二年以上前なのか。相変わらず。

_ あきらめましょう 2003/6/10 より

ティッシュ一枚で何とかしようとするのは諦めました。

難しいよね。


2003-06-11

_ 尾田栄一郎『ONE PIECE』空島編クライマックス

エネルが山田芳裕になってた。つか、やっぱり予想通りでしたね。ここからどうやって一方的な展開を崩していくのかは楽しみ。


2003-06-12

_そんなとき、僕はパソコンを開き、『お気に入り』のフォルダから『2ちゃんねる』を選び出す」(乙武洋匡)

乙武洋匡が2ちゃんねるに言及*1

僕はそう強い人間ではないから、時折、このまま傲慢な人間になってしまわないだろうかと不安になることがある。そんなとき、僕はパソコンを開き、「お気に入り」のフォルダから「2ちゃんねる」を選び出す。僕を悪く言う人々の書き込みを読む。薬みたいなものかもしれない。

このあたり、スポーツライターっぽいというか、「ヒーローが影でしてる努力」をうまく演出していて、あなどれんと思った。

そこそこすごいものは余裕をもってほめることができるけど、それ以上に優秀なもの、あるいは話題になっているものは、嫉妬を呼び起こす。マーケティングのような形で2ちゃんねるを使うときは、ほめられているものよりも、けなされていたり賛否両論でレス数が伸びているものを先に気にするほうが効率がいい。

2ちゃんねるの「中傷」なんて「フフフン」と余裕であしらっておけばいいと思うのだが、真剣に対峙して泣きそうになってみたりするあたりが好感につながるんだろうなぁ。たまにクリティカルなこともあるのかもしれないが。

と、まぁ今さらのようなことを書いてるけど、乙武くんって2chでも最も愛されているキャラ(?)の一人だと思ったので。彼も76年生まれ、特に好きでも嫌いでもないけど注目はしています。
Optical Path 経由)

*1 リアクションは「Z武さん、自ら2ちゃんねらーである事を明かす」@ニュース速報

_ いわゆる「アバウト」のページを作ってみようかと思ったけど、何を書いたらいいのかわからない。と思った時点で、そもそもそれを書けないから今までアバウトページを作っていないんだと思い当たる。自己紹介も苦手ならサイト紹介も苦手って。でも普通はそんなもんですよね。

全部書こうとするからいけないんだろうか。部分を書くにしたって、どれを選ぶ?


2003-06-14

_ アクセス解析を試験導入

XREA がはじめた無料アクセス解析サービス「AccessAnalyzer.com」を入れてみました。少しわずらわしいかもしれませんが、ごめんなさい。「ブ日記」ではないけど、誰かに読んでもらっていると思えることはやっぱり重要で。

_ 人力検索「はてな」ウォッチ

ダイアリーばかり見てて人力検索は気にしてなかったんだけど、ダイアリーでも質問ウォッチを楽しんでる人の話を読んでると、なかなか面白そうです。んで、いま覗いてみたら。

当方女性です。男に本当に愛されているかどうか確認出来る方法を教えてください。(セックスを拒否してみる、連絡をしない、冷たくする事は出来ませんので別の方法をお願いします)

2ch純愛板かと思いました。まぁ煽りが来づらいって点でメリットはあるけど……実は、延々とFAQを繰り返すだけでも、ひとつの経済は成り立ってしまうんですよね。成長って何なんだろう。

_ しかし土曜の夜はチャッ友*1がさっぱりいないところを見ると、みんなそれなりに週末を楽しめる人たちだったんだなぁと新鮮に驚いたりするが、それをうらやましがって嘆いてみようとか思わない自分は平均的な日記サイトの人ってかんじ。

ていうか単に、土曜にメッセンジャー立ち上げて周りから揶揄される*2のを警戒して上がってこないだけなんじゃないの? そこんとこどうなの?

*1 「チャット友達」の意味ですYO! みんなではやらせよう!

*2 自分のことは棚に上げて。


2003-06-15

_ 遠回りしてると思っている道も、実は単なる死への近道

4838714394今日もまたひとつ募集締切をあきらめる。少しへこんでもみるが、だいぶ慣れてしまった。たまに僕は、他の人に「自分に自信がある」という印象を与えることがあるようだけど、そう見えるものの大半は、あきらめと慣れと演技の集積にすぎない。あとの残りは、未熟な全能感とかだろう。

斎藤環『OK? ひきこもりOK!』(マガジンハウス)を読みはじめた。斉藤環の、初の対談集。冒頭の、上野千鶴子との対談から。

上野——斉藤さんが何度も書いていらっしゃいますが、ひきこもりの若者たちは世俗的な価値観をもっともよく身につけた人々であり、人並み圧力を誰よりも内面化しているそうですね。

斎藤——悪く言えば俗っぽい野望が非常に強いですね。それも自分の本来的な欲望と言うよりは、嫉妬や羨望にきわめて近いものです。本来の欲望の欠如を埋めるべく、世俗的な価値観に基づいて採用された、借り物の欲望のような印象があります。

上野——親のもっている人並み圧力をそっくりそのまま内面化しているのでしょうか。

斎藤——ほとんど一緒のことが多いですね。ひきこもっている場合、親子関係が断絶しているので気づかれにくいのですが、実際に話し合ってみると同じことを考えている。それこそ「働かざるもの食うべからず」的な倫理観を親子で共有しているのです。

(14〜15頁)

上野——ひきこもりが悪循環を招いてそれが病理化すると書いていらっしゃいますが、そこで取り返しのつかない社会的スティグマになるのが、履歴書の空白だと。それは一方で親の無意識の期待に応じ、世俗的な価値観を親と共有した上で、それに対して取り返しのつかないダメージを与えるというある種の報復なんでしょうか。意図的ではないかもしれませんが。

斎藤——一種のヒステリー的なやり方で報復している可能性はありますが、表面上はいやいや悪循環に吸い込まれていくという印象です。それ以外の選択肢を封じられて、否応なしにそこに押し流されて行くという感じが強くて、そこに彼らの選択とか意図が入っているとは、私にはどうしても思えないんです。

上野——そうするとある種の自傷行為に近い?

斎藤——むしろそれに近いんじゃないでしょうか。(……)

(34〜35頁)

ひきこもりの若者は世俗的な欲求が強いものの、それは嫉妬や羨望に似た、外部から取り込まれたものであり、自分の本来的な欲求ではない*1。それはしばしば、親の欲求を内面化したものである。

ひきこもりによって生まれてしまう空白期間は社会的に烙印として機能し*2、選択肢の幅は狭められ、否応なく悪循環に押し流されてゆく。同時にその追い風となってしまうのは、ひきこもった本人が身につけている世俗的な価値観である。それをもっともよく身につけているゆえにこそ、「社会的に機能する」烙印によって自分を責め、「自傷行為」を行う*3

自分のケースをこれにあてはめて考えてみると、ほとんど一致していると思える。「親の」価値観を内面化しているという点には疑問もあるが、「世俗的な価値観」は必ずしも親からのみ伝わるものではないはずなので、ここではそれほど気にせずにおく。

僕の言う「あきらめ」とは、内面化された世俗的な価値観による「烙印」への正当な評価である。自己紹介や履歴書を書くのが苦手なのも、そのおかげからだ。

だが僕には、その「世俗的な価値観」をシニカルに笑っている部分もある。世俗的な価値観と同時に、そこから芯のずれた価値を置くことで、最初の「あきらめ」を別の何かに変換しているのだ。この「別の何か」もやはり「あきらめ」に似たものなのだが、一つ目の「あきらめ」とは軸がズレている。その作用はもしかするとニヒリズムと呼ばれるのかもしれないが、だとしたら僕にとってニヒリズムは大事なものだ。皮肉な笑いを浮かべでもしなければ、とっくに世俗的な価値観*4に押しつぶされていただろう。

だがその皮肉屋も、絶対の自信を守り通しているわけではない。それどころか、いつも鍔迫り合いの危うい勝負を展開している。

そして、鍔迫り合いに疲れると、二つの力は、ひとつの争いの原因に気がつく。そもそもは「烙印」のおかげなのだ。しかも、自分を責める以外に、もうひとつ力を向ける先が残っている。「世俗的な価値」である。「世俗的な価値」さえなければ「烙印」も機能しないのに——そのことはあきらめたつもりなのだが、しかしどうしても興味を惹かれてしまう。なぜそんなものがあるのか、なぜそれを自分が内面化しているのか、どうやって出来上がったのか、どうやって維持されているのか。これは一見、自分の外の社会に向かう興味のように見える——事実、僕がひきこもりスレスレのラインを進んでいながら、かろうじてひきこもらずにいるのも、こうした興味のおかげではあるのだが。

大きなひとつのループがある。世俗的な価値を内面化している者が、烙印を負ったと考え、別の軸を持った価値を作り、前者を笑う。しかしそれは結局のところ、世俗的な価値を持った最初の自分を笑っているのだ。そしてその相克がはじまり、疲れると向かう力の矛先は世俗的な価値、つまりそれは自分でもあるのだ。どこまで行っても、いつか自分に戻ってくる。囚われの孫悟空、とは前にも書いた気がする。やる気は起こせないまでも、少しはまともに機能している「世俗的な価値観」が、警戒信号を出しはじめる。

この閉じた循環を破るには、外からの力が必要だと思う。だがその力は、皮肉屋の防御をくぐらなければならない。この皮肉屋が、けっこう強い。

*1 「本来的な欲求」が何なのかは措くとしても、そこに見えている欲求がどことなく借り物のようだという点には注目すべきだろう。

*2 こうした現状がまだまだ残っている、と解釈すべきか。

*3 ただし、上野の言う「ひきこもりが悪循環を招いてそれが病理化すると書いていらっしゃいますが」の部分の参照元を検討したわけではないことを断っておく。

*4 正確には、主観的な「世俗的な価値観」である。これと、本当に世俗的な価値観——そんなものがあるとして——との間にもまたズレはあるだろう。このズレがどれだけ大きいのか、その大きさも問題である。

_ 仮に循環が壊れたとして、もしそのとき「借り物」や嫉妬や羨望以外に何もないとわかってしまったら、結局元の木阿弥なのではないかという気もする。薄々わかってはいても、正面から向かい合うとなると、それはそれで怖い。

この点は問題として重要なはずだが、下手に踏み込むと底なしになりそうなので、避ける。


2003-06-16

_ 昨日の日記を読んだ「烙印」を持たない人々は、「烙印」を持たないように気をつけようと思う。そうして「烙印」の価値は保存される。どこかで新たな「烙印」が生まれる。僕は押しつぶされそうになる。それをかわす。崖はすぐうしろにある。足がつかれてもつれそうになる。そうしながらも、「くだらねえ」と笑っている。

そんな状態。今日もまた「やせた?」「つかれてない?」と言われた。何も言ってないのに、けっこう表に出るものらしい。


2003-06-17

_ 全国同時多発マトリックスオフ

まとめサイトでムービーを見てたくらいだったんですが、スレをチェックしていた友人から知らない情報を補完してもらったので、せっかくだから事実関係をメモ。

就職@2chに立てられたスレッドがきっかけとなり、6月7日、渋谷ではじめて、ネオがスミスに追われながら電話ボックスに逃げ込むシーンを再現するオフが行われた。最初は少人数で、真剣な「鬼ごっこ」だったようだが、詳しいことは不明(DAT落ちのため)。

初回の参加人数が少なかったことから、再度の実行が検討された。スレッドは突発OFF板に飛び火。

翌日8日、再び渋谷で10:30と15:00の2回にわたって実行された。この日の10:30の回はライブ感あふれる映像が残っており、広く「初回」と言われている。このときから、ネオにたかるスミスが吹っ飛ばされる「わらわらばーん」が再現され、シナリオ性が増す。

映像の効果からか、全国各都市で実行が計画され、14日には福岡、15日には渋谷(2nd)、大阪で同時開催された。各地の参加スミス数が3ケタになり、撮影隊も編成された。人数が増えるにしたがって、偶然性の高い「鬼ごっこ」は不可能となり、綿密なシナリオが用意されるようになる。

現在、東京(3rd)名古屋、千葉、札幌、愛媛、沖縄、春日部、新潟、仙台、京都、岡山、川崎での開催計画が、主にイベント板にて進行中。

_ 計画と合意とオープンコスプレ

2chで綿密な計画が立てられ、ある程度きちんと合意されて、しかも実際に参加者がバラけずに実行されてしまうあたりがすごい。こういう流れは湘南海岸清掃オフあたりから主流になってるんですかね。

あと、シナリオの偶然性が減るにしたがってコスプレイベントの体裁が強くなってる気が。初期のライブ感ある映像も楽しいですが、15日以降はついにコスプレが閉鎖空間から日常に流れ出てきたという意味でも注目しています。まぁ、モチーフが『マトリックス』でなければこうはならないないんでしょうが。

あと一応、「マトリックスオフがもたらした弊害について」(HAGAKURE理論)も参照ください。


2003-06-19

_ ラクダと針の穴

近くに住んでながら行ったことなかったフランス映画祭ですが、パスポートを買って常駐する人にチケットを買ってもらえたので、はじめて行ってきましたよ。

オープニングイベントの前にロビーでぼーっとしてるとヴァンサン・ペレーズが歩いてきたりしました。今回は団長なんですね。ほかにも女優とか俳優っぽい人がたくさんいて、ちょっと楽しいです*1。でもジュリエット・ビノシュとかイザベル・アジャーニはさすがに通らず。来てたのかなぁ。

ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ監督・主演『ラクダと針の穴』は、いいかんじでした。普通の生活って難しいよねぇという、とりわけフランス映画的なモチーフ。ただ主人公が金持ちというところが感情移入の障害になってしまったのがちょっと残念といえば残念で、それが「自伝的」な作品の罠かなぁと思ったり。

こんどは日曜日、『誰がバンビを殺したの?』に行ってきます。

*1 ちなみにダバディも来ていました。周囲はダーク系の中、薄紫のスーツに同色のエアズームを履いてましたよ。

_ Hammer & Tongs が映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の監督に (Beltorchicca 経由)

おー、あの blur "Coffee + TV" のナイスPVの人たちが映画を! このまま進んでほしいもんです。『銀河ヒッチハイク・ガイド』も読んでみようかな。

日本語での紹介は motion design>snapshots>Hammer & Tongs

_“やーめた症候群” 大学生の就職戦線にまん延」(神戸新聞 6月17日)

どこも同じようなもんですね。とりあえず大学側も企業側も「自己発見」とかの無意味さにまず気づくべきだと思いますが。


2003-06-20

_ わからないならわからないことさえもわからなければいいのかわかる?

価値判断というのは本当にあてにならないもので、結局のところあちらを立てればこちらが立たないという類のものごと、たとえばどちらかしか選べないAとBではAがいいとかそういう判断はまったくのところいいかげんなものだ。両方同時に選べるものでもCとDではDがいい、という判断でもべつにかまわない。社会的、時代的にどちらかがいいという空気が形成されることもあるけど、それだってアテになるものではない。探してみると、そのどちらを肯定する意見にもそれなりの根拠をみつけることができるし、逆もまたしかり。お金、貨幣は共通交換価値であって、つまり価値の一段上にあるメタ価値だからいつも価値であるはずなのだが、それがないほうがいいんだという意見もあるくらいで——まぁそれは持たざるものの嫉妬もあるんだろうけど、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ 10:25)ではないが金持ちが必ずしも幸せとは限らないという意見すら時として妥当なこともある、のだろう。

どうなれば幸せだ、というイメージも価値判断から生まれるもので、結局のところそれは人それぞれという意見に帰着することが多く、「幸せと思えばそれが幸せ」なんて意見まで出てくる始末なのだが、だとするとその「幸せ」を不幸だと思った瞬間にその人は不幸になってしまい、まったくのところ無責任な意見に聞こえる。とはいえ少なくとも幸せだと思い続けている間はその人は幸せとも言えるわけだが、人間はそこまで同じ意見を持ち続けられるものだろうかと考えてみるとそんなことはないような気がする。というわけで僕はこの「思っていれば幸せ説」を自分に禁止しようと思うくらいなんだけど、文脈によっては方便になることもあるので全面禁止には至らないかもしれない——がともかく、幸せとか不幸といった判断を口に出すのはそういうことだと思わなければいけないのは間違いのないことらしい。

何が良いとか悪いとかいうことも同様である。人を殺すのがいけないのはある特定の範囲内のみで、幸いにも僕は人を殺すのが悪いことであるという価値観の中に生きているのだろうが、その中ですら人を殺したいと思う人はいて、その人は人を殺すことが悪いことなのは残念だと思ったりもするのであろうから、限定された範囲の端のほうでは不安定だったりするのだろうし、人づてメディアづてに聞くところでは世界のどこかでいつも人が悪いことだと思われずに殺されているらしい。

いま僕は「幸いにも僕は人を殺すことが悪いことだという価値の中に生きている」と言った時点で、その状況が幸せなことだという価値判断を行っているわけだが、僕は殺されるよりも不幸な未来の可能性に対しても開かれている存在だとすれば僕は殺されたほうが幸せだと言うことも可能性としてはありうるのだ。僕は常にサイコロを振って生きているわけで、無限回の試行を想定すれば均質なサイコロは均等な確率に収束していくわけだけれど回数を決められたサイコロは本当に何を出すかわからないので、だからこの先もギャンブルは商売として成り立ってゆくんだろう、きっと。

さてこうなってくると、それが他人のものであっても主観的な判断を信用できないということになる。そして主観がダメなら客観だというわけで客観的な「事実」ないしは「データ」といったものならアテにできるのかもしれない、と考える。とはいえあらゆる主観から自由な客観はありえないなんて反論がくるのかもしれないけれど、でも人間はそれなりに主観から逃れようとがんばっている例は多々あって、そういったものごとを少なからず頼りにすることで日々を生きているわけだ、たとえば空気抵抗を考えずに何かを自由落下させたときの移動距離は重力加速度に時間の自乗をかけて半分にしたらわかる、とか、直角三角形の斜辺の自乗はその他の二辺をそれぞれ自乗して足したものに等しい、とかそういうことを。

こういう「事実」は日常生活の中で常に恩恵を実感できるものではないけど、でも間接的にどこかで恩恵を受けていると想像することはできる。でもそうした「事実」はごくごく少ないものだし、また聖書を引いてしまうけど「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ 4:4)ともいえる。ちなみにイエスのこの言葉も事実ではなく価値に属するものであって、僕はそれを信用できないことになるからこれもアテにできない。パンさえあれば人は生きられるかもしれない、でもそうじゃないかもしれない。わからない。そう思えるときもあれば、そう思えないときもある。だが僕は僕の主観の範囲で、人はパンのみで生きるのではない*1と、少なくとも今は思っている。こう考えてみると、デカルトが「思う我」にしか根拠を見出せなかったことも、僕の主観からは妥当なことのように思う。僕は「人殺し」の例のところで自分の判断を他人の判断によって相対化しようとしたけど、それでもまだ自分の判断が価値として残っているような気もする。

でも僕の主観だって他人の意見で揺らぐことがあるようなものだし、それ以上に明確なものを見出すこともできない。明確なものの必要性すら疑わしい——と、いつもメタ方向に逃げてゆく力が働く。でもそれは神様のところでストップするような便利な作用ではなくて、いつもいつまでも逃げ続ける蜃気楼、誰かのたとえを借りれば地平線のようなものである。だからその作用が働きはじめるといつも疲れを予感して立ち止まってしまう。僕はこの先も何がいいとか悪いとか好きだとか嫌いだとか言いつづけるだろうけど、それはいつも逆転や無意味に対して開かれてしまっている。このまま生きることもきっとできるんだろうけど、価値判断ができないところでは何をしていいやらわからない。価値判断をすべきかという価値判断とかそういうことについては——やめよう。

サッカー日本代表チームが試合をしている。フランスが勝っても日本が勝っても誰かがよろこんで誰かが悲しがる。そしてすぐ忘れる。ねむい。寝て起きたらこんなこと忘れてるといい、のかもしれない。

*1 「パン」もまた「生きる」ということが必要な価値として認められているときに大きな価値を持つ食料の代表であって、人間が生きるのに食料が必要なのは端的な事実だけど、ひとつの価値判断でもある。


2003-06-21

_『役不足』『確信犯』、意味理解は2割前後 文化庁調査」(asahi.com)

「役不足」が27.6%、「確信犯」と「流れに棹さす」が20%を切ったと。

7割超えてる「誤解」って誤解なんですかね。そこまで流通してるものはとやかく言わなくてもいい気が。言葉が伝わらなくなる怖さは理解できるけど、7割強に口をはさむのはむしろ「乱す」ことにもなりかねない。まぁこれが役所の役目なのだろうし、文章とかで使うと、「あえて感」を出さない限り揶揄されるのかもなぁ。

ちなみに上に引いた3語の中では「確信犯」を誤解してました。でも「わかっててやってる」という意味のほうが使いどころも多いと思うから、これからも「誤解」のまま使うと思います。

外来語では「インキュベーション」の理解度が3.3%というのはけっこうびっくり。初めて知ったのはソフトバレエのアルバムタイトルとしてだった……。

_ 「犬 女子高生」でも強さを発揮

現時点での話ですが、「犬 女子高生」をGoogleにかけるとヒット数が3万件をこえる中、ここの3月25日が9番目に出ます。「犬」「ペット」にからむと強い。光栄だとは思いますが、内容を考えるとまったく意味なし。

_ 粋な陰口を叩こう

「相田みつおの世界」(ザ・ガーベージ・コレクション)、今さらっぽいけど今日知ったので。あまり言葉の技はないけど、見せ方で勝ち。

相田みつをのパロディというと、「カエルブンゲイ」の「みつを道」とか清水ちなみ『にんじんだもの』(扶桑社)などが知られているらしく、特に「みつを道」のほうは読みたくてしょうがないんだけど、ギリギリ首都圏というくらいの場所に住んでいるために「カエルブンゲイ」は置かれてないし、気づいたときにはバックナンバーもほとんど完配の状態であった。

ネット上に上がらないのかなぁ。単行本にするまで貯めてるんだろうか。


2003-06-22

_ 今日もフランス映画祭。前売りを持っていた『誰がバンビを殺したの?』だけ見て予定だったんですが、「当日券が買えなかったら帰ろう」と思いながら列に並んでいたら次々買えてしまい、結局『天使の肌(仮題)』、『アドルフ(原題)』までチェーンしてしまいました。

でも深くはつっこみません。映画のことよりも『キャラクター小説の作り方』について書くのに精力をそそいでいるあたりから、察して。

19日、ロビーでぼーっとしてるときに目の前を通った俳優っぽい人は『アドルフ(原題)』主演のスタニスラス・メラール(写真の右端でピンぼけしてる人)だったことに今日気がつきました。言うまでもなくイケメンでした。んで、イザベル・アジャーニは「体調不良」で来日中止だそうでした。やっぱり。


2003-06-23

_ 大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書)

4061496468僕はここしばらく、日記での一人称を意図的に「僕」にしてきた。しかも僕が「僕」と言うとき、それは間違いなく村上春樹の影響下にある。「僕」を使って日記を書いている今日のこの日記も、また同じである。ある時期までは、村上的な文脈を読みとられるのがいやだったので、意図的に「僕」を避けて他の一人称を使っていたのだが、今度は意図的にそれを解禁した。

なぜそうなのかといえば、僕がいま陥っている(と自分で思っている)私的な状況が、村上の小説に多く描かれているような状況に近いと、またその表象の作法に従って表現することがふさわしい(≒都合がよい)と、さらにいえば僕にとって救いになると感じているからだ。

Web上で発表されている日記は、日記といえども多様であり、仮構を含む程度にもばらつきがある。日記を含む上位カテゴリとしての「テキスト系」に分類されるものまで含めれば、まったくの仮構であるものからほとんど仮構を含まないものまで見つけることができる。『キャラクター小説の作り方』にしたがって述べるなら、「キャラクター小説」に近い極から「私小説」を越えて「ノンフィクション」に近い極まで、全てそろっていると言える。僕が書いているものをこの直線上に位置づけるとすれば、フィクションでもノンフィクションでもない「私小説」とするのが適切だと思う。

大塚は本書の最後で次のように述べる。

 あるいは「私小説」の「私」もまた仮構に過ぎないことは多くの私小説家自身が語っているし、多くの文学研究も同様に指摘しています。

(302頁)

僕が「僕」という一人称を使うとき、僕が描く「僕」の仮構性をはっきりと自覚していた、とまでは言わない。だがうっすらと感じていたのは確かだし、同時に見ないふりをしていたのも確かだ。僕は「僕」でありたかったし、必要でもあった。今もまだ「僕」を使って日記を書いている。僕はそうして村上春樹のような世界に僕を置き、自分自身を「現実だと述べている仮構」の中に置いてキツさをやりすごそうとしている。

大塚英志は、「『仮構の私』をあることに」することそのものを否定しているわけではない。小説を書くときにはどうしても仮構を含まざるを得ず、「キャラクター小説」と「私小説」とは地続きで、分類そのものが難しいと言っているだけだ。ただ、そのことに無自覚でいることを批判しているのである。

ぼくはキャラクター小説を「作者としての私」ではなく『キャラクターとしての私」を自覚的に描く小説だ、と記しました。それは多くの文芸史的「文学」が「文学」に「私」を保証してもらっていることに無自覚なことへの逆説と指定されています。つまり「文学」が、「私」という存在がその起源において「キャラクター」であったことに無自覚な小説として今、あり得るのなら、キャラクター小説は「私」が「キャラクター」としてあることを自覚することで、いっそ「文学」になってしまいなさい、とぼくは主張することで、この小説講座を終えようと思っていることは、すでにお解りだと思います。

(303頁)

こう言われることで、僕は僕自身の日記の仮構性をはっきりと自覚した。したくもなかったのだが、させられてしまった。しかしその行為を否定されたわけではないし、たとえ否定されたとしても自分で否定するつもりはない。そもそも「私小説」は仮構を含んでいたのだし、また完全に仮構だったわけでもない。それは「キャラクター小説」でさえもまた同じである。

僕は僕自身の日記を「文学」だなどと言いたいのではないし、Web日記や「テキスト系」を「文学」としたいわけでもない*1。同時に、「文学」についてもそれほど大仰なものだと捉えているわけでもない——だから、大塚に共感できる点はとても多い。

仮構しか描けない、と自覚することをもって、初めて描きうる「現実」があるのです。とうに「現実」と向かい合うことを止めた多くの文芸誌的「文学」の真似をする必要は全くありません。

僕は、大塚が「キャラクター小説」に可能性を見出すのと同じ意味で、Web日記にも可能性を感じている。その仮構性を自覚した上でもがいてみるなら、現実に対してはたらきかけることができるし、少なくとも自分がそうするためのきっかけにはなりうると考えている。

大塚は、手塚治虫や戦後まんが史の功績を、死なない身体を持つ「記号的」なキャラクターを用いて生身の人間を、死にゆく身体を描こうとした努力にあるとしている。実現したかどうかはわからないが、まんがはそれを求めたのだ。僕は手塚治虫になれるかどうかわからないが、「記号的」表現を用いながら「記号的」表現の外に向かってもがきつづけたその気概だけは、見習いたいと思う。

*1 ただ、日本文学のルーツに日記という形式が大きく関わっていることには、多くの人が気づいていると思う。しかも紀貫之が女性に自らを仮託した『土佐日記』に顕著なように、日本の日記は仮構性を含んでもいた。これはこれで追う価値のあるテーマだと思う。

_ 僕ぼく私わたし俺おれ己

ただ、村上春樹的な文脈上にある「僕」を使いつづけることについては躊躇がある。特に限定的な意味での、つまり世界と向かい合うのを避けているという意味での「僕」を使いつづけることはためらってしまう。

以前「俺」を使っていたのだが、これもしっくりきていたわけではなかった。どうにも野性的なイメージが強く、消極的なことを書いていてもワイルドに突き進んでいるような先入観が混じるように思えたからだ。また、日本語の利点を活かしてなるべく一人称を出さずに書いてみたりもしたのだが、これも窮屈だった。やはり一人称は使いたい。

日本語の一人称*1には、多かれ少なかれ上下関係や慣れ親しみの度合いを示す意味がつきまとっている。「僕」は相手よりも自分を下に置く意味を含むんでいる。「私」は上下関係の面でニュートラルに近いが、他人行儀にすぎる気がする。こういった関係から自由になるために、あまり使われていない≒手垢のついていない語、たとえば「己」と書いて「おれ」と読むようなことも考えた。だが、使い慣れないだけにやはり違和感が残ってしまう。

村上を抜きにしても、「僕」という語はそれなりにしっくり来る。もちろん「僕」を使っている人は村上だけではなく、むしろ圧倒的にそれ以外のほうが多いわけで、それほど気にすることではないのかもしれない。

他によい選択肢はないし、今はそういう気分だし、もう少しこのまま「僕」を使ってみよう。

*1 英語の I などはそういったことから自由なのかもしれないが、ほかに選択肢がないという意味では窮屈なのかもしれない。


2003-06-24

_ コミックレンタル

今日、行きつけのツタヤに行ったら、コミックレンタル*1なるものが併設されていた。ツタヤは2Fにあって、1Fでは中古本・CD・ゲームを扱ってたんだけど、その中古本のスペースがすべてレンタル用の漫画になってしまった。料金は旧作50円、新作150円/7泊8日。入ってて当然といえる作品は一通りそろっていて、メジャー作をとりあえずチェックしたいときには便利そう。それほど時間がなかったのでマニアックな在庫は探さず。

というわけで、浦沢直樹『モンスター』(小学館)を全巻借りてきました。やっと読めるよ。全18巻で945円。

*1 本当は「レンタルコミック」が正しいんだろうけど、コミックレンタルでした。

_ いま調べてみたら、去年の秋ごろから出はじめた商売らしい。要するに貸本なので、まったく古典的な手法が再び出てきたわけだが、1950年代のそれとはかなり文脈が違う。当時は物資不足で本が希少・高価だったために生まれたんだろうけど、今は反復して読まないものをわざわざ買いたくないというニーズを狙ってるはず。

ライバルになりそうなマンガ喫茶と比較すると、ひまつぶしではなく、はっきりと目的の作品がある場合はレンタルを選ぶほうが賢い。マンガ喫茶は1時間で400円前後かかるけど、いくら読むのが早くても1時間で8冊読むのはかなり難しいことだ。レンタル中の場合なかなか読めないというリスクがあることはあるけど、マンガ喫茶でも人気の作品が読まれてることはあるし*1

いずれにしても著作権の問題が出てくるわけですが。次から次へと、漫画家は大変だなー。

*1 ただ、ぜったい店内にはあるので、人のいない時間を狙えば確率はかなり高くなる。


2003-06-25

_ Origami Underground

たまにはサイト名にふさわしいネタを。"Make Your Own Vagina" を教えてもらったので、いくつかキーワードをぐぐってたら到着。詳細な図解つき。

1ドル紙幣のは Master Sugoi "Pornogami" が元ネタみたいですね。マスター・スゴイって誰。

_ 白田秀彰 の 「インターネットの法と慣習」 第1回 そろそろ真面目に「法」について考えよう

「ネットワーク上の慣習とかを「法」的な角度から見てみましょう」という姿勢は興味深い。ただ、ネットワーク上のコミュニティを対象に「法」を見ようとするなら、まずはコミュニティの分布、特徴や形成プロセスなどをわかっていないといけないはずなのだが、第一回を読んでみて、その点が不安になってしまった。

第一回を読む限り、白井先生はネット上の個人レベルのコミュニケーションにそれほど詳しくないように見える。たとえば白井先生は、掲示板やMLやニューズグループやblogやその他もろもろを区別せず(できず?)に「ネットワーク上の慣習」とひとくくりにしてしまってるように見える。

あるいは、以下に引く部分ではWinMXとFTPでの交換を混同してしまっている。1:3の交換が成り立つのはサーバ・クライアント制のFTPだからこそで、P2Pと混同してしまうと、ルールの理由が見えてこなくなると思う*1

事例を挙げよう。聞いた話によると、WinMXでワレズ等をダウソするときのルールは、「1つウプしてから3つまでダウソ」ということらしい。(1) いつごろ、(2) 誰あたりがそういうことを言い出したのか。(3) そのルールの理由や根拠は? (4) その強制力は?

法的なものや慣習を扱うためには、まずそれが共有され運用されている場のことがわからなければいけないけど、あまり詳しくない人が事後的にそれを知る術は、いまのところ足りない。そういう部分の歴史はまとめられていないので、白井先生が勉強するのも大変だろう。

チャレンジそのものは興味深いので追いかけてみたいけど、自力でそれを確立しようとするならば、法律家である前に歴史家の視点を大事にしてほしいと思う。ヨーロッパの法の正当性について述べる前半でヨーロッパの共同性のあり方を述べなければならなかったように、ネットワーク上の法について述べるなら、共同体のあり方を述べることを避けられないのだ。

*1 しかし、あまりにタレコみづらいネタだ……。


2003-06-26

_ジェロニモ」再開

しばらく「休暇願い」になっていた「ジェロニモ」が、今日から再開しました。以前の通り、のほほんな空気で、安心しました。のほほん最高。

_ MAGNET2 (セイカンタイ

友人経由。昨日から新作公開だそうです、といってもこの新作ではじめて知ったんですが。

鉄不足に苦しむ宇宙人が磁力を発するウサギを操作して地球の鉄をキャトルミューティレーション(?)するゲーム。ゲームもおもしろいけど、まず音楽がきもちいい。D.T.R.というサイトの無償配布だそうで、かなりいいかんじなのですが、「GOKI DASH」ではトカゲが近づいてきたときだけ音楽のパートが自然に増えたりして、使い方も楽しい(トカゲに近づきたくなる罠)。「RAID AIR」もおもしろいし……。


2003-06-27

_ GraffitiCreator (via ロンmemo

スウェーデンの人っぽい Mikael Wigén さん製作。さっそく作ってみました。これでロゴにしちゃってもいいかなーと思うほどです。まぁ、グラフィティ風にしたければ、せめてパクりつつも自分で作る方向で。

これでデザインしてから描きに行ったりしてはいけません。

_『エバークエスト』に女性差別? 米経済学者発表」(毎日インタラクティブ via NeoPoint

「カリフォルニア州立大学のエドワード・カストロノバ助教授」は、以前もエバークエスト内にリアルな経済活動があるという論文を書いた人ですが(「ギル価」)、またエバークエストで論文書いたみたいです。

あくまで経済学者としてネットゲーに興味を持っただけかと思ったら、本物のエバクエヲタだったのか。

_ ええと、雑多なこと(いままで書き逃したこと含む)。

28日1:16の時点で、t.A.T.u. が朝生に出るかもしれないというタレコミが入っています。本当に出るのか?

昨日から自宅に無線LANを導入。WBR-G54/P(BUFFALO)です。設定地獄を覚悟してたのに10分でセットアップが完了してしまい、拍子抜け。いい時代だなぁ……UPnPもクリックひとつで設定完了、メッセンジャーもまったく問題ありませんでした。

花とみつばちが最終回。やはり小松の成長による行きづまりがあったということでしょうか? オチも普通でしたが、小松の成長はきっちり達成されたと思うので、気持ちいいといえばいい。やっぱり好きな漫画です。

鬼頭莫宏『パパの唄』がヤンマガに。アフタヌーンも講談社だけど、ぜったいヤンマガじゃない作家イメージがあったので驚いたり。


2003-06-28

_ t.A.T.u. 生放送ドタキャン&緊急帰国?

えーと、t.A.T.u.がミュージック・ステーション生放送中に楽屋に引きこもった、と。

賛否両論あるみたいですが、ニュース速報@2chとか「はてなダイアリー」では叩きのほうが優勢っぽい。事態をよく知らないまま今回の事件を聞いたら、まぁ叩きたくなるかなぁとも思うけど。

でも、もし本当にテレビ朝日側が過激な衣装にクレームをつけたことが原因なら、生放送をはじめた後でそんなこと言っても遅すぎる。今まで t.A.T.u. がライブでやったこととかインタビューで言ったことを少しでも知ってれば、何かやりかねないことは十分わかってていいはずで。

関係者によるとタトゥーの日本人スタッフが2人の過激な衣装を見て、生放送中に放送不可能な行動をとる恐れがあるとして衣装を変更するよう指示したという。

というわけで、これ、スタジオではじめて t.A.T.u. を見た、そこそこ地位と発言権があるオッサンじゃないの?

大人な対応をした TMGE の株が上がってる模様。ライブバンドの本領発揮、ハプニングには強い。「大人な対応」をしつつも本当に楽しんでたのかな。

_ お、ユニバーサルのお詫びページが更新されてる。衣装変更は依頼しなかったし、タモリのトークが気に入らなかったわけでもないし、番組の演出が気に入らなかったわけでもないと。

尚、当日キャンセルの状況は本番オープニング終了後、楽屋に戻った際、20時10分頃、マネージャーからメンバーに直接電話が入り、マネージャーとアーティストとの間で何らかの意思の相違が生じたと推測され、弊社スタッフの懸命の説得にも耳を貸さず、わがままにも本番中に現場から立ち去った状況です。

だそうで。さりげなく「わがままにも」と入れてるところがいいですね。マネージャーの謀略説も予想されてはいましたが……今後の動きが気になります。

_ PHSの請求書を見ていたら、基本料金に含まれている無料通話ぶんを使い切っていないことに気がつきました。700円くらい残ってるってことは、けっこう話せるよなぁ。

目標:もう少し人に電話をかける。


2003-06-29

_ 恋愛頭脳 (via ロンmemo

「変」で「お子様」でした*1。ジャンル別診断は「変」と「極端」ばかり、「どことなくギラついてて怖いイメージがあります/価値観が子供っぽいという印象があります」、ジャンル別コメントもざくざく突き刺さるようでした。わーい、やらなきゃよかった(うそ)。僕との相性診断はこちらからどうぞ(いつまでデータが残るのかわかりませんが)

かなり面白いです。話題作りによし。できれば結果を保存できたり、他人にそのまま結果を見せられると面白いと思うけど、質問項目が多いから難しいかな。

*1 いま納得したやつ、一歩前に出て歯を食いしばれ。ちなみに18〜29歳の男性に限ると「可」で「高校生」でした。

_ 単勝1222万円勝負、勝利

12,220,000円×16.3=199,186,000円≒2億円! 「人生最後の一発勝負」は負けるものとドラマや漫画では決まってますが、現実はそれを上回るわけですね(その陰で何倍もの人が負けてるんだろうけど)。2chのヲチャーが中継見ながら大興奮してるのもわかります。すげえ。

ついでに、フォエの母もショック死してた

 (追記)安田記念で稼いだ軍資金をさらに宝塚記念につっこんだかもしれないと……何者?

_ 「バンキシャ!」に t.A.T.u. 生出演中 (18:20)

イベントドタキャンは許可が下りなかったから、Mステドタキャンは「女の子の魅力」について番組側と意見が合わなかったからで、これ以上の詳細については記者会見で話すと。明日ロシアに帰国だそうです。

ん〜、さすがにここまで騒ぐとアホらしいな。釣られすぎ。