相変わらず停滞がつづく。このままではいつか周囲にとんでもない迷惑をかけそう。もうかけてるとしたら、もっとすごいやつを。予期や期待を窮屈だと感じるのはどうにかできないかと思うけど、今までどうにかなったことはなく、今後どうにかなる気配もない。
あるものに価値があるかどうかを判断するためには、複数の選択肢に優劣をつけてゆくほうが考えやすい。というよりも、「○○には価値がある」という質問に対して、たとえ「はい/いいえ」で答えたとしても、その背後では他の何かと比較されていることが多いし、少なくとも常にその可能性には開かれている*1。
ある行動をとるべきか否かという判断をするときに、その他の選択肢と比較してみることは珍しくないわけだが、そのとき想定する選択肢の幅には個人差がある。極端になると、目の前にある選択肢にひとつひとつ「はい/いいえ」で答えていくだけで比較すらしないという人もいるだろう。
逆に、目の前に用意された選択肢に飽き足らず、まだ隠れた選択肢があるのではないかと考えてしまうこともある。それを選び取る条件については後まわしで、ただそれが論理的にありうるのかどうかが最初の問題である。
だが、隠された選択肢というのは、いつまで考えても「ありそうな」気がしつづける。これが問題なのだ。
ある古物商での会話。
「お客さんツイてる! 今日は出物がありますよ。このへんなんていかがです? ほらこの茶碗、いいでしょ。それにこの一輪挿しなんかどうですか、釉の斑がたまりませんよ」
「ん、いまひとつだなぁ。何かほかにいいのないの? いいものだったら今日は買う気あるんだけど」
「参ったなぁ……じゃあ取っておきを……」
まぁいいかげんな会話だけど、ありそうではある。要するに、選ばせたくない選択肢を隠しておくと人はしばしば見せられた選択肢の中から選んでしまうものだが、全部を拒否したときにそれが出てくることもありえない話ではないわけだ。
用意された選択肢を選ばない人は「ないものねだり」と言われ、逆に用意された選択肢を選び取る人は「素直」だとされる場面は多い。むしろこのほうが多い。でも個人的には、「ないものねだり」をそれほど否定的に見ていない。
でも、本当にないものをいつまでもねだっているのは、やはり賢くない。
でも、隠された選択肢というのは、その姿を現わさない限り、いつまでも「ありそうな」ままだ。
*1 ここで、絶対性とか「世界に一つだけの花」みたいな比較不可能性についても考えるべきなのかもしれないけど、わけがわからなくなりそうなのでやめる。ひとまず、何ごともある側面だけに着目して他と比較することはできるだろうという前提を置いておく、ことにする。
おかしいなぁ、と思うやつが大勢いるわけだが。
悟らせてないところは、えらいと思ってしまった。
2秒。
対策しないと、これから増えそう。
検索結果「ひぐちアサ」で一番上に表示されていたところ。佳作の漫画をていねいに拾い上げるページで、『ヤサシイワタシ』は2001年度の年間ベスト1に選ばれていました。
「年間BEST10」を6年分見てみると、「ベルセルク」「電波オデッセイ」「ピンポン」「弥次喜多 in Deep」「大王」「ヒカルの碁」「サトラレ」「蟲師」「プラネテス」「茄子」など、ややマニアックな方面からは大きく取り上げられた作品が入っている一方で、木尾士目「陽炎日記」「五年生」、新谷明弘「未来さん」、小原愼司「菫画報」、園山二美「蠢動」、加藤伸吉「バカとゴッホ」あたりが顔を出していて、嗜好がかなり近いです。この人の推すものは読んでみたい。
虚構としての鬱状態に突入。無表情なのはもちろんのこと、感情そのものの動きがにぶい。刺激への反応もスローモーションで、遅めの間をとるツッコミのような、おぎやはぎみたいな。
でも、あくまで虚構、あくまで鬱キャラ。
自殺の後処理をしてた人がまた自殺……尾道ってあたりが、想像のツボを刺激します。
警視が署の中庭で拳銃自殺 警視庁碑文谷署(asahi.com)このテがあったか。
今回の虚構としての鬱は、一つの防衛反応だと思う。今の状態で感情を表に出そうとすれば、喜や楽は決して出てこないし、そのままバタバタッと崩れてしまいそうな気がする。だから一種の綱渡りをしてやりすごすわけだ。この技術と、それを実現する環境*1がある限り、とりあえず生きてはいられるだろうと思う。面白くもなんともないけど。
損得という経済が善悪の価値判断に先行するものだということは、意外に気づかれていないと思う。「人づきあいは損得でするものではない、そこで損得を考えるのはドライなやつだ」という意見があるが、「損得を考えずに」人づきあいができる人というのは、表面的な損の裏側でそれに見合う得を得られている人だと言える。これは「愛」でも同じで、「報われないのに尽くしてしまう」などという状況は、与えるものに見合うリターンを、与える前に、もしくは与えることそのものから得ているわけだ。「損得を考えない」ところにも、損得の経済はすでに成り立っている。いかに損を省みず与え続けている人=善い人も、その前から経済の中に取り込まれているのだ。
損得の感情は主観に左右されがちな部分である。たとえば「ひどい目にあった」という尺度も、人によって異なる。だから「私はこれだけひどい目にあっている」という主張は、共有不可能であることが多い*2。ある人がどれだけひどい目にあっているかを他人が測るのはそれだけ難しい問題であり、また他人に共感することも本来困難である。
「悲しい思いをすると、他人に優しくなれる」という。これは悲しみのインフレが起こり、悲しみの価値が下がっている状態にある。悲しみの供給過多によって、以前は重大だった悲しみに対しても、それほど悲しまなくなる状態である。あいつを優しくするために、悲しみ漬けにしてやって、パンチドランカーにしてしまえ。
あんまり長い間つらい目に会った人間は意地悪になってしまう。もちろん意地悪にならない人間だっている。多分それは頭がいかれてしまったからだ。わたしみたいに。
(高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』)
悲しいことがそれほど悲しくないなんて、喜ばしいことだろうか。悲しみを悲しめなくなること以上に悲しいことがあるんだろうか。
それが悲しい。
僕が他人に何かを言ってそれが伝わる、ないし何らかの影響を及ぼすということがもし僕に可能だとしても、それにすら何も期待していない状態なので、日記を書く気力も失せている。ただ「それでも何かを言おうとする」みたいな姿勢でいるほうがステレオタイプなポジティブシンカーの思考傾向だと思うので、無理から書いてみるんですが。
こういうとき、誰かからのふとしたアドバイスとか、あるいは自力ででもいいんだけど、日常のちょっとしたことから喜びや幸せを発見して、明日への生きる糧みたいなものを得ましたというストーリーでも書いておけば、それを読んでそれなりに腑に落ちる人も大勢いるんだろうと思う。
でも、その瞬間にそういう圧力がのしかかってくる。あたかも明日へのささやかな希望をありふれた日常の中から発見しなければいけないような気がしてくる、そのことがもう煩わしい。これを「がんばれ圧力」と呼ぼう。
この「がんばれ圧力」は、まだまだ現役で活躍している「善い」概念でもあるのだが、時にそれが暴力的な側面を持つこともまた十分に気づかれていると言っていいと思う。例示するのは面倒なんだけど、ずいぶん前から「410135412X」とか「4087811913」とか「4579500423」とか「4479781110」とか「スローライフ」みたいなキーワードが一部で関心を呼んでいたりする。
しかし、これらのキーワード群も完全に「がんばらない」ことを実現してしまうことは留保しているはずで、がんばることがむしろネガティブに作用してしまう場合があるということを指摘し、適度にがんばることが重要なのだと説いているに過ぎない。
さてさて、こうやって「がんばらない」の欺瞞を暴いた気になりつつ自分の優位を確保する姿勢も、一部では賞揚されていたりする。こういう人々は退廃的な方向に向かい、死に美学を見出したりしはじめる。天邪鬼とか悲観主義とか虚無主義とかとかとか。
さてさてさて、長年やっているとそういうのにも飽きるのだ。もういい加減、出尽くした感がある。このどれかから選びなさいと言われても、それがまた圧力を生み出しはじめる。でもその圧力から逃れることに対してもまた圧力があるのだ。偏在する圧力。
それから逃れ続ければ、天邪鬼の圧力が。どこかで我慢するにしても、どこかで我慢する圧力が。
圧力を圧力と感じなければいいという人がいるかもしれない。つまりは他人からの力だと感じることが嫌なんだろうという意見だが、これはなかなか妥当である。しかし人の考えというのは人間の総数よりも少ないのだ、というような考えを最近他人の考えから学んだ。これもなかなか説得力がある。だからといって誰かの考えを受け入れるのが嫌だというわけではない、それに同意できさえすれば僕は納得するだろうと思う。もし完全にオリジナルな考えを持ってしまったとすれば、それはそれで不幸なことであるだろう。
あるいは説得力のある発言に対して自分の個別性を根拠として棄却することも常に可能である。あるいは今考えているこの思考がオリジナルである可能性も否定しきれない、そのことも厄介である。
あるいは。ないしは。もしくは。
だんだん考えるのが面倒になってきた——というか人に伝わりそうな形にするだけの気力がなくなってきた。発話に期待できなくなるのも久しぶりのことだ。といっても以前は今以上にまったく期待していなかった気もするのだが、もうよく覚えていない。
「このティー・カップすてきねえ」
「うん」
「ほんと、いいティー・カップだわ」
「そうだねえ」
「何か、いいのよねえ、このティー・カップ」(高橋源一郎)
ゲーマーたちの「ゲーム的生き方」を明かす新刊書(HotWired Japan)
「そこにはちゃんと歴史があって、『Quake』[過激な殺人が売りのアクションゲーム]にしてもいきなり現れたわけではないということを、世間の人にわかってほしい。1870年代のゲームにも似たようなテーマがあった。20世紀半ばのオモチャの兵隊も、H・G・ウェルズの小説も、発想は同じだった。実際は何百年も前から子どもたちが殺し合いをしてきた事実を知れば、現在のゲーム文化もそうした文脈の中に位置づけられる」
(ジョン・ボーランド)
幾度となく誰かを殺したし、同じくらい殺されもした。みんな殺し合いが大好きだった。
んで、話はMMORPGへ。
「こうした仮想の社会的絆が、実世界での永続的な人間関係につながり、友情が芽生えたり結婚に至るケースもあり得る。ロールプレイングは、今ある教育ツールの中でいちばん強力なものの一つだと思う。子どもが草むらで『兵隊』になったり、ままごとでティー・パーティーを開いたりするのも一種のロールプレイングで、それによって社会的にここまでは許されるという行動や、人への接し方を学んでいる。大人もロールプレイングをする。経営コンサルタントは、管理職の人たちにチーム作りの仕方を教え、ロールプレイングゲームと同じ技術を使って人間関係のトラブルを解決することで報酬を受け取っている」
(リチャード・ギャリオット)
僕にとってゲームが変化に乏しいものとなりはじめただけでなく、ゲームもまた同じだということに気づきはじめたころから、僕はゲームをしなくなった。
今日は体育でテニスをしました。3時間も炎天下のコートに立っていたのでよく日に焼けました。
「なんでテニスなの?」
「テニスはラケットを使うスポーツですから、ラケットという道具の扱いに習熟することが上達の大きなポイントです。目標となるのは、ラケットが腕の一部だと感じるほど自在に扱えるようになることです。つまりラケットを振り球を打つという認知的な経験を積み重ねてゆき、身体知とでもいうべきものが蓄積されてゆくたび、確実に上達の快感を得られるからです」
「テニスを純粋に楽しんでないよね」
(巻き戻し)
「なんでテニスなの?」
「テニス楽しいよー、ラケットでボールをひっぱたくときの快感がたまらなくてさー、サービスエースなんか決まったら鳥肌たつね、マジで」
「テニス好きなんだねー」
(巻き戻し)
「なんでテニスなの?」
「体育の単位とんなきゃいけないんだけど、ラクなの予約できなくて、まぁテニスなら楽しいからいいかなっつーか。大学生っぽいのもいいよね、せっかく大学生になったんだから大学生っぽいことしたいじゃない?」
「んなかんじだよね」
(巻き戻し)
「なんでテニスなの?」
(どれがいいんだ?)
「ねぇ、なんで?」
「……金星が獅子宮と処女宮の境界線上にあって、水星と120度の角度になってたから、テニスがいいみたいで」
「……ふーん」
(巻き戻し)
「なんでテニスなの?」
「どれがいい?」
「え?」
「理由」
「どれって」
「いや、どれでもいいからさ」
「……どうでもいいわけね」
「てわけでもないんだけど、わかんないから」
「聞かなきゃよかった」
「かもね」
「ね」
うははは、人権を侵害しながら*1人権擁護の話をしてる公民教師。「教育のためにはときに逸脱も必要」とか言いそうですね。おもしろい。
ニュース速報@2chとかも見てましたが、97年の神戸事件と比べて変化したのは警察が容疑者のイニシャルを出さなかったことくらいで、あとは舞台上も観衆もそれほど変わらない印象。イニシャルを出さなかったことも同じクラスの別人への誤爆につながったりして、結果的に良かったのか悪かったのか。
*1 本当は、限定された範囲で個人の肖像を回覧しただけで人権侵害なのかどうかは一拍おいて考えたほうがいい。でもタイミングから考えて、この件の「画像」は補導少年「とされる」人とは別人「とされた」画像ですよね、たぶん。
「屋根裏」より。
2003/07/13 マイナスイオンサイト
■いつまでも根本先生でいう「生きる」やってられないよな。そろそろ「生きる」やめないと、このままだと永遠と同じこと繰り返してして、また失敗してしまいそうだ。次のステップにいかないと。ずーっとまずしいわーるどやってるのもだめだ。もう終わっているんだ。どうみても。それを、むざむざ引きずっていても仕方ない。まずしいわーるどは俺にとってすごい大切なものだが、ずーっとしがみついてもだめだ。時期がきたら、切り替えないと。俺が真面目にぶちぎれるのなんて珍しいし。まずしいわーるどは、ほっといてもほかの人が継いでくれる。とにかくそろそろ少しづつ構築しないと。
いつまでも根本先生でいう「生きる」やってられないよなぁ、ほんとに。
そこから「でもやるんだよ!」と叫んでしまうのもアリなのだろうが、しかしその叫びは根本敬が観察する対象のものなのであり、根本敬は限りない憧れを抱きつつも、あくまでその境界線を越えることはない……意図して越えられるようなものでもないし。
でも、気づいたら越えてたりして。
いきなりタナベが出てきたりするんだろうか。ユーリの話とかやってもらいたいけどなぁ。
イタリア人がその日食べたパスタを写真に記録しつづけるページ。現在155パスタ。キャラ活かしてるなぁ。似たアイデアの「食べたものを淡々と記録するよ」は日常なところが面白いんだけど、パスタ単品だとまた違う空気が出てくる。それだってイタリア人にとっては日常……なのかどうかわからないけど。
写真とって記録していく系のページはちょっとやってみたいけど、普段からビジュアル的に面白いものに触れてないことにかけては自信があるので困った。
_ 体育会の友人に指導を仰ぎ、「体育会虎の穴」ことフリーウェイト室でベンチプレスにチャレンジ。とりあえず30kgは上がりました。でも現在の最適ウェイトは25kgっぽい。貧弱ゥ! 貧弱ゥ!
その後、コップを持っただけでも腕がプルプル震える状態に。帰り道の運転で、はじめてパワステがついていることに感謝しました。ついてなかったら本当に帰り着けなかった……明日の筋肉痛が怖い。
モーニング買わなくなって久しいけど、久しぶりに買わないと。『えの素』終わったんだよね……『プラネテス』はロックスミス氏の回からあと読んでないかも。近所にあった24時間の7-11が閉店したのが痛い。
最後に掲載された回はどんなんだっけ……と調べようとして発見したFLASHサイト「プラネテス」を見て "lebonze" を思い出したけど、それほど似てなかった。
今週の予告トリビアが「ゴルゴ13は……」だったので、来週はもしかすると最後に挙げられている
・「ゴルゴ13」で、デューク東郷は笑ったことがある
かも。だとしたら常識の範囲内ですが……「領収書はいらないだろうね?」とか。
今日はこれでしたね。現在進行中の話題のスレにリンクしてもすぐ消えるとは思いつつメモ。
さっそくわっかりやすい憶測で充ち満ちてますね。死因が練炭と関係しているらしいというあたりも最近のトレンド(?)とつながっていて、気になる度を上げています。でもこれ以上のコメントはしたくないかんじ。
痛い。来るべき痛み。今まで生きてきて筋肉痛になったことがない部分まで痛い(胸の中央部とか)。きっとはじめて動いた筋肉もあったに違いない。
「あれ、これもしかして伝達物質? アセチルコリンじゃね? やっぱそうだよ。マジで信号きてるってこと? つっても動いたことねえしよ……えーとどうやって縮むんだっけ……」
とか。
でもアドバイスに従ってきちんとストレッチをしておいので、痛いことは痛いけどかなり軽減された模様。今日はストレッチだけで寝ます。
キター!! あきらめていたGBAアダプタ、ついに発売!! ツッコミ感謝です>ymskさん、三浦。やっぱ買っておくべきかなぁ。ゲームは FLASH 以外さっぱりやってないんだけどなぁ。でもちょっと MOTHER 1+2 やりたい。
軍曹語録 (via 連邦)が最高でした。連邦から引いて意味あんのかってかんじですが、『フルメタルジャケット』 & ハートマン軍曹は心の故郷であり師匠なので紹介しないわけにいきません。
タイトルは、語録に収録されてないけどお気に入りの台詞です。へこんだときは心の中で「エームワイシー、ケーイワイ、エームオユーエスイー!」*1と唱います。
*1 っつかDDRに入ってたんだ。「ユーロバージョン」だけど。
このスレより。浦安南高校のランナーがパスボールの間に2塁へ進塁したものの、オーバーランして返球されてタッチアウト。
夏ってかんじだなぁ。
未だ痛み引かず。っつうか左の二の腕が油断すると上がらなくなったりして、もしかして本気で痛めてるのか? ちょとゆっくり休めてみよう……タブブラウザの操作で左手を多用するのが良くないのかもしれないけど。
昨日の「軍曹語録」を受けて、原語で探してみました。ハートマン軍曹、いのちのことば。
さっそく「お前を見たら嫌になる! 現代美術の醜さだ!」をメール着信に設定。
昨日引いたお気に入りの部分は
"Bullshit ! It looks to me like the best part of you ran down the crack of your mama's ass and ended up as a brown stain on the mattress ! I think you've been cheated."
「このウソつき野郎! お前の一番良い部分はママの割れ目からこぼれ落ちて、しまいにはマットレスの茶色いシミになってたようだな! お前は親からだまされてるんだ」
だそうです(聴いててもぜんぜんわかんない)。
「イブニング」の前身だった「モーニング新マグナム増刊」に載っていた『S60チルドレン』(ショウワシックスティチルドレン)が、ついに新連載。
全く……新しーオモチャが/進出してきて……/俺たちゃイチコロ
アホみてーにやってたから……/『ゲーム脳』まっしぐら……
まあ……そーゆう世代……
まあ、そーゆう世代。
なーに……/学校生活なんて/長ーい人生ん中で/ほんのわずかなひととき……/らしいよ?
——けど……/その割には/やたらと/長く感じるけど/なあ……
とか、そういう話です。昭和60年代に小学生をやってた人は、特に必読*1。
ちなみに「s60チルドレン」でぐぐると85件、思ったよりヒットしますね。やはりネットのコア世代なんだろうか。
*1 それ以外の人がどう感じるのかにも興味あります。面白くないのかなぁ。
最近、ドナ・ウィリアムズ『自閉症だった私へ』を読んで自分への疑いを強めてたりして、気になった。といっても0歳のときのことを確かめようがないけど。
タバコはパーキンソン病様症状を防ぐ (BoiToday.com via Orbium)パーキンソンにはちょっとうるさい人のコメント希望。
自慰多くすると前立腺がんの危険が低くなる (中央日報 via つかれた)「バカになる」から時は経って。
安全日は存在しない (Slashdot.jp)ディンゴが撃たれたところで何かを思い出したらしく暫くコントローラーを置いて俯いていたじいちゃん。
せつねえ。クリアしてほしい。ネタだとしても熱い。
NHK教育でやってた、キャラクターも出ないままグリグリ変わるだけのクレイアニメを思い出した(あれは誰の何というものだったのか?)。手書きモーフィングはやっぱ気持ちいいなぁ、ってこれが FLASH の機能だったらどうしよう。
どうなのかと。
なんとなく。
未確認のネタですが、今日の「人間講座」を見ていた友人によると、来月からは斎藤環が担当するようです。著書以上に詳しいことは言わないかもしれませんが、一応チェック。
公式Webにも来月のことは載ってないみたいですね。
490178417X現「あきらめましょう」の「死にたい」が単行本になったんですね。「あきらめましょう+死にたい」で検索してはてなダイアリーのほうにたどり着いた人がいたので、久々に見てみたら。
友人とチャット中の話。単なる素朴な疑問だったらしい。
「『茄子 アンダルシアの夏』の茄子って何?」
ああそういやそれが常識なんだよねぇ『大日本天狗党絵詞』の連載中から硫黄硫黄言ってた人ってどれくらいいるんだろう、とか思ってしまった。本当に「硫黄硫黄」とは言ってなかったけど。ごめんちょっとウソついた。
映画『茄子 アンダルシアの夏』は黒田硫黄という作家が月刊アフタヌーンで連載している『茄子』という漫画が原作で、『茄子』は基本的に1〜数話完結なんですが、その中でヨーロッパの自転車レーサーを主人公にした話があったんですね。で、自転車好きが多くレースまで主催しているスタジオジブリにいた高坂さんがアニメ化を思い立ったという経緯のようです(裏取り参考:インタビュー)。
高坂さんに『茄子』を薦めたのは駿御大だったのか。さすがだ。
だそうです……すげー。
4594603327一度、友人に薦められてから気になりつつも読んでなかった舞城。三島賞を取ったあとになっても読んでなかった舞城。マイジョウヒデキ。マツイヒデキ。あとかたもなくなった。
『ラリアットポイント』を描きつづけようとしたら別の俺が邪魔するので上手く描けない……という俺の演技は完璧だ!でも俺誰に向かって演技してんだろう?『ラリアットポイント』の存在は誰も知らないのに。あ、俺か。俺は俺に向かって演技してんのか。俺は俺に向かって俺が狂ったような演技をしてるけど、じゃあそれは何のためかというと、俺を楽しませるためだ。うお、すげーその演技上手い、と俺は言う。すっかり騙されそうだったっての。マジで俺狂ったかと思ったよあぶねー。俺は本当は狂ってはいない。だから描こうと思ったら『ラリアットポイント』をちゃんと描ける。大事なのは目と手と太もも。太ももの肉付きは少なめでいい。足の付け根と膝のあたりが少し厚めで、股間から膝の内側は少し開いてるくらいが俺の好みだ。Ωの目を七つ並べてみた。Ωは宇宙人だ。小学生を食う。七つ目のΩから見た世界。これこそ狂ってる!俺はすげー変な絵を描ける。楽しい。でもこれはもうホントに見せらんねーな。見せたら俺マジで狂ってると間違われる。
(「en-taxi」 52頁)
頭の中をパケットでパンパンにしながら日記サイトとかやってて「日記で嘆いてる漏れを楽しんでる漏れwww」とか書いてる香具師は全員PC落として本屋に走って熟読汁。
実は「群像」7月号も買ってあるんだよねー。
以前書いた日記に誤りがありました。江國香織がフランスの「フェミナ外国小説賞」を受賞したと書いたんですが、これはフランスのフェミナ賞("Prix Femina")とは別物の、国内の賞でした*1。
# gato (20030531 Sat 02:08)
江國さんの受賞されたフェミナ賞は、
日本の「季刊フェミナ」という雑誌のかなり
マイナーな賞で、フランスのそれとは異なります。
ですので、フランスのフェミナ賞は辻さんが
初めて受賞ということになります。
というツッコミをいただきました(本当に感謝)。気づくのが遅くなってごめんなさい。こちらでも調べてみたところ、『409ラドクリフ』の初出は「季刊フェミナ」(学習研究社)創刊号なんですね。読売新聞の記述も正確なものでした。訂正します。
無知でした。ベッカム様にお買い上げされたいくらいでした。
*1 ただし、フランスのフェミナ賞も「フェミナ」という雑誌が主催する賞なので、日本の「季刊フェミナ」と無関係ではないのかもしれません。裏は取ってませんが。
してます。これから見ます。
見た……って、これだけかよ! II は8月下旬公開だそうで。「引き」なのか「現場の事情」なのか、その両方か。まぁ公開が3ヶ月空くと見る側の熱も引いちゃうってのは身にしみて感じたので、小出しにするほうがお互いのためかも。
てなことで、以上。
「複雑なやつ」だという印象を持たれることが多いのは、自分について他人に説明するときに、普段はなかなか耳にしないような単語を含んだ大量の言葉を、たとえば今日の日記のように吐き出してしまうからだろう。でもそれはあくまで他人にわかるように努力しようとつとめた結果の産物である。部分的であるとしても他人と自分は異なるものだという認識の上に立ってその間をうまく調節しようとすると、自分は他人に対して複雑にズレた、理解しづらいものになってしまうのだろう。
だが、仮にそれが他人と大幅にズレていたとしても、自分にとって自分とは、しばしば非常にシンプルな存在である。気がついたときからずっと僕はこうだったのであって、こうでなかったことがない、少なくとも覚えていない。今日はそのことに気がついた。
昨日、友人からスネオヘアー『ウグイス』を薦めてもらった。その瞬間から今まで、ずっと聴きつづけている。さらに『ウグイス』を聴きながら穂村弘の初期の短歌を読んでいて、この2つがとてもよく合うことに気がついた。
「なんて青春なのか」と思う。僕はもう間違っても真正面から「青春」などと言える年齢ではない。でも僕はいま一人称が「僕」だし、
あいにくも僕たちは 低速の毎日で
色を忘れた世界には可笑しくて噴出した なまぬるいウォータまるで
輝いてる星のように空を飾る光さえ 今は届かずに
という歌詞とか
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
という短歌にグッと来ている。
といった生活を続けていると、いつまでもこうした呪縛から逃げられないんだろうなーと感じすぎる。穂村弘の「初期の」短歌などと但し書きがついているあたりなんて、いかにも絶望的だ。青春期の人というのは何でも「初期」をありがたがる傾向を持つ。
彼に対する有形無形の抑圧が強いほど青春期とでもいうべきもの、その人の「青さ」は長引いてしまうような気がする——が、確かめようのない憶測はやめよう。
たとえばNHKで「青い山脈」だの「高校三年生」だのが流れてくると、こうした曲にもいまだにある世代からの熱烈な需要があるから構成に組み込まれているのだろうなぁと思う。それを見て僕は、死ぬまでそんな状態が続くのかと考え、また暗澹たる気持ちになる。
バイトを早めに上がれたので、久々に近所の図書館に寄った。蔵書を検索したら村上龍『五分後の世界』が貸し出されていないようなので探してみたが、読まれているのかみつからず、そのあと偶然みつけた伊藤整『青春』を借りた。今日の日記のお題を「青春」にしようと思ったのは、昨日の夜のことだ。
引用すると、書くことがあまり残らなくなってしまう。
人の生涯のうち一番美しくあるべき青春の季節は、おのずから最も生きるに難しい季節である。神があらゆる贈り物を一度に人に与えてみて、人を試み、それに押し潰されぬものを捜そうとでもしているかのように、その季節は緑と花の洪水になって氾濫し、人を溺らせ道を埋めてしまう。生命を失うか、真実を失うかせずにそこを切り抜ける人間は少いであろう。
人の青春が生に提出する問題は、生涯のどの時期のものよりも切迫しており、醜さと美しさが一枚の着物の裏表になっているような惑いにみちたものだ。モンテーニュが、人は年老いて怜悧に徳高くなるのではない、ただ情感の自然の衰えに従って自己を統御しやすくなるだけである、と言っているのは多分ある種の真実を含む言葉である。青春には負担が多すぎるのだ。しかもその統御しやすくなった老人の生き方を真似るようにとの言葉以外に、どのような教訓も青春は社会から与えられていない。それは療法の見つかるあてのない麻疹のようなもので、人みながとおらなければならぬ迷路と言ってもいいだろうか。
もし青春の提出するさまざまな問題を、納得のゆくように解決しうる倫理が世にあったならば、人間のどのような問題もそれは、やすやすと解決しうるであろう。青春とは、とおりすぎれば済んでしまう麻疹ではない。心の美しく健全なひとほど、自己の青春の中に見出した問題から生涯のがれ得ないように思われる。真実な人間とは自己の青春を終えることの出来ない人間だと言ってもいいであろう。
(伊藤整『青春』「作者の言葉」より)
三つ目の段落を引用してしまうあたりはかなりの恥ずかしさだが、それもこれも今日のお題が「青春」なのだから仕方ない。
私は青年が思想の混迷に陥っているとか、自意識の過剰によって妥当な行為から切り離されているなどという種類の非難を当らないものと考えている。善と悪との判断を強要するものが、彼等の身ひとつのことに関してすらあまりに多すぎ、かつ重すぎるのだ。しかも、そういう判断を抜きにしての行為が、十分なものであると言われないことは明らかである。最もよく考えるものが、やがて持つべき行為の情熱を最も強く信じうるものであろうからだ。
(同)
僕自身はここまで手放しで持ち上げられるものではないと思う。恥ずかしくなったり背筋が寒くなったりもする。それに、自分のすべての問題を「青春」に負わせることができるのかどうかも疑わしい。
でも、もしも「ズレている」と皆が感じているのなら、自分にとって自分がシンプルであるゆえに他人との間が複雑になってしまっているのなら、そうであればこそ、そこを貫き通せるものは、少しかもしれないけど、あるような気がしている。
とはいえ、そうであっても誰の問題も解決しないし、僕の暗澹たる思いも解決されるわけではない。とりあえず、悩むことに悩むのはやめてもいいのかなと思ったくらいで。
だそうです。執筆陣はこってりした面子が揃ってるし、 小田ひで次、植芝理一、小田扉、小原慎司のトリビュートも気になります。
今日は映画『茄子 アンダルシアの夏』の一般公開も始まりましたね。アフタヌーンでは先月から、映画公開記念の前後編読み切りで『アンヘル』という自転車モノをやっています。ぺぺの兄のアンヘルが主役です。
「この休みに海外旅行なんかね」
「へえ どこ?」
「……イギリス」
「イギリスかあ 山がないなあ」
「山?」
「強くなれねえ」
という兄です。
『「斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖」のGoogleランクを上げよう』運動 (sodiumイオンにっき via ishinao.net via 幻燈稗史) (長い)に微力ながら参加。
おかげさまでトップのページランクは現在 3 なんだけど、どのくらい影響あるんだろう? 個人ベースのサイトが寄り集まるだけでどこまで上げられるのかも見てみたい。
最近は毎日 GoogleBot がページを見に来てくれているらしく、書いたネタが2日くらいで結果に反映されるようになった。
さっそく「茄子 ユリイカ 黒田硫黄」の検索結果から跳んできてもらったのでその結果を見てみると、小田ひで次のオフィシャルなページらしきものが! まったく知らなかった。『拡散』も『クーの世界』も好きです。
トップに掲げられている「小田ひで次氏のご友人のお子さまの進学祝いに描かれたイラスト」の気合の入りようなどを見ると、「こういう部分でも手を抜かない(むしろ気合を入れる?)人なんだなぁ」と妙に納得してしまいます。本人の日記もアリ。掲示板は黒田硫黄も目を通してるそうですよ。
こんどは「ゲーム脳」で検索してみた結果から。ある意味では今、70年代生まれの世代の中で最も世論を動かす「可能性」を持つ男「ひろゆき」がアホバカエロゲーを紹介するページが出てきました(もう連載おわってるけど)。
紹介してるゲームのラインナップは、『私立ガッツ学園』『暴れん坊天狗』など「アホバカエロゲー」を紹介する記事としては頻出のものが多い。でも、ひろゆきってもっとまともな人なのかな〜と思ってたのに、やっぱり……とは思った。けどコメントはけっこうまともだったりして、アホバカエロゲーをまじめに評していたりする。こういうアンビバレントがむしろこの世代らしいのか? ディティールは変なのにトータルで考えると「普通」だと思えるところとか。
Web現代のコラムは、「吉田電車」、立川談志、唐沢俊一と豪華。
参加したあとになってあれだけど、ふと、「『斎藤環』で検索してゲーム脳に関する発言がトップにくるのはどうなのか?」と思ったので検索してみたら、見事にトップでした。個人的には青少年の社会性・共同性に関するものがトップにきていてほしい*1気はするけど、まったく無関係じゃないし、まぁいいか。
「ゲーム脳」を検索すると、現在4番手くらい。トップは上で紹介した「ひろゆきの先天性ゲーム脳」で、現在のページランクは 5 ! これはけっこう強敵かも。
*1 これもふさわしくないという意見もあるでしょうが。
やばい、「エンキ・ビラル」でぐぐると某ページがトップに来る……更新しないとしないと。夏休みがつぶれそう。