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2003-07-25

_ 岩井俊二監督『花とアリス / 第二章 花の嵐 I 秘密』公開 (BREAK TOWN CINEMA)

してます。これから見ます。

見た……って、これだけかよ! II は8月下旬公開だそうで。「引き」なのか「現場の事情」なのか、その両方か。まぁ公開が3ヶ月空くと見る側の熱も引いちゃうってのは身にしみて感じたので、小出しにするほうがお互いのためかも。

てなことで、以上。

_ 「梅雨明けは二十年後の九月です」たしかに予報士はそう言った

「複雑なやつ」だという印象を持たれることが多いのは、自分について他人に説明するときに、普段はなかなか耳にしないような単語を含んだ大量の言葉を、たとえば今日の日記のように吐き出してしまうからだろう。でもそれはあくまで他人にわかるように努力しようとつとめた結果の産物である。部分的であるとしても他人と自分は異なるものだという認識の上に立ってその間をうまく調節しようとすると、自分は他人に対して複雑にズレた、理解しづらいものになってしまうのだろう。

だが、仮にそれが他人と大幅にズレていたとしても、自分にとって自分とは、しばしば非常にシンプルな存在である。気がついたときからずっと僕はこうだったのであって、こうでなかったことがない、少なくとも覚えていない。今日はそのことに気がついた。

昨日、友人からスネオヘアー『ウグイス』を薦めてもらった。その瞬間から今まで、ずっと聴きつづけている。さらに『ウグイス』を聴きながら穂村弘の初期の短歌を読んでいて、この2つがとてもよく合うことに気がついた。

「なんて青春なのか」と思う。僕はもう間違っても真正面から「青春」などと言える年齢ではない。でも僕はいま一人称が「僕」だし、

あいにくも僕たちは 低速の毎日で
色を忘れた世界には

可笑しくて噴出した なまぬるいウォータまるで
輝いてる星のように

空を飾る光さえ 今は届かずに

という歌詞とか

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

という短歌にグッと来ている。

といった生活を続けていると、いつまでもこうした呪縛から逃げられないんだろうなーと感じすぎる。穂村弘の「初期の」短歌などと但し書きがついているあたりなんて、いかにも絶望的だ。青春期の人というのは何でも「初期」をありがたがる傾向を持つ。

彼に対する有形無形の抑圧が強いほど青春期とでもいうべきもの、その人の「青さ」は長引いてしまうような気がする——が、確かめようのない憶測はやめよう。

たとえばNHKで「青い山脈」だの「高校三年生」だのが流れてくると、こうした曲にもいまだにある世代からの熱烈な需要があるから構成に組み込まれているのだろうなぁと思う。それを見て僕は、死ぬまでそんな状態が続くのかと考え、また暗澹たる気持ちになる。

バイトを早めに上がれたので、久々に近所の図書館に寄った。蔵書を検索したら村上龍『五分後の世界』が貸し出されていないようなので探してみたが、読まれているのかみつからず、そのあと偶然みつけた伊藤整『青春』を借りた。今日の日記のお題を「青春」にしようと思ったのは、昨日の夜のことだ。

引用すると、書くことがあまり残らなくなってしまう。

 人の生涯のうち一番美しくあるべき青春の季節は、おのずから最も生きるに難しい季節である。神があらゆる贈り物を一度に人に与えてみて、人を試み、それに押し潰されぬものを捜そうとでもしているかのように、その季節は緑と花の洪水になって氾濫し、人を溺らせ道を埋めてしまう。生命を失うか、真実を失うかせずにそこを切り抜ける人間は少いであろう。

 人の青春が生に提出する問題は、生涯のどの時期のものよりも切迫しており、醜さと美しさが一枚の着物の裏表になっているような惑いにみちたものだ。モンテーニュが、人は年老いて怜悧に徳高くなるのではない、ただ情感の自然の衰えに従って自己を統御しやすくなるだけである、と言っているのは多分ある種の真実を含む言葉である。青春には負担が多すぎるのだ。しかもその統御しやすくなった老人の生き方を真似るようにとの言葉以外に、どのような教訓も青春は社会から与えられていない。それは療法の見つかるあてのない麻疹のようなもので、人みながとおらなければならぬ迷路と言ってもいいだろうか。

 もし青春の提出するさまざまな問題を、納得のゆくように解決しうる倫理が世にあったならば、人間のどのような問題もそれは、やすやすと解決しうるであろう。青春とは、とおりすぎれば済んでしまう麻疹ではない。心の美しく健全なひとほど、自己の青春の中に見出した問題から生涯のがれ得ないように思われる。真実な人間とは自己の青春を終えることの出来ない人間だと言ってもいいであろう。

(伊藤整『青春』「作者の言葉」より)

三つ目の段落を引用してしまうあたりはかなりの恥ずかしさだが、それもこれも今日のお題が「青春」なのだから仕方ない。

 私は青年が思想の混迷に陥っているとか、自意識の過剰によって妥当な行為から切り離されているなどという種類の非難を当らないものと考えている。善と悪との判断を強要するものが、彼等の身ひとつのことに関してすらあまりに多すぎ、かつ重すぎるのだ。しかも、そういう判断を抜きにしての行為が、十分なものであると言われないことは明らかである。最もよく考えるものが、やがて持つべき行為の情熱を最も強く信じうるものであろうからだ。

(同)

 僕自身はここまで手放しで持ち上げられるものではないと思う。恥ずかしくなったり背筋が寒くなったりもする。それに、自分のすべての問題を「青春」に負わせることができるのかどうかも疑わしい。

でも、もしも「ズレている」と皆が感じているのなら、自分にとって自分がシンプルであるゆえに他人との間が複雑になってしまっているのなら、そうであればこそ、そこを貫き通せるものは、少しかもしれないけど、あるような気がしている。

とはいえ、そうであっても誰の問題も解決しないし、僕の暗澹たる思いも解決されるわけではない。とりあえず、悩むことに悩むのはやめてもいいのかなと思ったくらいで。