「解説」といっても文庫の話ではない。ラジオである。もう一昨日のことだけど、福田和也先生が「垣花正のニュースわかんない!?」(木曜日15:30〜17:30/ニッポン放送)に出演しているというタレコミがあったので、聴いてみた。といってもメインで喋っている部分は聴けず、各地にいるレポーターと司会者の会話に横から一言ずつコメントしていくような場面を聴いた。
とても苦労しているかんじだった。ある一つのキーワードに大して出てくる知識が膨大であるために、そこからラジオ的に適切な情報だけを選び取るにも時間がかかっているようだった。出てくるものが複雑すぎて、それを伝えきれていないような……いつもそういったことで苦労してそうな人だが、しばらくしたら慣れてくるんだろうか。
それにしても、今までテレビにもあまり顔を出していなかった人である。なぜいきなりラジオの解説者に。テレビよりマシだと思ったのかな?
今日も占い。笑点占いは「こん平さんタイプ」でした。勢いだけで周りを幸せにするムードメーカーだそうです。ほほう。つぎ。
ジョジョ占いは「ラバーソウル」でした。
新手のスタンド使い、cu39さんは・・・ラバーソウルでした。
少々自信過剰なタイプです。
自分の力と素顔を誇るのもいいですが、少し自粛しましょう。
あまり口から変なものを覗かせていると、怖いですよ(^^;ラッキーワード:ザリガニも食ってパワーアップ!!
奇妙度:★★★★☆
ジョジョ度:★★★☆☆
レロレロ度:★★★★★
うーん、ジョジョは三部くらいまでしか読んでないのでラバーソウルがよくわからない。さっそく Google さんに伺うと、出ました、名言集。
「ザリガニも食ってパワーアップッ! ブヂュブヂュルつぶして ひきずりこみ ジャムにしてくれるぜェ———ッ」
「弱点はねーといっとるだろーが 人の話きいてんのかァ この田ゴ作がぁ——」
なるほど、俺はそんなキャラでしたか。気づかなかった。イチ、ニー、サン、ちゃんらーん! ザリガニも食ってパワーアップ! ブヂュブヂュルつぶしてジャムにしてくれるぜぇー。
これでいいのか。
主に自分のリマインダーとして書いておく。今日からコンビニをチェック開始。どのくらい出荷するか知らないけど、気をつけないとなくなりそう。
_ どこをどう押しても動かないパズルをいじっていても、何も面白くない。もしルービックキューブが、最初から頭を使わなければどこも動かせないような代物だったら、誰もはまらなかっただろう。色がそろわなくても、形や模様が次々に変わっていくからそれなりに楽しかったのだ。
何も動かないものを動かそうと試みつづける作業は、本当に人を消耗させる。「どうしようかなぁ」と思ってみても、何も思い浮かばない。その種のスタミナが奪われるのだ。単なる休養ではこの種の疲れを取り去ることができない。休んでいても疲れつづけるばかりだ。大学に入ってからずっと、長期休暇が明けるたびに久々に会う友人から「痩せたね」と言われつづけ、逆を言われたことがない。痩せたのは体だけではないような気がする。
4061850059村上春樹が読みたくなったので、積んであった『ダンス・ダンス・ダンス』(イメージは文庫だけど、ハードカバー版)を引っぱり出してきた。読み終えた直後で咀嚼していない瞬発力だけの感想を。
瞬発力だけで言ってしまうと、この作品はピンと来なかった。まだピンと来ていないだけなのかもしれないが、どうもぼんやりしている。
この作品は88年10月に発売された。全般に漂う「バブル感」が本当に古くさく感じた*1のは、つまり僕がすんでのところでバブルに乗り損ねた世代で、しかもそれなりに歳を食ったということなのだろう。発売されたときのことは薄ぼんやりと記憶にあって、当時のテレビのランキング番組でもしきりに名前が出ていたのを覚えている。作中で幾度となく使われる「経費」が、特に時代を感じさせる。
「経費」に対する違和感を主人公がずっと抱きつづけ、最後に手に入るささやかな幸せがそのカウンターの役割を担わされている——という解釈を与えたとしても、そこそこ妥当性がある。この作品を切なく感じるのは、そういう側面を持っているからだ。村上春樹は、マーケティング用語で言う「フック」をとても巧みに使う作家だが、時代の文脈に依存しすぎた「フック」は作品自体の(良くない意味での)加齢を早めてしまう。だがこの点をあげつらうのは卑怯な*2気もするし、当然ながら作家としては大きな武器となる点でもある。むしろ15年後に読んでいる人間が気を遣うべきだろう。
当時の文脈に気を移す。というとどうしても、この作品の主人公が「〈鼠〉三部作」と「原則的には同一人物」だという点に関心が行く*3。で、「〈鼠〉三部作」のあと、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』を挟んで『ダンス・ダンス・ダンス』と来ている。『羊をめぐる冒険』で、ギリギリのところで手に入れ損ねたものを、さらに二度失って、その二度めにはかなり徹底的な逃避までして、それでさらに今回またいろいろ失って、ぼーっと待って、それからやっと手に入る。
うううん、何というか、手に入ることに文句はない。それでも僕は村上作品に喪失の切なさを期待してしまう部分がどうしてもあるんだけど、でもかまわない。それだけで好き嫌いや良し悪しを判断するわけではない。
そうではないけど、その手に入り方がどことなく納得いかないのだ。今回作中に出てくる数々の人物・事件が(例によって)よくわからないかたちでつながっていて、それが最後まで不明瞭なままであるという点も、よくわからなくて不明瞭であることについてはかまわない……のだが、たとえ不明瞭なままであるにしても、それにしても今回は放りっぱなしすぎやしないかと。
よくわからないものについて「でも、そうなんだよ!」と言われたときに「ふむ、そうかもしれない」と思えるかどうか、物語としてどれだけ説得力を持ちうるかは、要素還元できないような部分の話になってくる。今回に関しては、どこかが説明不足というか、抜け落ちているように感じてしまった。「僕のために存在している」とか、「繋がっている」という感覚に深く入り込めなかった。その感覚を支えている部分に手をかける「フック」をみつけられなかった*4。
などなどありつつ、何はともあれやっと「手に入れる」ところまで読み進んできた。この先どうなるのかは楽しみ。次は『国境の南、太陽の西』、そして『ねじまき鳥クロニクル』の予定。いつ山から引き出すかはわからないけど。
_ 予想してはいたけど、負荷率が 54pt まで高まったのでリンク元を非表示に戻した。
はてなダイアリーから2件リンクしていただいたのだが、はてなダイアリーと外部とで TrackBack できたらいいのになぁと思った。はてな内では擬似 TrackBack できるけど、外部からの TrackBackPing を受け取れないし、外に送ることもできない*1。でもまぁ Referer でいいか。
はてなのキーワードリンクはやっぱり強力で、面白い考察をみつけやすい。しかも、一般日記と比べて面白い考察をしてる人が多いような気がする。
一方で、記法その他のおかげでとっつきづらいという意見もあるみたいだけど、やっぱり Wiki ライクな記法って「難しい」と感じられるんだろうか。それが淘汰につながって「面白い」考察の比率が高まっているのだとすれば、簡単にはてなを持ち上げることもできないけど。
*1 ここに TrackBack 送信フォームを設置すれば送信できる。
今日はコンビニ2軒しか寄れなかったんだけど、どちらにも置いてなかった……デアデビルのスペシャル映像収録CD-ROMつきクッキー&キャンデーがあったので、そちらを衝動買い。
夜になってから行ったので、売り切れたんじゃないかという不安が……明日は早めにチェックしにいこう。
と思っていたら、別の情報を発見。
どちらの商品も1ヶ月間の限定商品で、「キットカット 記念缶」は100万本、「キットカット DVDパック」は40万本の販売を予定。DVDパックの方はショートフィルム公開にあわせて、第2弾、第3弾の発売も計画中だ。
(ASCII24)
40万本も出すのね。じゃあ焦らなくてもいいかも。
ありました! 鶴見のヤマザキデイリーストアで発見。特別売れているといった様子もなく、ひっそりと売られてました。帰りがけに近所のセブンイレブンに寄ってみたけど、まだ入荷していない模様。
家に着いてさっそく見てみたら……って、再生できねェ! なんだそりゃー。この品物がたまたま悪いだけか? それとも DVDslim だから? それともQが悪いの? とりあえず、もう一個買ってみようかなぁ……。
てゆうかここまで必死に追いかけるネタでもないかなーという疑問も頭をかすめつつ、引っ込みつかなくなっていますよ。
今日もまた買ってきました、キットカット。そしてプレイヤーにインサートッ! キター。やっと見れた……。
そしてこのDVDに収録されている岩井俊二プロフィールにも「『式日』主演」とは書かれていなかった。
学校で卒業制作用の資料だのURLだのをべたべた貼っておくために Wiki を設置してみた。WalWiki と PukiWiki で迷ったんだけど、サイドメニューを使いたかったのと特殊文字を表示する改造が簡単だったという理由で PukiWiki を使うことにした。WalWiki も捨てがたかったけど。
と、決めたのはよいのだが、まだ大きな問題が残っている。フランスに関する研究の資料を貼りつけるので、どうしてもフランス語固有の特殊文字(アクサン付きアルファベット)を使わなければならないのだが、たとえば "é" が入った単語は WikiName として認識されない。どうにかして解決したいが、どこをいじっていいのやら……今週末はこれをやるかなー。
今日もニュース23はスローライフ特集。スローライフを提言するのは糸井重里に瀬戸内寂聴、「そりゃあんたらはもうスローでもいいだろうよ」というツッコミは今日も不滅です。
スローライフと言えなくもない人生を送ってますが、そんなにいいもんじゃありませんよ。みんなも気をつけようね。
ちょっとまてぇー。負荷率 148pt でs9サーバー内第3位にランクイン! トップ3ですか。リクエスト数はそんなに伸びてないのに……昨日は画像も上げてないしアマゾンから持ってきたわけでもなく、要因がわからない。画像を載せたページにサーチエンジンから飛んできた人が多かったとか?
自分が何をやっているのかわからないままに押し流されそうになると、決まって大ブレーキをかけたくなるのは本当にずっと変わらない自分の性格というか性分というか気質だよなぁと、今日もまた思う。自分が何をやっていて、なぜそれをやらないといけなくて、それがどういう結果をもたらしうるか、もたらしてしまいうるかというあたりを、つまり過去から今から未来からをできるだけしっかり見ながら進みたいという、願望または義務感または強迫感が常にある。きっと臆病なんだろう。
日記を書いていることも、結局はそういう願望の現れなんだと思う。だから「テキスト系」や「ブログ」になりきれず、ごく私的なものが増えてゆく。それは覚悟してるわけだけど。
なぜ臆病なのかを考えてみると、生まれつきもあるのかもしれないが、それに加えて今までの経験的な裏付けがある。なにがなんだかよくわからない状態のまま「いざ本番」みたいな状況になると、ほぼいつも失敗したり的外れなことをしてしまうのは事実としてあって、何かを達成したり成功するのは周到に周到に準備して限りなく完璧に近い状態を実現したときだけだ、というのは経験的なデータとして持っているのだ。何もしてないのにコトがほいほい進む、みたいな経験もあるにはあるが、ほとんどない。だからこそ準備が足りないと不安になってしまうし、それがほぼ失敗に結びつくという(主観的な)データもあるために行動に結びつかない。
しかも、その準備にはやたらと時間がかかる。何事も準備には時間がかかるものだが、それにしてもかかる気がする。準備しているだけですべてが終わりかねない。ときには十分に整っていてもなお延々と準備をつづけ、持ちきれない量になってしまう。その見切りも上手くないのだ。
……と書いてみて、「あらこんなの普通のことじゃないの」と自分でも思ったわけだが、自分としてはその要素一つ一つが過剰だと思っている。あくまで主観なので客観的に確かめるのは難しいのだが、普段からの歩みの遅さ*1を知っている人だったらある程度納得していただけるのではないかと思う。
歩む速度を速めるべきだという考え方と、ブレーキはかけてもいいのだという考え方は、どちらもずっと自分の中にあって、まさに今もそうした葛藤が盛り上がっているところである。ただし、当然ながらこのどちらかだけで全てに対応できるというものではない。バブルの頃は前者を採用しているほうが得をしたのだろうし、もしもこの先「スローライフ」が価値を持ってくるのだとすれば後者をとるほうが得をすることもあるのかもしれない。要するに局面に合わせてギアを選ぶことが重要なのであって、糸井重里あたりはこれがすごく上手なのだ。しかし糸井重里以外の人は糸井重里ではないし、僕も糸井重里ではない。
人に傾向というものがあるとして、僕が、いま置かれているような場面ではブレーキをかけるほうが得意な傾向の人間であるとするならば、いまブレーキを踏むべきなのだろうか。ごく普通に考えた場合、ブレーキをかけることは避けるべき局面である。しかし、今までそうした局面でアクセルを踏んでうまくいっていないというデータもある。さて。
と、これが直近の悩みの概要なんだと、いま自分で書いていてよくわかった。そもそもの問題は周到に準備をしなかったことにあるが、それにもそれなりの事情がある……それにしても今日は、いつにも増して公開するような内容ではないなと反省してみるふり。
*1 でも、ふだん歩く速度は速い。
結局のところこの5年間は、いきなり変わったライフスタイルのギャップに翻弄されて、ただくるくる回っていただけだなぁと思ったり。
それまではのんべんだらりとしていたところから、いきなり「みんなで一緒に競争しましょう」という状態の中に入ったわけで、しかも周囲はその中をそれなりに勝ち上がってきた人々だから、そうした「よーいドン」への準備・心構えが上手だし、流れに乗る身のこなしを心得ている。一方の自分はというと、そういうライフスタイルが身に付いていないことがモロに露呈している。ハンディがあるからこそ余計にそれが必要であるにもかかわらず、だ。
人は誰でも特殊で個別な人生を生きている——のは言うまでもないが、それでも通常は社会的習慣や制度によって一定の共有項を持っているものだ。何事であるにせよ、人間は先人が築いた模範に従うことで思考・判断を省略し、効率的な行動を行うことができる。いわば「圧縮」である。
しかし、この習慣や制度による共有項を持たず、ある閾値を越えた個別性を持ってしまうと、独特のつらさが生じてくる。それは、規範となるモデルがどこにもないという事態だ。社会的・歴史的に制限を受けたルートから外れ、先人の前例を使えなくなってしまう。つまり、誰にも習うことができないし、誰からもアドバイスをもらえなくなるのだ。
これは「大人になるためには自分のことを自分で判断しなければいけません」というお題目とはわけがちがう。この場合でも、自分で物事を判断し大人になるタイミングは、やはり社会的・歴史的に規定された一定範囲の中に収まることになる。この場合、ばらつきはあれど一定範囲の中で、みんな一緒に「大人になる」。だが今話しているのは、前例が適用できれば考えなくてもいい部分までも自力で判断する必要が出てくるレベルの場合なのだ。似たような状況を想定することができず、社会的にも稀な例に当てはまってしまったときのことなのだ。
誰からもアドバイスをもらえないということは、誰の言葉をも当てにできないことを意味している。たとえ閾値を超えた個別性を持った者同士であっても、互いが個別的であるゆえに、やはり互いにアドバイスを与えることはできない。「個別性」そのものの共有は単純に共有とは言えない。ただそれぞれに独特なだけである。
誰の言葉も当てにできない。たとえ強く信じたいと思っている人のアドバイスすらも、そのまま信用することはできないのだ。それをそのまま自分に適用できる可能性はほとんどないのだから。あまりにも文脈が違いすぎるために、その言葉はアドバイスとしての機能を果たさず、ひたすら例外を生み出してゆくばかりである。これはあまりにも悲しいことだ。
僕は人のアドバイスを信用できません。しないわけではなく、できない部分が大きいのです。ある程度の歳になれば全体に個別化が進むので楽になるかと思っていましたが、そうでもないようなので、この先も一生つきまとうことかもしれないと思いはじめています。でも、それは残念だし、悲しいと思っているということだけは書いておきたいと思います。
それでも「生きろ」というプレッシャーは押し寄せてくる。純粋な生命維持の意味ではなく、社会的な意味を帯びた「生きろ」である。しかしその「生きる」の中に、そもそも自分が組み込まれていたという実感がない。今、組込まれているのかどうかもとても曖昧である。記憶もないし、実感もない。この悩みは、よく語られる「居場所探し」のようだが、果たして同じ意味を持っているのかどうかも、さらに曖昧である。
しかしこう考えてみても、気がつけば僕はすでに社会の中に存在してしまっている。組み込まれずに存在する——とは、一体どういうことか。単なるホコリやノイズなのか、消費のためだけの乾電池なのか、そういうものですらないのか。
……とりあえずリクナビを見ろってことだな。
リリースされてたんですね。更新。
Referer を表示しないと TrackBackURL も表示できない仕様になったのか。 Referer を表示しないなら TrackBack を表示しなくてもいいだろうというのもまぁわかるけど、検索結果の多い Referer 表示の負荷率を削りながら明確な参照の意志である TrackBack だけ表示してもいいんじゃないかなーという気も少しだけしつつ明確な意思表示はしないのであった。負荷率怖い病。
_ 突発的に負荷率が高まるときがあるのは、たぶんロボットさんが来襲したとき。台湾系が激しいです。
_ 「やりたいことが何なのかって、考えたことある?」
「うん」
「やりたいことが『何もしたくない』だと思ったことは?」
「ある」
「じゃあ、それを実行しようと思ったことは?」
「ある……かな」
「で、実行した?」
「ちょっとならね」
「おお、いいね。どうなった?」
「すぐやめた。つまんなかったし」
「だよね」
「つまんなくても、何かしてたほうがマシだし」
「それを貫くために、死ぬことを覚悟したりしなかった?」
「なんでそうなるの? あるわけないでしょ、そんなの」
「僕も、ないね」
「ないよ」
「…………」
「…………」
「っつか、アラブ圏の映画ってさー……」
483871422XNo.001 の整理券と『六月の蛇』単行本を忘れず確認し、いそいそと有楽町へ向かう。開始の17:00ちょうどくらいに現地に到着し、三省堂の前に行ってみると、心配をよそにしっかりと行列ができていて、テレビか配給者かわからないけど取材のカメラも入っている。さすが邦画の雄である。
しばらく列に並んでいると、5人ずつ通されはじめた。ちょうど50人くらい終わったところで順番がきた。二人前のひとが、携帯のカメラで記念撮影をお願いしていて、監督もこころよく応じていた。ギャラリーにも笑顔が浮かび、なごやかなムード。で、すぐに僕の番がきた。
やはり整理券の通し番号が001なのに開催側のひとが気づき、それとなく振ってくれたので、監督から質問が。
などと、緊張していたためにバカ正直に答えてしまい、見事に裏目るといういつものパターンに。「何時ごろ買えば一番だったんですか?」
「そんなに早くなかったんですよ、数日たって買ったのに一番だったんで、ちょっと心配してたくらいで……」
もう一つ、
「すごく面白かったんですけど、もう書かないんですか?」
と尋ねてみたら、
とおっしゃっていた。あとがきでも「大変だった」とこぼしていたので聞いてみたんだけど、そう言わずにぜひまた小説も書いてもらいたいところである。ここまで正直に変態性を露出できる作家って、あまりいないような気がするし。「いやー、すんげぇ大変だったんでねー」
笑顔で話す頬は少し紅潮していて、慣れない「サイン会」に戸惑いながらも、はにかむ様子がとてもよかった。会場を去りながら、「100人限定ってことは、もうちょっと喋っても許してもらえたのかもなぁ」と思いつつ、心地よい余韻を持って帰路に。
一昨日、友人から教えてもらったFLASHゲーム。固定画面で弾をよけながら敵を斬りまくるんだけど、すんげぇおもしれー。短時間でキリキリした緊張が味わえるゲームはツボなので、思いっきりハマった。
というわけで、ランク1位とってみました。582,425,270点(×18181)。右手がやばいです(キャプ1、キャプ2)。
って喜んでたら、アーケード@2chでは公開から1月たたずにカンスト報告が……処理落ちまくりのヘボマシンでこの程度では、まったく自慢にならないのだった。「エスプレイドの4面くらい」だって。カンストできる気はするけど、たぶんやらない。
『地球維新 PIECES OF PIECE』みのがした〜〜〜!!!! 風呂入ってた……泣きそう。今日ネット中で語られるであろうレポートに期待するか……とりあえずこれを読みながらやり場のない怒りをほぐしつつおやすみなさい。
某サイト用に、とりあえずメモ。つか、フランス語読むのに時間かかりすぎ。
さて、今さらながら『メンタツ』を買ってきた。すべての基本、バイブル版。おもいっきり偏見があって中谷彰宏の本をまったく読んだことがなかったわけだが、なかなか面白いのはさすがである。特に、冒頭の数ページでこちらの状況を言い当てる的確な「つかみ」はまさに「面接の達人」の面目躍如といったところで、信頼感を多いに高めている。たとえばこうだ。
迷信1
みんなが『メンタツ』を読むと同じ答えになるのでは?真実1
みんなと同じことを言わないために『メンタツ』はある。
さらに畳みかける。
『メンタツ』を読まない人(4)
→[ただ屁理屈をつけて行動を起こさない面倒臭がり屋]
鋭い。ごめんなさい。これに加えて、「自己紹介は難しいものだ」とはっきり認識している点も、読んでみようかという気にさせられてしまった*1。
ただし、ここでもまた個別性の問題(20030511参照)は残っている。まずこの本では、確実に僕の状況に対応しない点が多々ある。まず僕は年齢も経歴も普通の「男子学生」ではないし、より状況は厳しいと言われる「女子学生」でもない。中谷のことだから需要の増えつつある「第二新卒」版も出しているかと思いきや、まだ出していないらしい*2。市場規模がまだ小さいと見ているのだろうか?
さらに、ダメ押しの表現をみつけてしまった。
(2)なんですけど。就職試験の志望者には3つのタイプがある。
(1)公務員上級職もソニーも全日空も三井物産もフジテレビも電通も、どこを受けてもことごとく内定をとってしまうタイプ。(……)
(2)ミーハーな会社は全部記念受験したが、全て1回戦で敗退。自分はサラリーマンには向いてないと悟ってしまう潔い人。
(3)当落線上にひしめき合っていて、誰が通って誰が落ちてもおかしくない人たち。
君はまさに、(3)のグループにいるのだ。
とはいえ、役に立つことは書かれているし、就職面接だけにしか役に立たないことでもないので、疎外感その他すべてをカッコに入れて読んでみるのである。
_ 伊藤整『近代日本人の発想の諸形式 他4篇』(岩波文庫)がよかった。僕はどうもマスターピースより小作やエッセイを選んでしまう傾向がある。
佐藤智佳『壊れるほど近くにある心臓』(河出書房新社)が読みたい。タイトルから推して、今回もまた身体への執着・違和感みたいなものが関係するんだろうか。『肉触』では部分的にそういう箇所があったわけだが、他人にさらして恥ずかしいものをきちんと出しているのがえらい。インタビューで「本屋で自分の本を見ると倒れそうなほど恥ずかしい」と言っていたのが思い出される。
_ 「私のセールスポイント」を1つ書くために2時間考え続けているというのは、どう考えてもおかしい。その大半は「おかしいなぁ」と思っている時間なのだが……やはり通常の就活学生がこういう苦しさを味わうことはないのでは、と思う。
『メンタツ』を読まない人(2)
→[自分の話すことはユニークだと勝手に思い込んでいる人]
ということなのか、そうではないのか……どちらの結論を導くこともできそうなのが、この議論のポイントである気もする。人との違いに注目すると同じところが浮かび上がり、同じところに注目すると違うところが見えてくる。そうして見えてきた違うところは、およそセールスポイントではない。
「やめる」と思ってしまうとそちらへ流れていってしまいそうで怖くなる。少なくともこの点は、すごくありがちだと思う。
B00006AGIKタイミングが悪すぎる。3回きた*1。
And all the strange rock and rollers
You know you're doing all right
So hold on to each other
You gotta hold on tonightAnd you're shining
Like the brightest stars
A transmission
On the midnight radioAnd you're spinning
Your new 45's
All the misfits and the losers
Yeah, you know you're rock and rollers
Spinning to your rock and rollLift up your hands
Lift up your hands
Lift up your hands
Lift up your hands...
ううううう。
*1 1度目の "Origin of Love" と "Wicked Little Town" (Tommy Gnosis version) と "Midnight Radio" で。引用は "Midnight Radio" より。
_ ああー、負荷率が 126pt で1位だった……どうすれば……同じようなPV数で 0pt の日もあるというのに。検索されるページの違いか?
そういえば今朝、namazuインデックス再構築したんだけど、それか?
テレビ朝日の深夜枠で流れている通販番組『セレクションX』(だと思う)*1で、いま司会を務めているのは、マッハ文朱と吉村明宏。しかもマッハがメインで、吉村がサブ。番組を見たことがない人も想像してみてほしい、マッハ文朱の横にいる吉村明宏を。
これ、どう見ても『アッコにおまかせ!』の廉価版なのだ。しかも、吉村明宏が和田アキ子のものまねでブレイクしていた96年頃の。深夜の通販番組に移っても、でかくて男勝りな女性のサブキャラになってしまう男、吉村明宏。
一度きりの「黄金時代」を持ってしまった者には、いつまでもその影がつきまとう。おそらく吉村明宏はマッハよりも先にキャスティングされ、後から吉村を活かすキャラとしてマッハが浮かんできたのではないかと思う(僕は、この番組の前にテレビでマッハ文朱を見たのがいつだったのか思い出せないけれど、吉村明宏なら思い出せる)。先にキャスティングされていても、やはりサブになってしまう男、吉村明宏。
でもやっぱり、はまっているのだ。こうなるともう、吉村明宏は「でかい女の横にいる才能」を持っているとしか思えない。
*1 この番組で紹介されているスチームクリーナー「スーパージェットα100」は本気で欲しい。
らしいです。高校の制服かコスプレで、ということらしい。〆切は5/23正午。現役高校生か、まだまだ高校生でも通るという人はいかがでしょう。
76年生まれの兄をもつ友人からのタレコミ。これまで、自分も含めて74〜77年くらいの世代の嗜好や行動には注目していたが、三浦さんの説にはうなずかされるところが多かった。彼は、従来の「団塊Jr.」が71〜74年生まれの子を指していたのに対して、「団塊世代の男女いずれかが親である子の数が、全出生数の半数以上となるのは73〜80年」という調査結果をもとに、その世代をひとつの区切りとしている。で、最後に来るのがこれ。
この間中国から来た留学生に、印象深い感想を聞きました。「日本の若者は素晴らしい。金のために生きていないし、勉強しようとも思っていない。みんな自分が一体何者か、自分は何になりたいか、何をしたいかだけを考えている。これはまるで荘子のようだ」と。
荘子っぽいらしいです。
今日、「うたばん」を見ていたら森山直太朗が「さくら」を唱っていて、プロフィールを見たら76年生まれだった。75年には本上まなみ、77年だと香取慎吾がいたりする。タレントだけを見ても、どことなく大人しくて地味めのキャラが多い。しみじみ系のことをすると特に似合ってしまう世代。香取慎吾も、実は細かいところでマニアックな笑いをとっていくキャラだと思うし*1。
やっぱり「荘子っぽい」のか?
*1 三浦さんの説をすべて信用すると、79年の窪塚洋介が入ってくるので納得できない。
いつカウンタを設置したのかよく覚えてないけど、思ったより早かった。でも検索から飛んでくるひとがほとんどで、リピーターはかなり少ない模様。トピックを絞り込めば増えるのかもしれないけど。
検索キーワードだと「きみはペット」が特に多くて、カウンタのペースもそのおかげが大きい。でも一時期に比べると、今は少し落ち着いている。ただ、一日のユニークビジター数を見てみると今もそれほど変わらない。「きみはペット」が減ると、なぜかそのぶんだけ他のキーワードからの参照が増えて、バランスが保たれる。理由はよくわからない……これがGoogleマジック?
僕らの世代の多くが「荘子のよう」であったとする。ここでは二日前に紹介した「真性団塊ジュニア世代」に関する三浦展さんの記事に従って、「お金などの目的のための手段を重視するのではなく、それ自体面白いことを求める価値観」(=コンサマトリー)を持っているとしよう。一方で「目的のための手段を重視する」(=インスツルメンタル)タイプも、当然残っているはずである。とすると、この両者が競争したときにはどうなるか。それが「面白いこと」であるならば競争に勝ち残るモチベーションも生まれてくるはずだが、前者の人々が「面白い」と思うことに共通性は見出せない=バラバラなのだから、金や地位向上を面白いと思う人はマジョリティを作らない。ほとんどの人は、それに対する競争力が高まらないわけだ。しかも、そういう人々のことを指す「コンサマトリー」(consummatory*1)は「即時的な」という意味を持たせるために使われていて、長期的なスパンでものごとを見ようとしない特徴を表している。仮に、コンサマトリーな人が金や地位に興味を持ったとしても、長続きはしない。結果、やはり少数のインスツルメンタルな人々が競争に勝ってゆくことになる*2。
さて、いま僕らの世代に「荘子のよう」な傾向があるならば、僕らの世代が社会のメインを担うことになる時代にはどんな社会になってるの? と考えてみると、そこでは色濃く階層が分化していることだろう*3。相変わらずみんながみんな自分のやりたいことを勝手にやっていて、社会全体に有益な施策を考える人が少ないまま突き進んだとすれば、そうなっていいだろう。一度は総中流階級化した(ことになっている?)日本でこれから階層化が進むであろうという指摘はすでに数多くあるし、今さらかもしれないけど、ここでも同じ予想ができたということだ。
前述の記事で、「教養の崩壊」という事態が話題になっている。
大学を出たなら、ドストエフスキーぐらいは知っていて、1冊ぐらいは読んでおくのが当然だという意識はない。「好きなんだ」になってしまう。いわば教養の崩壊です。これまでは物質的に豊かになることと、西洋の文物、教養を身に付けることは一致していた。テーブルマナーを知ること、カラーテレビを買うこと、出世をすること、中流化とはそれらを身に付けることを意味していた。
ところが今の若者は最初から中流だった。少なくとも物質的にはそうだった。その状態で10年、20年生きてきたから、目指すものが何もない。ある人はドストエフスキーを読んでいる。それは好きだからだ。ある人はマンガを読む。それも好きだからだ。同じ価値だということです。ドストエフスキーが教養で、漫画は違うとは思わない。
そのようにあらゆるものが非常に平面的に、強弱なく、等価値で置かれている。
あらゆるものが等価値で置かれており、あるものを選択する理由は「好きだから」しかない。こうした事態もまた、社会科学の分野では数多くの指摘があり、「タコ壷化」*4、「島宇宙化」*5といった言葉も提案されている。まったくの均質な状態ではなく、ある種の偏りを持った集団が偏在しているイメージで、妥当な比喩だと思う。
僕自身は今まで、一般的に共有される事項があったほうがよいのではないかと思っていた*6。そうした社会では孤独感や疎外感を感じる確立が高まる。それがどうしても良いとは思えなかったからだ。
だが今回の記事を読んで考えた結果、そうした「共有事項」があるのは階層分化があるからであり、階層分化がない限り「共有事項」も生まれないのではないかと思った。つまり、僕が考えていたのは、あくまで平板な社会を保ったまま共有事項を作り出すことで、コミュニケーションが促されるというモデルであった。階層分化のない状態で共有事項を持っているということである。だが、「教養」という言葉が「共有事項」の意味を持つとき、そこには権力関係が生まれざるを得ない*7。教養を持っていることが「理想」とされれば、それをすでに持っている人が「上」だという価値が、どうしても生まれる。その瞬間から階層分化ははじまってしまうのだ。そして、「共有事項」というのはいつでもそうした性格を持ってしまうものなのではないかと思う。三浦さんが今の社会を「理想社会」だと言い、悪いものだとしていないのは、そういう気づきがある上でのことなのかもしれないとも思う。そこに「教養」を持ち込んだ瞬間、平板な社会も消えてしまう可能性が高いからだ。
だが、手をこまねいていてもいずれ階層分化はやってきそうな勢いだ。かといって、競争する気は起こらない。「荘子のよう」だという僕らは*8どうすればいいのか? 「競争か敗北か」以外の選択肢を示すことは本当にできないんだろうか。「教養」ではない「共通事項」はありえないんだろうか。たとえば、皆で「価値が平板だ」とか「共有事項がない」という意識を持つだけでもいい。そこから始めてもいいんだと思う*9。
試験対策で読んだ、日本国憲法前文より。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう と努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
この部分は、あくまで「最低限」の保証をする理念とされることが多く、自由競争による経済格差がこの部分と相反するものだと解釈されることは、いまのところない。
旧ソ連でもいいし、高度経済成長下の日本でもいいのだが、社会/共産主義的なシステムが機能することで「優秀になっても得をしない」という意識が生まれ、総合的な能力低下を招いてしまうのは、やはり否めない事実だ。でも、階層分化だって良いことではないはずだ。喜んで「セレブ」を持ち上げている場合じゃないと思うのだ。「荘子」ばかりの社会で競争したって、旧ソ連のように、ごく少数の超特権階級ができるだけじゃないのか。
*1 動物行動学に、刺激に反応して行動するだけの consummatory behavior 「完了行動」という言葉がある。これに対して、文化人類学には appetitive behavior 「欲求行動」という言葉がある。
*2 しかし長期的な予想が当てにならなくなっているからこそコンサマトリーという適応形態が生まれたとも考えられ、むしろリスクを減少させているからインスツルメンタルよりも強い、のかもしれない。
*3 ただし、コンサマトリーが多数派を形成していることによって、インスツルメンタルへの違和感が共有事項となったりすれば、それほどきつい階層分化は起こらず、むしろ平板な社会が実現されるというのもありえない話ではないと思う。そこに一片の希望を見出せるのかどうかは、まだよくわからない。
*6 前述の記事の三浦さんは、そうした教養の崩壊を指摘しつつも、悪いことだとは言っていない。むしろ「理想社会」(カッコつき)と述べている。
*7 「そんなもん、ずっとあるじゃねえか」と思うかもしれませんが、程度とか傾向の話をしています、念のため。
*8 「僕は」でもかまわない。
*9 こう主張した時点で、主張した僕を上位に置く階層が生まれつつあるという指摘は、おそらく正しい。それは、どうしても問題として残ってしまう。いち早くこの点に悩んだ偉大な学者は、悩んだまますでに死んだ。
_ 相変わらず『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』と、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。
この二つが共にヒットしているなら、平板な社会を保ったままの共通事項にも希望は持てると思う。1インチ残ってしまった男女と、わがままで孤独なお坊ちゃん。
_ あきらめを極限まで純化して純化して純化して純化して純化すると、そのうち体は慣れる。なつかしい作業。なんたってノウハウがある。若いうちの苦労は買ってでもしなさいというが、こういうことだったのね。
……なんか大成功した映画監督が年取ってから惰性で作った映画みたいなもの言いだな。
「暑い……」
そう言って、彼女は無邪気にカーディガンを脱ぎはじめた。僕は、心にさざ波が立ちはじめるのを感じながら、それが彼女に伝わらないよう表情を作ることに気を配り、次の話題を考えようとした。だが抑え込もうとしても、その衝動は止まろうとしなかった。僕はたしかに、彼女のもう一つの人格を引き出したくなっている。グラスの氷を回す手が止まってしまう。
彼女がいつも身につけている清潔さは彼女にふさわしいものだったが、それで全てというわけではない。彼女は自分が人に与える印象をよく心得え、気に入ってもいたが、いつもその裏では、与えられたイメージに息苦しさを感じている。
もう一人の彼女が姿を見せるとき、清潔な彼女はどこにいってしまうのだろう。彼女のすぐそばにいて、僕たちを見ているのだろうか? 一度彼女は、まさにもう一人の彼女であるとき、「誰かに部屋を覗かれてるみたい」と口にしたことがあった。その日の彼女は、いつにも増して満足したようだった。彼女はもう一人の彼女になる間、もう一人の彼女を見つめてもいる。悦びを二重に味わった彼女は、再び清潔な姿を身にまとい、日常へ帰ってゆくのだ。僕はその助けをすることに、無上の喜びを感じる。
おそらく数十分後の僕は、もう一人の彼女の前にいるだろうし、彼女もそれを望んでいる。だから僕たちはここにこうしているのだ。
「真っ赤なリップがほしいな、本当に真っ赤なの、血の色みたいな。こんど買い物にいったら買ってくれる?」
彼女の若さゆえの好奇心と嫉妬深さは、僕の悩みの種であるとともに、喜びでもある。別れ際、いつも僕のYシャツに口紅の跡をつけようとするのだが、彼女に似合う薄い色は、「カラーにつけてもインパクトがない」といつも文句を言う。
「いやだ」
「どうして?」
少し表情が曇る。
「薄い色をつけてるほうがかわいいから」
「本当?」
曇りのち晴れ。
「キスしても不細工にならないしね」
彼女は少しすねてみせた。彼女は自分のその仕草をかわいいと思っているし、僕もその点にはうなずくしかなかった。僕はまた、グラスの氷を回しはじめた。氷は少し小さくなっていて、さっきよりも半音高い音をたてた。
やってみました。
cu39 さんは 妄想日記 を書くと多くの人を魅了します。
あなたは想像力により普通の人が忘れてしまったり,考えもしない事について,おもしろおかしく効果的に表現した日記を書くと成功するかも知れません。
cu39 さんが書く日記の性質
人間度 37 精神度 83 思考度 60 変態っぽさ 25 やましさ 83cu39 さんの日記のオススメの題名
いとまごい日記今日書く日記のネタが無いあなたへ
cu39 さんが今日書くと良い話「もう一つの人格」
「口紅の跡」
「誰かに部屋を」
「暑いからと言って無邪気に」上の言葉をすべて使って 恋愛小説 風にまとめると良いかも。
というわけでした。どこが「いとまごい日記」なのかわかりませんが、いかがでしょう。
ココリコの田中直樹が結婚するらしいというのはネットだか新聞だかの見出しをチラ見して知っていて、「へぇ〜結婚ねぇ〜」なんて思ってたのだが、相手が小日向しえだということはついさっき『ブロードキャスター』を見ていてはじめて知った。リアクションは「えええええ〜まじすか〜」で。『ミラクルタイム』で共演してたのは知ってたけど、32歳と23歳だったりするし、びっくり。お幸せに(ZAKZAK、日刊スポーツ)。
小日向の公式サイト名は「M.M.M. 〜もてまくりマジック〜」だそうです。マジック。
このところblog的な意味でのニュースサイトに頼りっきりで、特にスポーツ新聞のWebで芸能系情報を見るということはまったくなかったんだけど、久々に自分で情報を探したら、なかなか面白かった。
ZAKZAKのランキングで1位になってた「ベッカム新ヘアスタイル、爆笑される…」(ZAKZAK、5月19日)で、遅ればせながら笑う。ベッカムもネタ切れ傾向にあるんでしょうね、目新しさに走って失敗するという好例です。モテキャラはモテキャラなりに苦労がつきないのですね。奥さんのセンスもアレなのでしょうが。
日本の芸能界だったら、これをきっかけにイロモノ転向してもいいかもしれませんが、なにせ階級意識が強固な王国のことですから難しいのかもしれません。
ビクトリア夫人、長男ブルックリン君を伴って高級レストランを訪れたが、「居合わせた友人のエルトン・ジョンはじめ、店内の客は笑いをこらえるのに必死だった」(地元紙)。
また別の目撃者によれば、「誰もがデビッドを見てショックを受け、その後、クスクス笑いが続いた」と散々だった。
このレストランにはかなり同席したかった。笑いたいのに笑いをこらえなきゃいけない状況、かなり好きです。隣のひとに「あれ? 頭、ひっかかれたの?」とかささやきたい。