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2003-05-24

_ おかげさまで5000アクセス

いつカウンタを設置したのかよく覚えてないけど、思ったより早かった。でも検索から飛んでくるひとがほとんどで、リピーターはかなり少ない模様。トピックを絞り込めば増えるのかもしれないけど。

検索キーワードだと「きみはペット」が特に多くて、カウンタのペースもそのおかげが大きい。でも一時期に比べると、今は少し落ち着いている。ただ、一日のユニークビジター数を見てみると今もそれほど変わらない。「きみはペット」が減ると、なぜかそのぶんだけ他のキーワードからの参照が増えて、バランスが保たれる。理由はよくわからない……これがGoogleマジック?

_ 走らずに負けるのはいやだからって、競争する気にもならなくて。

僕らの世代の多くが「荘子のよう」であったとする。ここでは二日前に紹介した「真性団塊ジュニア世代」に関する三浦展さんの記事に従って、「お金などの目的のための手段を重視するのではなく、それ自体面白いことを求める価値観」(=コンサマトリー)を持っているとしよう。一方で「目的のための手段を重視する」(=インスツルメンタル)タイプも、当然残っているはずである。とすると、この両者が競争したときにはどうなるか。それが「面白いこと」であるならば競争に勝ち残るモチベーションも生まれてくるはずだが、前者の人々が「面白い」と思うことに共通性は見出せない=バラバラなのだから、金や地位向上を面白いと思う人はマジョリティを作らない。ほとんどの人は、それに対する競争力が高まらないわけだ。しかも、そういう人々のことを指す「コンサマトリー」(consummatory*1)は「即時的な」という意味を持たせるために使われていて、長期的なスパンでものごとを見ようとしない特徴を表している。仮に、コンサマトリーな人が金や地位に興味を持ったとしても、長続きはしない。結果、やはり少数のインスツルメンタルな人々が競争に勝ってゆくことになる*2

さて、いま僕らの世代に「荘子のよう」な傾向があるならば、僕らの世代が社会のメインを担うことになる時代にはどんな社会になってるの? と考えてみると、そこでは色濃く階層が分化していることだろう*3。相変わらずみんながみんな自分のやりたいことを勝手にやっていて、社会全体に有益な施策を考える人が少ないまま突き進んだとすれば、そうなっていいだろう。一度は総中流階級化した(ことになっている?)日本でこれから階層化が進むであろうという指摘はすでに数多くあるし、今さらかもしれないけど、ここでも同じ予想ができたということだ。

前述の記事で、「教養の崩壊」という事態が話題になっている。

 大学を出たなら、ドストエフスキーぐらいは知っていて、1冊ぐらいは読んでおくのが当然だという意識はない。「好きなんだ」になってしまう。いわば教養の崩壊です。これまでは物質的に豊かになることと、西洋の文物、教養を身に付けることは一致していた。テーブルマナーを知ること、カラーテレビを買うこと、出世をすること、中流化とはそれらを身に付けることを意味していた。

 ところが今の若者は最初から中流だった。少なくとも物質的にはそうだった。その状態で10年、20年生きてきたから、目指すものが何もない。ある人はドストエフスキーを読んでいる。それは好きだからだ。ある人はマンガを読む。それも好きだからだ。同じ価値だということです。ドストエフスキーが教養で、漫画は違うとは思わない。

 そのようにあらゆるものが非常に平面的に、強弱なく、等価値で置かれている。

あらゆるものが等価値で置かれており、あるものを選択する理由は「好きだから」しかない。こうした事態もまた、社会科学の分野では数多くの指摘があり、「タコ壷化」*4、「島宇宙化」*5といった言葉も提案されている。まったくの均質な状態ではなく、ある種の偏りを持った集団が偏在しているイメージで、妥当な比喩だと思う。

僕自身は今まで、一般的に共有される事項があったほうがよいのではないかと思っていた*6。そうした社会では孤独感や疎外感を感じる確立が高まる。それがどうしても良いとは思えなかったからだ。

だが今回の記事を読んで考えた結果、そうした「共有事項」があるのは階層分化があるからであり、階層分化がない限り「共有事項」も生まれないのではないかと思った。つまり、僕が考えていたのは、あくまで平板な社会を保ったまま共有事項を作り出すことで、コミュニケーションが促されるというモデルであった。階層分化のない状態で共有事項を持っているということである。だが、「教養」という言葉が「共有事項」の意味を持つとき、そこには権力関係が生まれざるを得ない*7。教養を持っていることが「理想」とされれば、それをすでに持っている人が「上」だという価値が、どうしても生まれる。その瞬間から階層分化ははじまってしまうのだ。そして、「共有事項」というのはいつでもそうした性格を持ってしまうものなのではないかと思う。三浦さんが今の社会を「理想社会」だと言い、悪いものだとしていないのは、そういう気づきがある上でのことなのかもしれないとも思う。そこに「教養」を持ち込んだ瞬間、平板な社会も消えてしまう可能性が高いからだ。

だが、手をこまねいていてもいずれ階層分化はやってきそうな勢いだ。かといって、競争する気は起こらない。「荘子のよう」だという僕らは*8どうすればいいのか? 「競争か敗北か」以外の選択肢を示すことは本当にできないんだろうか。「教養」ではない「共通事項」はありえないんだろうか。たとえば、皆で「価値が平板だ」とか「共有事項がない」という意識を持つだけでもいい。そこから始めてもいいんだと思う*9

試験対策で読んだ、日本国憲法前文より。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう と努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

この部分は、あくまで「最低限」の保証をする理念とされることが多く、自由競争による経済格差がこの部分と相反するものだと解釈されることは、いまのところない。

旧ソ連でもいいし、高度経済成長下の日本でもいいのだが、社会/共産主義的なシステムが機能することで「優秀になっても得をしない」という意識が生まれ、総合的な能力低下を招いてしまうのは、やはり否めない事実だ。でも、階層分化だって良いことではないはずだ。喜んで「セレブ」を持ち上げている場合じゃないと思うのだ。「荘子」ばかりの社会で競争したって、旧ソ連のように、ごく少数の超特権階級ができるだけじゃないのか。

*1 動物行動学に、刺激に反応して行動するだけの consummatory behavior 「完了行動」という言葉がある。これに対して、文化人類学には appetitive behavior 「欲求行動」という言葉がある。

*2 しかし長期的な予想が当てにならなくなっているからこそコンサマトリーという適応形態が生まれたとも考えられ、むしろリスクを減少させているからインスツルメンタルよりも強い、のかもしれない。

*3 ただし、コンサマトリーが多数派を形成していることによって、インスツルメンタルへの違和感が共有事項となったりすれば、それほどきつい階層分化は起こらず、むしろ平板な社会が実現されるというのもありえない話ではないと思う。そこに一片の希望を見出せるのかどうかは、まだよくわからない。

*4 東浩樹

*5 宮台真司

*6 前述の記事の三浦さんは、そうした教養の崩壊を指摘しつつも、悪いことだとは言っていない。むしろ「理想社会」(カッコつき)と述べている。

*7 「そんなもん、ずっとあるじゃねえか」と思うかもしれませんが、程度とか傾向の話をしています、念のため。

*8 「僕は」でもかまわない。

*9 こう主張した時点で、主張した僕を上位に置く階層が生まれつつあるという指摘は、おそらく正しい。それは、どうしても問題として残ってしまう。いち早くこの点に悩んだ偉大な学者は、悩んだまますでに死んだ。

_ 相変わらず『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』と、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。

この二つが共にヒットしているなら、平板な社会を保ったままの共通事項にも希望は持てると思う。1インチ残ってしまった男女と、わがままで孤独なお坊ちゃん。