まったく動きがなかった GFM グループですが、ひとまず開催日の発表がありました。それをきっかけに参加者のポストも出はじめてます。
というわけで、ステイシーからのメールを紹介。
Depending on the time, I will be in Disney World that day until 5pm Easter time, then I will be at the airport or on a plane headed back to Connecticut...I hope the time is right so that I can do it too!
Stacey時間によるんだけど、その日は東部時間で午後5時までディズニー・ワールドにいるんだよね。そのあと空港に行って飛行機でコネチカットに帰る……時間が丁度よくて、参加できるといいなぁ!
お約束すぎる。
わりと信頼している人が「品のいい田嶋陽子だ」と評していたせいもあって、今まで上野千鶴子とはなんとなく疎遠だったんだけど、一気に惚れてしまった。
おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、私はおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕を高々とあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない。そしてたくさんのおまんこをとおして“女性自身(私自身)”が見えてくることだろう。(上野千鶴子「おまんこがいっぱい」/『女遊び』一九八八年)
(斎藤美奈子『文壇アイドル論』)
これはもう、上野が「品のいい田嶋陽子」なんじゃない。少なくともテレビ上の田嶋を考える限り、それは「気の抜けた上野千鶴子」でしかない。どっちも浅薄な表現だけど。
この惚れ方は、極道が親分・兄貴分の侠気に惚れているような、あるいは千人切りを夢みる男が加藤鷹を神格化しているような、そんな感覚*1。誤解を恐れずあえて言おう、上野千鶴子は「漢」であると! ジーク・おまんこ!(最低)
ちなみに斎藤美奈子のコメントは
これを「ダサい」と言わずして……。一〇年前ならいざ知らず、いまごろ「おまんこ」もねえだろおよ。リアルタイムで読んだときの、それが私の率直な感想です。
ダサくてすいません。しかもガンダムで反応してるし。
*1 こういうのがフェミニズムへの誤解なのだと思います。
ええと、最近なにかと気忙しくなっててWebの巡回もきちんとできてなかったり、『プラネテス』第1話を思い切り見逃したり、『花とアリス』最終章が公開されてたこともテレビCMで気づくという有様です。今月はこんな調子の予感。
ともあれ、ひとまず『花とアリス』だけはやっと観てみましたが、ちゃんとオチてるの、これ? まぁオチてなくても別にかまわないわけではありますが、第二章のIIの最後で踊ってた人を第三章で登場する「謎キャラ」だと決めてかかっていたのにさっぱり話に絡んでこないし、どーいうことなのソレという肩すかし感が拭えないままスタッフロールは流れゆくのでありました。
なんつーか、月刊連載で読んでたら話がわからなくなって単行本が読みたくなってしまう罠的な作品だった、と今のところは言っておくことにします。ラストはちょっといいですけどね、普通に。
直接に言ってしまえば一文で済んでしまうような何がしかの事実や考え、あるいは経験、あるいは感情とか想いとかそういうものを、わざと遠巻きに、じらすように隠し続けながら進んでしまうのはなぜかといえば、その一文には宿らないと思えるような何かがそこにあると、少なくとも言葉には乗りきらない何かがあるだろうと思ってしまうからだ。あるいは少なくとも、自分にとってのそれが、別のもの、言葉やそういったものへと容易には置き換わらないものだとその時は思うし、できることなら他の人へ提示されるときにもそうであってほしいと願ってしまうからだ。
「それは名指しすることができるけれども、その瞬間、常にそれから逃れてしまう」なんて言うと途端にペダンチックになってしまうけど、それをすくい取ろうとした瞬間に容器からこぼれ落ちる何物かがあると思ってしまうからこそ、それに直接手を触れるか触れないかの微妙な位置を探そうとしてしまう。そういう過程から、そこには書かれていないけど書かれているはずの何かが、おぼろげにでも現れてはくれないものかと期待してしまう。
だから、僕は自分が言葉に期待しているのいないのか、よくわからない。あるいはそれでもなお頼るしかないという束縛もあるのかもしれなくて、でも中には恐ろしい熟考の末に沈黙するしかないという結論に達してしまった人もいたりして。とはいえ語りうることの臨界にあるかどうかもわかっていないことがらを抱えてしまえば、沈黙してよいのかどうかもわからない。
あるいは他人からの借り物で十分事足りてしまうものなのかもしれない。あるいは言ったって無駄なのかもしれない。だから沈黙と飽和との間でひたすらよろめいて、「これが新しいステップなんです」と言い訳をする。新しいステップなんです。
_ リクエストに応えてみようとしてみたんですが、思ったより難産でして、考えたことのほとんどはまとまりがつかなくなってしまいました。で、ひとまず上のようなところに着地してみたんですが、他にこまごまとした理由や事情があるとしても、最終的に行き着くところはそういうことなんじゃないかと思っています。
宿題としてかかえておいて、何か浮かんだときに戻ってきたいところではあります。
今日、幕張で行われた LAST HEAVEN TOUR 最終講演をもって、Thee Michelle Gun Elephant が活動終了。泣きながら帰ってきた友人によれば、今日はデビューの頃のアルバム収録曲を中心とした構成で、1回目のアンコールは「GT400」、「リボルバージャンキーズ」、「ジェニー」ときて、2度目のアンコールでは「世界の終わり」で、終了。ううー、聴きたい……。
友人的には、無口なアベフトシが最後の最後で「ありがと。」と言ったとき、「一番、きた」そうです。チバユウスケは笑顔が多かったとのこと。ひとまず、おつかれさまでした。
相変わらずヘタレ更新しかできない有様ですが、皆様いかがお過ごしですか。今日はフレンチ・ギャルのウェブカム画像で勘弁していただきたい。もはや懐かしい某○号機のシルエットに「ゲネツ」ロゴ……解熱?*1 もってたら着倒すのに(マジで)。
あとはCG屋さん方面で話題になっていたらしい、オランダ VANDENBRINK 社の Carver という三輪バイク(?)。素人が大胆にハング・オンしても倒れなさそうなところがいい。イギリスのディーラーでは £26,450 だそうで、500万円くらい金を余らせてる人は買えるみたいです。
『I'll』の浅田弘幸がまだ「あさだひろゆき」だった頃の作品『BADだねヨシオくん!』に登場したマシン「ランドストライダー」を思い出した……って、誰にも伝わらねェ。
*1 たぶん GAINAX のフランス語読み。
_ とりたててネタもないのに更新してよいものかどうかを考えた瞬間、自分がビジター数の増減に敏感になってることに気がついて、そんなことを気にできる身分なのかとツッコんだりする。
僕は常にパワフルにネタを探したり作ったりできるタイプではない。ネタもなく、探しに行く気力や時間も少ない状態のときは、書いても書かなくても読者が減ることに違いはない。だとすれば、それでも書いたほうがよいのかどうかという問題だけが残る。どっちでもよさそうではあるが、そこにある小さな違いが気になってしまう。
さて、ほぼカラ更新に近いことをしてしまうと、アンテナ登録してる人にとっては迷惑かもしれない。迷惑とまで思わせるほど大きなことではないとしても、読まないまますぐに他のページへ跳んでしまうだろう。一方、ブックマークに入っているとしたら、まったく更新がないよりも変化があるだけ少しはマシかもしれない。しかしこの場合でも、読んで大したことが書いてなければすぐに別のページに跳んでしまうだけだろう。だから結局のところ、閲覧者が読むに足りるかどうかを判断する最初の3秒間に耐えられないことになる。常にエサを置けば大丈夫らしいけど、ここでは文字の話をしてるわけだし。
しかし、早くも結論を先取りしてしまうけど、それほどビジター数を気にしないようにしようと思う。しばしば手前勝手な更新を繰り返すことでこのサイトは続いてきたわけだし、おかげでもうずいぶんな量のログがたまったりしてるわけだ。気にするおかげで更新が止まってしまうのは、何よりも僕の「健康」にとって良くない気がする。
テーマを絞らずにその時その場の思いつきをダラッと書くことがすでに生活の一部になっていて、やらないとなんとなく気持ち悪い。実は、このサイトのほとんどはそういう動機だけで作られていたはずで。惰性と見ればそう見えるし、依存と呼べばそう聞こえるけど、それはもう最初から惰性で依存だった、と思う。その依存から逃れるよりも、続けているほうがストレスも少ないような気がする。僕は、部外者の立場から、うまくいっている依存関係を引きはがせるほど強い倫理を持っているわけではない。それは最終的に当事者の問題だと思う。それをこの件にも適用し、当事者である僕は、この依存を「健康」と呼ぶことにする。
あー、ちょっとラクになった。
_ しかし改めて考えてみると、更新しづらくなってるのは、最近の生活の傾向が変化してるからだったりもする。このサイトでは採り上げるテーマをほとんど決めていないけど、書かないようにしてきたことはたくさんあって、最近の生活ではそのルールに抵触する部分の比重が時間的にも内容的にも大きくなっている。
ルールに抵触するおかげで書かれないものが、脳の隅っこに引っかかったままずんずん溜まって肥大してきて、書けるようなネタを探す気力その他の領域が奪われていって、どんどん悪循環に陥っていく。ルールを緩和するか、別の解消法を探すべきかってあたりで模索……してる間に、ルールの外にあるものからの圧迫が。困った。
木曜日に買った本のリスト。
うーん、「短歌ヴァーサス」2号がなかったのが大きいかんじ。アマゾンでいいか。
うーん、時代の変化を感じる。一ネタ終わるたびに拍手がくるのが「笑点」流で、リズムが変わってやりづらそうにしてるんだけど、どことなくうれしそうなのは直後のだいたひかるも同じだった。そのうち観客も空気を読んで、ただ笑うだけになっていったりしてた。
「笑点」は基本的に、全国放送で見られる地方営業の生中継なわけだけど、深夜番組でしか(関東では?)見られなかったような芸人が出ると少し新鮮ではある。でも、テレビで唯一、横山ホットブラザーズを見られる場所が占拠されてしまうのはちょっとさびしい気もする。
うーん、死にたいんなら警官になるほうが賢いと思うんだけどなぁ、まだ若かったんだし……面倒か。授業中に「悪魔が襲ってくる」とか言ってたそうですね。テレビによれば、供述が意味不明で取り調べが進まないとか。
追記:措置入院決まったみたいですね。
【参考】遅いか。
ダイアナの手紙?:英紙が公開「事故に見せかけ殺される」 (毎日)なんだかポストが錯綜してて把握しきれてないんですが、とりあえずシナリオらしきポストが流れてきました。
で、Greet The World と Jump For Joy という企画が用意されてます。自分たちよりも前のタイムゾーン、方角でいうと東にいる人たちにグリーティング・メールを送るというものと、とにかくシナリオにジャンプを入れるという2つのアイデアで、その他の部分はそれぞれのグループで作ってくれということみたいです。
その後の段落でプランAとかBとかCとか言ってますが、何のことかよくわからない……ていうか全体によくわからない……。
特集1「穂村弘〈短歌〉の劇場」が目玉で、もちろん表紙も穂村弘の『短歌ヴァーサス』第2号がアマゾンから届きました。黒田硫黄の穂村マンガ*1の直後にあった、長嶋有の穂村弘評「一人勝ちの予感——表現の砂漠で」がいかにもWeb日記で扱ってくださいというような内容だったので、釣られてみることにします。長嶋有は芥川賞を受賞する以前からブルボン小林というハンドルでネット上にコラムを書いていて、同時に俳人・長嶋肩甲としても活動していたりする……という説明を一応挟んで。
長嶋は、最近の短歌界が活況だと感じている。長嶋が参加した短歌会で出会った人たちは、センスが良くて、才気があって、みんな凛として前向きだったそうだ。で、そうなってるのはネットのおかげなんじゃないかと推測する。ネット上だけのコミュニケーションは現実の同人と比べれば馴れ合いになりづらく、激しい議論も現実まで引きずらなくていい。しかも反響を得ることは同人よりも簡単で、掲示板では相互批評も気軽にできる。さらに、歌会や朗読会の情報も手に入れやすいのでモチベーションも下がりにくい、と。
ネットの中では、反響を得て、なれ合いにならず、やる気が保てる、そうして全員が凛とした前向きなまなざしのまま、しかしその船は沈没船なんじゃないか。
そして長嶋は、そういう状況を選ばず独りで考え続けた穂村弘に「一人勝ちの予感」を感じる……と、簡単にはこういうことなのですが。長嶋有が語るとなかなか説得力があって、おもしろい評論でした。
僕は長嶋有や肩甲についても、ブルボン小林としての長嶋有についてもそれほど詳しく知っているわけではないんですが、とにかくその「ネット観」が表れているのを面白く読みました。僕にとってネットはまさに「反響なんてなくて当たり前、なれ合いになりがち、やる気が保てない」という、この評で言われてる「同人」そのものみたいな場所で、使い方によっては(あるいはそんな自由もなく強制的に)まったく地味な場所にいつづけられるものでもあると思います*2。
ただ、ネットが
なのかと考えると、そこまでではないのかもしれないと思ったりはしますが……まぁ仮に「地味な場所」でもありうるとすれば、ネットでも厳しさは変わらない。でもそれに耐えたってほとんどの人はその場に留まり続けるだけなんだし、それよりは……ってことで馴れ合ったり反響を得ようとする選択肢は常に用意されてしまうよなぁと思うわけですが、むしろ穂村弘はそういうものを得ようとしてみてもどこからか相反する力が働いてしまい、結局のところ半ば受動的に逆方向へ落ち込んでいく側面も大きいのではないかと思います。僕が穂村弘を好きなのは、たぶんそういうところです——というか、そうあってほしいという願望に(少なくとも作品では)応えているところが穂村弘なんじゃないかと。誰かがみてくれるかもしれない(ような甘い)場所ではなく、(比喩ではなく、本当に)誰にもみられないかもしれない地味な場所(……)
*1 『ラインマーカーズ』評で、「本の窓」2003年7月号からの再掲。
*2 このあたりを考えるにあたっては、滝本竜彦の例を見てみるのも面白いかもしれません。参考リンク「滝本竜彦氏はテキストサイト文化から生まれた作家」(ARTIFACT)。いつか読まねばならぬと思っていつつ未読です、滝本竜彦。
久しく会ってない人たちから呼ばれてなんとなく飲み会に出席してしまったが、やはりテンションを上げることは叶わず、ローでもなくハイにもなれず、胸苦しいままだった。やはり飲みの席は避け気味のほうがお互いのためになりそう。まぁそんなままでもOKになりそうな面子ではあったので安心もしてたんだけど。
会は微妙なタイミングでお開きになり、乗り換え駅まで着いたところでその先の電車がなくなってしまう。とはいえ2時間くらい歩けば帰れる場所まで来ていたので、ぽくぽくと歩いてみる。まばらな街灯、人はまったくおらず、左に工場、右には線路、前からは少し冷たい微風。いま置かれている状況が、ここのところずっと支配されている心象と一致していて妙に安心したりする。でもそのまま歩いてたら雨まで降りはじめたので「いや、雨までは頼んでないんだけどなぁ」と思っていたらすぐに止んでしまった。
あー、人に会いたくねぇー。
途中にまだ開いてる古本屋があったので寄ってみたら買っていた本のリスト。
今日はじめて見たんですけど、XIAOXIAO MOVIE のあいつが NIKE の CM で、頭部を外してボールにしながらバスケットしてませんか? だとしたらハイネケンにつづいてまたもメジャー企業に採用ですか。
NIKE FREESTYLE に行ってみたら、すでにメインキャラ「スティックマン」として展開してました。CM全バージョン、壁紙、FLASHゲームなども置いてあって、サッカー編はここではじめて見ました。CMの各シーンを組み合わせてオリジナルのスクリーンセーバーを作れる TRICKMIXER がおもしろそうなんですが、ことごとく重いのできびしいです。
ナイキスレ@2ch でもすでにツッコまれてました。エア・アップテンポ・マキシマムの CM も FLASH っぽいしねぇ。もしパクリだったとしても、線画キャラなので専売特許とも言いづらいし、単に同じネタを思いついた(言い訳っぽく)ってだけのことかもしれませんが。
開催された模様です。オフレポを見る限り、原宿の歩道橋から懐中電灯でどこかを照らすという内容だった模様……前回以上に……人がいないような……スレも閑散と……。
© Tove Jansson
えええええ、「スナフキン」は「タバコおじさん」の英訳だったなんて、ショッキングな出来事ですよ。個人的には「スナフキン」が「タバコおじさん」じゃなくて「スナフキン」でよかったと思う派ですが。
この話をもちろん知らない(であろう)友人から「スナフキンみたいだね」と評されたことはあって、僕自身もまったく知らないままなんとなく「あーそうねー、そうかもねー」なんて思ってたんですが、「タバコおじさん」だったらそのまんまじゃないですか。今度そう言われたらすかさずこのネタで決まりですよ。この日記はちょうど僕の誕生日に書かれたものなので、このネタをプレゼントとしていただいておきます>タバコおじさん さきちん。
「いつも焦らないよねー」「焦ることってあるの?」と、立て続けに冷めキャラっぷりを指摘される。自分としては、特にここしばらくずっと焦り通していたつもりなのに、僕の表象には正しく反映されていなかったようだ。
背が高くて骨太で、パッと見からすでに体格の良い友人は、引越し屋のバイトをしたときに重い荷物ばかり運ばされてしまい、割に合わなかったと言っていた。彼は、やせて見えるのに実は力があるというタイプが引越し屋で一番得をするということを学んだ。体格に見合う力持ちだった友人はまだよかったが、体格はいいのにそれほど力のない人には最悪のバイトだということだった。
「焦り」が主観である以上、それを誰かと比較することはできない。だから僕が他人と比べて焦りの少ない人間なのかどうかもわからないが、少なくとも他の主観からは焦りが少ないように見えるらしい。たしかに表に出さないように努めていることはあるかもしれないが、そういう裏で誰かからそっとさしのべられる手を期待することがあるのも事実で、しかしまったく表れていないのではそんな期待も無為に終わる。僕はかくれんぼをしていても、完璧に隠れようとしすぎるというタブーを犯して忘れ去られそうになったりするタイプではあった。そしてそのことに満足する一面も、たしかにあった。しかしそれで得をしたということはないし、それほど楽しかったわけでもない。
問題は、今さら焦りをアピールしようと努めてもすでに構築された「焦らないキャラ」観によってその伝達が阻害されてしまうことだ。「またまた、焦ってるフリなんかしちゃってー」と「おどけキャラ」として解釈されるならまだいいが、最悪の場合、狼少年のそしりを受けることにもなりかねない。
狼少年のリスクをヘッジしつつ、僕の焦りを外部に伝達する方法はないだろうか……僕は汗を空中に噴出しながら思考したりはできないし、足を輪のように回転させながら走ることもできない。ドジっ娘のノウハウを活かすことを考えても、さすがに何もないところで自然にコケたりはできないし、紅茶をたくさんのせたお盆をひっくり返したくても、まず複数の紅茶を運ぶ機会に恵まれていない。また仮にその幸運にあずかったとしても、それでは別なリスクに突進していくようなものだ。
ドジっ娘……ドジ……? いいヒントだ。ドジっ娘の基本構造を転用することはできるかもしれない。小さく、自然に、少しずつドジを繰り返す。これは積極的なアピールではなく、自然に発生してしまう「ドジ」感だ。この積み重ねによって、「あいつが焦るとドジを起こしかねない。その前にあいつの焦りを見抜いてやらないといけないぞ」という同情的危機感を喚起することが可能になる。
ただし、単なる迷惑者になることを避けるため、ドジによる実害は最小限に留めながら最大のインパクトを生んでいかなければならない。僕はロリでもメガネっ娘でもないし、メイドにもなれないのだ。しかも、そのドジを「焦り」と結びつけなくてはいけない。いつもドジをやるのではなく、焦っていることとドジが結びついていなけなければ意味はない。行動の際、常に慎重な判断が求められる難しい課題だ。もしかすると、これは僕の手に余ることかもしれない。だけど他には何もないじゃないか……そうだろう?
いいか? クールに、そしてクレバーに、ドジるんだ。たとえ悲しいことがあっても、ドジり続けるんだ。
【結果】 リストラサラリーマン級だそうです。他の項目はSとAばかりなのに、「繊細と大胆」だけがD。SとAは出来すぎだけど、バランスの悪さに関しては的確に判断されちゃったかんじ。
設問は大きく「理想」を選ぶものと、自分の「現実」を自己診断するものに分かれていて、「理想」設問の結果を集積した結果に対して「現実」設問への回答を照合し、「現実」が「理想」の統計値に近い値であればあるほど金持ちになれるであろうと推測する、というものみたい。つまり一般の総意が金持ちへの道として正しいのかどうかというところを疑っちゃうとつまらなくなるので考えてはいけません。
前作の「恋愛頭脳」では結果を再表示するURLが出なくて不満だったけど、今回はちゃんと出てますね。「他人鑑定」も誰かにやってもらうかな。