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2004-01-09

_ ペンギン村にギャングたち

大船駅で、本当に高橋源一郎とすれ違った。以前は「見ただけでどうってこともないだろう」と予想していたわけだけど、実際に見てみたら意外なほどうれしくて、ちょっとドキドキした。『さようなら、ギャングたち』と、「メイキング・オブ・同時多発エロ」の連載を何回か群像で読んだくらいだけど。

田中邦衛とすれ違ったときより興奮した。

その直後、電車の中で読んでいたポール・オースター『ムーン・パレス』から。古本屋で『幽霊たち』を手に取ったとき、高橋源一郎の帯文がなかったら僕はオースターを読んでいなかったかもしれない。

こういう道化じみた物言いが、ますます僕の典型的言動になってきていた。完璧にまっとうな質問に対して、言い逃れや、論理のすり替えや、詭弁をもって応じるのである。自分の窮状を内緒にしておこうとすれば、嘘を並べて追及をかわすほかなかった。貧乏のどん底に落ちていけばいくほど、捏造する話もどんどん奇怪で歪んだものになっていった。禁煙した理由、酒を断った理由、外食をやめた理由——何であれ、何か途方もない論理に基づく説明を僕は造作なくひねり出した。いまや僕の口調たるや、アナーキストの隠者、世捨て人の現代版、十九世紀の機械破壊運動家ラッダイトの再来という趣だった。でもとにかく友人たちは面白がったし、僕も僕で首尾よく秘密を守り通せた。もちろん、こんなペテンじみたふるまいには、自尊心も大きく作用していたにちがいない。でも、いちばん大事な点は、自分で下した決断に関して、誰からも干渉されたくなかったということだ。その決断を話して聞かせれば、きっと相手は哀れに思ってくれただろう。ひょっとしたら援助を申し出てくれたかもしれない。そうなるとすべては台なしになってしまう。それよりは、みずから築き上げた錯乱のなかに自分をとじ込めて、とことん道化を演じきるほうがいい。そして時が尽きるのを待つのだ。

(文庫版44-45頁)

そして時が尽きるのを待つのだ。


2004-01-11

_ ダバディBLOG

国内のレンタルブログサービスを調べてたら、ココログでダバディのブログを発見。セレブっぺ〜。でもなぜかダバディには常にオタ臭さを感じてしまう。トラックバックのロリポップ率高し。


2004-01-12

_ Plamo.de

ドイツ語の単語の意味を調べようとしていて発見したページ。ドイツでもプラモ(+ガレージキット)制作は盛んなようです。技術解説のページの写真を見てると技術的にイマイチな部分もありますが、ウェザリングまでやろうとしている心意気は買っていきたい。「マテリアル」のページでは「モリモリ」まで紹介されてるし。あ、ボークスの FSS キット(Vサイレン103ネプチューン)作ってる人も。

日本語メニューも一応用意されてますが、あまり日本語化はされてません。


2004-01-15

_ 「曹操と張飛、親せきだった」 中国の研究者が新説 (asahi.com)

というニュースのほうが重要だとは思うんだけど、芥川賞と直木賞が決まったようですね。綿谷りさ『インストール』は好きじゃなかったんだけど一応読んでおきたい、でも単行本買いたくないなーと思ってたのでちょうどいい。文藝春秋で読みます。2作掲載でお得な内容。直木賞は候補作の中では順当ってかんじなんでしょうかね。


2004-01-23

_ 「病気になるほどつめたい」こおり

村木道彦歌集 現代歌人文庫24』の背表紙に「現在、静岡県立高等学校教諭」と書かれていたのでそのあたりを調べていたら、田中槐は高校時代の国語教師が村木で、それをきっかけに短歌をはじめたことを知った。

高校時代の国語教師が村木道彦なんて……いいなぁ。「大学時代に佐佐木幸綱」よりも断然いい。「高校で佐佐木幸綱」や「大学で村木道彦」では、それほどうらやましいと思わないけど、「高校で村木道彦」はすごくいい。しかも女子高生だったりしたら……萌えー。

で、村木道彦と田中槐で検索してみたら、京大の東郷先生がまったく同じ感想を持っていた。しかも田中槐は女性であるという情報が。女子高生が、自分の国語教師である村木道彦の歌集を読んでたわけですよ、ええ。さらに、村木が77年に止めていた作歌を89年に再開していたことも確認。探さなくては。

とりあえず「三田文学」2003年夏季号・岡井隆特集に載ってたエッセーは読了。「ノンポリティカル・ペーソス」と併せて読むと、時間の流れが感じられます。

ちなみに、村木先生はゲーム好きで、ドラクエやFFをやっているという情報も発見。それどうかなぁ。磐田南高校の先生だった模様。


2004-01-28

_ ワーム

不審なスパムが3通届いてたのでウィルスチェックしてみたら、ぜんぶ WORM_MIMAIL.R だった。うぜー。中規模で流行してるそうで、2月1日以降に発病するらしいので気をつけるように、とのこと。

とりあえずメールを削除してシステムフォルダを確認して実行されてないことを確認して、一応トレンドマイクロのクリーンナップサービスも実行して対応終了。


2004-01-29

_ 僕に羽根が生えていたらいいのに

僕は、ウェブというメディアがパブリックなものでもプライベートなものでもありうると思っているし、そうであるときのウェブというメディアを気に入ってもいる。たとえば、

あるアイドルオタクが Britney Spears の "Me against the music" を聴きつつ、歌詞の I wanna get in the zone... I wanna get in the zone... という部分から

この歌詞、実はブリちゃんが ZONE に入りたがってたりしたらどうしよう、『さらに海外からの新メンバーが!』なんて発表されちゃったりして! こんどマドンナとキスするのは MIYU !? やっぱ TOMOKA !? けどブリトニーは道産子じゃないからなぁ……スタジオ・ランタイム出身じゃないと ZONE の一員とは認められませんよ? ブヒヒヒッ、ブヒッ、ブヒッ

と妄想して独り笑っている図

という、対象が極端に狭く、かといって面白くもなく、そもそもネタとして成立していないようなことを、寝入りばなにいきなり思いついたとしても、ウェブはそれを発表しうるメディアだと、僕は信じている。そのまま寝ようかと思いながらもこれをメモした僕の一瞬の努力を無にしない、ウェブの力を信じている。

僕は、ウェブが自由な場所だと信じている。


2004-01-31

_ もしもピアノが弾けたなら

テレビで「もしもピアノが弾けたなら」を歌う西田敏行は、ピアノを弾いていた。この曲の詳しい売り上げなどはわからないが、少なくとも僕の見た懐メロ番組に流されていたので、当時はなかなかの知名度があった曲なのだと思う。目前で西田がピアノを弾いているにもかかわらず、「もしもピアノが弾けたなら」という仮定を冠した曲が懐メロ番組に流されるほど受け入れられてしまった*1のかと驚いた記憶がある。

それはともかく、こうした仮定のもとに勉強をしたり、習い事をしたりすることは多いのではないかと思う。でも、その仮定の対象となるものが素晴らしく思えるのは、しばしば仮定の状態にあるときだけだったりする。

「喪失の切なさ」という、青臭いアレもこの応用形だと言ってよいかもしれない。しかし、対象が未知のものであるがゆえに憧れを持ち、そこに向かって行動をはじめるという構造そのものは、年齢に関係なく重要なプロセスのはずで、だからこの「もしもピアノが弾けたなら」という仮定形は、もっと広い範囲のあらゆる行動に適用できるものだと思う。

しかし、「もしもピアノが弾けたなら」という憧れが単なる幻想でしかなかったということに何度か気がついてしまうと、それはある種の「法則」として機能しはじめる場合がある。そうなると、新たな「ピアノ」が目前に現れたときに、「幻想」が直結するようになる。

おそらく、「新しい『ピアノ』はそれまでの『ピアノ』とは違うだろう/かもしれない」と考えることができるとき、その人は「ポジティブだ」と言われたりするのだろう。あるいは、その「ピアノ」を素晴らしいものだと思える人もまた、幸せなんだろうと思う。

あらゆるものが「ピアノ」であると感じたりするのは、若い頃だけの特徴だと語られがちである。そこを妥協してゆくのが成長だとかなんとか。しかし、いつまで経っても「ピアノ」は「ピアノ」でしかなかったらどうすればいいのか。

率直に考えて、ある程度のコストを対価として支払えば、僕はきっとピアノを弾けるようになるだろうと思う。もちろんプロになることはできないとしても、「想いのすべてを歌にして」歌えるくらいのレベルにはなるだろう。ピアノだけでなく、いろいろなこと——たいがいのことはできるようになると思う。しかし、そのコストに見合う代償を得られるという気だけは、まったくしない。そこに憧れや期待が発生しない限り、人は行動に移らない。

だから人は、結果の見えないギャンブルが好きなのだろうか——と、少し思った。しかし、ギャンブルもまた「ピアノ」となる可能性を孕んでいる。孕んでさえいれば、僕には十分なのだが。

*1 しかし、この矛盾点がこの曲の最大の魅力となって受け入れられた、という仮定は十分に成り立つと思う。たとえば「だけど ぼくにはピアノがない/きみに聴かせる腕もない」という部分を過去と、弾き語る姿を現在だと解釈したり、「心はいつでも半開き/伝える言葉が残される」という部分から、ピアノを弾けない青年がこの詞を書き、ピアノを弾ける誰か(西田でもいいけど)がそれを曲にして歌っている……など、深い妄想に入り込む余地が作られている。ちなみに作詞は阿久悠。