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2004-01-31

_ もしもピアノが弾けたなら

テレビで「もしもピアノが弾けたなら」を歌う西田敏行は、ピアノを弾いていた。この曲の詳しい売り上げなどはわからないが、少なくとも僕の見た懐メロ番組に流されていたので、当時はなかなかの知名度があった曲なのだと思う。目前で西田がピアノを弾いているにもかかわらず、「もしもピアノが弾けたなら」という仮定を冠した曲が懐メロ番組に流されるほど受け入れられてしまった*1のかと驚いた記憶がある。

それはともかく、こうした仮定のもとに勉強をしたり、習い事をしたりすることは多いのではないかと思う。でも、その仮定の対象となるものが素晴らしく思えるのは、しばしば仮定の状態にあるときだけだったりする。

「喪失の切なさ」という、青臭いアレもこの応用形だと言ってよいかもしれない。しかし、対象が未知のものであるがゆえに憧れを持ち、そこに向かって行動をはじめるという構造そのものは、年齢に関係なく重要なプロセスのはずで、だからこの「もしもピアノが弾けたなら」という仮定形は、もっと広い範囲のあらゆる行動に適用できるものだと思う。

しかし、「もしもピアノが弾けたなら」という憧れが単なる幻想でしかなかったということに何度か気がついてしまうと、それはある種の「法則」として機能しはじめる場合がある。そうなると、新たな「ピアノ」が目前に現れたときに、「幻想」が直結するようになる。

おそらく、「新しい『ピアノ』はそれまでの『ピアノ』とは違うだろう/かもしれない」と考えることができるとき、その人は「ポジティブだ」と言われたりするのだろう。あるいは、その「ピアノ」を素晴らしいものだと思える人もまた、幸せなんだろうと思う。

あらゆるものが「ピアノ」であると感じたりするのは、若い頃だけの特徴だと語られがちである。そこを妥協してゆくのが成長だとかなんとか。しかし、いつまで経っても「ピアノ」は「ピアノ」でしかなかったらどうすればいいのか。

率直に考えて、ある程度のコストを対価として支払えば、僕はきっとピアノを弾けるようになるだろうと思う。もちろんプロになることはできないとしても、「想いのすべてを歌にして」歌えるくらいのレベルにはなるだろう。ピアノだけでなく、いろいろなこと——たいがいのことはできるようになると思う。しかし、そのコストに見合う代償を得られるという気だけは、まったくしない。そこに憧れや期待が発生しない限り、人は行動に移らない。

だから人は、結果の見えないギャンブルが好きなのだろうか——と、少し思った。しかし、ギャンブルもまた「ピアノ」となる可能性を孕んでいる。孕んでさえいれば、僕には十分なのだが。

*1 しかし、この矛盾点がこの曲の最大の魅力となって受け入れられた、という仮定は十分に成り立つと思う。たとえば「だけど ぼくにはピアノがない/きみに聴かせる腕もない」という部分を過去と、弾き語る姿を現在だと解釈したり、「心はいつでも半開き/伝える言葉が残される」という部分から、ピアノを弾けない青年がこの詞を書き、ピアノを弾ける誰か(西田でもいいけど)がそれを曲にして歌っている……など、深い妄想に入り込む余地が作られている。ちなみに作詞は阿久悠。