わりと信頼している人が「品のいい田嶋陽子だ」と評していたせいもあって、今まで上野千鶴子とはなんとなく疎遠だったんだけど、一気に惚れてしまった。
おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、私はおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕を高々とあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない。そしてたくさんのおまんこをとおして“女性自身(私自身)”が見えてくることだろう。(上野千鶴子「おまんこがいっぱい」/『女遊び』一九八八年)
(斎藤美奈子『文壇アイドル論』)
これはもう、上野が「品のいい田嶋陽子」なんじゃない。少なくともテレビ上の田嶋を考える限り、それは「気の抜けた上野千鶴子」でしかない。どっちも浅薄な表現だけど。
この惚れ方は、極道が親分・兄貴分の侠気に惚れているような、あるいは千人切りを夢みる男が加藤鷹を神格化しているような、そんな感覚*1。誤解を恐れずあえて言おう、上野千鶴子は「漢」であると! ジーク・おまんこ!(最低)
ちなみに斎藤美奈子のコメントは
これを「ダサい」と言わずして……。一〇年前ならいざ知らず、いまごろ「おまんこ」もねえだろおよ。リアルタイムで読んだときの、それが私の率直な感想です。
ダサくてすいません。しかもガンダムで反応してるし。
*1 こういうのがフェミニズムへの誤解なのだと思います。