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2003-05-11

_ 歓声と銃声の中、一列に背が走り去る、ただ立っている。

結局のところこの5年間は、いきなり変わったライフスタイルのギャップに翻弄されて、ただくるくる回っていただけだなぁと思ったり。

それまではのんべんだらりとしていたところから、いきなり「みんなで一緒に競争しましょう」という状態の中に入ったわけで、しかも周囲はその中をそれなりに勝ち上がってきた人々だから、そうした「よーいドン」への準備・心構えが上手だし、流れに乗る身のこなしを心得ている。一方の自分はというと、そういうライフスタイルが身に付いていないことがモロに露呈している。ハンディがあるからこそ余計にそれが必要であるにもかかわらず、だ。

_ あなたからさしのべられた言葉へと手をのばしてもまだ届かない

人は誰でも特殊で個別な人生を生きている——のは言うまでもないが、それでも通常は社会的習慣や制度によって一定の共有項を持っているものだ。何事であるにせよ、人間は先人が築いた模範に従うことで思考・判断を省略し、効率的な行動を行うことができる。いわば「圧縮」である。

しかし、この習慣や制度による共有項を持たず、ある閾値を越えた個別性を持ってしまうと、独特のつらさが生じてくる。それは、規範となるモデルがどこにもないという事態だ。社会的・歴史的に制限を受けたルートから外れ、先人の前例を使えなくなってしまう。つまり、誰にも習うことができないし、誰からもアドバイスをもらえなくなるのだ。

これは「大人になるためには自分のことを自分で判断しなければいけません」というお題目とはわけがちがう。この場合でも、自分で物事を判断し大人になるタイミングは、やはり社会的・歴史的に規定された一定範囲の中に収まることになる。この場合、ばらつきはあれど一定範囲の中で、みんな一緒に「大人になる」。だが今話しているのは、前例が適用できれば考えなくてもいい部分までも自力で判断する必要が出てくるレベルの場合なのだ。似たような状況を想定することができず、社会的にも稀な例に当てはまってしまったときのことなのだ。

誰からもアドバイスをもらえないということは、誰の言葉をも当てにできないことを意味している。たとえ閾値を超えた個別性を持った者同士であっても、互いが個別的であるゆえに、やはり互いにアドバイスを与えることはできない。「個別性」そのものの共有は単純に共有とは言えない。ただそれぞれに独特なだけである。

誰の言葉も当てにできない。たとえ強く信じたいと思っている人のアドバイスすらも、そのまま信用することはできないのだ。それをそのまま自分に適用できる可能性はほとんどないのだから。あまりにも文脈が違いすぎるために、その言葉はアドバイスとしての機能を果たさず、ひたすら例外を生み出してゆくばかりである。これはあまりにも悲しいことだ。

僕は人のアドバイスを信用できません。しないわけではなく、できない部分が大きいのです。ある程度の歳になれば全体に個別化が進むので楽になるかと思っていましたが、そうでもないようなので、この先も一生つきまとうことかもしれないと思いはじめています。でも、それは残念だし、悲しいと思っているということだけは書いておきたいと思います。

_ 「踊るんだ、でも踊るしかないんだよ。それもとびっきり上手く踊るんだ」

それでも「生きろ」というプレッシャーは押し寄せてくる。純粋な生命維持の意味ではなく、社会的な意味を帯びた「生きろ」である。しかしその「生きる」の中に、そもそも自分が組み込まれていたという実感がない。今、組込まれているのかどうかもとても曖昧である。記憶もないし、実感もない。この悩みは、よく語られる「居場所探し」のようだが、果たして同じ意味を持っているのかどうかも、さらに曖昧である。

しかしこう考えてみても、気がつけば僕はすでに社会の中に存在してしまっている。組み込まれずに存在する——とは、一体どういうことか。単なるホコリやノイズなのか、消費のためだけの乾電池なのか、そういうものですらないのか。

……とりあえずリクナビを見ろってことだな。