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2003-05-10

_ いつだって怖くてたまらなかったから、俺の標語は「でもやるんだよ!」

自分が何をやっているのかわからないままに押し流されそうになると、決まって大ブレーキをかけたくなるのは本当にずっと変わらない自分の性格というか性分というか気質だよなぁと、今日もまた思う。自分が何をやっていて、なぜそれをやらないといけなくて、それがどういう結果をもたらしうるか、もたらしてしまいうるかというあたりを、つまり過去から今から未来からをできるだけしっかり見ながら進みたいという、願望または義務感または強迫感が常にある。きっと臆病なんだろう。

日記を書いていることも、結局はそういう願望の現れなんだと思う。だから「テキスト系」や「ブログ」になりきれず、ごく私的なものが増えてゆく。それは覚悟してるわけだけど。

なぜ臆病なのかを考えてみると、生まれつきもあるのかもしれないが、それに加えて今までの経験的な裏付けがある。なにがなんだかよくわからない状態のまま「いざ本番」みたいな状況になると、ほぼいつも失敗したり的外れなことをしてしまうのは事実としてあって、何かを達成したり成功するのは周到に周到に準備して限りなく完璧に近い状態を実現したときだけだ、というのは経験的なデータとして持っているのだ。何もしてないのにコトがほいほい進む、みたいな経験もあるにはあるが、ほとんどない。だからこそ準備が足りないと不安になってしまうし、それがほぼ失敗に結びつくという(主観的な)データもあるために行動に結びつかない。

しかも、その準備にはやたらと時間がかかる。何事も準備には時間がかかるものだが、それにしてもかかる気がする。準備しているだけですべてが終わりかねない。ときには十分に整っていてもなお延々と準備をつづけ、持ちきれない量になってしまう。その見切りも上手くないのだ。

……と書いてみて、「あらこんなの普通のことじゃないの」と自分でも思ったわけだが、自分としてはその要素一つ一つが過剰だと思っている。あくまで主観なので客観的に確かめるのは難しいのだが、普段からの歩みの遅さ*1を知っている人だったらある程度納得していただけるのではないかと思う。

歩む速度を速めるべきだという考え方と、ブレーキはかけてもいいのだという考え方は、どちらもずっと自分の中にあって、まさに今もそうした葛藤が盛り上がっているところである。ただし、当然ながらこのどちらかだけで全てに対応できるというものではない。バブルの頃は前者を採用しているほうが得をしたのだろうし、もしもこの先「スローライフ」が価値を持ってくるのだとすれば後者をとるほうが得をすることもあるのかもしれない。要するに局面に合わせてギアを選ぶことが重要なのであって、糸井重里あたりはこれがすごく上手なのだ。しかし糸井重里以外の人は糸井重里ではないし、僕も糸井重里ではない。

人に傾向というものがあるとして、僕が、いま置かれているような場面ではブレーキをかけるほうが得意な傾向の人間であるとするならば、いまブレーキを踏むべきなのだろうか。ごく普通に考えた場合、ブレーキをかけることは避けるべき局面である。しかし、今までそうした局面でアクセルを踏んでうまくいっていないというデータもある。さて。

と、これが直近の悩みの概要なんだと、いま自分で書いていてよくわかった。そもそもの問題は周到に準備をしなかったことにあるが、それにもそれなりの事情がある……それにしても今日は、いつにも増して公開するような内容ではないなと反省してみるふり。

*1 でも、ふだん歩く速度は速い。