トップ «前の日記(2003-07-05) 最新 次の日記(2003-07-11)»

2003-07-10

_ ゆく河のよどみに浮かぶうたかたを結んでみたりほどいてみたり

僕が他人に何かを言ってそれが伝わる、ないし何らかの影響を及ぼすということがもし僕に可能だとしても、それにすら何も期待していない状態なので、日記を書く気力も失せている。ただ「それでも何かを言おうとする」みたいな姿勢でいるほうがステレオタイプなポジティブシンカーの思考傾向だと思うので、無理から書いてみるんですが。

こういうとき、誰かからのふとしたアドバイスとか、あるいは自力ででもいいんだけど、日常のちょっとしたことから喜びや幸せを発見して、明日への生きる糧みたいなものを得ましたというストーリーでも書いておけば、それを読んでそれなりに腑に落ちる人も大勢いるんだろうと思う。

でも、その瞬間にそういう圧力がのしかかってくる。あたかも明日へのささやかな希望をありふれた日常の中から発見しなければいけないような気がしてくる、そのことがもう煩わしい。これを「がんばれ圧力」と呼ぼう。

この「がんばれ圧力」は、まだまだ現役で活躍している「善い」概念でもあるのだが、時にそれが暴力的な側面を持つこともまた十分に気づかれていると言っていいと思う。例示するのは面倒なんだけど、ずいぶん前から「410135412X」とか「4087811913」とか「4579500423」とか「4479781110」とか「スローライフ」みたいなキーワードが一部で関心を呼んでいたりする。

しかし、これらのキーワード群も完全に「がんばらない」ことを実現してしまうことは留保しているはずで、がんばることがむしろネガティブに作用してしまう場合があるということを指摘し、適度にがんばることが重要なのだと説いているに過ぎない。

さてさて、こうやって「がんばらない」の欺瞞を暴いた気になりつつ自分の優位を確保する姿勢も、一部では賞揚されていたりする。こういう人々は退廃的な方向に向かい、死に美学を見出したりしはじめる。天邪鬼とか悲観主義とか虚無主義とかとかとか。

さてさてさて、長年やっているとそういうのにも飽きるのだ。もういい加減、出尽くした感がある。このどれかから選びなさいと言われても、それがまた圧力を生み出しはじめる。でもその圧力から逃れることに対してもまた圧力があるのだ。偏在する圧力。

それから逃れ続ければ、天邪鬼の圧力が。どこかで我慢するにしても、どこかで我慢する圧力が。

圧力を圧力と感じなければいいという人がいるかもしれない。つまりは他人からの力だと感じることが嫌なんだろうという意見だが、これはなかなか妥当である。しかし人の考えというのは人間の総数よりも少ないのだ、というような考えを最近他人の考えから学んだ。これもなかなか説得力がある。だからといって誰かの考えを受け入れるのが嫌だというわけではない、それに同意できさえすれば僕は納得するだろうと思う。もし完全にオリジナルな考えを持ってしまったとすれば、それはそれで不幸なことであるだろう。

あるいは説得力のある発言に対して自分の個別性を根拠として棄却することも常に可能である。あるいは今考えているこの思考がオリジナルである可能性も否定しきれない、そのことも厄介である。

あるいは。ないしは。もしくは。

だんだん考えるのが面倒になってきた——というか人に伝わりそうな形にするだけの気力がなくなってきた。発話に期待できなくなるのも久しぶりのことだ。といっても以前は今以上にまったく期待していなかった気もするのだが、もうよく覚えていない。

「このティー・カップすてきねえ」
「うん」
「ほんと、いいティー・カップだわ」
「そうだねえ」
「何か、いいのよねえ、このティー・カップ」

(高橋源一郎)