今回の虚構としての鬱は、一つの防衛反応だと思う。今の状態で感情を表に出そうとすれば、喜や楽は決して出てこないし、そのままバタバタッと崩れてしまいそうな気がする。だから一種の綱渡りをしてやりすごすわけだ。この技術と、それを実現する環境*1がある限り、とりあえず生きてはいられるだろうと思う。面白くもなんともないけど。
損得という経済が善悪の価値判断に先行するものだということは、意外に気づかれていないと思う。「人づきあいは損得でするものではない、そこで損得を考えるのはドライなやつだ」という意見があるが、「損得を考えずに」人づきあいができる人というのは、表面的な損の裏側でそれに見合う得を得られている人だと言える。これは「愛」でも同じで、「報われないのに尽くしてしまう」などという状況は、与えるものに見合うリターンを、与える前に、もしくは与えることそのものから得ているわけだ。「損得を考えない」ところにも、損得の経済はすでに成り立っている。いかに損を省みず与え続けている人=善い人も、その前から経済の中に取り込まれているのだ。
損得の感情は主観に左右されがちな部分である。たとえば「ひどい目にあった」という尺度も、人によって異なる。だから「私はこれだけひどい目にあっている」という主張は、共有不可能であることが多い*2。ある人がどれだけひどい目にあっているかを他人が測るのはそれだけ難しい問題であり、また他人に共感することも本来困難である。
「悲しい思いをすると、他人に優しくなれる」という。これは悲しみのインフレが起こり、悲しみの価値が下がっている状態にある。悲しみの供給過多によって、以前は重大だった悲しみに対しても、それほど悲しまなくなる状態である。あいつを優しくするために、悲しみ漬けにしてやって、パンチドランカーにしてしまえ。
あんまり長い間つらい目に会った人間は意地悪になってしまう。もちろん意地悪にならない人間だっている。多分それは頭がいかれてしまったからだ。わたしみたいに。
(高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』)
悲しいことがそれほど悲しくないなんて、喜ばしいことだろうか。悲しみを悲しめなくなること以上に悲しいことがあるんだろうか。
それが悲しい。