相変わらず停滞がつづく。このままではいつか周囲にとんでもない迷惑をかけそう。もうかけてるとしたら、もっとすごいやつを。予期や期待を窮屈だと感じるのはどうにかできないかと思うけど、今までどうにかなったことはなく、今後どうにかなる気配もない。
あるものに価値があるかどうかを判断するためには、複数の選択肢に優劣をつけてゆくほうが考えやすい。というよりも、「○○には価値がある」という質問に対して、たとえ「はい/いいえ」で答えたとしても、その背後では他の何かと比較されていることが多いし、少なくとも常にその可能性には開かれている*1。
ある行動をとるべきか否かという判断をするときに、その他の選択肢と比較してみることは珍しくないわけだが、そのとき想定する選択肢の幅には個人差がある。極端になると、目の前にある選択肢にひとつひとつ「はい/いいえ」で答えていくだけで比較すらしないという人もいるだろう。
逆に、目の前に用意された選択肢に飽き足らず、まだ隠れた選択肢があるのではないかと考えてしまうこともある。それを選び取る条件については後まわしで、ただそれが論理的にありうるのかどうかが最初の問題である。
だが、隠された選択肢というのは、いつまで考えても「ありそうな」気がしつづける。これが問題なのだ。
ある古物商での会話。
「お客さんツイてる! 今日は出物がありますよ。このへんなんていかがです? ほらこの茶碗、いいでしょ。それにこの一輪挿しなんかどうですか、釉の斑がたまりませんよ」
「ん、いまひとつだなぁ。何かほかにいいのないの? いいものだったら今日は買う気あるんだけど」
「参ったなぁ……じゃあ取っておきを……」
まぁいいかげんな会話だけど、ありそうではある。要するに、選ばせたくない選択肢を隠しておくと人はしばしば見せられた選択肢の中から選んでしまうものだが、全部を拒否したときにそれが出てくることもありえない話ではないわけだ。
用意された選択肢を選ばない人は「ないものねだり」と言われ、逆に用意された選択肢を選び取る人は「素直」だとされる場面は多い。むしろこのほうが多い。でも個人的には、「ないものねだり」をそれほど否定的に見ていない。
でも、本当にないものをいつまでもねだっているのは、やはり賢くない。
でも、隠された選択肢というのは、その姿を現わさない限り、いつまでも「ありそうな」ままだ。
*1 ここで、絶対性とか「世界に一つだけの花」みたいな比較不可能性についても考えるべきなのかもしれないけど、わけがわからなくなりそうなのでやめる。ひとまず、何ごともある側面だけに着目して他と比較することはできるだろうという前提を置いておく、ことにする。
おかしいなぁ、と思うやつが大勢いるわけだが。
悟らせてないところは、えらいと思ってしまった。
2秒。
対策しないと、これから増えそう。