■ガングロでもコスプレでも誰でもいいけど、そういったパラパラ愛好家たちが、ユーロビートじゃなくて "Start as you mean go on" に合わせてパラパラしてる、というイメージが浮かぶ。ものすごく怖いけど、ものすごく良さそう。ポーカーフェイス、空を切る腕、乾燥した灰色のリズム……彼岸の匂り。
って誰もわかりませんね。
■独自の人気調査法によれば、ここ最近は aiko『初恋』や fra-foa の曲への需要が高まっています。 fra-foa はやっぱり次のシングルあたりで大がかりにブレイクしちゃうかも。または、テレビ出演とアルバム発売による一時的な効果かもしれませんが。
アルバム『宙の淵』は、初回限定パッケージのおかげで思わず買ってしまったんですが、まだちゃんと聞いてません。以前アルバムに期待したこと[2001.1.15-5]は実現されてない気がするから、なんて書くと偉そうですが、今は Cocco とか聴いちゃってます。
Cocco は次のアルバムで活動を休止するみたいですね。聴きはじめたばっかなのに残念。まだ好きかどうかもよくわかってないけど。
なんか出てくる名前がみんなアルファベットですな。日本語B。
■だ〜か〜ら〜手軽に古本とか買えるようにすんなっつーんだ、イーブックオフは〜! 2000円以上買うと送料無料とかにもす〜る〜な〜! 買っちゃうだろ、このヴォゲ!! つーわけで、今日の「ポチッとな」してしまった記録。また読まないのに……
■やっぱりどー考えてもかわいいので、 "MS UI Gothic" での表示を採用することにしました。このフォント、"Chicago" までとは言わないものの、かなりイイ線いってると思いますよ。ただし「2ちゃんねる」な部分(こことかここ)はもちろん(?)「MS Pゴシック」ですが( "MS UI Gothic" でも記号と漢字だけのアスキーアートなら崩れないんだけど、気分が出ない(^^;)。Mac だと普通に "Osaka" です。
■ずいぶん普及しているように見える、総称して「インターネット」だけど、実は俺の思っているよりぜんぜん普及していないと思う。というのは、ネット上では「スゲー使ってる」人がたくさんいるように見えるんだけど、ふと世間を見渡すと、まだまだ使いこなしている人は少ないなーと思うと同時に、なんでそこまで使わずに済むかなーと思ってしまう。それはいかにSFCであっても変わることはなく、学校が休みだと学校のメールボックスをチェックをしないやつとかがゴロゴロいる、っていうかほとんど。まぁそういう人々も携帯電話でメールはするわけで、「パソコン」以外のインターネット利用が拡大してるだけだ、ってのはよく言われることだけど。
それにしても、みんなあんまし使わないなぁと、よく思う。俺とか、俺のネットつながりな人々のレベルから見るとね。で、その「使ってなさ」というのは、今の時代で確実に損している気がする。この情報効率の良さは、やっぱり差になってくるでしょう。
しかしここで気になるのは、「情報効率」の差とはすなわち「消費効率」の差でもあるということで。つまり、効率よく情報を手に入れ、処理できるようになってくると、それだけ消費もスムーズに進んでしまう。消費効率が良くなるということは、つまり「飽きるのが早い」人になってしまうわけで。
すると、世の中がつまらないと感じる頻度も上がり、いっつもなんとなく漠然とつまんないかんじになってしまうのである。いつも飢えているというか、何かを求めてさまよってしまいがちになる。そういう人は、情報/消費効率の良くない人と競争をした場合にはとても強く、経済的に成功してる人もそういうタイプが多いだろう。けど、そういう人は同時に「幸せ度」が低いんじゃないかと。「ネット依存」してしまう人も、この考え方で説明することができるわけだし。あるいは、価値がどんどん相対化されて無価値化していくっていうのも、こういう要素がからんでるのかもしれない。
そして、「消費/飽きる速度の自己調整」っていうのがこの先は重要になってくるのではないか、という以前にも行った主張[2001.1.11]を、ここでもう一度くり返すことができる。さっきの「メールチェックしない」とか「Web見ない」ようなタイプの人々は、実はすでにその自制を(意識的にではないかもしれないけど)実践しているのではないかと思えてきている。楽しめる期間をなるべく長く保とうとする努力、みたいなことは、もう既にある程度の共通理解を得ているのかもしれないと、ちょっと思った。
そうだとすると、今度は自分のことがとたんに不安になる。このまま消費速度を高めるばかりでいいのだろうか。それは確かにある利益をもたらしはするものの、楽しめるはずの時間を捨てながら次へと走ってはいないだろうか、いやすごくそんな気がしてきた。だって楽しいことはいくらでもあるんですもの。いまさら戻るのも難しいんですもの。
「それはそれで楽しいんだからいいんじゃないか」とは、きっと言える。でも、その「楽しみ」のコストパフォーマンスがえらい悪いような気がしていて。ちょっとブレーキかける練習から始めてみよう、とか思ったりした。
■「デジタルディバイド」が問題とされることも多いけど、「幸福の自制」という立場から見れば、「そんなのどーでもいーよ」ということになる。
「デジタルディバイド」とは、コンピュータを使いこなせる層と、そうでない層との間に経済的・文化的な面をはじめ、様々な格差が生まれてくるはずだ、という懸念から提唱される考え方。だけど、「デジタルディバイド」を問題と考えているのは「コンピュータが使える層」が中心である。つまり、「コンピュータを使える層」が「コンピュータってのはスゴイぜ! 情報がこんなに集まっちゃって簡単に処理できちゃうぜ! だからウハウハなんだぜ!!」と思っているからそんなことを言い出すのであって、それは彼らの「コンピュータ信仰」「インターネット信仰」から生まれているわけである。
しかし、情報/消費効率の加速が危険なことだと思っている立場からすれば、「コンピュータ信者」はその危険を知らずに暴走を続けているバカにしか見えない。そんな人々から「ディバイドされちゃダメだぞ!」と諭されても、「いや、別にいいし」と思うだけである。
「あたしゃコンピュータなんてわかんねェのよ」と、余生を今までのまま送りたいと願うお年寄りたちは、既にそれをわかっていると言える。彼らがコンピュータを拒否する口ぶりは、まさに「幸福の自制」だとも言える。そして、今後は「コンピュータ信者」の中からもそのことに気づく人々が多数出てくるのではないかと思える。なぜなら、どー見てもコンピュータを積極的に使おうとする人々がそれほど急に増えているとは思えないし、コンピュータだってそれほどいいものだとは思えないからだ。したがって、「IT革命」が「革命」というレベルに達することは永遠にありえない、とも言えてしまう。面白いものを急いでつまらなくするような動きには手を貸せない、とみんなが思うのであれば。
コンピュータを使う層が経済的に成功しやすい、というのは否めないだろう。しかし、それほど問題視することではないような気がする。それを問題とするなら、法律に詳しいからこそ儲かっている弁護士とか、経済に詳しいからこそ儲かっている企業のトップの人々についても問題にするべきだ。でも、「ロウ・ディバイド」「エコノミクス・ディバイド」はそのまま温存されている。収入の格差は依然としてあるけれども、それは若い人々の良い目標にもなっている。
だから、「デジタルディバイド」というのも結局はそのあたりに落ち着くのではないか、と思う。今が過渡期だから、その格差がくっきりと浮き出て問題に見えているだけなんじゃないだろうか。
■「ロウ・ディバイド」とか「エコノミクス・ディバイド」と勝手に作ってみたけど、これはちょっと興味深い部分だなあ。この格差があまり問題にされていないのはなぜなのか、というのは気になる。そういう格差を温存しようとする力が働いているような気がする。それが問題にならないのなら、なぜ「デジタル」は問題化するのか……まあ「デジタル」は法律や経済よりも一般市民に近いものだから、なんだろうけど。う〜ん、それでも違和感があるような、ないような。
■でも、試験は嫌いじゃない。試されたくもない相手に試されるのは本気でイヤだけど、試されたいと願う相手に試されるってのは悪くないですよね(べつにMさんという意味ではなく)。自分の実力を直視するのはキツイことでもあるけど。
■ああまた面白い小咄(?)を考えてしまったしかしこれはある特定の人をとても傷つける可能性のある話で考えるんじゃなかったしかしこれは面白いので言わずにおくのもとてももったいないと思われしかも話のネタとする場は限られており俺の脳味噌の限られたリソースの上でこのデータにしばらくアクセスしなければこの話が占有している脳細胞は別のなにかに使われてしまう危険性もあるのでだからやっぱり忘れないうちに書くことにした。業深き我かな。
■そもそも厚化粧というのは、自分が不細工である、または不細工かどうかはともかくとしてひとまず自信がない、ということを自ら大声で叫んでいるようなものである。隠しながら隠していることをバラすのは、「あります」と言っているのと同じことだ。
だがしかし、そうはいっても彼女は(他人から見てどうかはともかく)自信がないわけで、それを隠さないわけにはいかないのだから、化粧をしないわけにもいかない。だが、化粧した顔まで隠すわけにもいかない、それは見せるためにあるのだから。んだが、隠せば隠すほどそこには隠された痕跡が堆積してゆき、その積層された地表は否が応でも隠されている「何か」への興味をあおり立てることになる。
「厚化粧」本来の目的は「裏側」への興味を逸らすことにこそある、しかしそれは「裏側」への興味をかき立てずにはおかない、仮面はその「裏側」への想像力をかき立てるためにこそ被られるものなのだから。されど、隠すべき「何か」は大っぴらにしたくない「何か」であるからこそ隠さないわけにはいかぬ、従って隠すべきなのだ、けれど「厚化粧」は見せるためにこそ、そこにある……。
「厚化粧」とは、そのような矛盾の上に立たざるを得ない造形物なのである。無限の葛藤の末に、そこにあるのだ。それは天才たる芸術家が葛藤を極めた末に作り上げた作品に勝るとも劣らない、押しと引きの微妙なバランスの上に成り立っている。化粧は芸術であり、遍く女は芸術家なのである(いや、遍く厚化粧ってわけじゃないけどね)。
■ナチュラルメイク派のお嬢さんには共感を得られるネタかもしれません。学校で、職場で、ぜひお試しください。ただし、キャバクラでは状況を選ぶでしょう。ましてクラブ/キャバレーでは血を見ること必至です。
■「嘘であることを知らないのと、嘘であると見抜くことと、嘘だと知りながらのせられること、どれが一番シアワセ?」
なんて、ちょっと気を抜くと電波受信中の文章を書きたくなってしまうのが人の性、というよりもWeb日記なんていう、プライベートとパブリックの境界線上に位置するものを書いてる奴の性だと言えよう。内容は隠しつつ外殻だけを出す、みたいな方法論ね。言いたくない、言えないことは書かずにおいて、言いたい、書きたいことだけを書く、というワガママな方式。実際、書きたくなることもあるっていうか書いちゃうこともあるわけだが。
しかし、わかってもらう努力というのはいつもしてないといけないなぁと思うわけですよ。詳しい説明ができるかできないかはともかく、なるべくそうしようという努力すらしないのは単なる怠惰でしかない。もちろん、個人が勝手にやってるWeb日記なんだから怠惰でも別にかまわないわけで、「努力しろ」ってのを他人にまで押しつけたくはないんだけど、でも怠惰なままで他人にわかってもらおうとするのはちょっとムシが良すぎる話だよな、そこはまた別のハナシだ、と自分にも言い聞かせる。やるとしても「たまに」、「どーしよーもないとき」とかにしましょう。他人もそんなにヒマじゃない。
■佐藤マコト『サトラレ』<1>(モーニングKC/講談社)を大購入術。む〜〜、やっぱ面白い。映画は第1話をやるのかと思ってたら、第4話だそうで。と思って読んでみたら、第4話は連載で読み逃していたらしく初読だった。泣きます。ていうか電車で泣きそうになってたり。こういう「人の心の表と裏の機微モノ」(?)には弱いんだよね、マジで(まあ描写にもよるけど)。
■映画も見なくては。あと『ユリイカ』と『回路』と……『式日』と『顔』と『バトルロワイアル』はビデオでいいかな……『シベ超2』はどうすっかな……『アヴァロン』はひとまず却下か。
■疲れたので、敬体はヤメ。
「遠く」を見つめたままでいることは、誰にとってもすごく難しいことだ。むしろ、「遠く」ではなく「私」(むこうから見れば「相手」)あるいは「近く」を見ることのほうが自然(「普通」)であると考えられていることのほうが多い。しばしば、相手が「私」に焦点を合わせているにもかかわらず、私が「遠く」を見つめたままでいると、それが特異になってしまうことがあるわけだ。いや、ほとんどの場合がそうなのかもしれない。
でも、「遠く」の話をしているとしても、それで「近く」を見ていないわけではないつもりなんだ。「遠く」を見ることは「私」を見ることも含んでいるはずなのに。しかしそのことは、大概うまく伝わらない。
こういう状況になるとちょっと悲しいんだけど、そう悲しんでばかりいてはいけないのかもしれない。そうなった時点で、コミュニケーションは成り立っていないわけだから。この状況は避けないといけないのかもしれない。
しかし、そうならない例、「遠く」を見たままでいられる例があるからこそ、どうすべきか戸惑ってしまう。「遠く」を見たままでも話ができる、進んでいく場合がありうるから。そういう例があるからこそ、常に「遠く」を見ることを促そうとするわけで。つい期待してしまう。求めてしまう。
しかし、「遠く」を見たままでいられることが極めてまれなのもまた事実で。それを求めてしまうと苦しいから、「近く」を見なくちゃいけないのかもしれないけど、「近く」を見るのがあまり楽しくなかったりもしてしまい。
ここで、自分の姿が浮かび上がってくる。「近く」をうまく見られない自分、あるいは「近く」を見ることをうまく楽しめない自分というのも浮かび上がってくる。でも、そういう自分の姿は、まだはっきりと見えていない。それを見てみたいと、最近ずっと思っている。
■こうしていると、また「遠く見ちゃってるよコイツ」となるわけです。
■今日という日に限って、「週刊モーニング」「モーニング新マグナム増刊」「月刊アフタヌーン」が揃ってコンビニに並んでいます。俺に勉強すんなっつーのか! いや、「しない」だけなんですけどね。テヘ。
■「新マグナム増刊」、今回の佐藤マコト『サトラレ』は、イジメに立ち向かう倫理観にあふれる少年のサトラレが、結果的に生み出す逆説の話。相変わらずイイ。
しかし、今回は特に川端総一郎『S60チルドレン』が特にたまらなくイイです。「ロック」と「勝くん」の共鳴が。コレだよ、コレ!
■ついに来たっ! 『スマグラー』もたまんなかった、期待の新作、真鍋昌平『THE END』。第一回はかな〜りテンション高いですよ。
『スマグラー』みたいに、テンションを保ったままスパッと終わらせれば、かなり気持ちいい作品になりそう。『デビルマン』を例にとって、4巻ぶんくらいはやってもいいかもしれないけど。
■主人公「シロウ」は、「毎日毎日詰まンなくって 何時もココじゃねェココじゃねェってイラついて…… 何もかもに意味を見出せなかった」。だが、そこに「ルーシー」と名のる「謎の少女」は現れる。「ルーシー」とは、全ての人間のルーツである、400万年前の少女の名だという。
彼女はこう言う。
世界は 素晴らしいはずなのに それを感じる能力が 弱くなるしばし続く、「ルーシー」との生活。彼女によって、「シロウ」の日常は破られる。「シロウ」はこう言う。
そこに あるのに……
あの娘と居ると 細かな事全てが嬉しくなっちまうンだそして、彼女に導かれるようにして、「恐ろしい事」もまた訪れる。「シロウ」に根拠不明の攻撃が加えられはじめる。シロウは「完全な闇」へと逃げ出すことを余儀なくされる。
本当のことを 知るのは怖い だが知らなきゃダメだ それが良くない事でもな「ルーシー」の謎を知るため、「自分と世界との係わりを確かめる」ため、攻撃の意味を確かめるため、「ルーシー」を捜すため、「シロウ」は「一歩踏み出すのが恐ろしい」「完全な闇」へと、「地獄」へと旅立つ。
■常々「まったり生きろ!」と繰り返す宮台真司は、「もはや日常の終わりなどありえません」と言うだろう。そして、「『日常の終わり』の訪れを描くこの物語が、脆弱な自意識を温存するのだ」と、この物語を否定するはずだ。
確かにそうかもしれない。脆弱な自意識は問題がありもするだろう。だが、せめて物語の中くらいは、いいのではないだろうか。現実の中で、もはやそれは得られないのだから。それは得られないからこそ、なおさらその物語は輝くのではないだろうか?
■しかし、宮台にだってそんなことはわかっているはずなのだ。宮台はそれでもなお、「そんなものはない、そこにリアルはない」と言うのである。あたかも自分に言い聞かせるかのように。いや、おそらく「かのように」ではなく、本当に言い聞かせているのだろう。本人が一番「まったり生きられない」ことを自分で認めている。彼はそう言わなくてはならないのだ。
真に読者が宮台真司の中に見るべきなのは、彼の持つ「弱さ」である。自分にそう言い聞かせていないと、前に進むことのできない「弱さ」だ。
宮台の「意味と強度」に関する言説をつかまえて、「弱いじゃないか」と批判することは、ある意味で正しい。それは確かに弱いからである。だが、その「弱さ」をもって宮台の言説全てを否定することもまた、難しい。彼は、自分が「弱い」からこそ、他人に「強くなれ」と言わなければならないのだから。そうしないと、自分が折れてしまうからである。
「弱さ」が垣間見えることで、宮台の言説がアカデミズムからは乖離し始めることは否めない。だが、人を理論へと向かわせるモチベーションは、常に私的なところから生じている。そして、「宮台のことが理解できない」とする人ほど、それを読みとる必要がある。なぜなら、それが現代社会の抱える問題の一端そのものを読みとることになるからである。彼にとって「他者」である宮台は、彼にとってまさに現代を生きる「他者」に他ならないのだから。
その「弱さ」を読み込むことで、彼の言説は輝きを失うどころか、むしろ輝きを増しはじめる。彼はアカデミズム的客観からは乖離しつつ、だがしかし「社会学者」としては成功していると言えるだろう。彼は、自分に「社会」を張り付けることで、それを的確に表現しているのである。かれは「社会学者」から離れようとしつつ、しかし社会学者でなくてはならない。そこに潜む逆説こそが、宮台真司の醍醐味なのである。
■あ、いつのまにか宮台話になってますね。日記でしか許されない話の飛び具合。かなりワザとやってたりします。
えーと、要するに、『THE END』はとても面白いので読んでほしいということだったんだけど……「少女」と「バトル」って構図は、まぁ古くさいとも感じるんですがね。でも俺、男の子だし、ジャンプ少年だったわけだし。
天秤座の方の占いが抜けておりました。お、天秤座って俺のことじゃん。
◆2/25(日)おお、25日って受験日じゃん、ってオイ。「益のない交際を断つ」って、そこまでハッキリ思ってないっていうか、う〜んでも、そうかもしれない。まあ結果的にはそんな扱いになるわけで。でも、「25日、私は『益のない交際を断つ』ために受験します。」っていうとカドがたつでしょ、ホラ。
人脈整理をしてみては。益のない交際は断つのが自身のためにもなりそうです。海外の童話を原語で読むと思わぬ発見がありそう。ラッキーストーンはピンクトルマリン。
■実際、そこまで「益がない」とも言い切れないから迷ってるわけですが。フォローじゃなくて、本気で。
■文章の形式[2001.2.20]に関連して、思ったこと。
この日記もそうだけど、Web日記で主流の形式というのはとても特殊なもので、1日の文章は↓方向へ流れつつ、全体としては↑方向へ流れていくという、「行ったり来たり」の形式である。「三歩進んで二歩下がる」っていうかね。なぜこういう方式にするかというと、ページが表示されたときに最新の部分が表示されることを狙ってるわけだ。
ここで、日付も上から下に向かう形式を取りつつ、最初に最新のものを表示させる方法を思いついた。
<a name="newest">みたいなアンカータグを用意し、それを毎日、日記を書くごとに最新の位置へ移動しつつ、***.html#newestにリンクを張っておけば、全体の時系列を逆転させなくても最新のものを読んでもらうことができる。
毎日読んでいる読者には、従来の方式でも時系列に沿って内容が伝わるだろうけど、初めて立ち寄る読者は、どうしても「過去に向かって」進んでいくことになり、そうすると、時間に従った組立てが崩れてしまう。ST……ページを表示したときに表示される位置
(従来) (新方式?) ↑ 2月3日 ←ST ↓ 2月1日 ↑ ↓ ↓ ↓ ↑ 2月2日 ↓ 2月2日 ↑ ↓ ↓ ↓ ↑ 2月1日 ↓ 2月3日 ←ST ↑ ↓ ↓ ↓
■「エンピツ」みたいに、1日ずつ別のファイルに分ける方式もあるけど、それじゃ細かすぎるし……。
■では、こう考えてみよう。まず「日本語」を二つに分ける。明治以前の「英語のない日本語」(日本語A)と、明治以後の「英語の少しまざった日本語」(日本語B)の二つ。
そして、浜崎あゆみは「日本語A」を肯定し、「日本語B」を否定している。つまり、「遠い過去」を肯定し、「近い過去」を否定している。
ふむ、浜崎は「遠い過去」を「日本文化」だと捉えている、あるいは捉えようとしてるのか。つまり「日本語」と「英語」を別のものだと考えて、両者の間にキッチリと線を引こうじゃないか、と言いたいわけだ。
こう考えると、ちょっと「ルネッサンス」に似ているかもしれない。ローマ=カトリックの支配による封建制を否定し、それ以前の古代ギリシャ・ローマの思想や文化を再評価する、まさに「文芸復興」みたいだ(予想外のことに自分で驚いたけど)。文化は常に「近い過去」へのカウンターとして動いていくけど、今の日本にも同じ構造があるわけだな。そう考えると、今の日本には、音楽だけでなく、他の分野でもこういう対立がたくさんあるような気がするなぁ。いま思いつくところでは、小林よしのりVS.宮台真司とか、同じような構造だよね(それを示すように、宮台は浜崎をほめている)。今度から、ちょっと気をつけていろいろ見てみよう。
それにしても、日本はルネッサンスの過渡期にいるんだろうか……そうだとすると、やっと明治以来の「お仕着せ西洋」から脱することができる、のかもしれない。浜崎あゆみから日本が見えてくる、なんつって。
■でも、話はここで終わらない(自分でも思わず終わらせそうになったけど)。最初に言った、「『日本文化』はどこにあるのか?」という問いに、まだ答えを出してなかった。
ここまで、「日本文化」と呼べるものは少なくとも二つあった。「明治以前の文化」と、「明治以降の文化」の二つ。これをさきほどの例に従って、こんどは「日本文化A」と「日本文化B」とする。
そして、浜崎あゆみは明治以前の文化を再び肯定しようとしていたわけだけど、仮にそれを現代に持ってこられたとしても、それは「明治以前の文化」(日本語A=日本文化A)とまったく同じものではない。もう既に英語は日本語に混じって(取り込まれて/溶け込んで)いて、実際に使われているし、そのほうが感情や感覚をスマートに表現できたりもする。その状態から、こんどは英語なしで表現をしようとするわけだから、「日本語B」で表現できていた何かを失うという不都合も起きることになるはずなのだ。この、「日本文化B」の後にやってきた「日本文化A」(=浜崎あゆみ)を「日本文化C」としよう。
つまり、三つの「日本文化」があると言える。当然、どれも同じものではない。じゃあどれが本当の「日本文化」なんだ? と考えたくなるけど、それは結局のところ「どれでもない」し「どれでもある」としか言えないだろう。時代が移り変わるに従って、クネクネとした動きを見せる、その動きそのものが「文化」であるとも言えるだろう。あるいは、「日本文化A/B/C」それぞれに共通する要素を抽出してみても面白いかもしれないが、結局のところ「文化」というのは、その作業が行われる前の状態であり、よくわからない、ぐちゃぐちゃとした、こんがらがった、それでいながらもある方向を向いているような、そういうものなのだろう。
う〜ん、またわからなくなった。
■最近では特にラブ・サイケデリコが「英語と日本語が混じった」歌詞を多用してるけど、これに関しては、「英語にするとカッコイイ」という単純なものともまた異なると思うので、それについても書いてみよう。
ラブ・サイケデリコの歌詞には、英語と日本語がほぼ[5:5]の比率で出てくる。今までの風潮は、いくら英語が多いといっても[3:7]で日本語のほうが多かった。それを考えると、デリコの歌詞に含まれる英語の量は明らかに過剰である。しかも、その歌を聴く人間は、その過剰にもかかわらず、妙にリアリティを感じてしまう。つまり、現代の日本人が「英語の混ざった日本語」にこそリアリティを感じてしまう、という逆説を、デリコの歌詞は「過剰に」刺激しているのである。それはむしろ、「英語混じりの日本語」にリアリティを感じる「日本人」に対しての皮肉や揶揄とさえ感じられるほどだ。
あるいは、ボーカルのKUMIは幼少期に英語圏に在住した経験があるらしいので、彼女自身のリアリティも、まさに英語と日本語の間のどこかにあるのかもしれない。だが、それは日本にしか住んだことがない人にであっても、むしろ日本に住んでいるがゆえに、デリコの歌詞の「過剰な英語」にリアリティを感じてしまう。英語は話せないけれど、でも身近に「英語」があるという生活が、そこにリアリティを見せる。デリコの歌詞は、現在の微妙な「日本文化」を浮き彫りにしてくれるのである。
ラブ・サイケデリコと浜崎あゆみが同時に流行ってしまう、というのは、ある意味でいまの日本を象徴しているかのようにも見えてくる。それは、どちらも「日本語B」を使っている私たちを浮き彫りにするものだからだ。デリコと浜崎をいっしょに食べると、両者がお互いを引き立てあっておいしくなるかもしれない。
■「日本語A」を、「日本語B」の後という文脈上に再び持ってくると「日本語C」になる、っていうのは、『存在論的〜』でいう「散種」のイメージに近いかも。エクリチュールが振動することで、別の意味が生まれる。
あいうえおさらに、日本独自の表示形式として「ルビ」がありますが、これもIEでは実装済み。詳しくはW3CのRuby Annotationをどうぞ。
かきくけこ
ABCDE
abcde
■昨日書いた実験[2001.2.20]の後日談。予定の期間が終了し、地下室で生活していた人が地上に出てきたとき、その人はまだしばらく実験期間が残っていると思っていて、予想よりも「早く」外に出されたことに驚いたそうだ。
つまり、生活したトータル期間の感覚は地上とズレていて、たとえば地上の時間で6ヶ月間入っていたとすると、中の人はそれを4ヶ月くらいに感じてたのね。間延びした「1日」を1日と計算していたため、外に出たときには「浦島太郎」状態だったわけ。かくも「時間」というのはいいかげんな概念だし、人の時間感覚もアテにならない……のはともかく。
ん〜、まさにこれ、身につまされる状態なんだけど。今までにも、漠然と「俺の時間はゆっくり流れている」と感じることはあったんだよね。でも、社会との折り合いってものがあるし。ん〜、どうしたものか。
たとえば「マレビト」(=浦島太郎)という方面から考えるとか、いろいろ解決策(やりすごし?)を模索する方法は考えているものの、どうも研究&実験環境が整わないし、そのようにうまくいかないことでモチベーションも上がらないという悪循環に陥っていて。
ん〜、現状では学問的客観からほど遠いわけで、学問と結びつけるのも難しいかもしれないけど……でも、どれだけ客観的な仕事であっても、そのモチベーションは個人の主観的な問題意識から始まっているわけだし……。
■「2ちゃんねる」ブラウザをオープンソースで作ろう、という趣旨の「monazilla」スレッドが立ち上がってました。ものすごくいいかげんな立ち上がりだったのに、なぜか公式?サイト「monazilla.org (藁」も立ち上がり、盛り上がりつつあるみたい。開発言語はDelphiで、名称は『モナプロ〜ラ〜』。
2/9にスレッドを誰かが、基礎ソースもないまま(たぶん気まぐれに)立てたんだけど、現状では既に、全板のスレッド一覧を取得できるバージョンがリリースされている(ソースのみ。Delphi持ってないので、使用感は不明)。まだ2週間もたってないのに。これが最初だけの盛り上がりなのかどうか、ちょっと注目。
■関数名は omaemona() とか itteyoshi() だし、コメントの例は
//だし、アホな労力がグー。
// ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
// ( ´∀`)< 文字列からほげほげを抜き出す
// ( ) \__________________
// | | |
// (__)_)
//
■は〜、受験まであと4日。何もできない。もう諦めに近い感覚が……。九鬼周造によれば、「いき」のキーワードのひとつは「諦め」。おお、粋じゃんおれ(まちがい)。
でもなぁ、現状のままだと真剣にヤバそうだし……日記は今月100Kいきそうだし……マズイ。
■ほら、俺のオリジナルサイクルだって「ありうること」なんだよ。と、自己正当化してみる。まー地球には適応できてないんだけどね。俺は火星くらいのサイクルなのか?
あ、そうそう、だから人間は火星とかに移住しても、最初に混乱するだけでけっこううまくやっていけるような気がした。とりあえず生活時間に関しては。
■同じように、1サイクルが24時間だとしても、一日のうちのどの部分を生活時間とするか、ということも実は自明ではない。だいたいみんな16時間起きて8時間寝る、くらいの生活をするだろうけど、その16時間をどの位置に持ってくるか(つまり起きる時間と寝る時間をいつにするか)には「あたりまえ」が無いんだよね(もちろん、同じ会社だの学校だのに属していれば、つまり同じローカルな社会に属していれば、そこにいる人同士は似通ってくるから「ほぼあたりまえ」みたいなことはある)。
それを示すかのように、企業ではフレックス・タイム制が導入されたし、俺が小学生の頃は7〜8時台だったテレビの「ゴールデンタイム」も、今や10〜11時台になってしまった。どんどん生活時間帯は夜の側へ動きつつある。これは以前が昼中心の生活だったから夜の方へ動いているだけであって、また昼の方へ動くということもありうるだろう。
■というように、すべてが胡散臭く見えていたりします。これは昔からなんだけど。
まあ、みんながバラバラな生活をするといろいろ不都合があるから、みんなで同じにしようとするんだ、というのはわかってるんだけど。でも、みんながバラバラだとやっぱり面白そうだなぁ、とも思ってしまうんだよね。
■漠然とした「不満感」がたまってきました。これはいい兆候です。しかも、その「不満感」はじっくりと醸成されており、少しずつ形をとりはじめる予感があります。さて、この先どうなるか。
■「階段を楽しくのぼる方法」を発明した。楽しいよ。危険だけど(どっちやねん)。いやちょっとスリルが。
■「おまえは自分で『才能なんてありふれてる』と言いながら『才能の存在を認めない』って言ってるやんけ!」と、自分で自分にツッコミを入れてしまった。これはちょっと「才能」の使い方があいまいでした。でも矛盾はないんです、自分としては。
前者の「才能」とは、「賢い努力」の結果として醸成されたもののこと(「実力がある人はたくさんいる」くらいにしとけばよかったかも)。対して後者の「才能」とは、「天性のもの」みたいな意味です。
スポーツのように身体能力が問われる場合だと「天性」はある程度左右するかもしれないけど、それ以外のほとんどのことでは「天性」は必要ない……とは言い切れないけど、ひとまずは必要ないと思う。というかむしろ、ある一定のレベルまでは必要がない(これはスポーツだってそうかもしれない)。
だから、「賢い努力」をしていれば大丈夫。でもそうすると「努力をする才能の有無」みたいな言い方もできるわけで、それやってると無限後退してしまう。となると……もう「才能/努力」という二分法自体に違和感を感じてきた……。すぐには代替案が出てこないけど。
■上のような誤解は、おこりがちだと思う。論争とかでは、言葉の表面をつかまえて「おまえの主張は矛盾している、従っておまえの主張は誤りだ」という推論で相手を追いつめることがありがちだけど、実は表面上矛盾していようと、それに込められた意味は矛盾していない場合がありうる。だから、なるべくしっかりと確認しながら話をするべきだといつも思うんだけど。
■でも、つきつめて考えると、それは記号を使ってコミュニケーションしてる限り原理的に避けられない問題なんだよね。○○の意味は△△で、△△の意味は□□で……と、永遠に意味を追いかけて後退していくしかなくなる。
だから、「意味が通じる」ということ自体がありえない。これは事実。……が、かといってそこには何も無いのか? というと、やっぱりそんなことはなくて、「そのものがそのまま伝わるわけはないけれども、でも伝えようとしていないわけではない」ということなんだと思う。少なくとも「0か1か」という点で違いはある。
そして、「伝わらない」にもかかわらず人がコミュニケーションするのは、「コミュニケーションしているという事実」、つまり「何かをやりとりしようとしている」という事実そのものが、人間にとってうれしいからなんだよね。
■これってテレビゲームとすごく近いと思った。コントローラーと画面は実際に繋がっているわけではないし、連動する保証はどこにもないんだけど、プログラムをうまく組んで、さも連動している「かのように」見せることはできる。そして、それしかできない。
で、テレビゲームの何が楽しいかっていうと、その連動している「かのように」見えるところが楽しいわけで、それが「かのように」見えるだけだということがわかったとしたって、楽しいものは楽しい。つまり、何かアクションを起こす(ボタンを押す)と、リアクションがある(画面に動きがある)ということ自体が楽しいんだ。で、結局はそれしかないんだ。
これはけっこう悲しい結論で、つまりアクション−リアクションが楽しいだけなんだよ。と、絶望してしまったりもするが、でも「それでいいんだ」と希望を見出すこともできる。
■……でも、つきつめると、人を殺すのもアクション−リアクションになりかねないんだよね……それを「いけないこと」とするのは難しいことで。俺は「いけないこと」だと思えているわけなんだが、そう思わない人も間違いなくいるわけだからね。むむむむむ。なぜ「いけないこと」だと思えるようになったかというと、うまく刷り込まれたからなんだろうけど、その「刷り込み」がうまくいってない場合もあるわけで、そういう人に後からわかってもらうのはとても難しい……。
■ん〜、なんかここんとこずっと同じことを言ってるな。まあいいか。この日記の名前を「実録・お百度参り」にしようかな。
■俺は「縦書き」がすごく好き。ていうか、ただ単に文字の電子化によって横書きがあふれ返っているのが気にくわないだけなのかもしれないけど。たしかに横書き結構、理にも適っているような気がする。目は左右に一個ずつついてるんだしね。
でも、縦書き文を読むときと横書き文を読むときでは、脳の働く部分が違うらしいという話を聞いたこともある。それがどっちかになってしまうのは、なんかもったいない気がする。
でね、ここでひとつ気になるのが、W3CにはSFCもからんでるってことなんですよ。W3Cには縦書き文化圏に属する組織が参加してるわけですよ。でもHTMLに縦書きの機能はない。
そういう文化に関心がないっていうのは、いただけないなぁと思うんですよ、オヤジ臭く。ひとまず「縦書きタグ」をW3Cにネジ込めや、村○純!!(と本人の目の前で言い放つことはできないだろうなと思った)。<BLOCKQUOTE>みたいに、タグで囲った範囲が縦書きになるとかできそうだけどなぁ。CSSで<DIV>のエレメントとして指定するとかでもいいけど。
でも、コンピュータ上で「縦書き」表示できるエディタやビューワはもうあるけど、実際に表示してみるとどうしても違和感があるんだよなぁ。なんか読みづらい。単なる慣れの問題なんだろうか、それとも何か原因があるのか? というあたりはちょっと気になるのだが。
[※訂正:「HTMLに縦書きの機能はない」とありますが、この時点ですでにIE5.5にはその機能が実装されていました。無知でした。2001.2.21で、もう少し詳しく訂正しています]
■上のを書きながら、文の書き方には複雑な関係があるなぁと思った。
まず、一行の文を考える。これには[縦/横]の区別があって、さらにそれぞれ進行方向が二つある。縦なら[↑/↓]、横なら[→/←]がありうるということね。ここまでで 2^2=4 (2の2乗)で4種類。実例は以下の通り。
こんにちは。 (1)次に、複数の行がある文を考えてみると、一行の次元とは違う次元に進行することになる。えーと、「行」に対して「列」か。そう呼びます。つまり、「行」が縦なら「列」は横、「行」が横なら「列」が縦になる。でも、そのときどちらの方向に進むかということに必然性はない。
。はちにんこ (2)
こ 。
ん は
に ち
ち に
は ん
。 こ
(3) (4)
■……あー、ここからどれがいちばん人間にあった書き方なのかを考えようと思ったんだけど、ここまでたどり着くだけで疲れてしまった……まず、「数学的な考え方をすればいいんだ」ってことにしばらく気づかなかったし、気づいた後も、考えるのにやたら時間がかかる。やっぱ数学やってないからなー。やりたい。ってわけで、今年の課題を「数学」としつつ、今日はここまで。
■つーか、「どれが一番いいか?」とつきつめたとしても結局「どれでもいい」という結論が、たぶん出る。あとは、「そんなこと言われても、いまさら変えられない」とか、「自然淘汰の結果として今の方式があるんだから、現状維持が一番でしょ」とかね。
よーするに、やってもムダ!! ギャー!! ……まったりまったり。
■とか言いつつ、選択された方式が言語体系そのものに影響してたり、あるいはそれを使う人の考え方に影響を与えてるかもしれない、脳味噌の働く部分も違うんだしね、としっかり睨んでみたりする。ゲッヒッヒッヒッ(©関優勝/ギャンブルレーサー)。
でも、実際に検証するのがえれーめんどくさそう。誰かやってそうだけど、やってないのかしらん。
■その恐ろしきインパクトを発生する文体が、俺にも少なからず影響を与えたり与えなかったりしているスタパ齋藤が Alt-R に連載している日記「スタパライフ」から引用。
前日から稼働し続けて昼過ぎに寝たら、この日が過ぎてしまった!! 感覚的には“ない日”!! 確かに通過した日なのだが、経験として残らなかったような一日になった感じ!! 10個パックのたまごを買ったけど1個落として割っちゃったので10個ゲットなのに9個ゲットな気分ってそれじゃあ“ない日の感覚”の例えにならなさ過ぎ>俺。くわ!! “ない日”ってすげえビシッとくる表現かも!! もしかしたら俺って“ない日”の経験が、普通のひとよりかなり多いかもッ!! ていうかすげえ多い。だからあんまし歳喰ったっていう自覚もないのかもしれないと思った。
(「スタパライフ」2001/02/18 08:04「多数の軍用機が頭上を通り過ぎて」より)
■「ない日が続く」。いま読んでドキッとしたやつがいるはずだ。
「これを読んだやつは、“ない日”が続いてしまう」という不幸の手紙はイケるかも。
■今後、「絶望」という言葉を使うのは慎重にいこうと思います。特に自分について。なぜなら、「絶望」はもっと深刻な場面で使われるべき言葉だと思うからです。
といっても、特に何か原因があったわけではなく、「失望」という表現を思いついたときに、そのほうが適切な場合が多いのではないかと思っただけです。ある「絶望」は、単なる「失望」でしかないと気づいたわけです。それが「わがまま」に端を発することには、前からうすうす気づいていたのですが。
今まで「失望」と「絶望」の使い分けをあいまいにしてきました。というより、いままでほとんど「絶望」だけを使ってきたのですが、それには実は2種類あった、と言うほうが適切かもしれません。「絶望」という語を使うべき場面もあるにはあるのですが、それは比較すると少なく、ほとんどは「失望」のほうが適切だと思います。この誤用は、やはり自分の甘さに由来します。
■と、告白文体で深刻っぽく書いてみましたが、そんなことはありません。今まで「失望」なのか「絶望」なのかをしっかりと考えてこなかった、というだけです。ただ、「失望」の連続が「絶望」を予感させる、ということはあります。わかりづらくいえば、経験的帰納によって「失望」が「絶望」になるというわけです。「あれ〜? もしかしてこの先もずっと失望なんじゃないの?」という、「絶望に限りなく近い」感覚です。
他に、もっと複雑な「絶望」もあるのですが、説明しにくいっていうか自分の表現能力と相談したら「できない」という答えが返ってきてしまいました。
ということを承知で、少しだけ説明してみると、「他人と完全に理解し合うことは不可能」という事実に由来する「絶望」です。「お互いにわかりあっている」という感覚は、実は「お互いにわかりあっていると思い込んでいる」だけに過ぎないわけです。これはいくらがんばってもおそらく乗り越えられないことで、現在のコミュニケーションスタイルの限界です(最近、脳波を使った意思伝達の可能性が見出されましたが、これはちょっと注目しています。怖いけど。しかし理解不可能というのは本質的に変わらないと思いますが)。コミュニケーションの不可能性は、自分でもかなり昔から漠然と感じていたことでしたが、学問の世界では、それよりもさらに前から認識されていたことでした。それを知ったときは、少し安心し、それはそれで面白いことだとも思ったのですが、しかし人間は本質的に孤独であることを意味しますから、「絶望」も確かにしてしまうわけです。
■ひとまず「絶望」はそのくらいにして、ここからは「失望」を考えます。まず「失望」する対象が、自分である場合と他人である場合が考えられます。
自分に失望するのは、自分が自分に対してする要求に、自分が答えていない場合に感じるものです。さらに、自分が周囲からされていると思われる要求=期待に対して応えられていないと思った場合にも感じます。この二つは、他人にとって無害です。そして、自分にとっても有益なことが多い。ときには高すぎるハードルを設定することで自分に害となることもありますが、しかしこれをなくしてしまうと成長もありえず、むしろ適切な高さを選べば有益になることのほうが多いものだと思います。
その一方で、自分以外のなにかに「失望」する場合があります。自分があまりに高いものを求めすぎているゆえに、その希望がかなわなかったときに抱く感覚です。自分の行った要求に対して、提供されたものが低いときに感じるわけです。
で、そのような感覚を表現するとき以外は「失望」を使うようにしよう、とも思ったのですが、特に他者に対して「失望」という言葉を使うときには、自分の「思い上がり」ぶりが自分で鼻についてしまい、どうも使いづらかったりします。「お前は失望できるほどエライのか?」というツッコミを自分に対していれてしまう。
しかし、現実問題として、どうしたって「失望」することはあります。確かに、それが単なる自分の思い上がりで、後になってそれに気づいて後悔することも多いのですが、一方で、そうでない場面も確かにあると思うのです。しかし、それが思い上がりだと気づくのは、常にあとからであり、その時点で判断するのは難しい。だから迷うわけです。
一方で、自分だけでなく他者に対しても高いものを求めることはまた、自分の成長にとって欠かせないことだと思いますし、それが他人を成長させる可能性もあります。有益なことでもありうるわけです。しかし、そこでは、自分が行う要求と他者の行う(自分がされる)要求が一致しないという問題がおこりがちです。経済という考え方は、人間関係にも応用可能です。お互いが、ある「もの」に対して考える価値が一致しなければ、取引は成立しません。同じように、コミュニケーションも成立しなくなります。どちらも「交換」なのです。
そしてまた、袋小路に戻ってきます。自分は思い上がっているのか、それとも正しい判断をしているのか。この迷いに名前をつけるとすれば、「オークションのジレンマ」とでも言えるかもしれません。自分が何かを見つめる目は、判断力は正しいのか、間違っているのか、それを決めるのはとても難しい問題なのです。
最終的に「品物を買うかやめるか」を決断するには、自分を信頼するしかありません。「自分は正しい価値判断能力を持っている」と判断した場合、自分があらかじめ設定した目標価格の範囲内ならば、強気に値段をつけつづけることができ、その範囲を出た場合は手を引くこともできます。そして、「自分は正しい価値判断能力を持っていない」と判断した場合にも、そのオークションからは手を引くことができます。後者の判断は、逆説的ですが、「判断力を持っていないと正しく判断する」能力が問われるわけです。
ですが、常に自分を信頼できるわけはありません。自分があらかじめ設定した価格以上に値段が上がった場合、「自分と競っている相手のほうが正しい審美眼を持っているかもしれない」と疑ったりしてしまうわけです。常に「自分が正しくない可能性」は存在しつづけます。そして、本当に自分が正しかったかどうかに気がつくのは、常にオークションが終わったあとなのです。現場でオークションをしている間は、常にギャンブルをしなければならないのです。
このジレンマは、オークションだけでなく様々な場面に応用できると思います。そして、「失望」に対しても適用できます。「失望」という言葉を使うのは、まさにギャンブルなのです。そして、その「失望」に従うかどうか、つまり自分を信じるかどうかもまた、ギャンブルであるわけです。
弱いんですよ、ギャンブル。自分を信じるのがヘタなのかな。
■相手から「失望」されるってこともあるよね〜というわけで受験まであと4日。日記書いてていいのか、いやよくない。
しかし、今日も aiko は「疲れてるんならやめれば〜♪」と唄う。いや、アタシにゃアンタ自身が「三角の目をした羽ある天使」に見えるよ、まったく(さくらももこ風)。
blur も「いくら言葉でいっぱいになっても結局空っぽなまんまで、ドアを見つけることなんかできないんだから、コーヒーとテレビがあればいいのさ〜♪」(ムリヤリ訳)と唄う。でも、まだそうはなれないらしい。しかしヤル気が起きないのも確か。
ああ、また「やめれば〜♪」と aiko が唄う。aiko に負けそう。
ていうか aiko『花火』→ blur『Coffee+TV』 ときて、マジでもう一回『花火』がかかり、書こうとしてた内容とシンクロしたのでびびった。
■くわッ!! こんなときは、ミニモニ『じゃんけんぴょん!』しかないッ!! みどりの野菜を食べるだぴょ〜〜〜ん☆(白目+口半開き+よだれ)
と、逃げていたら「自分を信じてゆくのだぴょ〜ん♪」だって。逃げきれず。
■最近、「2ちゃんねる」で流行っている(;´д`)という顔文字がお気に入りです。気分とハマってます(;´д`)
■今日のプレイリストは Readymade 524 mix 特集。Jackson 5『I want you back』、慎吾ママ『おはロック』、YMO『TECHNOPOLIS』、『ルパン3世のテーマ』……これだけ毛色が違うのに、リミックス後は全部同じ空気だ……。小西マジック。
にしても、この人は本当にカタルシスのツボを外さないのですごいと思う。勉強になります(必要ないけど)。
■その後、ふと思い立ち、おそるおそる「青空文庫」をチェックしてみたら……やっぱりあった、九鬼周造「いきの構造」(しかも底本が岩波文庫版)……まあいいか。
■つらつらと著者リストを眺めていたら「西田幾太郎」の字が目に入ったので、『善の研究』を落とし、ひとまず「序」を読んでみた。で、その「序」が、下の段落で締められている。
思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。……やっぱみんな思うんだね、「禁断の果実」ってね(俺は人から言われてそう思うようになったけど)。ていうかそもそも「創世記」がそういう考えを根底にして書かれてるのかな。
■その後、西田は「版を新にするに当って」の中でこう述べている。
この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。と、後悔するようなことを書いていて、他にも「再版の序」では、絶版しようと思ったとも書いている。もちろん、思索の途中段階で出版した論であることの後悔もあるだろうけど、そこにはおそらく「若さゆえ」の先走りについての気恥ずかしさもあったんじゃないだろうか。そして、さっきの「禁断の果」に関わる悩みもその「気恥ずかしさ」の一部を構成していたかもしれない。それが単なる「若さ」、さらに言えば「幼さ」であることは、「幼い」その時点ではわからないものだから。
■じゃあ、上のように悟って書いている俺はいったい何なんだ? 若いの? 歳食ってるの? ……と考えるのは一時中止。疑問だけど。
■さらに青空文庫からもらってきた、エリック・レイモンド著、山形浩生訳『伽藍とバザール』(プロジェクト杉田玄白正式参加作品)を読む。著者はオープンソースプロジェクトとして fetchmail というソフトを成功させた人。その経験と、リーヌス・トーバルズ(Linux カーネルの開発者ね)を分析することで得た、ボランティアによってソフトを作ること(バザール方式)の利点、実際の難しさ、それを成功させるためのノウハウを論じている。
この論文はコンピュータソフト開発者だけに読まれるべきものではない、というか彼らだけに読ませとくにはもったいなくて、もっと広い範囲の、みんなで協力して何かをしようとしている人たち(それこそアルバイト先の人間関係に悩んでるような人でさえ)が読んでも、得るものの多い論文だと思う。そして、訳者の山形浩生は、まさにそういう目的でこの論文を邦訳し、青空文庫に提供しているのだ(と思う)。
たとえば、最初のほうから少しだけ引用してみると、《評価してもらえるのは結果であって、そのための努力じゃな》く、《白紙から始めるよりは、よくできた部分解からはじめたほうがほぼ絶対に楽》とか、《一回とりあえず解決策を実装してみるまでは、問題を完全には理解しきれない》から《捨てることをあらかじめ予定しておけ》などなど、他にも「そうかもそうかも!」と思う部分がいくらでもある。
まーつまりは、必読ですよ(特に某S○Cのやつらは全員読むべき)。わからないコンピュータ用語はすっ飛ばしてもいいから(俺は技術説明の部分はほとんどわかんなかった)。だし、まず面白いし。
■そういう意味では、コンピュータ上のコミュニケーションが、むしろ古くからある人間関係を維持するノウハウを必要とするまでに進化した、つまりコンピュータ上のネットワークと生身のコミュニケーションはますます接近してきたと言えるわけで。もうコンピュータ上で編み出されたノウハウが、生身のコミュニケーションにも応用できるほどになってるんだからね。
だとすると、「コンピュータには詳しくないけど、コミュニケーションは得意だ!」っていう人が、今度はコンピュータを使って活躍できる可能性も増しているのかもしれない。
■むむむ、宮台真司が必要だと主張する「コミュニケーションスキルの獲得」は、さらに重要度を増してきているとも解釈できる。むしろ宮台の用語法や文脈よりも、少し広い意味で「コミュニケーションスキル」を解釈できるようになるかも。
■もちろん、エリック・レイモンド(と山形浩生)や宮台真司の言うことは、そんなに簡単に実行できるものじゃないんだけど。普通はここで「努力と才能」とか言っておく場面だけど、俺は「才能」の存在を認めない立場なので、「かしこい努力」が必要だと言っておこう(ただ「努力」だけしても無意味なことがあるから)。
■結論と私信: いいなあ、これから某話し方教育センターが大繁盛しそうじゃん。株買っておこうかな。
■あとね、俺はオープンソースの成功から、その次なる可能性を「2ちゃんねる」に見てみたい。あそこはすごいよ、面白くないスレッドは容赦なく(罵倒されながら)下に埋もれていくし、みんなの関心が集まるものは、いかに話してる中心者たちが上げてほしくなくても上がっていく。しかも、Niftyのような従来の議論の場と比べて、淘汰のサイクルが全然早い。罵倒されたり煽られたり、というのはデメリットかもしれないけど、淘汰のサイクルが早まるという点では「匿名性」がメリットを生んでいる。
『伽藍とバザール』でも言われるように、まさしく「自由市場や生態系のような動きを見せる」。その構造は、「『セクシー』で技術的に魅力ある仕事でしかあてにならない」というオープンソースプロジェクトと、考えれば考えるほど似てくる。
あそこをうまく使えば、恐ろしく生産的で洗練された何かができるような気がしてならない(とは言っても、恐ろしくうまく使わないといけないだろうけど)。なんとかならないかなぁ、と思いながら、今日も「かちゅ〜しゃ」を使い倒してみる。これも「2ちゃんねる」で生まれた(自身が生み出した?)ソフトなんだけど。
「匿名性」は、確かにデメリットもあるけど、上にも書いたように、必ずしも悪ではないと思う。陳腐な例だけど、「気性は激しいが速く走れる足もある暴れ馬」のような。もしも「煽り」がなくなったら、何も面白くないわけで。ていうか(煽ったこともある立場から言っておくと)、そもそもあの「煽り」は完全に悪意から行われてるわけじゃない(この分析もいずれやるかも)。
そして、それを操るノウハウのヒントは、まさに『伽藍とバザール』が提供してくれている、かもしれない。
■あー、ここんとこの日記を読み返すとずいぶん穴凹が見えてくる……。まあ、ほぼ思いつきをライブで書いて上げてるようなもんだからいいや。
ていうか、論理的に穴があることを後悔しなきゃなんない「日記」って。
■ついに本人が2chに登場か? ってわけで多少の盛り上がりが。
■誰かと話をしているとき、しゃべりかけられたある言葉に複数の解釈可能性があると、ちょっと戸惑う。というか、場合によっては言葉の定義があいまいすぎて何を言ってるのかわからなくなることさえある。そんなときはできるだけ直前までの文脈をさかのぼって意味を確定しようとするんだけど、それでもわからないときはけっこう困る。ひとまず話を流しながら、さりげなく文意を聞くこともできるけどね。
こういう場面は、けっこう日常的にあると思うけど、一番おもしろいのは、他人同士の会話の中でこれを発見したときだ。「あ、この二人は同じ単語を使ってるけど、実はぜんぜん違うことを言ってるぞ」と思った瞬間、その行き違いの行く末を見届けるために、つい集中力を高めてしまう。
たいていの場合は、しばらく会話が進むと、お互いに話が通じていないことに気づいて、「あれ? それって○○○ってことだよね?」と確認をして場は収まる。しかしなぜか、意味は違っているにもかかわらず、お互いにぜんぜんそのことに気づかないまま話が進んでしまう場合がある。
そんな二人を傍観している自分は、楽しみながらも、とても迷ってしまう。この場は話が通じているんだから、流れを止めないほうがいいのか。それとも、行き違いがあることを指摘したほうがいいのか。実際には、行き違いがあるとマズイような、ある程度重要な話題のときは指摘するようにしてるけど、世間話のような軽い会話のときは、指摘しないことのほうが多い。会話は「流れる」ことも大事だからね。
でも、流してしまったときは、妙にモヤモヤとしたものが残ってしまう。ハラのおさまりが悪いというか、スッキリしない。もしそこで発言を求められたりしたら、何を言っていいのかわからなくなる。どっちの意味に従って発言すればいいのかわからないわけだから、「おまえはどっちにつくんだ?」と問いただされてるようなもんだからね。そんなときは「もー、お互いしっかり聞けよ!」と心の中でつぶやいてみる。
でも、「ですからみなさん、言葉はしっかり定義して会話して下さい!」なんて言いたいわけじゃない。しっかり定義しながら会話できるならもちろんいいけど、実際には冗長で退屈な会話になっちゃうだろう。スムーズな会話をしようとすると、どうしてもある程度あいまいな言葉に頼らざるを得ない。でもそれだと、きちんと言葉が伝わったかどうか、いつも不安になってしまう。片方を重視すれば、もう片方がおろそかになる。あちらを立てればこちらが立たない。うーん、永遠に解決しない問題なんだけどね(しゃべる場合だけじゃなく、書き言葉についてもあてはまる問題だと思う)。
というわけで、いつも困りながら、しゃべったり、しゃべられたりしています。
■椎名林檎の最初のアルバムは『無罪モラトリアム』。でも現実には、「モラトリアム=執行猶予」がついているのに「無罪」ということはあり得ない。したがって、ここには何らかの意図があると読める。そのことから、『無罪モラトリアム』という表現に、椎名林檎と「モラトリアム」との複雑な関係を読みとることができるのではないだろうか。椎名林檎自身もイギリスでモラトリアム生活をした経験があり、デビューするかしないかという時もずいぶん迷い、悩んだという。
「何者にでもなれるように」と準備することは、「何者にもならない」ということを意味する。しかしそれはまた、「何者にもなれない」という逆説を導いてしまう。なりたい「何者か」というモデルが無いまま、それでもいつかそのモデルが見えたときのために、「何者にでもなれるように」準備すればするほど、「何者にもなれない」という循環から抜け出せなくなる。
ここで重要なのは、なりたい「何者か」という対象が見えていない場合、「何者にもならない」と考えるか、それとも「何者でもかまわない」と考えるか、という違いだ。同じ「何者にもなりたくない」人であっても、この二者に分けることができる。なりたい「何者か」が無いならば、とりあえず「何者でもいい」と考えて、手近にある「何者か」になってしまおうとする人と、「何者にもならない」と考えて、本当になりたいと思える「何者か」が見える/現れるまで待ってしまう人だ。
心理学者の小此木啓吾は、「モラトリアム人間」を、「変化の激しい現代ではむしろ適応性が高いかもしれない」として評価した。だが、ここで二つに分類した「モラトリアム人間」をひとくくりにして考えるのは危険であろう。たとえ時代が安定しはじめたとしても、「何者にもなろうとしない」派の人間は、そこでも再び「何者にもなろうとしない/なれない」という選択をしかねないからである。
椎名林檎はなんとかこの循環から抜け出した。そこには外部から与えられたきっかけもあったのだろうが、それだけで脱することができたわけではなく、本人が何らかの選択を行ったはずだ。循環に陥った者がその外に出ることは、どんな状況であれ不安なものだと思う。だが、何はともあれ彼女はそこから外に出た。んじゃないだろうか。
では、椎名林檎が行った「選択」とはどのようなものだったのだろうか。「循環」を抜け出すことができたのは、なりたい「何者か」がはっきりと見えたからなのだろうか。いや、そうではないはずだ。彼女は、あえて70年代の残像を身にまとい、ノスタルジー・アイドルとなることを自ら引き受けたはずなのである。つまり、あらかじめ自分が設計したモデルを実現したのではなく、自分に他者の理想像が投影されるという道を選んだのだ。いやむしろ、そもそも「設計」などできず、モデルもあり得ないことは、自らの「循環」運動が何よりも証明しているのだから、彼女はそうせざるを得なかったのである。
これは、「何者にもなろうとしない」派への決別選言であると同時に、死刑宣告でもある。「理想の私」像などあり得ないことは、たとえ「何者にもなろうとしない」派であっても、薄々わかってはいるのである。モラトリアム時代の椎名林檎もおそらくそうだった。しかし、それでもまだ「何者にもなろうとしない」まま、「循環」に捕らえられて外に出ることができない。椎名林檎もまたそちらに属する一人であったのだが、しかしそこを脱し、他人に弄ばれる自分を選んだ。そしてその姿を見せつけているのである。「何者か」などあり得ないことを「何者にもなろうとしない」者に突きつけている。あるいは同時に、「他人に弄ばれるのもけっこう楽しいのよ」という、逆説的な愛がこめられたメッセージであるとも解釈できるかもしれない。それでも彼女は「モラトリアム」を「無罪」としているのだから。
「何者か」になるために必要なことは、希望に適う「何者か」などそもそもありはしないことを知り、しかもそれを受け入れるという、二段階の作業である。そして、そのすべてを知りながら、絶望した状態から、確信犯的に他者の要求を呑み、「何者か」に身を包んで舞い踊ることなのである。
だが、その一歩の大きさは、「何者にもなれない」者からはとてつもない一歩のように見えてしまうのではないだろうか。しかし、「準備」は永遠に整うことがないのもまた確かなのだ。
■このまえの「デビルマンになれ」と言われたのは、この前者になれという主張だと解釈しております。あなたは間違いなく「何者かになる」ことを選べる人であります>ゆ。
■とか書いてる最中に、「ラジオからくるりが流れてきたから」というよくわからない理由でマーク教授から電話。「早く『論文』を『執筆』してくんないと困るんだよチミィ、ていうか早くしやがれコラ」というお達し。いや、私も椎名林檎化したいと願う次第なのでありますが、善処いたします。
■偶然を必然だと感じることが人間の特徴であるなら、それに違和感を感じてしまう俺みたいなやつは人間失格してるのかもしれない。でも、その「ズレ」を肯定して、記号をズラすことが「面白い」と感じる感覚もまた特徴的で、それは新しい文化が生まれるときに必ず伴っている操作だとも思う。その点についてはこのへんの話題とからめつつ、またこんどにしよう。
■「アフタヌーン シーズン増刊 Spring」を買う。
遠藤浩輝『Hang』……『EDEN』はまだどうなるかわからないけど、遠藤浩輝はとりあえず短編描かせたら間違いないっすよ。相変わらず『アキラ』が抜けきらないけど。
漆原有紀『蟲師』……ギンコの顔が変わった、ような気が。前のまったり顔のほうが好きだったかも。今も悪くないが。
弐瓶勉『NOiSE』……『BLAME!』との関連がハッキリしてきたね。「ネットスフィア」ってのはネット接続企業で、他にも企業があった時代があるんだ。つーことは『BLAME!』よりもかなり前のハナシなんだな。あと、「珪素生命」の由来もちょっとわかったし。『BLAME!』に「珪素生命」が登場するということは、「結」は「ネットスフィア」の思い通りにはならないんだろうが。むー、設定オタクの魂を震わせるマンガだ。
杉原亘『ババと友達』……「うんこを扱いながらもセンスがある」(かわぐちかいじ評)、ほんとにあるかも。商業的には難しいだろうけど、うまいこと客をつかめればなぁ。って、モーニング系の新人ってこんなんばっかだけど。
才能なんて実はありふれたもんなんだよなぁ。売れる「才能」はまた別だけど(「アフタヌーンは『女神』で持ってる」という噂は、ものすごく説得力あるし……)。
■テレビブロスも買っていた。普段から異色な雑誌だけど、先週の特集が「大リーグ後の新庄を考える。」、今週は「途中降板物語」と、なんかキレてるっていうか編集者の力がみなぎって、毒舌のペンも走りまくっている。どうしたんだブロス? いいぞブロス! 表紙にもコラムにもテレビに出るようなタレントを使わない雑誌ならではだ!
ていうか、「あと○号で廃刊」とかだったらヤなんだけど。でも、いつものブロスもこんなもんか?
■テレビなどでインタビューを見ていると、よく見かけるやりとりがある。インタビュアーの振りは決まって「では最後に、テレビの前のみなさんに、ひとことお願いします」
「夢は必ず叶います。がんばってください!」(さわやかな笑顔つき)ああ、書いてても鳥肌たってきた。
■ああ、また考えて損した。上の話の良い例になっちゃったし。本当にそんなつもりなかったんだけど……こうやって私はいつも転んでいます。
なんでこんなに転ぶのかな。もしかすると、無意識の部分がバカなのかもしれない。無意識に上の結論を出せれば転ばずに抜けられる部分を、俺は切り抜けられないわけだから。
■「ニュース23」が「幸福論」という企画をやってた。ああ、若宮台みたいなキャラが出てますね(彼のHPはここ)。明日はエロゲーマーか。こんなの何でもいいんだろうけど。
さて、宗教的/社会的な、その時代を生きる人にとっては絶対的とも思われる規範がある状態ならば、その規範が「幸福」を決める。それならラクなもんである。
でも、今俺が生きている視界からは、つまり今の日本には、そんなものは無いように見える。そういう状態では、幸福感なんて、そのとき得られない、得がたいもの(物理的なものにせよ観念的なものにせよ)が手に入ったときに感じるくらいじゃないだろうか。だから、手に入ってしまえばすぐに幸福感は去っていく。
普遍的な幸せは無い。だから必然的に、揺れ動き続けることしかできなくなる。カウンターからカウンターへ、価値から価値へ、快から快へ。
そして、それに虚しさを感じたときにとるべき道は……どう考えても「考える」ことだと思えるんだけど、とりあえず俺の場合は。俺はそこに価値があるという規範を生きているってことか?
あ、この23の慶應生も自分で階級/規範つくってますね。でっかい規範がほしい人も多いだろうなぁ。誰かキリストとかムハンマドみたいなのが出てきても不思議じゃない頃だな。それでまた2000年間くらいは生きていけるのだろうか、人間は。でもムハンマドの規範(イスラム教ね)はまだまだバリバリ機能してるな。すげえ。
慶應生へのコメントを残しておくと、レヴィ=ストロースは無意味なものが永遠に交換されていくのを見て、「人間はコミュニケーションのためにコミュニケーションするのだ」という結論を導いたそうです。人間の究極の幸せはコミュニケーションなのかもしれないですよ。と、単純に言うことはできるけど、共通規範が崩壊して分散しまくった社会でのコミュニケーションを具体的に考えると……あぁ、快楽物質出てきた……。
■続報。上の慶應生に関するVTRは、ウチの学校(っても名前は同じだけどさ)にも支部がある某ドキュメンタリー製作サークルが関係しているらしい。俺も入学直後に様子見にいったことがあって、ネットアイドルのドキュメントを見たんだけど、なんか「ネットアイドルってのがいますよ、それはこういう人ですよ」という、つまり外部の目線からの「キャラ紹介」でしかなく、もうちょっとつっこんでほしいなーと思った覚えがある。今回のも結局そんなかんじだった。これを見るよりも、宮台真司『美しき少年の理由なき自殺』読んでたほうが面白いかも。
実際に所属している女の子から聞いたハナシでは、「ドキュメンタリー大好き! って男の子ばっかで、ちょっとオタクっぽいカンジ」らしい。その子はもうサークルに顔出してないそうだ。
■あーヤバイヤバイ。心のカラータイマーが点滅しはじめたので思考停止。外からのインプット、経験的データの収集、そして実践が必要な時期だな。転がしていかないと。また戻ってくるのはわかってても。
■しかし、「三角の目をした羽ある天使」(この「天使でも悪魔でもない」表現は秀逸だよなー)は今日も右肩でささやいてる。勉強する気がなくなる。疲れてる。憔悴してる。
「それにしても辛いことです、怠惰を逃れる術がない!」
■あ、わかった。俺は光栄ゲーの武将パラメータで言うところの「野心」値が足りない。野心だよ野心。All you need is 下剋上で All I have to do is 下剋上なんだよ(後のはヒップホップっぽいな)。
ていうか、疲れてるときに野心ってムリ。
■宮台真司『美しき少年の理由なき自殺』(メディアワークス)数日前に読了。ここんとこ数日の日記は、その感想にもなってるような、なってないような。
■同時に、東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社)をゆっくり読み進めています。いま70頁くらい。こいつはアツいですよ。おそらくここの議論とも無関係ではない、ような。「あり得たけどあり得なかった」ことにこだわり、「こうなってしまう」あるいは「こうなってしまった」ことを疑い続ける、という身悶えするようなはなし、だと思う。
東によると、デリダは同一性を得ることで安心してしまう(固定されてしまう)ことが不安になったり疑っちゃったりするらしい。そこで「幽霊」が現れるから。そんな部分で「俺っぽい」とか思ってみたり。デリダの日記に関するくだりで出てくる「エクリチュールとしてのジャック・デリダ」と「この私」ってのも気になる。[2001.2.7-3][2001.2.11-1]あたりとの類似が。
そんなこんなで、やっと第一章を読了。執筆当時、俺と同じくらいの年齢だった東くんは、これからデリダの「脱構築」を二つに分解していくらしい。楽しみ。
■高校時代の友人Tが秋田から一時帰還する件で ゆ と電話。
ひとしきり現状報告などしつつ、「今おまえに必要なのはサバトに参加してデビルマンになることだ」と説教され、「それかも! いやソレだッ! カンペキダ!!」(©ジーコ)とか思う。
◆◆◆!!サバトしたい!!◆◆◆
- 1 名前:いわん投稿日: 2001/02/12(月) 12:00
- てなわけでサバト開催きぼーん♪
- 2 名前:名無しさん投稿日:2001/02/12(月) 12:12
- >1 「きぼーん♪」じゃねえだろ
マジでキショイんだよヴォゲ
- 3 名前:>2投稿日:2001/02/12(月) 12:21
- まさかネタを真にうけてるんじゃあ・・・(プ
- 4 名前:名無しさん投稿日:2001/02/12(月) 12:34
- ただのアニオタだろ
- 5 名前:名無しさん投稿日:2001/02/12(月) 69:69
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ Λ||Λ
終 了 > ( / ⌒ヽ
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∪∪※フィクションです
……結局のところ周囲の環境に対して違和感を感じる自分を意識することを前提とした上で、周囲と接点を持たなければならないと思います。つまり、常に「接点を持つための手法を扱う自分」を見る「自分」ってものが存在せざるを得ないと考えられます。それは一見すると、人格が分裂しているかのようにも思えますが、別に珍しいケースではなく、多くの人が「学校的場」、「会社的場」、「家族的場」などに合わせてそれぞれのアプローチの手法をとっているわけです。……以前[2001.2.7]書いた「ナカザトシュウサクでない私」、これをここでは「社会関係を統括する私」として扱うけれど、上にある引用部分はまさにそういう「私」のことを言っている。社会関係を常に対象化し、相対化し、それぞれに対する「ナカザトシュウサク」を作り上げている、統括者としての「私」である。
「知っている」ことがつらさを呼び、「無知」であることが幸せを呼ぶ。「知る」ことなく舞台に上れているのならば、何も問題は無い。しかし、そうすることはできないのであれば「観客/演出家」となるしか道はない。しかし、そこには常に虚しさがつきまとう。では、「知って」しまった私たちはどうしたらいいのだろう。もはやその知恵を忘れ去り、「無知」の領域に戻ることはできないのだから。「知恵の実を食べてエデンの園を追い出された」(©亜血亜)私たちは、蛇の誘惑が罠だと知りながら、それでも知恵の実を食べざるを得なかったのだから。……どうしたらいいのだろう。
■前に「おまえの日記はどこに向かってるんだ?」と質問されたとき、「自分でもよくわかんない」と思ったんだけど、とりあえず今年度1年の間に考えてたことをまとめているという感触はある。
■つーわけで、ミニモニ。『ジャンケンぴょん!』を聴いてみた。第一印象で思ったのは「任天堂テイスト」。ていうかもっと具体的に『ヨッシーストーリー』とか『星のカービィ64』あたりが浮かんだんだけどね。
一方で、合いの手として普通の男の声を使い、ロリコンどもがライヴで盛り上がりやすいようにセッティング。そういったニーズにもしっかりと媚びているあたりがつんくの恐ろしさと言えよう。
■つらつらネットサーフィン(この言葉って定着したと考えていいのかな?)してたら斎藤環のページにたどりつき、「おっ」と思いつつポチポチとリンクしてみると「黒沢清インタビュー」があったので、「おっ」と思って、読んだ。
「ドキュメント性」とか「フレームの外を意識する」とかってあたりで佐藤雅彦の方法論と共通性を見てみたり(っていうか佐藤雅彦の「方法論」自体はそれほど独自ではないんだけど)。
このインタビューは1998/5/25のものなんだけど、『回路』を予感させるイメージについて語っている。
ある目的性をもって行動しているもの、例えば殺人鬼とかはさほど怖くないんですよ。ある程度はもちろん怖いんですけど。幽霊の類、何故そこにいるのか、何が目的かわからないっていうのは怖いんですね。『回路』を予感させるというよりもむしろ、このインタビューのテーマである『CURE』の間宮や高部はもちろん、『カリスマ』の「カリスマ」という木でも何でもいいんだけど、このひとの「怖い」系の作品はすべてこういう「よくわからないけど(からこそ?)すごいモノ」っていうのが基本にあるんだよね。理由のない、というか理由を超えてある存在。今回の『回路』ではそれをさらに凝縮し、まさに直球の「幽霊」をモチーフとしているわけで、こちらの期待感はいやでも高まってくる。
■と、まあ、黒沢映画評で言い尽くされたようなことをわざわざ書いたのは、上のような感覚が今「面白い」と思うことの全般に共通する要素だと思うからです。「無い」からこそ現れてくる「何か」、あるいは「よくわからないけどすごい/怖い/楽しい」とか、そういうことが。昔から面白いことにはそういう要素はあったのかもしれないけど、改めてそういう部分が着目されている。「理由はもはやつまらない」という感覚が共有されたせいかもしれないけど。「理由」の文化が熟しきったというか、飽きられたというか。「カワイ→」と評されるものにもこういう要素や感覚が関係あるんじゃないかと思ってるんだけど。
で、そのように「共通要素がある」という感覚、あるいは「条件が揃った」という感覚が、以前に書いた「文化は推論で進行する」みたいな感覚にもつながっているわけです。それはメディアによるコミュニケーションがあるからそうなるというわけでもなく、何というか「100匹めの猿」みたいな感覚が。
■と書いていると、シャッフルしてるのにWinampから Beastie Boys『Resolution Time』が流れてくる、と。そういうことなんだって。よくわかんないんだけど、よくあるんだよきっと。確率論ももっともなんだけど、こぼれちゃうものが。確率は無限にあるのに「どー考えてもこれでしょ!」と思ってると案の定それが来る、来てる瞬間が。
AとBという、同時に経験できず、双方が互いに直接は寄与しない行為がありと言うことが可能だろう。「勉強」に限ったことではなく、都市の人口過密と地方の過疎化なども難しい表現にすればこういうことで、みんな目標達成が有利な状況が欲しいわけだ。
Aには達成基準があるが
Aを達成するためには一定量のBが必要であるとき
有限な時間の中でAを達成するためには
A−B間を移行するために支払うコストが小さい方がAを達成し易い
■昨年の講演で実際に見た黒沢清監督の印象が、誰かと似ていると思いつつも誰だかわからなかったんだけど、今日になって「誰か」が斉木しげるだということに思い至る。黒沢清は斉木しげる似です。外見とかじゃなくて、物腰とかしゃべり方とか、醸し出す全体的な雰囲気が斉木しげる的。斉木しげる的、郵便的。
どことなく胡散臭いんだけど、決して悪い人だと思わせないカンジが特に斉木っぽい。
■「人格とは諸関係の総体に過ぎない」という見方があるけど、「ナカザトシュウサク」というのもまた諸関係の総体であると見なすとき、突き放した視点から自分と自分を取り巻く関係を眺め、切り刻んで分析しながら見ているときの俺は「ナカザトシュウサク」ではないわけだな。「ナカザトシュウサク」を見ている「ナカザトシュウサクではない私」。
とはいえ、別にそれで俺が俺でなくなるわけでもなく、多重人格ってわけでも(たぶん)ないので、「ナカザトシュウサク」でない私とは、ワケのわからない「ただ存在する私」みたいなものなんだろう。「それこそが本当の自分」とか思ってしまうと当然社会生活に害が出てくるからマズイわけだけど、「ナカザトシュウサクではない私」、すなわちその関係を眺める立場に立てることも事実であって。あるいは「ナカザトシュウサク」という諸関係要素の集合を統括するのが「ナカザトシュウサクではない私」なのかもしれない。
それはともかく、各関係の中において、そういうメタな視点に立つ姿勢を表面に出してしまうと、「ナカザトシュウサク」を取り巻き、構成しているその関係自体から降りているんだという解釈もできてしまうわけだ、相手からしてみれば(たまには実際に降りている場合もあるわけなんだが)。
でもね、その一歩引いたところにいる俺と同じ立場に立って俺と関係を築くということも可能なはずなのに……といつも思ってしまうわけで。できないもんかねぇ。それも楽しいとおもうんだけど……あーでも、できないかな。全員が全員を突き放したら、コミュニケーションの場は成り立たないのかも。あまりに冷たい空気になっちゃうんだろうか。一度でもいいから、切り刻む立場に全員で同時にシフトする、っていう経験ができたら面白いだろうなぁと思ってみたりする。あ、でも切り刻まれる対象がなければ切り刻む立場も生まれないのか。では過去を対象とみなして、ある瞬間から急にその場を分析する時間に切り替えてみるとか……もっとできそうもない……。
多人数の関係のメンバー中から部分的な数人が集まったときに関係を分析して楽しむってことはあるけど、全員に近いメンバーがそれを共有することってないよね。暗黙のうちに、ってことはあるんだろうけど。……と考えると、やっぱり全員が全員の関係を分析しまくるという場がさらに面白そうでならないんだけど。でも利害が対立してない関係で、メンバーにある程度の能力があるって条件が必須かもしれない。あと、一人の部外者とか。
■「哲学者占い」をやってみた。
あなたはフランスの精神分析医 ラカン です。なんとなくカッコ良く見えますが、この占いはどんな結果もこんなかんじなので俺だけカッコ良いわけではないのね。
示唆に富んだ深い言葉を操るあなたは,多くの知識人にさまざまな影響を与えます。独自の感性と美的感覚が魅力ですが,誤解を受けやすいかもしれません。
特徴:深い洞察に満ちた知性
適職:予備校講師,吟遊詩人
相性良:フロイト,クリステヴァ,ジジェク
相性悪:デカルト,フッサール,ゲーデル
ラッキーワード:『象徴界-想像界-現実界』『大文字の他者』
精神レベル:特A 思考レベル:A 実践レベル:B
■ああ、疲れた。「疲れてるんならやめれば」だって。でもやるんだよ! やるのか?
■いつも通りテレホタイムにネットに繋いだら、いろんなサーバが Not Found になるというトラブルが起こり、どうやっても解決しないので、「じゃあ今日はいいや」と思って風呂に入ったあと歯を磨きながらボケーとテレビをつけたら、たまたま合わせた4chに松沢呉一が出てたのでそのまま見ていたら、その番組はすぐに終わって映画らしきものが始まったんだけど、その1カット目の図が妙に気に入ったのでそのまま見ていたら、黒沢清監督『勝手にしやがれ! 成金計画』が始まっていた。ここまでの流れが一つでも狂ってたら見られてなかったので、ちょっと驚く。また「ゆる〜い力」を感じる。
で、最初のきっかけがネットの不調というあたりが『回路』と微妙に繋がっていたりして、またちょっと驚く。
■ていうか、3夜連続黒沢清作品を流すという『回路』の煽り企画なんだった。大して運命的じゃないね。
昨日は『CURE』で、それもちょっと見たかったんだけど、3作のうち未見なのは今日の『勝手にしやがれ! 成金計画』だけだったので良しとしとこう。明日は『ニンゲン合格』なので見なくては。
今日の『勝手にしやがれ! 成金計画』は、「痛快ドタバタコメディ」とあえて言っておこう。ていうか、黒沢清は絶対に「『痛快ドタバタコメディ』を作ってやろう」と思いながらこれを作ったと思う。
少しマジメに評するなら、スタートから折り返し地点を回ってまたスタートに戻ってきてもう一度最初からやりはじめてまた戻ってくる、というループをぐるぐる周りながら昇っていくという構成が、とても気に入った作品。そう、とぐろを巻いて進んでいくのよ。それなんだよ清。
■『回路』がヒットして、辺境のビデオ屋にも黒沢清作品が充填されまくるといいなあと思った。
■でも、しっかり『グラップラー刃牙』を見逃していることに今気づいた。
■人間の「成長」とは、実は成長ではなく単なる「変化」なのではないかと思う。人間に「成長」なんて、実はほとんど無いのではないか。そこにあるのは連続的な「変化」だけなのではないか。これは単なる言葉遊びかもしれないけれど、しかし「成長」という言葉にこだわるからこそ見えなくなる何かがある。
「成長」とは、直線的な右肩上がりの進行を連想させる。今の日本社会の惨状だって、これにこだわったおかげだ。「歴史はくり返す」と言うけれど、そこには無視できない真理がある。以前使った「お百度参り」という表現にしてもそうだけれど、結局はその大きな環をトレースすることしかできない感覚が、どうしても離れない。そして、「成長」はなく「変化」だけがある。「成長」を意識することなく「変化」の連続と捉えればいいわけだ。
しかし、一度来た場所にもう一度戻ってくるとき、それは決して完全に元に戻ったわけではなく、そこには前回との違いも確実にあるだろう。少なくとも「二度来た」という事実の点だけは変化している。'60年代ブームや'70年代ブームだって、以前とまったく同じスタイルではない。
もし「成長」という言葉を使うとするなら、そのとぐろを巻いた一回分の高さの分に対してこそ使うべきで、ループの上を移動した距離に対して使うべきではない。XZ平面を移動する距離は長く、スピードも速いので「成長」と考えたくもなるんだけれど、それはおそらく「成長」ではなく「変化」でしかないのだろう。「成長」を使うべきなのは、そのY方向への移動距離を見なければならない。しかし、一度ループすれば確実にY方向へ進んでいるのかといえば、そうではないという気もするのではあるが。
とにかく、ぐるぐる動いてることが大事なんである。というか、それしかできないのである。お百度参りの堂々巡りなんである。ひとまずそれでオッケーなのだ。
■以前、中原中也作品の電子化を云々と書きましたが、そのときはすっかり忘れていた青空文庫を今日思い出してチェックしてみたら、『山羊の歌』と『在りし日の歌』がしっかり電子化されてました。だよな。
■やっぱし日記は先月のように悩みながらアツく何かを語るよりも面白いほうがいいよなぁ。と、おもしろい系の日記を読んでいて思った。でもまた悩んだときには悩んだように書くんだけどさ。
そういえば、あんま最近おもしろいことを思いついてないような。やっぱ大学のせいかも。だって通じないんですもの! わかってもらえないんですのよ!
■あ、でも、大学の喫煙所で「体臭で人を殺してしまった場合、刑法上過失致死になるか殺人になるのか」ってのをめぐって、検察側と弁護側で論争をしたのはめちゃくちゃ面白かった。
人を殺してしまうほどの体臭を持つ人が実際に害を及ぼしてしまった場合、意図か過失か。「ワザと」なのか「うっかり」なのか。これは現場の状況によって大きく結果が左右される。被告が被害者に近づくときに手をあげていたかどうか、とか、被害者が倒れたとき被告は「大丈夫ですか!」と近づいたが、被害者は「離れてほしい」という意志を表明したかどうか、とか、原告は自分の体臭が人を殺す可能性があることを事前に認識していたのかどうか、などが争点。
結論、出ず(あたりまえだ)。
■脳味噌に領域を確保するのが面倒くさいので、コンプータ上に自分の所有する資源のうち、具体的なモノ(本・CD・ゲーム……)だけでも電子化して検索できたら最強に強まりまくってスゴいことになる!! などと甘い希望を抱いたものの、そのためにデータベースを作るのがまず最凶に面倒くさく、人を殺しかねないニオイを放つその面倒くささの前に立つと「テメエの脳味噌を信頼したほうが早いかなぁ」なんて思ってしまう。図書館みたいな量があるわけでもなし。
と、いうあたりが、近い将来において世界の電子化を阻む障害となるであろうと思った。ていうかもう既に阻みまくっているとも言えよう。この障害を乗り越える何か、現状よりもかなり高度なロボットなどが開発されない限りは乗り越えられない壁。人間しかできないことに関しては、面倒くささ最強。怠惰には勝てない。
やっぱり脳味噌を強めるのがいいなぁと思った。
■さて、なんとなく Serge Gainsbourg & Jane Birkin『Je T'Aime Moi Non Plus』など聞いてみた。って、エロいんですけど、ものすごく。椎名林檎的なエロとはレベルが違うっていうかほぼナマなんですけど。
こういうのが公然と受け入れられちゃうフランスって、住みやすそうだなぁと思ったりした。そういや根本敬大先生もヨーロッパでウケてるって聞いたことあるし。こういう意味でだったら日本も「脱亜入欧」すべきだと、諭吉に激しく同意。
また四月が 来たよという台詞が、妙な響きを帯びる。たれかのぞみやしらねども、さもありなむとこそ思へ。
同じ日のことを思い出して
don't U θink? i 罠 B wiθ U
此処に居て ずっと ずっと ずっと
■学校に来たのは、佐藤雅彦の授業のテストを受けるため。この授業は今年度最高の経験のひとつだった。来年度はどこにいるにせよ、ひとまず今年度の締めとしてこのテストは相応しい。
出来はよかった。
■Beastie Boys を聞きながら折口信夫を読む。妙な心地が気持ちいい。