■もう、まる3年と2ヶ月くらい日記を書いてるわけだ。「いろいろあったねぇ」という感慨もあったりなかったり。
■この前、eS! Books で「ポチッとな」してみたアントニオ猪木『猪木詩集 馬鹿になれ』(角川書店)ですが、なんと品切れであるとのこと。再版しろよ角川〜。ほしい。
■ある「前提」があるとする。この「前提」とは、情報であって、作品と総称されるような文章や映画や音楽も含まれるし、そこから読みとることができる感覚や概念も含まれている。そういう「前提」があるとする。そして、その「前提」から推論可能な作品/感覚/概念のかたちは多様にある。「多様」という言葉を使ったのは、実際には無限にあるとも言えるが、しかしある程度の方向づけは「前提」によってなされているからだ。さらに、人は常にその推論の結果にかたちを与えようとする。この行動は「創作」などと呼ばれるが、それは新しいものであると同時に、「前提」からの推論でもある。こうして文化は先へと進んでゆき、作品/感覚/概念は生み出され続ける。
そう、「推論」できるのである。というか推論そのものなのである。ある程度の文化を蓄積してしまえば、「次にありうるかたち」が、抽象的ではあるけれども、ある程度は見えてくる。そして、「推論」の結果をかたちにしたい、と願う人間は少なからずいて、そのような動機付けの上でかたちのない「結果」にかたちを与え続けている。その一方で、同じ動機の上で、「推論」の「結果」は面白そうだと思いながら、誰かがかたちを与えるであろう「結果」を探し求める嗅覚の鋭い消費者も多くいる。
■この「かたち」には面白いものとつまらないものがあるが、つまらないものを捨てて面白いものを残したとしても、個人がすべてを扱うには量が多すぎ、それがストレスになる場合があることは一昨日もちらっと書いた。
〈情報化社会〉(あるいは〈情報社会〉)というテーマに関する言説において、お約束のように繰り返される台詞がある。
情報が氾濫する現代においては、何が自分にとって本当に価値があるのかを見極め、取捨選択できる能力が問われるのです。ここで言われている「取捨選択」は、たいていの文脈では「面白い/つまらない」の選択をしなさい、と言っているに過ぎない。便宜上、これを〈第一選択〉とする。
■〈文化のダブルバインド〉を抜け出し〈第二選択〉を行うためにはどうしたらいいの? と言われると……わかりません。なんせ自分が「問題ある」わけで……。「あきらめ」「断念」あたりがいい台詞かなとも思うけど。「ほどほどに」とか「テキトーに」とかも。でも、今日はとりあえずここまで。
文化は「推論」できるし、「推論」そのものだ。つまりトートロジー(同義反復)の連続である。すなわち、「同じこと」を「言い方を変えて」「違うこと」を発見していく、という、よくわからない作業で……ってあたりもかなり気になって、それが〈第二選択〉のカギになる気もするんだけど、今日は疲れたのでそれもまた今度。
■辰巳渚『「捨てる!」技術』(宝島社新書)って読んでないんですけど、もしかして主張がカブってたりするのかしらん。
■日記まわりのみですが、スタイルシートを導入して気持ち高速化。BODYタグの色指定あたりはまだ残してますが。IE 5.5 と Netscape 6 ではだいたいオッケーで、Netscape 4.7 ではイマイチだということは認識済み(してるだけ)。
あと、2000年後半の日記のスタイルを現在のものに改めました。
■松本人志は岩倉具視に似ている。と、たまたま手元にあった石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』<43>(中公文庫)の表紙を見て思った。
■2ちゃんねる閲覧ソフト「かちゅ〜しゃ for Windows」を使ってます。ねラー化進行中(まずいやん)。
■プッチモニ『ちょこっとLOVE』にハマる。つんくの確信犯ぶりはやっぱすごいなぁ。あとは、「オーラスの《まる♪ まる♪ まるまるまる♪》は2回でも1回でもダメ、3回繰り返して締める! それ! それしかないんだよ!」的な部分でも「心得てらっしゃる」というカンジがすごくして。つんく恐るべし。下について学びたいくらいだ。
あ、この曲は「ハッピー」なのか。そういえば同じ頃だ。そうかそうか、そうだったか。
■学校でノートをネットにつなぐたびにウィルスの侵入を許していた原因は、以前にも書いたようにトロイによってバックドアを仕掛けられるせいなんだけど、なんで毎度毎度バックドアを仕掛けられてたのかといえば、学校でもCドライブを共有設定にしたまま繋いでたからなんだった。
バカとしか言いようがないよね、これは……が、あえて言い訳させてもらうと、家のデスクトップと連絡することのほうが多いから、いちいち共有外すのが面倒くさかったんです。それにしても、あまりに恥ずかしいので自分からここにさらすことにする。
■この前は、ただ「ルーニー」としか書かなかったけど、テレビ東京でやってた番組名が『バックス・バニーのぶっちぎりステージ』だったことを思い出した。やっぱり、こっちのほうがしっくり来る。けど、長いので今後も「ルーニー」にしとこう。
ノートの起動・終了音もいまはルーニー仕様になってます。やっぱイイ。
■まったく見知らぬ、東大の井口くんの日記(?)が面白いと友人から教えてもらい、読んでみたら本当に面白かったのでもっと読んだ。
俺の脳味噌の「思考開始ボタン」が押される箇所はとにかくたくさんあるんだけど、ひとまずここを引いてみよう。岡山バット撲殺事件(センセーショナルな表現でいうとね)についての記述。
とにかく、彼の人生は実質的にはこのあたりで終わりのはずです。それは社会復帰がどうとか、そういう社会的制度的なことではなくて、ここ何週間ほどの間にこれほどの濃密な体験をしてしまった彼は、今後の人生を、それがどれだけ長く続くにせよ、この何週間の思い出を反芻し、精々のところ、意味付けを試みながら生きていくことになるような気がするのです。一連の未成年事件の中でも、岡山のは1000kmをチャリで(!)逃げたってあたりでただならぬ(イイ)気配があったよね。まぁひとまずそれはそれとして。
(20000707)
■今日はJJ72を中心にミックス(はしてないけど)。
■「月刊アフタヌーン」3月号を買う。
植芝理一『夢使い』が新連載……前作『ディスコミュニケーション』最後のほうもキてたけど、壊れ具合がさらに極まってきたな〜。
え、『EDEN』が7ページしか載ってねェ!!
■「ダ・ヴィンチ」2月号(メディアファクトリー)の宮台真司の連載「オン・ザ・ブリッジ」を読んだら、青山真治監督『EUREKA』についてだった。
人は一般に「社会」の内側に生きようとするが、実は必ずしも「社会」の内側を生きる必要はない。事実、「脱社会化」して「社会」の外側=「世界」を生きる少年たちが次々と人を殺している。そのように倫理がもはや自明でない「社会」において倫理的であろうとすれば、それは「端的な意志」によるしかない。そのためには、倫理が自明ではないことを自覚して「社会」の外側に拡がる「世界」を生きねばならない。しかし、「社会」の外側を生きる者はまた「端的な意志」によって人を殺すこともできる。「脱社会化」して「世界」を生きていても、「端的な意志」によって倫理的でもありうるし、人を殺すこともありうるのだ。では、その二者を分けているものとは何なのか……ってなことを『EUREKA』をめぐって論じてる。
どうも『EUREKA』は、「社会/世界」、「向こう側/こっち側」、「悪魔に魂を売ってない/売っちゃった」ってとこがテーマらしい。と、これを読んで思ったのは、いま俺が『EUREKA』を観たらぜったい泣くってことで。やばい。観るけど。「でも、観るんだよ!」
■中原中也って Yahoo! にカテゴリがあるんだなぁ。4サイトしかないけど。
著作権なくなってるから電子化しても問題ないわけだ。好きなのからぼちぼちやってみようかしらん。散発的にはみんなやってるみたいだけど、どっかでまとめてないのかな。
──『EUREKA』は“シネマスコープ”ですが、何故このサイズだったんですか。青山監督もかなりのバス好きらしく、「バスが出てくる映画はだいたい見てる」とか別のインタビューで言ってた。俺もやっぱり(レベルは違うけど)バス好きで、バス停とか横断歩道でバスが目の前1mくらいを横切るときの感じがすごく好きで、その瞬間は、実際見たことはないけど「クジラだなぁ」という感覚があるんだけど、青山監督の言う「シネスコでしか出せないバスの印象」ってのが妙にそれと近く思えて、わかる気がした。
「バスを入れたかったからなんです(笑)。普通の自家用車で外を見ていたら割とビスタサイズではまるんですけど、バスの場合はビスタサイズで撮ると決まって狭い感じがしてしまう。でもシネマスコープで撮ると本当にバスの持つ印象が感じられる。だからバスを選択した時点で、それはシネマスコープにするというふうに決めていました」
■ナルシシズムとは、鬱を避けられないダメ人間の生み出す、最後の武器である。じゃなくて防具か。
■雪に阻まれ、fra-foaライブを断念。ガクシ。
■ちくま学芸文庫のラインナップがシブイと聞いたので、筑摩書房のページを見てみた。すんごい前に見たときも「検索」のページは準備中だった覚えがあるんだけど、今日もまだ準備中だった。連載とか広告の前に検索を作ってくれよう。ちくまファンだからこそ言いたい。
■ただ「無批判にものごとを受け入れるのは避けよう」という態度を表明しているだけなのにも関わらず、それが相手に攻撃的な印象を与えてしまうことって多いよね。相手を理解しようとしているつもりが、無理解な印象を相手に与えてしまうという逆説。
「相手がバカなんだ」と自分を納得させるのもいいけど、それじゃ進まないんだよなぁ。たしかに本当に相手がバカだっていう時もあるけど、多くの場合はこっちにも責任(原因)があって。そう考えると、真に相手を納得させうるのは思想や論理そのものではなく、表象としての言葉とか、あるいは表情だの態度だの、本当に伝えたいコアの外にある情報だってのが実感できる。よく言われることではあるけど。
自分が誰かに説得されるときも、やっぱりコア以外の何かのほうが重要だって気がする。こたつでテレビ見ながら、画面の中でグダグダ説教する学者たちに向かって「アホ面だなぁ」なんて言ってるんだから、自分だってそこには気を配らないといけないよね。
■昨日の「邪神占い」の結果だけど、「一番になれない価値は切り捨てる」とかいう記述が入ってるともっと当たってたのになぁ、と思ったり。
これは「幼児的全能感」というものだと最近よく思う。10歳くらいから成長していない部分と、それを補うために恐ろしく成長しまくっている部分がある。
というあたりを突き詰めつつ、何か普遍的なものを見つけてみたいとも思うんだけど、うまくいかない。
それを環境のせいにもできるかもしれないけど、そんな瞬間にはいつも中原中也の慨嘆に横面を張られてしまう。
あゝ 空の歌、海の歌、中也はやっぱり鋭い。けど、それを評価し、受け入れてくれる環境というのは、やはり中也にとっても必要であったような。そうであれば、もう少し長くも生きていたのではないか、と思う。
僕は美の、核心を知ってゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逃れるすべがない!
(「憔悴」より抜粋)
■寿福寺へ中也の墓参りに行ってこようかしら。行きたい行きたいと思いつつ行ってなくて。
と思って調べてみたら、寿福寺では告別式をしただけで、葬られたのは山口県にある中也の菩提寺だとわかる。あうぅ(脱力)。
■今日も、くるり『ばらの花』はやさしい。愛のばら掲げて、遠回りして、また転んで。
■黒沢清監督の一連の「怪物継承」モノを見ててもなぁ、なんだかなぁ。「それしかないのかおまえら!」みたいな。「放浪すんな!」っていうか。
いや、そもそもそうやって間接的な方法でしか世界を理解できない自分つうのがまず問題か。まったく。
■「物語要素辞典」というのを発見。し、しぶい。
■くるり『ばらの花』がヘビーローテーション。
あなたのタイプは【イスの大いなる種族】です。うわ、怖っ。なに、この当たり方。最初は笑ったけど、いま怖い。俺の基本的性格云々というよりも、特に現状を素晴らしく客観的かつ冷静に分析されてるのが恐ろしい。ていうか、なんかムカつく。せっかくカッコつけてたのにさ、チッ。
嫉妬にあふれた“精神的タイムトラベラー”
<解説>
あなたのタイプは外宇宙から精神体として飛来し、古代の地球生物の体で高度な文明を築いた“イスの大いなる種族”です。
このタイプの人はとにかく「隣の芝が青く見える」という性質を持っています。常に己が一番でありたいと思うあまり、他人の幸せや長所には敏感です。「人のものが良く見えた」という自分自身が許せません。そういう時は人の幸せを奪い取り、よくよく吟味して自分の方が優れている、幸せだと納得したら返してやるという行動を取ります。
また生存ということについては並々ならぬ信念と覚悟を持っています。たとえ虫の姿になったとしても生きる。なりふりかまわぬしぶとさこそがこのタイプの真の強さです。
<大いなる種族なあなたの性格>
昔のコトに心悩ます
人が自分より優れているのが気に入らない
なりふりかまわぬしぶとさがある
<陥りやすい犯罪傾向>
夜逃げ
他者の地位のっとり
<イスの大いなる種族の有名人>
ジャイアント馬場
■それにしても、「冷静に状況を分析されるのはムカつく」というのがはじめて自分で実感できた。俺も今後は気を付けることにします。でも、やっぱりそれは必要だとも思うけどさ。
■迷うってのは、何にもないように見える壁なんだけど「いや、でもここに地図が書いてあるはずだから」と、それを気合で読もうとするような、この壁のシミの一点でも見逃すまいとする集中と気合の作業で、そのうちそこにじわ〜っと地図が見えてくるような、こないような、そんな感じで。自分で念写してんのかもしんないけど。
■日本語入力システムの「変換」っていう機能は日本人が発明したすごいものらしいんだけど、こいつは本当にすごいし面白いと思う。変換ミスも面白いし、よく使う表現を圧縮して効率を高めたりできるし、何よりもまずこいつのおかげでパソコンを使って日本語で文章を書けるようになったわけで、単なる文章入力装置を超えて新しく表現を拡張する役割を果たしたと思う。ていうか、書いているうちに書いてる側の頭の中が改造されているような気さえする。
この「改造されてる」って感覚がなんか気持ちいい。同音異義語がパシパシ出てくるのがいいんだな、きっと。「同じなんだけど違う」言葉がキーを押すごとにクルクル回る感覚が、まず面白い。英文を打っててもあんまり面白くないんだよね、変換できないから。この時代の日本人に生まれてよかった。
んで、これを使って「新しい類推システム」みたいのが作れないかなあと思ったり。自分の頭の中にある「類推」のパターンをつなげてIME用の辞書を1個つくってみるという。ある言葉を変換すると、その次に連想したものが出てくる。それ用の辞書は個人が作る。
で、他人がその辞書を使うと、まったくわけのわからないものに変換されるんだけど、そのへんも面白いだろうし、つくった本人はそれを使って何らかの発見をしたり、発明したり、創造したりできるような。
■槇原敬之『Hungry Spider』を聞く。この歌詞、マッキーがゲイだという話を信じ、かつ男女の物語だとして聞くと、ものすごい「うわ〜っ!」てなる。
《腹を減らし》《その巣で獲物を捕らえる》蜘がマッキー。《空を美しく飛ぶ蝶》は女。蜘が捕らえたいのは男。しかし女は蜘の巣に捕らえられる。その時点で、女は「食べてほしい」わけだ。女は美しいし、関係はそのままにしたいが、しかし女を食べることはできないマッキーという蜘。
うわ〜っ!
■『ルビー・ザ・キッド』打ち切りについて、ちょっと『ジャンゴ』とかぶってたからか? とか思う。「女が運転する車に男が乗ってる」みたいなシーンが頭をよぎって、どっちのマンガのシーンなのか一瞬わからなかったからそう思ったんだけど。なんかイメージが近いような。物語の構造も似てるような。
■ん〜、なんか迷ったり悩んだりしてるときってのは、ナイスな事実に気が付いたり、ブリリアントなたとえ話が聞けたりと収穫も多くて、その点は楽しい。だから悩むのもそんなに嫌いじゃないんだろうなあ。寿命も確実に縮んでる気がするけど。
■その後、自己採点。一挙にドン底に。今週は最終授業なのに、今日会った人々と、2度と会わないという気がしなかったのはそのせいか。
片手に現状への不満を抱きながら、片手に他の選択肢を持ちながら、2つのどちらでもない位置にいることに安心感を見出している。というよりむしろ、そこでしか安心できないのかもしれない。今も悪くないのかもしれない。「完全性の中にいるときは完全性の完全であることを感じることはできない」とデリコのKUMIも言ってたし。後悔はいつだってするんだし。でも気づいたときには遅いんだし。「ポジティブシンキング」はどっちにだってあてはまるし。何が快で何が不快なんだかわかんないし。永劫回帰。という日記を上げようとしていたところだったので、余計に落差がでかい。
■the brilliant green『There will be love there ――愛のある場所――』をかける。希望は希望で希望のまま希望の希望とは希望で実体のない。何もない。あてのない。
■『TV Bros.』2001-2(1月20日)号の、柳下毅一郎のコラム「アイちゃん雲に乗る」より。『アウトサイダー・アート』(求龍堂)を紹介したあと、こう締められていた。
ところで、50年代以降、精神病院での作品製作は著しく減ったという。精神安定剤の発明によって、狂人は作品を造らなくとも済むようになったのだ。あるいは治療と創作は相反するものなのかもしれない。俺の狂人度なんてまだまだヒヨっ子だけど、言われてみると煙草を吸うようになってから絵を描かなくてもオッケー感が増したような気がする。そう考えると、いま煙草をやめてみたら自分がどうなるのかちょっと気になってきた。
■ってbk1の紹介に書いてあったんで知ったけど、1/8まで横浜美術館でこんなのやってたんじゃん。行きたかった……。やっぱ藤沢の山奥に引きこもってるのはマズイよなぁ。
■以前(このとき)「なぜルーニーのロード・ランナーはイイのか?」という話で盛り上がり、「無常感かな」「しゃべらないから?」「ワイリー・コヨーテに共感しまくる」「圧倒的な能力を持つ、絶対者としてのロードランナーにひれ伏すのが快感なんだ。MよM」といった意見が出たんだけど、それ以来、見たくてしょうがねえ。そのしょうがねえ感が今日もまた強まる。ていうかたぶん来るね、ブーム。このまえ『明石家マンション物語』でガルシア(山口@ドンドコドン)もモノマネしてたし。テレ東で再放送されちゃうね、近いうち。
日本人はロード・ランナーのほうが好きで、アメリカ人は議論好きだから、しゃべりまくってコケにしまくるバックスとかトゥイーティのほうが好きそうな気がするんだけど、実際どうなんだろう。
■今日の1曲は Meredith Brooks 『Bitch』 でした。ラジオで聴いてヤラれました。
『ハート・オブ・ウーマン』という映画の主題歌。見ないけど。
■木葉功一『ルビー・ザ・キッド』(週刊モーニング/講談社)が打ち切り? っつーのを友人からの電話で知って驚く。そういえば今週はモーニング買う暇もなかった。
ってなわけで買ってきた。うわ〜、なんだこりゃ〜。
■で結局、やっぱりここに戻ってくるわけだ。というわけで今日の締め括りの1曲はblur『Cofee+TV』でした。ほぼ脳死。
他人が何を感じているのか、生身の人間に接してもよく分からない。本を読むことで人間を理解する方が遙かに楽だった。自分と世界の間にある亀裂。あ〜ヤバイな〜と思いつつ、涙目になってる。読み進んだらもっとヤバくなってきたので、ひとまず中断する。
Q. 本当の不幸はどれでしょう?まあ、どれもきちんと不幸なのかな。ということは、不幸だと思った奴が不幸なのか。ロジックを使えば何だって幸せで不幸だ。バカいうヤツがバカじゃ。じゃあ幸せってなんだ。単なる生理的なものなのか。って、これがかなりありそうだから参る。
- 他人からは不幸だなんて決して見えないのに本人としてはなぜか不幸である。
- 明らかに他人からも不幸に見えつつ本人としても不幸である。
- 他人には内容がよくわからないし本人も不幸なのかどうかよくわからないくらい複雑に不幸である。
■ついに、the brilliant green『the brilliant green』を買ってしまった。しかも新品。
■エルサルバドルで地震。新しい早口言葉がひらめく。「えばるサルトル in エルサルバドル」(ノルマ3回)。therefore 対岸の火事(デリコ風)。
■つーか自分で言うのもなんですが、ぶっちゃけた話が原因は単なる物足りなさでしかないんだよなぁきっと。味も薄けりゃ具も少ない。悩めるインプットジャンキー。やっぱ街にいないとダメなのか。
■fra-foa『澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。』について。「まだ言うか」ともお思いでしょうが。
僕の心は「何か」が欠けているからさて、《無意識に人を傷つけてしまう》ってことはありそうだけど、それは《「何か」が欠けているから》なんだろうか。もしそれが《僕》だけに《欠けている》というなら、それは嘘だということになる。しかし、《僕》を含めた「人間そのもの」に何かが《欠けている》というのなら、それはおそらく正しい。
無意識に人を傷つけてしまうんだ
「雪はすぐには積もりません。雪は降ってしばらくのあいだ、地面で溶けてしまいます。しかしその君たちがあってこそ、雪は積もってゆくのです」とかなんとか(また聞き)。つまり、現在のSFCは「雪が積もる」前の基礎段階だとは認識している。これはいい。だけど、そこにいる生徒が「溶け」ても仕方ないと考えている。
■fra-foaが学園祭出演を受付けている。三上ちさこも
今年は日本中の学校を回ってみたい。小中高大問わず。もしも心の中に何かこう、どうしようにもどうにもできない何かを抱えている人がそこにいるのなら、その不安を抱えたままで、一抹の希望なりハナクソ程度のきっかけでも、とにかく何でもいいから共有しに行きたい。って言ってる。呼びてえ。しかし、足りないものは行動力と組織力(=ぜんぶ)。
■LOVE PSYCHEDELICO のニューアルバム『THE GRATEST HITS』の購入は見送ることに。fra-foaとボニー・ピンクが待ってるし……。
■アルツハイメルことボケ老人こと斎藤信男ことサカナ顔の、もはや講義とは呼べない壊れたテープレコーダーからこぼれるつぶやきシローのネタのような独り言をBG落語にしながらレポートの構想を練っていると、うしろからこんな会話が。
「慶応って言うと『すごいねー』とかすぐ言われるからさー、なるべく言いたくないんだよねー」みたいな内容を延々と。しかし、どう聞いても慶応への帰属を確認し合って強めてる会話にしか聞こえなくて、居たたまれなくなる。
「うんうん、俺もそれあるよー」
■考えるやつと対談。生きることがままならずつまづくってのはどーゆうことなのか、ままなってそうに見えるやつってのはどーゆうもんなのか、素顔のやつとニセの仮面被ってるやつと本物の仮面被ってるやつ、わかってるやつとわかってないやつ、人の裏側を見なければ動けないけど人の裏側は見切れない、ってあたりをテーマに同じとこを何度もぐるぐる回りつつ、「俺たちって悪魔に魂買い叩かれてるよな」と確認し合う。「売るときはいつも安売りだよね」とか。
でも、考えてみるとソクラテスや孔子やブッダなどなどなど……も「悪魔に魂売って」苦しんでたんだよねー、昔っからみんなそうだったんじゃん。と、やつらに妙な親近感を感じてみたり。
■ジョンとショーンとSFC。
ジョン・レノン息子のショーンは幼い頃、いろんなものを欲しがってわがままを言ったそうな。そんなショーンにジョンは、おもちゃ屋を一軒まるごと買い取って与えたそうな。すると、ショーンは海岸で拾った貝殻を大事にするような子供になったという……。
SFCには100Mの回線などをはじめとするものすんごい設備があるわけだが、しかしそこで得られた感慨は、だいたいショーン・レノンと同じようなもんじゃないかと思う。むしろそれを伝えるためにこそ設備が維持されてるのかもしれないと思えるほどに。
それはたしかに贅沢な悩みなんだけど、持ってしまったその感慨をいまさら払拭できないわけで。ジョンも「それでいいんだ」と言ってるわけで。
■成人式。
いろんなとこでいろいろあったみたいだけど、結局のところ成人まで酒を飲んだり煙草を吸うのを我慢するやつなんて大昔に絶滅済みなわけで、そんなら成人式なんて何にもないよねーってなことを、新成人を交えて話した。
でも、ちゃんとした「通過儀礼」が無いってのはもったいないなぁと思う。というか、制度としての「禁止」が正しく機能してれば、「通過儀礼」ではけっこう大きなカタルシスが得られるはずで、そのカタルシスというのはまさに今の若者が求めつつも得られていないものなんじゃないかと。で、周囲の用意する「通過儀礼」に期待しても何にも出てこないし、高松市長の話もつまんないからこそ、自分たちで「何かしよう」としちゃうわけでしょ、クラッカーが正解かどうかは知らないけど。
カタルシスが生まれづらい社会でカタルシスを得ようと思ったら、もう自力でカタルシスが生まれやすい状況を作るしかないわけだ。その点においてだけなら、例の新成人は正しい選択をしたと思う。
カタルシスを得やすい状況を作り出すには、大きく分けて、(1)外部に期待する方法と(2)内部的に調整する方法の2つが考えられる。カタルシスが生まれやすい環境に身を置くことと、常に自分をカタルシスを感じやすい状態にしておくことだ。
「カタルシスが生まれやすい環境」とは、手っ取り早いとこでは株に手を出すとかのハイリスク・ハイリターンもの。あと、だんじりに代表されるようなハイテンションなお祭りに参加したりしてもいい。または、そこまでコストをかけなくても、何かモノを作るだとか、そういう「積み重ね→達成」型の行為でもいいし、もちろん恋愛なんてかなり好都合で。要は、「挫折/失敗と達成/成功の間に挟まれて揺れ動く」タイプの行為なら何でもいい。
でも、「そういう状況って普通にあるよね」ともちょっと思う。だから、今度は「内部的に調整する」必要が出てくる。つまり、自分を慢性的な欲求不満状態に置いておいて、達成を供給過多にしてはいけない。適度に挫折もしておかないとまずい。
ともすれば達成が供給過多になってしまう世の中では、油断してるとすぐになんでも「だりー」「飽きた」となってしまう。そんな中では、ストイックでいることが、つまらなさを解消する一つの選択肢として有効なんじゃないかと思うわけで。
で、俺が自分から挫折してるように見えたり(?)とかストイックな方向へ向かうのは、もちろんやむを得ない部分も多いし全部ワザとやってるわけではないんですが、でも部分的にはこういう理由もあるわけです。汝、ストイックであれ。楽しいですよ。
■BGMとして Jamiroquai "Canned Heat" をかけました。何度となく聴いている曲なのですが、今日は初めて歌詞をじっくり読んでみました。そうしたら、めちゃめちゃ悟ってる内容だったので驚いてしまいました。
僕の Jamiroquai ファーストインパクトは'94年の "Half the man" (アルバム "The Returin Of The Space Cowboy" 所収)で、そこでの Jay Kay は「盛りを迎えた春のように/僕たちの愛もすぐにやってくるんだ」だの「鳥たちは歌うだろう/僕らの愛の旋律を」なんて歌うもんですから、最初は「何とも感傷的でロマンティックなことだなあ」と思っていたら、そのあと見た他曲のPVの中で踊る彼は実に爽やかなキレっぷりで、「何なんだこいつは」とよくわからなくなっていたのですが、やはり "Canned Heat" の詞を見てみると、すべて確信犯でやっているのだなと思わされるのです。彼の情熱や欲望は、したたかに缶詰めにされているのです。やはり世の中確信犯しかないと思いました。
「何もすることがない、新しいことも何もない、地獄と絶頂の狭間から動けない、それを終わらせる救済が必要だ……もう踊るしかないだろ!」
■ひとまず Jamiroquai はそのくらいにして、次はスチャダラパーが'95年に出したアルバム『5thWHEEL2theCOACH』をBGMにしてみました("The Return Of The Space Cowboy" を探してたら出てきました)。とても懐かしいです。
その中でも、根本敬先生を積極的にフィーチャーした『ノーベルやんちゃDE賞』は僕の中でかなりの名曲なのですが、クライマックスに配置される「でも、やるんだよ!」という台詞に改めて打たれ、やはり世の中「でも、やるんだよ!」しかないと思いました。
■そのあと、LBつながりで TOKYO No.1 SOUL SET『黄昏'95〜太陽の季節』もかけてみました。今聴いても響きます。むしろ当時より響くような気さえします。5年という歳月は、何かを変えたようにも思われ、何も変えていないようにも思われ、短かったとも、長かったとも思われ。
やはり世の中、昇天と墜落しかないと思いました。
■なぜか過去に戻っています、あるいはそれは「昔より少しは成長した」と言い聞かせようとしているのかもしれません、しかしそれは同時に変わっていない自分をも発見してしまう作業なわけで、しかしそれが目的でもあって。過去と無関係な今など無いのですから。
屠殺所に、成長したと思っておくことにしよう。
死んでゆく牛はモーと啼いた。
六月の野の土赫く、
地平に雲が浮いてゐた。
(「屠殺所」より抜粋)
■バトルの合間に亜血亜から電話。やっぱ最終的に独りってのは動かないよねーってな話をする。んでも、過剰にオリジナルであることは避けないとねぇ、とか。いつもどおり。
■BOOK OFFで岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社)を立ち読み後、購入。「人はパンのみにて生きるにあらず」、いやむしろ既に「パン以外のみにて生きている」ようなもんで、だから色々よくわからなくなる。