■ January 2001
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31 WED
今日も日記を書いているので、今月はコンプリートです。毎日書いてた。ひと月すべて書いたのは初めてのこと。
 これはあくまで思考する機会が多かったことを示しているにすぎず、それがすなわちヒマであることを示しているわけではありません。あくまで。断固たる姿勢で。

もう、まる3年と2ヶ月くらい日記を書いてるわけだ。「いろいろあったねぇ」という感慨もあったりなかったり。

この前eS! Books で「ポチッとな」してみたアントニオ猪木『猪木詩集 馬鹿になれ』(角川書店ですが、なんと品切れであるとのこと。再版しろよ角川〜。ほしい。

ある「前提」があるとする。この「前提」とは、情報であって、作品と総称されるような文章や映画や音楽も含まれるし、そこから読みとることができる感覚や概念も含まれている。そういう「前提」があるとする。そして、その「前提」から推論可能な作品/感覚/概念のかたちは多様にある。「多様」という言葉を使ったのは、実際には無限にあるとも言えるが、しかしある程度の方向づけは「前提」によってなされているからだ。さらに、人は常にその推論の結果にかたちを与えようとする。この行動は「創作」などと呼ばれるが、それは新しいものであると同時に、「前提」からの推論でもある。こうして文化は先へと進んでゆき、作品/感覚/概念は生み出され続ける。
 そう、「推論」できるのである。というか推論そのものなのである。ある程度の文化を蓄積してしまえば、「次にありうるかたち」が、抽象的ではあるけれども、ある程度は見えてくる。そして、「推論」の結果をかたちにしたい、と願う人間は少なからずいて、そのような動機付けの上でかたちのない「結果」にかたちを与え続けている。その一方で、同じ動機の上で、「推論」の「結果」は面白そうだと思いながら、誰かがかたちを与えるであろう「結果」を探し求める嗅覚の鋭い消費者も多くいる。

この「かたち」には面白いものとつまらないものがあるが、つまらないものを捨てて面白いものを残したとしても、個人がすべてを扱うには量が多すぎ、それがストレスになる場合があることは一昨日もちらっと書いた。
 〈情報化社会〉(あるいは〈情報社会〉)というテーマに関する言説において、お約束のように繰り返される台詞がある。

情報が氾濫する現代においては、何が自分にとって本当に価値があるのかを見極め、取捨選択できる能力が問われるのです。
 ここで言われている「取捨選択」は、たいていの文脈では「面白い/つまらない」の選択をしなさい、と言っているに過ぎない。便宜上、これを〈第一選択〉とする。
 しかし、〈情報の氾濫する現代〉でその情報を十分に手にできる能力を身につけた後、真に問われるのは、最初の選択をした後に迫られるもう一つの「取捨選択」=〈第二選択〉ができるかどうかである。〈第二選択〉とはすなわち、《本当に価値がある情報》だけを選ぶことができたとしても、まだ個人が扱いきれる量を超えているため、《本当に価値がある情報》=「面白い」情報をも切り捨てなければならなくなり、そこで迫られる選択である。
 〈情報化社会〉で本当に問題となるのは、この〈第二選択〉なのではないだろうか。とはいっても、〈第一選択〉をした結果、その選択を行った個人が扱いきれる量の内におさまっていれば〈第二選択〉の必要はなく、もしかすると多くの人にとっては問題ないことなのかもしれない。しかし、〈第二選択〉に悩む人々に出会うことは多いし、特に私自身が大いに「問題ある」ため、問題としたいのである。
 〈第二選択〉は、〈第一選択〉よりも難しい。それも格段に難しい。自分にとって優劣つけがたい「価値ある」ものの一方を切り捨てなければならないのだから(ここで、浮気がバレて「アタシとアイツとどっちを選ぶのよ!」と迫られてるシーンを想像したあなたは正解)。ここで、〈第二選択〉が必要な状況を〈文化のダブルバインド〉と呼ぶことにする。
 〈文化のダブルバインド〉を抜け出せない類の人間の代表として挙げられるのが、「オタク」たちである。彼らは特にこれが苦手で、だから二階の部屋の底を抜いてしまったりもする。そんな彼らに「自分にとって本当に必要な情報を取捨選択できる能力を」なんて言ったところで、「全部価値があるんだよ!」という反論の余地を残してしまう。
 目の前には「ほらほら、価値のあるものですよ」と言いながらモノや情報が流れ込んでくる。それらは皆、「価値あるもの」を目指して人々が作り出したものなのだから、それ相応に価値のあるものが並んでいるほうが自然で、その取捨選択も自ずと難しくなる。その「価値あるもの」を、「おまえに価値はないんだ」と簡単に斬って捨てることができるだろうか。
 自分にとって本当に価値のあるものなんていくらでも拡張可能だし、本当に必要なものだってそれこそ必要以上に(!)ある。ここに真の問題があるはずなのだ。まずは価値のある/必要なものを選別した上で、さらにその価値ある/必要なものを捨てつつ進むことこそが、真に求められる選択なのである。必要なものが必要以上にあるのだから、必要なものをこそ捨てなければならない。上のような〈情報化社会〉を生きるための能力を提言する言説も、もう少し先に進む時期に来ているのではないだろうか。

〈文化のダブルバインド〉を抜け出し〈第二選択〉を行うためにはどうしたらいいの? と言われると……わかりません。なんせ自分が「問題ある」わけで……。「あきらめ」「断念」あたりがいい台詞かなとも思うけど。「ほどほどに」とか「テキトーに」とかも。でも、今日はとりあえずここまで。
 文化は「推論」できるし、「推論」そのものだ。つまりトートロジー(同義反復)の連続である。すなわち、「同じこと」を「言い方を変えて」「違うこと」を発見していく、という、よくわからない作業で……ってあたりもかなり気になって、それが〈第二選択〉のカギになる気もするんだけど、今日は疲れたのでそれもまた今度。

辰巳渚『「捨てる!」技術』(宝島社新書)って読んでないんですけど、もしかして主張がカブってたりするのかしらん。

30 TUE
『ちょこっとLOVE』で火種のついたテクノ魂を電気グルーヴ『イルボン2000』で活性化。ハイに持っていくことが大事。それが一番大事(©大事マンブラザーズ)。
 喝よ喝。"All you need is 喝" なんだよ。「喝こそすべて」なんだよ。「只管打坐」の曹洞宗は道元が開祖で越前に永平寺なわけよ。「喝ァァァァァァァァァァァァァァァァツ!!!!!!! ビリビリビリ(効果音)」(©板垣恵介)

日記まわりのみですが、スタイルシートを導入して気持ち高速化。BODYタグの色指定あたりはまだ残してますが。IE 5.5 と Netscape 6 ではだいたいオッケーで、Netscape 4.7 ではイマイチだということは認識済み(してるだけ)。
 あと、2000年後半の日記のスタイルを現在のものに改めました。

松本人志は岩倉具視に似ている。と、たまたま手元にあった石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』<43>(中公文庫)の表紙を見て思った。

29 MON
中上健次と折口信夫を読みたまっている。でも未読本の岸壁はまだ眼前にそそり立ってるし、未読マンガの洞窟は街で俺を誘うし、観てない映画の海は俺を溺れさせようとするし、音楽だって聴きたいし、ゲームだってやりたいんじゃゴルァァァ!!(キレた)
 でもこれは個人の限界。「幸せ」だけど「不快」なんですよね。これは資本主義の生んだ消費社会の限界でもあって。と、ここで社会に責任を還元するのは楽だけど、いまのところはがんばって個人の姿勢として考えるべきところでしょう。「幸せで不快」な中でもなんとかやっていかなきゃいけない。
 ということを直接/間接的にいろんな人から教わったし、自分でも実感している今日この頃です。充実してる/してないで言うならば、ここんとこは恐ろしく充実していると思います。むしろ、しすぎてるおかげでかえってバランス悪くなってるけど、自分で望んだ結果でもあるからしょうがないのかな。周囲の人には感謝しています。
 ところで、その「消費社会の限界」や、「消費社会を生きる人間の限界」をなんとかうまく打破する思想なり社会制度なりってのが出てくれば、またしばらく人間は幸せで快適になれそうなんだけど、そんなのあるのかよっていう。まあ、歴史は実際にそれを何度か乗り越えてきたわけでパラダイムシフト。でもマルキシズムのような大きい失敗もあるしなぁ。やっぱなりゆきサイコー?
 そこまで抽象化してデカイ話にする以前に、個人としての俺に対してあなたが言いたいことはわかっているつもりです。
 「オマエはもうちょっと我慢しろよ」……ごめんなさい。

2ちゃんねる閲覧ソフト「かちゅ〜しゃ for Windows」を使ってます。ねラー化進行中(まずいやん)。

プッチモニ『ちょこっとLOVE』にハマる。つんくの確信犯ぶりはやっぱすごいなぁ。あとは、「オーラスの《まる♪ まる♪ まるまるまる♪》は2回でも1回でもダメ、3回繰り返して締める! それ! それしかないんだよ!」的な部分でも「心得てらっしゃる」というカンジがすごくして。つんく恐るべし。下について学びたいくらいだ。
 あ、この曲は「ハッピー」なのか。そういえば同じ頃だ。そうかそうか、そうだったか。

学校でノートをネットにつなぐたびにウィルスの侵入を許していた原因は、以前にも書いたようにトロイによってバックドアを仕掛けられるせいなんだけど、なんで毎度毎度バックドアを仕掛けられてたのかといえば、学校でもCドライブを共有設定にしたまま繋いでたからなんだった。
 バカとしか言いようがないよね、これは……が、あえて言い訳させてもらうと、家のデスクトップと連絡することのほうが多いから、いちいち共有外すのが面倒くさかったんです。それにしても、あまりに恥ずかしいので自分からここにさらすことにする。

この前は、ただ「ルーニー」としか書かなかったけど、テレビ東京でやってた番組名が『バックス・バニーのぶっちぎりステージ』だったことを思い出した。やっぱり、こっちのほうがしっくり来る。けど、長いので今後も「ルーニー」にしとこう。
 ノートの起動・終了音もいまはルーニー仕様になってます。やっぱイイ。

28 SUN
ああそうか、もう1年たつと「あの17歳」、つまり2000年を17歳として過ごしたやつらが大学に入学してくるんだ。現役だったら。
 「まったく関係ないのに、迷惑な話ですよ」って思考停止してるやつよりは、もっとちゃんと自分の問題として考えてるやつと会ってみたい。

まったく見知らぬ、東大の井口くんの日記(?)が面白いと友人から教えてもらい、読んでみたら本当に面白かったのでもっと読んだ。
 俺の脳味噌の「思考開始ボタン」が押される箇所はとにかくたくさんあるんだけど、ひとまずここを引いてみよう。岡山バット撲殺事件(センセーショナルな表現でいうとね)についての記述。

とにかく、彼の人生は実質的にはこのあたりで終わりのはずです。それは社会復帰がどうとか、そういう社会的制度的なことではなくて、ここ何週間ほどの間にこれほどの濃密な体験をしてしまった彼は、今後の人生を、それがどれだけ長く続くにせよ、この何週間の思い出を反芻し、精々のところ、意味付けを試みながら生きていくことになるような気がするのです。
(20000707)
一連の未成年事件の中でも、岡山のは1000kmをチャリで(!)逃げたってあたりでただならぬ(イイ)気配があったよね。まぁひとまずそれはそれとして。
 俺が引っかかってるのもまさにここなわけだ。人生を15歳くらいの時点で「実質的に」終わらせるか、それとも先に進むのか。進めるのか。まさにそれよ。それなんだよ。すべては収斂していくんだよ(人を殺したりしたわけじゃないけどさ)。
 終わらせていいのだろうか、しかしそれしかできないのではないだろうか、一生かけなきゃいけない問題かどうかはわからないが、しかしひとまず今は……だが「意味づけ」の具体的な方法をいかにするのか(これは特に大きな問題)。それから逃れることはできそうもないから。
 ……しょうがないからまたいつもの「じゃあ全部」で行くか。行かれるのか。それだと両者が薄まって「本日のうさぎ獲得数:0羽」ってオチじゃないのか(それもいつものことだ)。

今日はJJ72を中心にミックス(はしてないけど)。

「月刊アフタヌーン」3月号を買う。
 植芝理一『夢使い』が新連載……前作『ディスコミュニケーション』最後のほうもキてたけど、壊れ具合がさらに極まってきたな〜。
 え、『EDEN』が7ページしか載ってねェ!!

「ダ・ヴィンチ」2月号(メディアファクトリー)の宮台真司の連載「オン・ザ・ブリッジ」を読んだら、青山真治監督『EUREKA』についてだった。
 人は一般に「社会」の内側に生きようとするが、実は必ずしも「社会」の内側を生きる必要はない。事実、「脱社会化」して「社会」の外側=「世界」を生きる少年たちが次々と人を殺している。そのように倫理がもはや自明でない「社会」において倫理的であろうとすれば、それは「端的な意志」によるしかない。そのためには、倫理が自明ではないことを自覚して「社会」の外側に拡がる「世界」を生きねばならない。しかし、「社会」の外側を生きる者はまた「端的な意志」によって人を殺すこともできる。「脱社会化」して「世界」を生きていても、「端的な意志」によって倫理的でもありうるし、人を殺すこともありうるのだ。では、その二者を分けているものとは何なのか……ってなことを『EUREKA』をめぐって論じてる。
 どうも『EUREKA』は、「社会/世界」、「向こう側/こっち側」、「悪魔に魂を売ってない/売っちゃった」ってとこがテーマらしい。と、これを読んで思ったのは、いま俺が『EUREKA』を観たらぜったい泣くってことで。やばい。観るけど。「でも、観るんだよ!」

27 SAT
英語のライティングの授業なんかで、「まず文全体の結論となることを主張し、その後それを説明し、最後にもう一度結論を繰り返せ」みたいな構成をよく薦められる。最近は普通の(ガチガチの学術論文とかではない)日本語の文章でもこういう構成をよく見かけるけど、日本ではそれほど伝統的なスタイルではなく、比較的最近に輸入されたものだ。
 で、主観だけど、この英文的構成を日本語でも主流にしよう、という流れがどうもあるように見えてならない。でも、デメリットって絶対にあると思う。
 いきなり結論を出して、しかもそこに全く新しい概念だの、にわかには受け入れがたい考えだの、難しい言葉だのが使われていると、まず間違いなく読む気が失せていく。最初でインパクトを与えて、挑戦的な態度で読者を惹きつけるっていう戦略もあるにはあるだろうけど、そこまで気合いを入れて文章を読むような人が日本にはそれほどいないでしょ。
 そういう文章って、読むの疲れるんだよね。だから、ダラダラといろいろとうねり道を進みながら、その過程で興味を煽りつつ、最後にポコッと結論が出てくるっていうスタイルも悪くないと思う。ひまつぶしならこのほうが断然いいし、このほうが伝わる類の話題や主張も多いだろうし。もちろん、英文的スタイルにはメリットも多いんだけど、英語だって別スタイルを取り入れる寛容は持ってたっていいんじゃないかと。ていうか我が校の英語講師もそういう文を評価する寛容を(以下略)
 まあ、これって「エッセイ」であり(つまり英文にまったく無いわけではない)、伝統的/中国的な「起承転結」なんだけどさ。このような主張をしてしまうのは、単に俺がエッセイ好きだったり、カタルシスジャンキーだってだけのことなのかもしれない。
 しかし、その「起承転結」にもまた弱点があるというか、その構成では伝えられないことも世の中にはあって。K塾時代に俺が師匠と(勝手に)仰いだ「小論文」のO先生は、授業で「起承転結」と絶対に言わない。それだと「起承転結」で書けることしか書けなくなるから。今思うと、その「書けない」の中には「伝わらない」とか「読まれない」ということが含まれるんじゃないかと思う。
 そう考えてると、文章構成なんてどうでもいいんじゃないかと思えてくる。英文の構成も「起承転結」も、先にその形があったわけじゃなく、何かを「伝えよう」として考えに考え抜いて書かれた大量の文章がまずあって、後から帰納的に形を分類して発見されたもののはずだ。最初から、そこには「伝えたい、伝わらない」という試行錯誤の歴史だけしかなかった。でも、その歴史をすべて踏まえても、「伝えたい」という想いはきっとまだ伝わっていない。歴史はすでに「伝わらない」ことを証明しているかもしれないけど、でもまだ「伝えたい」という想いはなくならない。
 人間は「伝わらない、伝えよう、また伝わらない、伝えたい、でも伝わらない……」という作業を繰り返してきた。でも、いくら無力感を感じたとしても、それしかないんだと思う。ぐるぐると「伝えたい何か」の周りを回り続けながら、そこに「何か」が現れるのを、じっと待つことしかできないんだ、きっと。

中原中也って Yahoo! にカテゴリがあるんだなぁ。4サイトしかないけど。
 著作権なくなってるから電子化しても問題ないわけだ。好きなのからぼちぼちやってみようかしらん。散発的にはみんなやってるみたいだけど、どっかでまとめてないのかな。

青山真治監督『EUREKA ユリイカ』テアトル新宿でやってるんですな。行きたいっていうか絶対行く。……しかし4時間ってエグいなぁ。混んでそうだし……。いずれ伊勢佐木町の奥のほうでやりそうだし、それを待とうか……どうしよ。
 net-flyer.comインタビューを読んでいて、ちょっと面白かったのがここ。
──『EUREKA』は“シネマスコープ”ですが、何故このサイズだったんですか。

「バスを入れたかったからなんです(笑)。普通の自家用車で外を見ていたら割とビスタサイズではまるんですけど、バスの場合はビスタサイズで撮ると決まって狭い感じがしてしまう。でもシネマスコープで撮ると本当にバスの持つ印象が感じられる。だからバスを選択した時点で、それはシネマスコープにするというふうに決めていました」
 青山監督もかなりのバス好きらしく、「バスが出てくる映画はだいたい見てる」とか別のインタビューで言ってた。俺もやっぱり(レベルは違うけど)バス好きで、バス停とか横断歩道でバスが目の前1mくらいを横切るときの感じがすごく好きで、その瞬間は、実際見たことはないけど「クジラだなぁ」という感覚があるんだけど、青山監督の言う「シネスコでしか出せないバスの印象」ってのが妙にそれと近く思えて、わかる気がした。

ナルシシズムとは、鬱を避けられないダメ人間の生み出す、最後の武器である。じゃなくて防具か。

雪に阻まれ、fra-foaライブを断念。ガクシ。

26 FRI
ここ数日で、二、三人から「迷わず行けよ、行けばわかるさ(笑)」と言われ、それ以前に俺自身も気になってたので、思わず、アントニオ猪木『猪木詩集 馬鹿になれ』(角川書店eS! Booksで「ポチッとな」してしまう。

ちくま学芸文庫のラインナップがシブイと聞いたので、筑摩書房のページを見てみた。すんごい前に見たときも「検索」のページは準備中だった覚えがあるんだけど、今日もまだ準備中だった。連載とか広告の前に検索を作ってくれよう。ちくまファンだからこそ言いたい。

ただ「無批判にものごとを受け入れるのは避けよう」という態度を表明しているだけなのにも関わらず、それが相手に攻撃的な印象を与えてしまうことって多いよね。相手を理解しようとしているつもりが、無理解な印象を相手に与えてしまうという逆説。
 「相手がバカなんだ」と自分を納得させるのもいいけど、それじゃ進まないんだよなぁ。たしかに本当に相手がバカだっていう時もあるけど、多くの場合はこっちにも責任(原因)があって。そう考えると、真に相手を納得させうるのは思想や論理そのものではなく、表象としての言葉とか、あるいは表情だの態度だの、本当に伝えたいコアの外にある情報だってのが実感できる。よく言われることではあるけど。
 自分が誰かに説得されるときも、やっぱりコア以外の何かのほうが重要だって気がする。こたつでテレビ見ながら、画面の中でグダグダ説教する学者たちに向かって「アホ面だなぁ」なんて言ってるんだから、自分だってそこには気を配らないといけないよね。

昨日の「邪神占い」の結果だけど、「一番になれない価値は切り捨てる」とかいう記述が入ってるともっと当たってたのになぁ、と思ったり。
 これは「幼児的全能感」というものだと最近よく思う。10歳くらいから成長していない部分と、それを補うために恐ろしく成長しまくっている部分がある。
 というあたりを突き詰めつつ、何か普遍的なものを見つけてみたいとも思うんだけど、うまくいかない。
 それを環境のせいにもできるかもしれないけど、そんな瞬間にはいつも中原中也の慨嘆に横面を張られてしまう。

あゝ 空の歌、海の歌、
僕は美の、核心を知ってゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逃れるすべがない!
(「憔悴」より抜粋)
 中也はやっぱり鋭い。けど、それを評価し、受け入れてくれる環境というのは、やはり中也にとっても必要であったような。そうであれば、もう少し長くも生きていたのではないか、と思う。
 しかしその場合、あの詩のテンションもまた弱くなっていたのではないか、とも思ってしまい。キルケゴールもまた、ニーチェもまた。
 しかし、出てくる名前がロクな人生送ってないやつばっかだ……。

寿福寺へ中也の墓参りに行ってこようかしら。行きたい行きたいと思いつつ行ってなくて。
 と思って調べてみたら、寿福寺では告別式をしただけで、葬られたのは山口県にある中也の菩提寺だとわかる。あうぅ(脱力)。

今日も、くるり『ばらの花』はやさしい。愛のばら掲げて、遠回りして、また転んで。

25 THU
はてさて、外より流れ来るマレビトは、その特異性により、しばしば歓迎される。さらにマレビトは、しがらみの無さゆえにその世界の停滞を読みとり、新しい流動への契機をつくる力を持ちうる。
 しかし、オイディプスは、レーニンは、幸せだっただろうか、あるいは快かっただろうか。どうしたら彼らは快く、幸せに暮らせたんだろうか。
 しがらみから距離を置いた、置かざるを得なかった放浪者は、どこに行きたかったのか、どこに居たかったのか、どこに居ればよかったのか。……そんな「どこか」は無いんだろうか。
 あの場所へ帰ることを、記憶は邪魔するのだろうか。怖いのだろうか。

黒沢清監督の一連の「怪物継承」モノを見ててもなぁ、なんだかなぁ。「それしかないのかおまえら!」みたいな。「放浪すんな!」っていうか。
 いや、そもそもそうやって間接的な方法でしか世界を理解できない自分つうのがまず問題か。まったく。

物語要素辞典」というのを発見。し、しぶい。

くるり『ばらの花』がヘビーローテーション。

さきちん日記から、「邪神占い」へ飛んでみた。

あなたのタイプは【イスの大いなる種族】です。
嫉妬にあふれた“精神的タイムトラベラー”

<解説>
 あなたのタイプは外宇宙から精神体として飛来し、古代の地球生物の体で高度な文明を築いた“イスの大いなる種族”です。
 このタイプの人はとにかく「隣の芝が青く見える」という性質を持っています。常に己が一番でありたいと思うあまり、他人の幸せや長所には敏感です。「人のものが良く見えた」という自分自身が許せません。そういう時は人の幸せを奪い取り、よくよく吟味して自分の方が優れている、幸せだと納得したら返してやるという行動を取ります。
 また生存ということについては並々ならぬ信念と覚悟を持っています。たとえ虫の姿になったとしても生きる。なりふりかまわぬしぶとさこそがこのタイプの真の強さです。

<大いなる種族なあなたの性格>
 昔のコトに心悩ます
 人が自分より優れているのが気に入らない
 なりふりかまわぬしぶとさがある

<陥りやすい犯罪傾向>
 夜逃げ
 他者の地位のっとり

<イスの大いなる種族の有名人>
 ジャイアント馬場
 うわ、怖っ。なに、この当たり方。最初は笑ったけど、いま怖い。俺の基本的性格云々というよりも、特に現状を素晴らしく客観的かつ冷静に分析されてるのが恐ろしい。ていうか、なんかムカつく。せっかくカッコつけてたのにさ、チッ。
 しかし、言ってることは正しい……こんなところから啓示があるとは。ちょっと先に進めるかもしれない。

それにしても、「冷静に状況を分析されるのはムカつく」というのがはじめて自分で実感できた。俺も今後は気を付けることにします。でも、やっぱりそれは必要だとも思うけどさ。

24 WED
またまた迷いの日々。「ほぼ日刊イトイ新聞」の「帰ってきた松本人志まじ頭」や、そこから流れて「御影屋」の「御影湯」を読んだり。

迷うってのは、何にもないように見える壁なんだけど「いや、でもここに地図が書いてあるはずだから」と、それを気合で読もうとするような、この壁のシミの一点でも見逃すまいとする集中と気合の作業で、そのうちそこにじわ〜っと地図が見えてくるような、こないような、そんな感じで。自分で念写してんのかもしんないけど。

日本語入力システムの「変換」っていう機能は日本人が発明したすごいものらしいんだけど、こいつは本当にすごいし面白いと思う。変換ミスも面白いし、よく使う表現を圧縮して効率を高めたりできるし、何よりもまずこいつのおかげでパソコンを使って日本語で文章を書けるようになったわけで、単なる文章入力装置を超えて新しく表現を拡張する役割を果たしたと思う。ていうか、書いているうちに書いてる側の頭の中が改造されているような気さえする。
 この「改造されてる」って感覚がなんか気持ちいい。同音異義語がパシパシ出てくるのがいいんだな、きっと。「同じなんだけど違う」言葉がキーを押すごとにクルクル回る感覚が、まず面白い。英文を打っててもあんまり面白くないんだよね、変換できないから。この時代の日本人に生まれてよかった。
 んで、これを使って「新しい類推システム」みたいのが作れないかなあと思ったり。自分の頭の中にある「類推」のパターンをつなげてIME用の辞書を1個つくってみるという。ある言葉を変換すると、その次に連想したものが出てくる。それ用の辞書は個人が作る。
 で、他人がその辞書を使うと、まったくわけのわからないものに変換されるんだけど、そのへんも面白いだろうし、つくった本人はそれを使って何らかの発見をしたり、発明したり、創造したりできるような。

槇原敬之『Hungry Spider』を聞く。この歌詞、マッキーがゲイだという話を信じ、かつ男女の物語だとして聞くと、ものすごい「うわ〜っ!」てなる。
 《腹を減らし》《その巣で獲物を捕らえる》蜘がマッキー。《空を美しく飛ぶ蝶》は女。蜘が捕らえたいのは男。しかし女は蜘の巣に捕らえられる。その時点で、女は「食べてほしい」わけだ。女は美しいし、関係はそのままにしたいが、しかし女を食べることはできないマッキーという蜘。
 うわ〜っ!

『ルビー・ザ・キッド』打ち切りについて、ちょっと『ジャンゴ』とかぶってたからか? とか思う。「女が運転する車に男が乗ってる」みたいなシーンが頭をよぎって、どっちのマンガのシーンなのか一瞬わからなかったからそう思ったんだけど。なんかイメージが近いような。物語の構造も似てるような。

23 TUE
授業をサボって街へ(おお、学生っぽい)。久々に「平日の午前中」にいた感覚を思い出す。
 しかし、さんざんこいつを味わったあげくにそれを抜け出そうとしたんだよなぁ、たしか。

ん〜、なんか迷ったり悩んだりしてるときってのは、ナイスな事実に気が付いたり、ブリリアントなたとえ話が聞けたりと収穫も多くて、その点は楽しい。だから悩むのもそんなに嫌いじゃないんだろうなあ。寿命も確実に縮んでる気がするけど。

22 MON
会談。「何か」について郵便的誤配(©東浩紀)だけで語る。有意義なのかどうかもよくわからないが、気分的には有意義。

その後、自己採点。一挙にドン底に。今週は最終授業なのに、今日会った人々と、2度と会わないという気がしなかったのはそのせいか。

片手に現状への不満を抱きながら、片手に他の選択肢を持ちながら、2つのどちらでもない位置にいることに安心感を見出している。というよりむしろ、そこでしか安心できないのかもしれない。今も悪くないのかもしれない。「完全性の中にいるときは完全性の完全であることを感じることはできない」とデリコのKUMIも言ってたし。後悔はいつだってするんだし。でも気づいたときには遅いんだし。「ポジティブシンキング」はどっちにだってあてはまるし。何が快で何が不快なんだかわかんないし。永劫回帰。
という日記を上げようとしていたところだったので、余計に落差がでかい。
 いまのところけっこう冷静だが、あとから襲って来るような気がする。怖い。怖い。怖い。

the brilliant green『There will be love there ――愛のある場所――』をかける。希望は希望で希望のまま希望の希望とは希望で実体のない。何もない。あてのない。

21 SUN
センター試験2日目。前日の雪は横浜国大への上り坂を一層過酷に。
 しかし、センター試験の現代文ってのはほんとにナイスな文章をセレクトしてくるんだよね。国語1・国語2では、富永茂樹『都市の憂鬱』から日記をテーマにした部分を引用していて、日記書きとしてはとても考えさせられる文章でした(問題PDF@河合塾)。

20 SAT
雪降ってんよ。どーすんよ明日。

TV Bros.』2001-2(1月20日)号の、柳下毅一郎のコラム「アイちゃん雲に乗る」より。『アウトサイダー・アート』(求龍堂)を紹介したあと、こう締められていた。

ところで、50年代以降、精神病院での作品製作は著しく減ったという。精神安定剤の発明によって、狂人は作品を造らなくとも済むようになったのだ。あるいは治療と創作は相反するものなのかもしれない。
 俺の狂人度なんてまだまだヒヨっ子だけど、言われてみると煙草を吸うようになってから絵を描かなくてもオッケー感が増したような気がする。そう考えると、いま煙草をやめてみたら自分がどうなるのかちょっと気になってきた。
 でも、煙草を吸いつつ作品をつくってる人だっているだろうし、そのへんは「狂人度」との兼ね合いなのかも。煙草吸ったくらいで抑制されちゃう俺の「狂人度」なんて、やっぱりヒヨっ子ってことなんだろう。

ってbk1紹介に書いてあったんで知ったけど、1/8まで横浜美術館こんなのやってたんじゃん。行きたかった……。やっぱ藤沢の山奥に引きこもってるのはマズイよなぁ。

以前(このとき)「なぜルーニーロード・ランナーはイイのか?」という話で盛り上がり、「無常感かな」「しゃべらないから?」「ワイリー・コヨーテに共感しまくる」「圧倒的な能力を持つ、絶対者としてのロードランナーにひれ伏すのが快感なんだ。MよM」といった意見が出たんだけど、それ以来、見たくてしょうがねえ。そのしょうがねえ感が今日もまた強まる。ていうかたぶん来るね、ブーム。このまえ『明石家マンション物語』でガルシア(山口@ドンドコドン)もモノマネしてたし。テレ東で再放送されちゃうね、近いうち。
 日本人はロード・ランナーのほうが好きで、アメリカ人は議論好きだから、しゃべりまくってコケにしまくるバックスとかトゥイーティのほうが好きそうな気がするんだけど、実際どうなんだろう。

てなわけで、ロード・ランナーの鳴き声 "Meep meep!" をこことかここで発見。メール着信音にしよっと。

19 FRI
前日だっつうのに単位のためのやっつけレポートに追われています。シット。

今日の1曲は Meredith Brooks 『Bitch』 でした。ラジオで聴いてヤラれました。
 『ハート・オブ・ウーマン』という映画の主題歌。見ないけど。

木葉功一『ルビー・ザ・キッド』(週刊モーニング/講談社)が打ち切り? っつーのを友人からの電話で知って驚く。そういえば今週はモーニング買う暇もなかった。
 ってなわけで買ってきた。うわ〜、なんだこりゃ〜。

18 THU
既知の砂漠での渇死だけはしたくない。未知の海で溺死したい。お願いだから。

17 WED
Virtual insanity is what we're living in で Futures made of virtual insanity で I think it's time I found a new religion っすよまったくもー。J.K.&Toby Smith は哲学者ナリ。

で結局、やっぱりここに戻ってくるわけだ。というわけで今日の締め括りの1曲はblur『Cofee+TV』でした。ほぼ脳死。

16 TUE
『AERA』'01.1.22号(朝日新聞社で、宮台真司特集。冒頭に書かれた言葉を授業中に読む。
他人が何を感じているのか、生身の人間に接してもよく分からない。本を読むことで人間を理解する方が遙かに楽だった。自分と世界の間にある亀裂。
あ〜ヤバイな〜と思いつつ、涙目になってる。読み進んだらもっとヤバくなってきたので、ひとまず中断する。

15 MON
さて、ここでクイズです。おおっとチャンス! 3択問題です。
Q. 本当の不幸はどれでしょう?
  1. 他人からは不幸だなんて決して見えないのに本人としてはなぜか不幸である。
  2. 明らかに他人からも不幸に見えつつ本人としても不幸である。
  3. 他人には内容がよくわからないし本人も不幸なのかどうかよくわからないくらい複雑に不幸である。
 まあ、どれもきちんと不幸なのかな。ということは、不幸だと思った奴が不幸なのか。ロジックを使えば何だって幸せで不幸だ。バカいうヤツがバカじゃ。じゃあ幸せってなんだ。単なる生理的なものなのか。って、これがかなりありそうだから参る。
 とにかく、どれもこれも不幸は不幸で不幸なのである。疲れがきてる。胃が痛い。ほら、結局これだ。不幸じゃなくて気分が悪いだけなんだ。まったく、これだけ考えなきゃそんなこともわからなくなってるなんて、いつからこんな。
 表象だけを見るのをやめて、裏に隠れた構造を見ようとして、それが見えるようになったところで、結局また表象に悩まされている。お百度参りはまだつづく。

ついに、the brilliant green『the brilliant green』を買ってしまった。しかも新品。

エルサルバドルで地震。新しい早口言葉がひらめく。「えばるサルトル in エルサルバドル」(ノルマ3回)。therefore 対岸の火事(デリコ風)。

つーか自分で言うのもなんですが、ぶっちゃけた話が原因は単なる物足りなさでしかないんだよなぁきっと。味も薄けりゃ具も少ない。悩めるインプットジャンキー。やっぱ街にいないとダメなのか。

fra-foa『澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。』について。「まだ言うか」ともお思いでしょうが。

僕の心は「何か」が欠けているから
無意識に人を傷つけてしまうんだ
 さて、《無意識に人を傷つけてしまう》ってことはありそうだけど、それは《「何か」が欠けているから》なんだろうか。もしそれが《僕》だけに《欠けている》というなら、それは嘘だということになる。しかし、《僕》を含めた「人間そのもの」に何かが《欠けている》というのなら、それはおそらく正しい。
 そもそも人を傷つけるのは、無意識にしかできないと言ったっていい。相手を目の前で罵ることはできるだろうけど、そんなの実はまったく痛くない。そんなのいくらだって防御できるし、反撃するのだって簡単で、むしろそれはお互いに膿を出し合って癒し合ってるようにすら見えるくらいだ。回りくどい愛情表現ってなもんだろ。それよりも、無意識に傷つけ、傷つけられることのほうが、何倍も難しい問題なんだ。
 無意識に傷つけられるのは、意識して傷つけられるより何倍も痛い。相手が自分のことを考えてると信じられなくなるから。そこに断絶があることを突きつけられるから。さっきまでそこにあったはずのものが、その瞬間で消えてしまうように思えるから。それは痛くて虚しい。
 だからこそ、できることなら他人のことも傷つけたくなんかない。相手がものすごく痛いのはわかるし、傷つけた側から見ても、そこにあったはずものは同じように消えてしまうから。しかも、痛みを与えてしまった分だけ否はこっちにある。恨まれたりしたらそれこそ目も当てられなくなる。
 そうかといって、人を傷つけずにいることができるのかというと、どんなに《欠けて》いない人であってもそれは無理だ。いちいち他人が何をどう考えてるのか聞いて回るわけにはいかないんだし、自分について全部説明して回るわけにもいかない。第一、そんなの大概が取り越し苦労なんだから。
 傷つけることと傷つけられることは等価で、どっちも避けられない。「傷つけるのはいいけど傷つけられたくない」ってのは、都合の悪い部分を見てないだけだ(それもいいかもしれないけど)。
 誰かに傷つけられると、その人は自分のことを考えてないのかもしれない、と一瞬疑ったりもする。けど、きっとそうじゃない。それはもとから無理なことなんだから。
 あるいは、傷つけたことを後で知って後悔したりもする。でもそれも、どうしようもなくて。いちいち「傷ついた?」と確認してるやつのほうがよっぽどウザイ。
 傷つけることも、傷つけられることも避けて生きることはできない。《「何か」が欠けている》のだとすれば、それはどうしても埋めようのない「何か」であって、人間にとって普遍的な「欠落」のはずだ。その意味で使われているのだとすれば、上の歌詞は正しいことになるが、しかしどうも三上ちさ子は責めを自分に向けているように思える。でも、そこでひっかかってしまうと袋小路を出ることはできなくなる。
 しかし、それでもまだどうしても避けたいと思ってしまう。そこにあるはずのものを信じたままでいたいから。そして何よりもまず、自分が傷つけられたくないから。
 でも、それを完全に避けようと考えたら、その瞬間に身動きがとれなくなる。いくらハイエンドな脳味噌だってすべてを想定できるほど高速じゃないだろうし、もし想定するのが可能だとしても、その次に必要になる「すべてをうまくおさめる行動」ってのがありえなくて、できるのは何もしないことだけだ。
 でも、最悪なことに、「何もしていない」間にも他人が勝手に傷つけられてることだってある。
 この次の瞬間にも、人はお互いに斬りつけ合うかもしれない。一歩進んだら、目の前で流血の大惨事が起こるかもしれない。でもそれが実際に起こってるのかどうか確認することはできない。あらかじめ予想もできない。避けることもできない。でもそれは避けたい、でもやっぱ無理、でもイヤ、けど無理……わかんない。
 このすべてをひっくり返す力ってなんなんだろう。それでも生きてるってことは、俺もどうにかひっくり返してるはずで。目を閉じること? ひいきすること? 血の海歩くのを覚悟すること? 一人でいること? 血を流しながら泣き続けること?
 血の池地獄は終わらない。

ここで1曲、小沢健二『愛し愛されて生きるのさ』。ていうか『LIFE』はまるごとそういうアルバムです。たぶん。

14 SUN
カーネル・サンダースまたはブラック・サンタクロースこと鵜○公○が、「総合政策学」の講義で口を滑らせたらしい。雪が降って数日後のことだった。
「雪はすぐには積もりません。雪は降ってしばらくのあいだ、地面で溶けてしまいます。しかしその君たちがあってこそ、雪は積もってゆくのです」
とかなんとか(また聞き)。つまり、現在のSFCは「雪が積もる」前の基礎段階だとは認識している。これはいい。だけど、そこにいる生徒が「溶け」ても仕方ないと考えている。
 これは実はみんなわかってるんだ、きっと。現状のSFCなんて長期的プランに立てばそれしかないんだ、もう最初の役割は終わってるんだし。今のSFCには何もない。インパクトを与えたあとのSFCなんて張子の虎で、普通の大学以下かもしれない。
 でもさ、その現状を正しく認識してるのはいいことだとしても、そのまま何もせず、生徒に「あきらめてくれ」なんて言っちゃダメだろ、カーネル。だからカーネルとか言われんだよ。
 またもダメさ加減が露呈された出来事でした。

fra-foa学園祭出演を受付けている。三上ちさこも

今年は日本中の学校を回ってみたい。小中高大問わず。もしも心の中に何かこう、どうしようにもどうにもできない何かを抱えている人がそこにいるのなら、その不安を抱えたままで、一抹の希望なりハナクソ程度のきっかけでも、とにかく何でもいいから共有しに行きたい。
って言ってる。呼びてえ。しかし、足りないものは行動力と組織力(=ぜんぶ)。

13 SAT
the brilliant green『There will be love there ――愛のある場所――』これ)を聞いたら、思わずマジ泣きしてしまい、自分で驚く。
 まず、導入があまりにハマりすぎてる。でも、「助けられた」とかそういうことじゃない。むしろ反対で、前提となっている状況がすごく近いにもかかわらず、ここで歌われてることを信じられるだけの材料なんてひとつもないし、それどころか嘘であることを証明する材料ばかり次々と集まってくることが悲しかったんだと思う。同じ前提から出発しているのに、導かれる結論がすべて偽になってしまう。信じたいけど、そんなの信じられない。
 その結論を導いた自分を信じられないほど自信は無くないし、「未知のもの」を信じていられるほどのオプティミストにだってなれない。
 だけど、この歌はそういった人間にこそ向けられているのかもしれない、とも思う。でもそれが無理だから、また悲しくなる。その一方で、実のところまだどちらなのか決断しきれていない自分がいる。
 しかし、見えるのが希望だけでそれが希望のまま希望であることをやめないのなら、嘘だと信じる強さを。

ローランド・エメリッヒ監督『インデペンデンス・デイ』を見てしまう。アメリカ人の少年ジャンプだなこりゃ。

12 FRI
the brilliant green『愛の・愛の星』なんだけど、最後の《Ah 過ぎてゆく 一度も振り返らぬまま/白く咲く花に似て強く繊細な光の様に》の部分、《強く繊細な〜》と引っぱっておいて《光のように》 とすぐにブレイクするんじゃなくて、一度こらえて《例えば強い雨の日には〜》まで戻ってくれ〜!! と強く訴えたい今日この頃。マジでもったいないと思うんだけどな〜、あと一歩でスゲエ来るのに、ここ。カタルシスジャンキー的には。
 椎名林檎とかはそのあたり確実に押さえてくるんだよね。そこで外しちゃうのが、ブリグリがイマイチ煮え切らないJポッパーの域を出られない理由なのかも。プロデューサーが悪いのかな。しょうがないから自分で編集するか……。

LOVE PSYCHEDELICO のニューアルバム『THE GRATEST HITS』の購入は見送ることに。fra-foaボニー・ピンクが待ってるし……。

アルツハイメルことボケ老人こと斎藤信男ことサカナ顔の、もはや講義とは呼べない壊れたテープレコーダーからこぼれるつぶやきシローのネタのような独り言をBG落語にしながらレポートの構想を練っていると、うしろからこんな会話が。

「慶応って言うと『すごいねー』とかすぐ言われるからさー、なるべく言いたくないんだよねー」
「うんうん、俺もそれあるよー」
みたいな内容を延々と。しかし、どう聞いても慶応への帰属を確認し合って強めてる会話にしか聞こえなくて、居たたまれなくなる。

考えるやつと対談。生きることがままならずつまづくってのはどーゆうことなのか、ままなってそうに見えるやつってのはどーゆうもんなのか、素顔のやつとニセの仮面被ってるやつと本物の仮面被ってるやつ、わかってるやつとわかってないやつ、人の裏側を見なければ動けないけど人の裏側は見切れない、ってあたりをテーマに同じとこを何度もぐるぐる回りつつ、「俺たちって悪魔に魂買い叩かれてるよな」と確認し合う。「売るときはいつも安売りだよね」とか。
 でも、考えてみるとソクラテスや孔子やブッダなどなどなど……も「悪魔に魂売って」苦しんでたんだよねー、昔っからみんなそうだったんじゃん。と、やつらに妙な親近感を感じてみたり。

11 THU
「泣く」という行為を考えてみる。
 一般的に人は悲しいときに泣くとされているが、これはどうも正確でないような気がする。「悲しい」に限ったことではなく、たとえば複雑な事態を理解しているが他人にそれを伝える方法がないとか、伝えるべきことはあっても方法がない、たとえば「愛している」という言葉で表現できると(一応)されている類の感情の塊であるとか、(それをわかっている人がいるとすれば)世界の根元であるとか、あるいは祭りやライブ等々での興奮や絶頂、そういった類の、恐ろしく複雑とも思えるし、あるいはすごく単純なようにも思える、表現不可能な感覚を体験してしまったとき、おそらく人は泣くのではないか。
 それはきっと、乳児が母親に対して泣くのと同じことだろう。乳児には様々な欲求があるが、それを伝達する方法が無いからこそ、泣いてそれを伝えようとするのである。だから、人は成長して言語に習熟してゆくと、泣くことも少なくなる(おお、つじつま合ってきた)。
 感情が高ぶったとき人は泣く、とされているが、しかし理性によっても人は泣くことができるはずだ(というよりそもそも、言葉(=理性)と感情を対立させること自体に意味がない。言葉で感情を表現することは、できるともできないとも言えるから)。理性だの論理だのによって何かを突き詰め、その先にある、言語の外にある「何か」が見えた(?)ように思えた瞬間にも、同じような事態は起こりうる。士郎正宗『攻殻機動隊』において、「人形使い」が「上位構造にシフトする」のを見守る草薙素子が流したあの涙は、おそらくこれに類するものだろう。
 論理によって論理を超えてしまったとき、「何か」に出会う。あるいは、突然不意に「何か」が「訪れ」てしまう。
 「涙=悲しみ」や「うれし泣き」という考え方が間違っているわけではない。むしろ、だいたいのところは合っているかもしれない。だが、それですべて済むわけではない。それだけではどうしても「何か」が残ってしまう。その裏には、言うことのできない、表現不可能な「何か」があるはずなのだ。そのもどかしさ、ままならなさ、それがおそらく「泣く」ということである。「泣く」という行為は、その「何か」を表現するために用意された最後の手段なのだ。

ジョンとショーンとSFC。
 ジョン・レノン息子のショーンは幼い頃、いろんなものを欲しがってわがままを言ったそうな。そんなショーンにジョンは、おもちゃ屋を一軒まるごと買い取って与えたそうな。すると、ショーンは海岸で拾った貝殻を大事にするような子供になったという……。
 SFCには100Mの回線などをはじめとするものすんごい設備があるわけだが、しかしそこで得られた感慨は、だいたいショーン・レノンと同じようなもんじゃないかと思う。むしろそれを伝えるためにこそ設備が維持されてるのかもしれないと思えるほどに。
 それはたしかに贅沢な悩みなんだけど、持ってしまったその感慨をいまさら払拭できないわけで。ジョンも「それでいいんだ」と言ってるわけで。

成人式。
 いろんなとこでいろいろあったみたいだけど、結局のところ成人まで酒を飲んだり煙草を吸うのを我慢するやつなんて大昔に絶滅済みなわけで、そんなら成人式なんて何にもないよねーってなことを、新成人を交えて話した。
 でも、ちゃんとした「通過儀礼」が無いってのはもったいないなぁと思う。というか、制度としての「禁止」が正しく機能してれば、「通過儀礼」ではけっこう大きなカタルシスが得られるはずで、そのカタルシスというのはまさに今の若者が求めつつも得られていないものなんじゃないかと。で、周囲の用意する「通過儀礼」に期待しても何にも出てこないし、高松市長の話もつまんないからこそ、自分たちで「何かしよう」としちゃうわけでしょ、クラッカーが正解かどうかは知らないけど。
 カタルシスが生まれづらい社会でカタルシスを得ようと思ったら、もう自力でカタルシスが生まれやすい状況を作るしかないわけだ。その点においてだけなら、例の新成人は正しい選択をしたと思う。
 カタルシスを得やすい状況を作り出すには、大きく分けて、(1)外部に期待する方法と(2)内部的に調整する方法の2つが考えられる。カタルシスが生まれやすい環境に身を置くことと、常に自分をカタルシスを感じやすい状態にしておくことだ。
 「カタルシスが生まれやすい環境」とは、手っ取り早いとこでは株に手を出すとかのハイリスク・ハイリターンもの。あと、だんじりに代表されるようなハイテンションなお祭りに参加したりしてもいい。または、そこまでコストをかけなくても、何かモノを作るだとか、そういう「積み重ね→達成」型の行為でもいいし、もちろん恋愛なんてかなり好都合で。要は、「挫折/失敗と達成/成功の間に挟まれて揺れ動く」タイプの行為なら何でもいい。
 でも、「そういう状況って普通にあるよね」ともちょっと思う。だから、今度は「内部的に調整する」必要が出てくる。つまり、自分を慢性的な欲求不満状態に置いておいて、達成を供給過多にしてはいけない。適度に挫折もしておかないとまずい。
 ともすれば達成が供給過多になってしまう世の中では、油断してるとすぐになんでも「だりー」「飽きた」となってしまう。そんな中では、ストイックでいることが、つまらなさを解消する一つの選択肢として有効なんじゃないかと思うわけで。
 で、俺が自分から挫折してるように見えたり(?)とかストイックな方向へ向かうのは、もちろんやむを得ない部分も多いし全部ワザとやってるわけではないんですが、でも部分的にはこういう理由もあるわけです。汝、ストイックであれ。楽しいですよ。

10 WED
前略。姉さん、お元気ですか。東京での生活には慣れましたか。僕のほうはなんとかやってます。今日は福澤先生の生誕記念日で休校なのですが、明日のプレゼン用でしゃべる原稿を作っています。

BGMとして Jamiroquai "Canned Heat" をかけました。何度となく聴いている曲なのですが、今日は初めて歌詞をじっくり読んでみました。そうしたら、めちゃめちゃ悟ってる内容だったので驚いてしまいました。
 僕の Jamiroquai ファーストインパクトは'94年の "Half the man" (アルバム "The Returin Of The Space Cowboy" 所収)で、そこでの Jay Kay は「盛りを迎えた春のように/僕たちの愛もすぐにやってくるんだ」だの「鳥たちは歌うだろう/僕らの愛の旋律を」なんて歌うもんですから、最初は「何とも感傷的でロマンティックなことだなあ」と思っていたら、そのあと見た他曲のPVの中で踊る彼は実に爽やかなキレっぷりで、「何なんだこいつは」とよくわからなくなっていたのですが、やはり "Canned Heat" の詞を見てみると、すべて確信犯でやっているのだなと思わされるのです。彼の情熱や欲望は、したたかに缶詰めにされているのです。やはり世の中確信犯しかないと思いました。
 「何もすることがない、新しいことも何もない、地獄と絶頂の狭間から動けない、それを終わらせる救済が必要だ……もう踊るしかないだろ!」

ひとまず Jamiroquai はそのくらいにして、次はスチャダラパーが'95年に出したアルバム『5thWHEEL2theCOACH』をBGMにしてみました("The Return Of The Space Cowboy" を探してたら出てきました)。とても懐かしいです。
 その中でも、根本敬先生を積極的にフィーチャーした『ノーベルやんちゃDE賞』は僕の中でかなりの名曲なのですが、クライマックスに配置される「でも、やるんだよ!」という台詞に改めて打たれ、やはり世の中「でも、やるんだよ!」しかないと思いました。

そのあと、LBつながりで TOKYO No.1 SOUL SET黄昏'95〜太陽の季節』もかけてみました。今聴いても響きます。むしろ当時より響くような気さえします。5年という歳月は、何かを変えたようにも思われ、何も変えていないようにも思われ、短かったとも、長かったとも思われ。
 やはり世の中、昇天と墜落しかないと思いました。

なぜか過去に戻っています、あるいはそれは「昔より少しは成長した」と言い聞かせようとしているのかもしれません、しかしそれは同時に変わっていない自分をも発見してしまう作業なわけで、しかしそれが目的でもあって。過去と無関係な今など無いのですから。

姉さん、くれぐれも風邪にはお気をつけ下さい。小樽はもう雪の中です(誰なんだよ)。

09 TUE
中原中也の詩集をひさびさに開く。ちょっと弱りすぎ。どんどん高校とか中学の頃に退行してる気がする(これも大学に入った狙いのひとつではあるんだけど)。そういや「憔悴」とか「盲目の秋」とか読んでたなぁ。
 でも、いま読んでカチッとハマったのがこれだったんで、笑った。
屠殺所に、
死んでゆく牛はモーと啼いた。
六月の野の土赫く、
地平に雲が浮いてゐた。
(「屠殺所」より抜粋)
 成長したと思っておくことにしよう。

08 MON
昼夜逆転の調整日にする。睡魔とか睡鬼とか妖怪ねむらせとか睡眠欲とか俺を眠らせようとするCIAの陰謀とかこたつでテレビなどと戦う。

バトルの合間に亜血亜から電話。やっぱ最終的に独りってのは動かないよねーってな話をする。んでも、過剰にオリジナルであることは避けないとねぇ、とか。いつもどおり。

07 SUN
昼寝て夜起きる生活。テレホーダイが原因な気がする。

課題の構想と受験のことがぐるぐる回ってあせりまくり。かなりテンパってます。課題のほうを少し切るか……。

06 SAT
ここ数日で、LOVE PSYCHEDELICO『Last Smile』を聞き、ロッキング・オンH』2月号のKUMIインタビューを読み、椎名林檎『ギブス』を聞いた。この順番通りに。
 『Last Smile』では、「完全性」をその外側から眺めることで、その「完全性」を描写しようとしているのに対し、『ギブス』は、まさにその内側から「完全」であることを訴えようとしている。しかし、共通しているのは、いつかは「完全性」の外側へと向かわなければならないことが自覚されている点だ。
 どちらも「完全性」から乖離しつつあるが、『Last Smile』は境界線から少し外側へ出ていて、『ギブス』ではまだ「完全性」の内側にいる、と言ってもいい。「あのときは完全だった。でももう今はそうじゃないし、2度とそうなることはない」悲しさと、「そのことは今はどうでもいい。でも、次の瞬間にはもう外側にいるかもしれない」悲しさ。この2点を微分してみれば、どちらも[−]の符合が付いている。
 では、「完全性」の内側にいながらいつか外に出る瞬間を思うのと、「完全性」の外側から完全であったことを眺めるのと、どちらが悲しいだろうか。まず、外から眺めるとき、既に熱は引きはじめ、再び熱を取り戻す準備をはじめているだろう。そこには冴えた冷たさだけがある。しかし、まだ内側にいるのに外へ出ることを考えてしまったとき、その時点ではまだ十分に熱が残っていて、冷気に対して敏感で、それはおそらく恐怖に近い。だが、椎名林檎はそれでも、常に自らそれを想定しにかかる。そして現時点の「完全性」の完全さを味わおうとする。これが椎名林檎の最大の味わいどころである「自虐芸」なのだ。
 LOVE PSYCHEDELICOも椎名林檎も、永遠なる「完全性」など決して信じない。この2曲はどちらも、完全なる方向へと、また不完全なる方向へと振れ続ける、不規則なカーブに沿って進まざるを得ない悲しさがテーマである。そして、それに対応する感情の相もまた常に振れ続ける。異なる座標には異なる状態が用意されている。まず、このテーマは俺のツボを的確に突いていて、その意味で両方とも名曲。
 『Last Smile』に感じるのは「強さ」。この「強さ」を持ってしまったがゆえに「もう二度と戻れない」ことは揺るぎなく、その悲しさを増幅する。それに対し、『ギブス』は「弱さ」。「弱い」から、無防備だからこそ、外に出ることが恐怖に直結している。「完全」ゆえの脆さと、その先を想定しておかざるを得ない「弱さ」。悲しさよりむしろ「恐怖」。
 俺にはどうも、この「弱さ」ゆえの「恐怖」が特にたまらないらしい。「強さ」ゆえに悲しい『Last Smile』と「弱さ」ゆえに悲しい『ギブス』という名曲対決では、最終的にどうしても『ギブス』の勝ちなのである。「自虐芸」万歳。

05 FRI
『家族シネマ』で芥川賞をとった柳美里が、どうもO船に縁のある人であるらしいことを知った。実家がO船観音(コンバトラーV似)のそびえる山の上にあるとか。そしてそのことは、俺に「あ〜やっぱりね〜」みたいな感覚をもたらす。O船ってのは、どうも業を背負った人に妙な影響を与えるらしく。
 在日コリアンである柳美里は、父親から虐待を受けながら、何度も自殺未遂を繰り返すものの、後にその経験をネタに小説を書いて芥川賞を取ってしまった。
 O船という街は、そんな業を負った人間を受け止めるように懐の深い、というよりはむしろ間口のユル〜い街なのである。そして、先天的にせよ後天的にせよ、業を負ってしまう質の人々が、観音の眼下で跳梁跋扈しているのがO船なのである。
 しかし、その業をそれほど苦ともせず、何とかやっていけてしまうのがまたO船人のよくわからないところで、むしろ「業サーフィン」のごとく楽しんだりする。たとえ業に負われて倒れたとしても、タダでは起きない。芥川賞は、その最たる例と言えよう。やっぱ観音(コンバトラーV似)と毎日メンチ切り合って生活してるだけのことはある。
 もっとも、そもそも業を負ってしまうのが観音(コンバトラーV似)のおかげか? とも思えるんだけど、そこがまたO船のいいところで。

04 THU
「17年目のパパへ」(TBS)を見てしまう。典型的な「男の作ったドラマ」で、要するに「少女に救われる男」モノ。胸クソが悪くなる。まあでも、こういうものを作ってしまいたくなる気持ちはわかるんだけど、それでも胸クソが悪くなる。

03 WED
そうだそうだ、永井豪『デビルマン』(講談社)をちゃんと20世紀中に読みました、ってことを20世紀中に書くのを忘れてた。これを当時の小学生が読んでたんだからそりゃトラウマになるわなぁ、と思うとともに、今読んでこそゾクッとするシーンもあるし、よく言われるようにラストに至るテンションも、(当時の)永井豪、やはり恐るべし。すごい。キてる。イってる。どっちやねん。
 「スーパーベストKC」という、「お徳用パック」みたいな版で読んだんだけど、ちらっと見かけた完全復刻版5巻の表紙が激カッコイかったので、改めてそっちでそろえよっかなーとか。

02 TUE
鬱へのカウンターとしてthe brilliant green『愛の・愛の星』LOVE PSYCHEDELICOLast Smileを投入。特に『Last Smile』が効く。まずイントロで既にヤラれるけど、その後のこの、ダブルミーニングを誘うような、確信犯的に爛れたボーカルはなに? どーゆうつもり? TLCなんですか、知らないけど。まーつまりは、降参ですよひさびさに。あ、KUMIって俺とタメですね(喀血)。

キルケゴールに端を発した実存主義の登場は、西洋哲学にとって「交通事故」みたいにドラスティックな出来事で、どうしても立ち止まってしまう。イカスけど、「倫理」が先に進まない。

01 MON
、いうわけで昨日と変わらぬ今日が、先週と変わらぬ今週が、去年と変わらぬ今年が、前世紀と変わらぬ新世紀が、くりひろげられ展開しているワケだ、そこいらじゅうに。

BOOK OFF岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社を立ち読み後、購入。「人はパンのみにて生きるにあらず」、いやむしろ既に「パン以外のみにて生きている」ようなもんで、だから色々よくわからなくなる。

あけおめ。ことよろ。

あてもないので仕方なく、煙を吸って毒を吐く。浮かぶかたちに色もなく、できることなら桜咲く。