■「この人、トニー谷に似てるわね」
■それだ! ビンゴだぜマイマム! トニー谷といえば、日本におけるライミングの元祖。これはぜったい意識してやってるね、知らないけど。おそらくあの眼鏡や口髭もトニー谷へのリスペクトの象徴なのに違いない。
■24日の記述を復活。
■oasis "Wonderwall" "Go Let It Out" とblur "Coffee+TV" とキャスターで、なんとか動いてます。あと、ちょっとThe Beatles "Hey Jude"。でもちょっと煙吹いてるけど。がぎがぎががが(摩擦音)。
■羽生生純『恋の門』<2>(エンターブレイン)読了。やっぱ絶望的におもしろいんですけど。こっちも人間を突き放しまくりつつ、作者はそのどうしようもない人間のくだらなさがたまらなく好きなんだと思う。あ、最後のほうで門くんが成長してますね。社会と接点みつけようとしちゃったりして。先が気になりすぎ。
■そんでまた、狙って買ったわけじゃなかったんだけど、この2作品を同時に読んだのが良かった。同じ恋愛ものなんだけど、絵柄も空気もまったく対極的に違う。でも、じっくり味わってみると似てるような。
■なんで『ラブマスターX』売ってないの?
■手塚治虫『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)、木田元『現象学』(同)を買う。ていうかもう買わなくていいって>俺。
■……と、書いた直後に公式Webを見てたら、ここで本人が「考えてみれば『澄み渡る空〜』も、自分を救うためだけにつくった曲だったよ。」と書いてたのを発見(11月29日(水)04時08分の書き込み)。いや、わかってる上で先に進もうとしてるのなら何も言うべきことはないんです。すいませんでした。と同時にかなり安心したり救われたり、シンクロしてみたり。
■「2ちゃんねる」の「フリクリ」スレッドで、誰かが「ミュージシャンはガイナックスにPVを作らせたほうがいい」みたいなことを言ってたので、the pillows の公式ページで『Ride on shooting star』のPVをちらっと見てみたら、やっぱし『フリクリ』のエンディングのほうがいいカモ。これだけじゃわからんか。
■レンタルしてた『フリクリ』を返したんだけど、その後も観たくてたまんねえ。つーか「中毒にしちゃうアニメ」ってスゲー。音楽とかテンポって大事よね。でも俺的には、ハル子の声を担当する新谷真弓の声が中毒性高い気がする。『カレカノ』では芝姫ね(みてないんだけど)。「ナイロン100℃」ってとこのひとなんですな。うう、ちょっと公演行きたいカモ。
■このまえO船で『バーチャNBA』を何気なくプレーしてたら、対戦台でもないのに小学生〜中学生の男の子から乱入された。二人で横並びになって対戦、会話ナシ。こっちは『バーチャNBA』やるのなんてほとんど初めてなんで、当然ながら負けるんだが、すると彼は「してやったり」といった満足げな表情を浮かべていた。
『スト2』の頃は日常だったけど、ゲーセンで知らない人と横並びになって対戦するのなんて何年ぶりなんだろう。『バーチャNBA』はこの前まで対戦台があったんだけど、一人用台へ「降格」になってて、それは彼にとって悲しい出来事だったはずで、いまもなお対戦相手を求めてるわけだ。でも俺は彼の気持ちに答えることができないんだけど。俺が去った後、彼が一人でプレーする後ろ姿を見て、愛しささえこみあげてきた俺なのでした。「横並び対戦」という文化がまだ残ってたのを知ってちょっと癒される。言葉じゃないコミュニケーションがなんとなくいいんだよね。
■『好き? 好き? 大好き?』が非常にイイカンジ。原書のサブタイトル "An Entertainment in Conversation and Verse" がとても内容をよく伝えてる。笑えます。
■でさ、あのさ、少なくとも「文系」を名乗るんだったら、漫画とか音楽とか映画とか小説とかに接するのは「好き/嫌い」とかそういう問題じゃなくてもう基本事項でしょ? アニメとか現代芸術とか評論とか思想ってのはオプションだとしてもさ。まず「映画好き?」「好き好きー」ってとこから入るってのはもうすごいスタート地点から4万kmくらい後ろじゃない? 「映画だと何が好き?」ってあたりから入ってやっとスタートでしょ? どーなのそのへんって? やっぱゼネラルスタンダードを望むのは間違ってるんだろうか。確かに無いけど。どーせ俺だってスタンダードじゃなかろーしさ。誰か「エンターテインメントの教科書」を作ってくれー! ってか作っても誰も読まないのがまず問題なんだが。
では「読ませる」方法を考えてみよう。まず「ブーム」にすることができればみんな読むだろう。これは広告とかメディアをうまく使えればできそうだ。でもブームはブームでしかなくて、消費されることは目に見えてる。この先に行くにはどうすればいいんだろう。ってのは運も絡むんだろうけど、それでも山下達郎が復活して流れまくったりと、何らかの普遍性を持つ記号が生まれる可能性ってのは今でも完全になくなったわけじゃないはずなんだ。そのために「わかりやすさ」は外せないだろう(この際それを嫌うやつにはこぼれてもらう)。でも「だんご3兄弟」は消え去った。すると、「継続性のある需要」に対してアピールする必要があるのかな。でも「ゼネラルスタンダード」はクリスマスじゃないし、継続性は期待できないしな。あ、でも「恋に役立つ」とかいう風にするのはいいかもしんない。実際「ゼネラルスタンダード」があれば「恋に役立つ」はずだし。
ああ、構造主義からインターネットの登場に至って、世界は平板化して人々は徐々に均質になっているように見せかけて実はバラバラになってる、ってのがなぜなのかわからない。でも島宇宙(©宮台真司)のひとつひとつは均質で、島宇宙単位で比較したときはその格差が大きくなっているのか。国境とは別の境界を持ったムラ社会化なのか。って、このモデルも完璧じゃないだろうけど。
だから俺が言ってるのはその島宇宙を渡る橋なんだって! ていうかおまえらみんな飽きることに飽きろいいかげん!>オレモナー
■『SIGHT VOL.6』(ロッキング・オン)を買う。ロッキング・オンの雑誌、いつのまにか『SIGHT』だけしか買わなくなってるなぁ。『JAPAN』にはじまって『CUT』と、たまに『H』までも買っていて金がなくなっただけで結局積み上げるばかりだったりした頃がなつかしい。最新の『JAPAN』の表紙でイエモンが活動休止するのを知ったり。
■それとなくメディアを眺めてるだけでも、「20世紀の終わり」ばかり強調され、逆に「21世紀の始まり」という空気は圧倒的に無い。これはおそらく、「始まります!」とやりたくてもそれに相応しいネタがないんだろう。そして、「始まり〜」って空気なんか俺自身の中を探したって無いし、たぶんみんなだって同じでしょ。年が明けたときのテレビ番組がどんなことやるのか想像できなくて不安になるくらい無い。振り返ることはいくらでもできるし、こっちはなかなか楽しいんだけど。
この後ろ向きに前進してる「ムーンウォーク」的な感覚って、考えてみると90年代を通してずっとあった。いや、もしかしたらマイケル・ジャクソンが "BAD" でムーンウォークをはじめた1987年の時点で、すでにムーンウォークは始まってたのかもしれない。ていうかMJがムーンウォークしたからこそ時代もムーンウォークしはじめたのだ、とさえ言えよう。 "King of POP" 恐るべし。
いや、ほんとに無いのよ、前進するような材料って。でもでも、考えてみたら、もとからずっと前進なんかしたくなかったんだった。競争社会なんて疲れるし、この先借金まみれなんでしょ? やみくもに未来に突っ走ってるよりは止まってるほうがいい。先に進んではいるけど、俺が後ろに進んでるように見えるならそのほうがいい。つーか、かなりイイかんじ。まったりまったり。
■オルトアール経由で通りすがった永江さんのページの2000/3/27の日記が興味深かったのでメモしておく。預言者と研究者と芸術家と霊感と商売について。
■センター試験まであと1ヶ月になって、必修の授業のグルワがはじまった。プレゼンテーション&レポート作成。うおおお、ぜったい俺一人でやったほうが素早くいいものができる! 放置すんのもストレスたまる! 「共同作業のつらさを味わうことがグルワの意義です」なんてキレーゴト言ってんじゃねえ! この斎藤信男! 逝ってよし! ポストが赤いのもおまえが悪い! がががががががががががががが(故障中)。
■「モーニング新マグナム増刊 No.18」を買う。佐藤マコト『サトラレ』さいこー。2月に単行本、3月には映画で、盛り上がりますな(勝手に)。
■blur "Coffee+TV" いまだに流れっぱなし。♪Sociability/It's hard enough for me/Take me away from this big bad world♪<ダメソング?
■山田芳裕『度胸星』(週刊ヤングサンデー/小学館)が突如打ち切られ、あの例のいつもの「旅立ち打ち切り」をまた目にさせられたわけだが、俺としては「テセラック」の正体が明らかになりはじめるあたりなんか特に盛り上がってたのに、と思いつつヤンサンの読者層にはやはりつらかったのも同時によくわかるにしてもしかし、山田芳裕の「濃さ」「湿気」と宇宙の醸し出す「静かさ」「乾き」との衝突という試みはうまく響けばすごい音を出しそうだったし、今後それは十分に期待できたはずで、それは打ち切りの時点までを考えれば確かにイマイチだったかもしれないとは思ったりもするものの、やはり残念でならない。
■冨樫義博『HUNTER×HUNTER』(週刊少年ジャンプ/集英社)の「流星街」のネタが気になってるというか、あの話を単に「幻影旅団」の背景を深めるためのひとつのエピソードとして位置づけつつ、今後はそれほど深くストーリーに絡めないというのならいいんだろうけど、作画の気合の入り方からして「冨樫ならやりかねん」という不安がふと頭をよぎるので、ジャンプからあの漫画が永遠に消えないといいなあ、と切に願うのであった。
■車に乗ってさあ帰ろう、としたら、イイ顔の親父に窓を叩かれ、イイ感じの訛りで「用賀ってどう行くんですか」と聞いてくるので「わかんない」と言うと、そこから親父の一人語り開始。手で輪っかをつくり口に持っていくゼスチュアをしながら「コレ行きたいんだけど、ワカル?」と来るので、もう恋に落ちる。どうも、これから本厚木の馴染みの風俗に行きたいんだそうで、「もうたまっちゃって」といいつつ横向きになってみてくれたりとサービス精神旺盛。もうほんとに行きたそうなの。
そんな親父と路上で二人っきり、というのもあったし、実際急いでたので、すぐにこっちから窓しめて出ちゃったんだけど。ていうか「馴染みの店」行くのに迷ってたりするし、俺に「何年生?」と聞いてきてしっかり今どこにいるかわかってるし、実際ただならぬ違和感を感じたのも事実で、俺が女だったらどうだったのかしらん、と思ったり(アッパー系というよりはむしろダウナー系親父だったのだが)。でも後になってから「もうちょっとエロ話聞いてみればよかった」と後悔する。
これが天下のSFCのすぐ裏で起こった話。やっぱり21世紀なんて永遠に来ねえよなぁ、ってなことを実感するとともに再確認する。
■佐藤雅彦の講義で、俺様の小レポートが「優秀」的なポジションで発表される。マジでうれしい。
■黒田硫黄『大日本天狗党絵詞』(月刊アフタヌーン/講談社)を読み返す。
天狗とは 怪異な現象の原因を 人界と断絶したものになすりつけ名をつける説明の技術であった……ある者にとっては 自分が何者か自分にとって人間たちは何か 天狗が天狗であるためには説明は破綻してはならない さもなくば自分と世界が壊れる 生きることが内蔵する不信と恐れが顔を出す 天狗という観念に憑かれ天狗でありつづけるためには空も飛ばねば術も見せねば……信じる事は真実に 真実とはまた信じるところにしかし それはなまなかではない
(3巻220-221頁)
知識と観念が天狗であることを支えている 天狗とは天狗に関わる知識を共有する者の間にのみ存在する排他的な自意識の産物であるから天狗にとり最も脅威なのは外にある存在やそこからの視線である。それらにより天狗であることを支えている唯一の依処たる自意識が崩壊の危機にさらされるであろう天狗である「師匠」は、「教授」の「外部からの視線」にさらされ、徐々に力を失っていく。そしてついには、人でも鳥でもなく、知能も低く空も飛ばぬ生物である「テング」を見て一言「ばかにするな そんな動物が いるわけないだろ」と言い放つのだ。
(4巻80頁、有吾堂の「覚書」より)
■Napsterで、あるユーザをホットリストに入れてみて、ミョ〜に趣味が合ってたりするとちょっとうれしいよね。
■Jackson5のリミックスアルバムがほしい。
■と、ボニーピンクが唄ったのは96年のことだ。彼女は少しはタフになったみたいだ。さて、俺はどうなんだ。
■ウィルス再発。けっこう根が深そう。
■監督:三池崇史『極道黒社会 レイニー・ドッグ』を観る。哀川翔最高。田口トモロヲ最高。
■監督:黒沢清『CURE/キュア』を観る。癒せ癒せどんどん癒せ。
■オカルト大明神がとうとうブームに乗ろうと動いたらしい。
■「miyadai.com」がリヌーアル。なんかすごいんですけど。
■その後O船をブラついてたら、ひさびさにS田さんに遭遇。「O船ってのはなんでオタクをはじめとするダメ人間どもが次々と排出されるのかねえ、よくわかんないけどなんかイイよねえ」みたいな話をする。あと演劇とか映画とか日本社会とか。
■野党側が内閣不信任案提出、加藤派・山崎派が同調するのか〜? と思わせといて欠席、と思ったら加藤と山崎は来るの? どーなの? というあたりで大盛り上がり。一方、傍観者が集まる「2ちゃんねる」では、「石原が自衛隊を率いて決起する」だの、「猿ぐつわをかまされてた加藤氏が自民党若手議員に救出され、いざ国会へ出陣」だの、「一時は欠席を決めた反対派が続々と議会に集結し……」だの、漫画チックなイメージがやたらに出てる。これじゃ弘兼憲史も売れるわけだなぁ、とか思ったり。
■それはそうと、やっぱし「ASIMO」であろう。「より一層人間に近づいたホンダのロボット『ASIMO』登場で未来はすぐそこ!」(PC WATCH)、「ついにここまでやってきた! ホンダの新型ロボット登場」(ZDNet JAPAN)、「ホンダ、120cm/43kgの新人間型ロボット『ASIMO』を発表」(ASCII24)、「ホンダの新型ロボット"ASIMO(アシモ)"登場!」(ファミ通.com)とか。43kgってなあ〜。家にあっても問題ないじゃん。ASIMOっていう、モロにソニーなネーミングはどうかと思うけど、今後はこの調子でATOMOとかTETSUJINOまでいってほしいと思った。
■どうも最近ノートが固まるんでHDをクラスタスキャンしてみたら、不良クラスタが30カ所くらい見つかった。ぎゃふん。
■で、学校には中学だか高校だかの文化祭を見に来たガキ&大人すなわち親子連れがぞろぞろ歩いている。つまり、こいつらに大学生のやんちゃな実体を見せたくないから学校休みなの? と邪推してみたりする。
■その後、学校近辺の友人宅でデッキを借り、ビデオ代は無駄にならず。『カリスマ』は、「人生はやっぱりムリヤリ生きるもの」というカンジで、個人の事情がグチャグチャになってる俺好みな内容でサイコーでした。こんどは哀川翔主演作も見てやる、と心に誓う。『フリキリ』のほうは、なんか急展開で盛り上がってますね。今後「バット」がどういう位置づけになるのか、とても気になるヒキ。
デッキを提供してくれた友人も、どっちもとても気に入ったらしく、いきなり<4>だけ見せられた『フリクリ』に至っては、ビデオ屋に<1>を借りにいく始末。よしよし。
■そういや、このまえ『フリクリ』の<2>を見てないと書いたら、亜血亜から「ウチで見ただろオマエ」とツッコミが入ったので、そういえば見たような気がすることを思い出す。と書いてたら、自分で見たって書いてたのも発見しちゃう。なんかダメコンボ。
■その後、偶然地元の人間と会ったので、18歳と24歳の文化的格差について朝までトーク。
■母校へ行ったついでに、夜の黄金町〜伊勢佐木町を歩いてきた。古本屋にいたら、突如店員のおばちゃんが「え〜と、『おねえさんといっしょ』が○○円、『メチャ濡れルージュ』は○○円、『ハメ撮りアミーゴ』○○円……」とエロ本の買い取り価格を電話連絡し始め、爆笑しそうになったけどがまんしたよ。インターアジア&とてもイケてない空気を久しぶりに味わって、とても癒された。クリスマス用のイルミネーションがぼちぼち。
■三田で黒沢清監督の講演を聴く。
■SFCの人々に俺が与えられる知識とか情報とか技術ってのはけっこうあるんだけど、得られるものがあんまりないので、そのへんで俺はつまらないと思っていたり焦っていたりするのかもしれないと思った。うーん、種をまく時期だと考えればいいんだろうか。それとも探しが甘いのか、単なる思い上がりなのか。
■T堂のツタヤに、青山真治『HELPLESS』だけは入ってるのを確認。でもこれは浅野忠信のおかげ。
■冨樫義博『HUNTER×HUNTER <10>』(集英社)、鳥山明『SAND LAND』(同)を買う。
■昨日、23歳と書いてしまったが、俺は24歳だってことを思い出す。
■鬱にまかせて、柄谷行人『倫理21』(平凡社)、宮台真司、速水由紀子『サイファ覚醒せよ! 世界の新解説バイブル』(筑摩書房)を買ってしまう。
■鬱についてですが、俺が鬱だと思っているものは実のところ、追い込みの時期にさしかかって、ここ3年の間に染みついた「受験モード」が発動してるだけなのかも、とか思ったり。妙に頭は回るんだよねえ、無駄に。なんかヤなクセ。
他にも「単なる寝不足説」などが提唱されています。
■夜、突然小学校の同級生から電話。地方に赴任するっていうハナシは聞いてたんだけど、俺のほうにも受話器が回ってきた。で、ひとしきり話をしたんだけど、すごく普通の23歳だったので妙に驚く。ていうか23歳って若いっすね、思ったより。まあその同級生の個性だっつう意見は正しいかもだけど、俺の知ってる他の23歳はずいぶんとアレなのだなあと思った(俺含む)。
■現在、本広監督のページでは撮影日記が公開中。撮影まっただ中みたい。
■つーかワークリスト見てたら、この人もフジテレビ深夜黄金期(1992〜93くらい。俺がそう呼んでるだけ)出身のひとなんだな。あの頃を彩った演出家は、岩井俊二・飯田譲治・本広克行といった、今では軒並みビッグネームになってる人たち。ついでに配島邦明ウェブリングってのも発見。そういえば片岡K(井出薫と結婚し、引退へと導いた憎むべき男)はどうしてるのかなぁと思ったら元気みたいですね、俺が見てないだけで。当時の俺のお気に入りは岩井・片岡でしたね、って聞いてねえよ。
■フジ深夜な人は、知らないだけでまだまだ面白い人がいるんでしょう。まだバブルの最中で、テレビでもずいぶん実験が許されてたんだなぁ、と今にして思うとともに、わが青春の日々(パッシヴやさぐれ系)を思い起こす。
■む、ひさびさにWebで盛り上がった(一人で)。
「あ、それがザビ家なんだ。じゃあなんでシャアは……」と話してるのが聞こえた。「ああ、これが大船という街だ」と思った。
■友人から借りた、くるり『青い空』がたいへんよろしくていまさらながらヘビーローテーション中。こんなことは言いたくないのさ。
「高校にスウェーデンの交換留学生が居てんけどな、もうアレは妖精としか言いようがないで。こう、何というか、やせてるけど決してガリガリじゃないねん。混んでるバスで密着状態やってんけど、犯罪やでアレは。彼女の周りにいる男は皆犯罪者やで」と、よくわからない表現で熱弁するので、バルスコワ萌えの俺としてもとても密着したくなる。
■いままでは考えないようにしてたんだけど、いざ「仮面舞踏会」だと意識してみると、今すぐにも舞台から逃げちゃいたい衝動に駆られる。いかんいかん。やっぱPMSかな。
■『佐藤雅彦全仕事』(マドラ出版)を買う。これ、初回限定版はたしかビデオついてたんだよなあ。ちょうど金無くて買わなかったんだけど。いまさら買わねばならぬならいっそあのときに、くくくくく。と悔やまれる。『kino』(マドラ出版)はさらに高くてもっと買いたくないんですけど。これもビデオだし。
■福島聡『DAY DREAM BLIEVER』(週間モーニング/講談社)が打ち切り(だよなコレは?)。むむむむむ、キャラの設定はスバラシイっていうか「やられた!」って感があったんだけど、残念だなあ。なんでこうなっちゃったんだろう。作者がキャラを扱いきれなかったのかねえ。
■そういえば、安達亨「ユーロボーイズ」はパラパラビデオにインスパイアされたって言ってたのを思い出した。やっぱ変身ヒーローに見えるよなあ。
■深夜、漠然とした先行き不安感によるキツい鬱の予感が。秋だから?
■んで、パラパラはどう考えても東映とかの変身ヒーローシリーズに影響されてると思った。テレビでよく見る、仕掛け人であり日々新作のパラパラを編み出すナントカさん(たれ目)の家には、ぜったいライダー1号からクウガまで揃ってるはずだ。それどころかコレクションは他のシリーズにも及んでるはずだ。そんで、子供のころはライダーごっこが大好きだったんだけど、背の低さのせいでショッカーしかやらせてもらえず、そこで抑圧された変身ポーズへの憧れがパラパラへの衝動につながっているにちがいない。
■ううう、松尾スズキ作品が見たい見たい見たい。
■こんなのよくあることなんだけど、考えてたらこの問題は重要なメタファーになっているような気がしてきた。すなわち、重要な未来が見えたとき、目先の問題に囚われていると、その未来は薄れていく。薄れたときに「まあそれでもいいか」と思えるかどうかは、その「重要な未来」の重要さ加減と「目先の問題」の重みとの勝負になるわけだけど、薄れちゃったあとで悔しいと思うこともありますよ、ということだ。
■む、なんかあたりまえの結論だけど、その、教訓としてね。
■田村亮子が金メダル。表彰台では、両脇の銀・銅の選手がわりとかわいいのでいつもより(以下略)。
■すべてが可能性の範疇にある、意外なことが存在しない、すべてがメディアの向こうの他人事(または作り事)のコピーとして存在する世界を悲しむことは得策じゃなくて、悲しんじゃう奴は単なる弱者でしかないんだよね。でも、耐えられないなら悲しんで耐えるしかないという気もする。微妙。このへんはいずれ長文を書くかも。
■公演終了後、ロビーで出演者とその知り合いな人々が談笑してたりしたんだけど、こういう奇しい非日常チックなことをする人にそういうことして欲しくなかった。あの、着ぐるみ脱いでるとこを見ちゃった子供の気持ちっていうか。でも麿赤兒だけはやはりちょっとオーラ(アウラ?)が。談笑してた相手がアラーキーってのもまたなんとも言えず良かった。
■この『ゼルダの伝説 時のオカリナ』では、ミニゲームとかのお店で「遊んでく?」と聞かれたとき、「いいえ」を選択すると「いいよ、やんなくても」と、遊んでいかない奴に対して開き直ったそっけない対応をする。でも、実のところこれはそっけない態度なんかじゃなくて、「そうそう、ほんとはやんなくてもいいんだよ、あなたには他にもいろいろあるでしょうから」という任天堂の、ひいては宮本茂氏の良心が表れている部分なのではないだろうか。
■野田秀樹『向こう岸に行った人々』を、書泉ブックタワーでやっと発見。
■チビノリダーがCMに出てるねえ。
■やっとNINTENDO64が返ってきたので、ゼルダとウェーブレースとF-ZERO Xをやる。つーかむしろやりまくる。
■「ほぼ日刊イトイ新聞」内、「樹の上の秘密基地」に掲載されている座談会によれば、『MOTHER 3』の開発が中止になった模様。出席者本人たちも可能性を指摘しているけど、皮肉なことにこの座談会はむちゃくちゃ面白くて、『MOTHER』シリーズにはまったく思い入れがない(っていうかプレーしたことがない)俺が『MOTHER』シリーズに触れてみたくなってしまった。座談会は必読。
■「ほぼ日」と「2ちゃんねる」は似ている。「あげ」方式なとこが。超有名だけど、まったく無関係な2サイトに意外な共通点が……ってこれ、有名な時系列整理法(aka.『超整理法』!)なのか。なんだ、そうかそうか。
■ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』(角川書店)読了。金とヤクザと政治家とマイノリティ。見えないところは見えてるところよりやっぱり大きくて、やっぱりそこに真実があるような気がする。ということを再確認する。
■村上龍『テニスボーイの憂鬱(上)(下)』(集英社文庫)読了。「人間」として抱えている矛盾と「動物」として抱えている矛盾と、「人間」と「動物」が同居しているという矛盾。逃げようとしても残る憂鬱。そして、喜んでようと悲しんでようと、常にすぐ隣にある滑稽さ。人間はやっぱりムリヤリ生きていくものなんだろうか。福田和也のベタ褒めぶりもうなずける。友人の顔が頭をよぎる。
■アフタヌーンシーズン増刊Summerを買う。竹易てあしaka.沙村広明は天才。かなり天才。これだけ確信犯的に盲点を突けるってのは。
■「ちっこいよ掲示板」にも惜しむ声があがっている。
■特にマッスルが亡くなったから、というわけでもないんだけど、無性に『放浪カモメはどこまでも』が聞きたくなったので、スピッツ『ハヤブサ』(POLYDOR)を買う。
■19のボーカルの動きはあやしいなあ、とずっと思ってたけど、「もしかしてあれはヒップホップなんじゃないのか?」と突如ひらめいたので、ためしにCMにあわせて「チェゲラッチョウ、チェゲチェゲラッチョウ」と歌ってみたら、やっぱしぴったりだった。本人は意識してんのかどうか知らないけど。
■その後、見たい見たいと思っていた監督・脚本:ペドロ・アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』を鑑賞。共感できる/できないとかそういう次元を超えたところで人生も感情もグダグダに絡み合うんだけど、そのグダグダを「どっこいしょ」と持ち上げてしまうのが女なんだよ、という映画。劇中、女も不幸なんだけど、それにもまして男が救いようもなく悲しい役としてしか登場しないのが暗示的です。一方、女たちは救いようがある、というかタフである。このへん重要なテーマだよなあ。これ、見ておかないのはもったいないですよ。マジで。
■1本目は『カードキャプターさくら』。萌え萌えパワー全開の赤面大会でした。5点(100点満点)
■2本目は『ジュブナイル』。偉大な先達がずっと考えてきた「子供向け」というテーマに対する数々の答えを素直に継承し、その上に立ってしっかりと作られてます。残念ながら、垢にまみれた俺とかにはちょっとインパクツが弱かったりするわけなんだけど、こういうものをきちんと今後の子供に提示してくってことは重要かも。その意味では良作であります。「未来」がとてもパーソナルなものとして描かれているのは、とても鋭くて新しいポイント。挿入歌に山下達郎『アトムの子』が使われてたり、エンドロールにさりげなく「for Fujiko F. Fujio」と入れられているのがニヤリ。
■3本目は『パーフェクト・ストーム』。こいつが今回の最大のダークホース、そして問題作でした。そもそも、何の予備情報も持たずに「典型的なハリウッド作品であろう」という先入観を持って事に臨んでしまったのがマチガイのはじまりで、結果としては見終わったあと「ぐおおああああぁぁ」と二人で呻いちゃうような作品でした。映像や構成は典型的なハリウッドものと言っていいんだけど、つまりはオチがハリウッドじゃなかったわけですよ、そのストーリー展開をめぐって某氏と論争になるほどに。が、その後で「史実を元にした」という情報を得たら、一気に「なーんだ」感が押し寄せてきました。結局こっちの勘違いというか勇み足だったんでした。
■『ミスタードリラー2』(ナムコ)をプレー、2000mモードを3プレー目でクリアしとく。対戦おもしろい。
■友人がことごとくNINTENDO64を売却していた事実を知り、ショックを受ける。
■大学に入ることで得ようとしていた(そして未だに得られていない)類の重要な示唆を、ぜんぜん関係ないと思ってたところから不意に受けてしまったりすると、大学に入ったのって何だったのかなあなんて思っちゃったりする。悩み深まる。
■うわ、「mr-driller.com」ってスゲエな。これで非公式だってのは笑うしかない。作ってるのは「ススムくん」だそうです。
■無為な一日。緊張のあとの解放はひとを微妙にさせる。
■だいぶ「ねラー」化が進行している俺。今日もなにげなく「2ちゃんねる」を読んでたら、小林弘人、宮崎哲弥、山形浩生による『インターネット対談』へのリンクがあったので、思わず読む。つーか1996年の時点でこんなハナシしてるってのでビビった。さすがである(俺がヘボイだけ?)。《情報リッチ/プアというのもたぶん、ほんの過渡的な現象にすぎない》、《全体に単純労働化するような形での平準化というのが、これから起こる》、マックが提供したのは《非創造的な安易さ》だ、などなど、ビシビシと鋭すぎる指摘が入る入る(最後のは特に個人的にも痛いよなー。マックユーザではないけど)。読んどくべき。っていうか俺が遅すぎ。心に刻んでまいります。ちなみに、宮崎・山形両氏による『新教養主義対談』も面白かった。「日本人の教養は単なる趣味なんだよ!」と、俺の方向を肯定してもらって安心したり。
■「そういや『新教養主義宣言』買ってから読んでねーよ」と思いながら、ついついロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』(角川書店)を買ってしまう俺。
■『Dance Maniax』を「家でパラパラ練習してるギャルの哀愁シミュレータ」と命名。勝手に。
■今日のドリラー:921,705点(ノーミス・6:30くらい)
■『Dance Maniax』は『DDR』ほどインパクトがない、はっきり言って。あの着想はきっと「パラパラが楽しい」というとこから来てるんだろうけど、パラパラが楽しいのは、みんなで一緒に振りを覚えて多人数で一斉に同じ動きをするっていう「同調」の部分だと思うんだよね(やったことねえけどな)。それが無いとなると、とたんに寂しくなるんだろう。『Dance Maniax』は、実際かなり寂しい。『DDR』はひとりでやっても楽しくて、それはやっぱ踏むからなんだよ。
■三谷幸喜脚本のテレビドラマ『合い言葉は勇気』を見た。「弁護士を演じる役者」の話なんだけど、これって『12人の優しい日本人』でも使ってたよねえ。でも、今回違うのは「正義の」弁護士だというところ。「もうウソの上でしか『正義』なんて言えないんだけど、でも(だからこそ)ちょっと『正義』とか言ってみたいんだ!」っていうのはなんとなくわかる気がする。
■『QuickJapan』Vol.31(太田出版)、藤野千夜『少年と少女のポルカ』(講談社文庫)、田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)を買う。最後のは課題図書。にしても、まだ買うかこいつは。
■んで、『少年と少女のポルカ』読了。あーうー、この何とも言えない喉越しはなんだろね。性同一性障害とか神経症ってのはひとつのインパクツ発生装置でしかなくて、結局のところ「距離感」がミソなんだろうと思えたりするのは、きっと俺の個人的な状況が影響してるんだろう。つい最近まで予備校にいた俺としては、登場人物にいささか教養がありすぎるような気もするけど、それは細かいことね。
■田宮俊作『田宮模型の仕事』(文春文庫)読了。ビルとか大前の本を読んで「デカいことするぜ!」って妄想ふくらませてるヒマがあったらこっちを読んどけ、という内容。「ベンチャー」なんて、言葉が新しいだけだってことがよくわかる。ここにあるのは、ソニー・ホンダ・横井に通底する「愛」とか「魂」でしょう。ホコリかぶってるミニ四駆たちとFOXに切なくなってみたり、申し訳なく思ってみたり。
■聞いたとこだと、『某9』はやっぱり「○ボタンを押すゲーム」らしいですね。奇数の作品はシステム重視じゃなかったのか? まあやってないんでなんとも言えないんですけど。でも「○ボタンを押すゲーム」って、もしかして『グルーヴ地獄V』の「ボールペン工場」以下なのでは?(ちなみに「ボールペン工場」は面白いです)
■ここしばらく家の外でも内でもコンピュータから逃げられない生活を送ってたら、体が受けつけなくなってきやがった。やはりここは距離を置くべきかと考えはじめる。ここ最近、何人かのひとから「これからはいかにネットワークに取り込まれないかを考えないといけない」という論を聞いたけど、それはほんとに重要な問題だと思う。一時的になら可能だろうけど、完全に「ネットワーク」から逃げ切る方法をいますぐ思いつくことができないってのは……「ネットワーク」の定義にもよりけりだけど。
■デザイン系の科目が芸術系でないわりには充実していることになっている学校に入ってから、学内でつくられたいくつかのストーリーもの映像作品を見たんだけど、どれもこれもモノローグがすげえ多くてうるさい。庵野秀明が使うモノローグは「こういう時代なのかなあ」と思わせるくらい上手いけど、「強引なストーリー展開のための手法」を抜け出すのはなかなか難しいよなあ。
■「やりたいことが何もない」とか「生きてることに意味を感じない」といった問題が取り沙汰されるけど、幸いにも俺はそれと縁がない。やりたいことはいくらでもあるし、生きてることに意味なんて元から無いということで落ち着いている。しかし、欠落していることがマジョリティである中にいると、その欠落のない状態そのものが「欠落」と意識されることがある。いままで欠落を否定してきた結果として「欠落」に至るわけだけど、むこうがうらやましく思えることがある。このパラドクスはタチが悪くて、「欠落」のおかげで、欠落していない状態そのものが劣等感になってみたりすることがある。でもこの議論は、欠落から「欠落」へと向かい、そこから再び欠落へ向かい……という堂々巡りを避けることができない。欠落か「欠落」か、どちらかを選ばないといけない。ここで俺はやっぱり「欠落」に止まる。だって、それしかできないから。そして、この選択はなんとなく、絶対に正しい。
「俺がすべてにおいて満たされてる」なんて言いたいんじゃないですよ、念のため。
■その後、授業を横目に鹿野淳@ロッキンオン・ジャパン編集長の公演を聞く。今日は公演の日になってしまった。司会側の質問があんまし練られてなくて、「今までの半生は?」とか「その中でどんな音楽を?」といった話題ばっか振っていたので、『鹿野淳半生記』みたいな内容が中心だった。が、それもそれなりにとても面白かったのでなかなかスゲエと思った。そして「今後は『ロッキンオン・ジャパン』をどうされて行きたいですか?」という質問に対して、「邦楽ロックシーンは、(一部の例外を除けば)レコード会社・アーティスト共に厳しい状況にあって、今までのレコード重視ではなく、ライブ重視になってきている。そのことが作品の緊張感を維持しているし、それに従って『FUJI ROCK』のようなイベントそのものが大きな意味を持ち始めている。従って音楽雑誌も、今までのようにある特定のアーティストについて個別に掘り下げているだけでは希薄になってしまうから、ライブに参加することで得た身体的・精神的体験を掘り下げてゆくべきだと思う」という、テクノ好きの彼らしい回答をされていたので、「個別の経験を書くということは、当然そのプロセスで失われる部分があるはずだけど、そのへんの葛藤についてはどうですか?」というような質問をしてみたら、「その苦労はもちろんあるけど、それをやることで、個別のアーティストを掘り下げただけでは(10のうち)2になってしまうものが5とかそれ以上になるならば、やらなくちゃいけない」という回答を頂く。音楽ライター魂をかいま見た気がして、とてもよかった。
■「ヒッキーが高校卒業!」と聞いて、不登校児が高校を卒業したというニュースかと思った俺は相当ダメだと思った。※よくわからない人は、2ちゃんねる等をよく読んでください。
■プロフィールの画像を学校の友人に見せたら「え、これいくつのとき?」と言われた。……そういう問題じゃないと思うんだけど……もしかしてそういう問題なのかッ?!
■iモードな人にメールするのはとても気を使う。250文字という文字数と、パケット式の課金システムという制約の中で、最小限の文字数で内容を伝えながら、もちろんギャグも忘れちゃいけない。って、俺はハガキ職人か? まあこのへんを意識してれば文書スキルは鍛えられるのカモ。