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2003-06-01

_フリーター急増、01年は417万人 国民生活白書」(asahi.com)

「仕事への意識の変化」という理由づけは、公的機関や企業の側が「自分たちのニーズに合わせないからだ」というわがまま。逆に職を求める側には「就職の口をせまくしている間、フリーターにとどまらざるを得ず、さらに評価は下がる悪循環」から「フリーターへの不当な低評価と、教育システムの不備」というわがままが。どっちが真実なのやら。

実は、システム変化によって端的に人がいらなくなってきてるだけなのでは……とつぶやいてみる。あ、みんなわかってて言わないだけですか、もしかして。空気読めてませんか。

_ 情報の「仲卸」

長いことネットの辺境に住んでいるので「『俺ニュース』閉鎖」とか言われても「へぇ〜」という程度でして、実際「俺ニュース」もあまり読んでなかったんですが、それでもちょっと思ったことをメモ。情報の「仲卸」が注目を集めてるけど、それは過渡的な現象なのかもしれないと思います。

「俺ニュース」というページタイトルが秀逸だと思うのは、マスメディアにあふれかえっている情報をあるひとつの主観を元にフィルタリングするという作業を、たった全角5文字で表しているからです*1。これは原初的な blog が持っている作用にあたります。

ここしばらく、産業界や流通界では仲卸を廃して生産者と消費者の距離を縮めようとする動きが進んでいます。デフレ時代を生き残る、みたいなやつですね。ユニクロとか、家電の量販店とか。逆に、インターネットでは blog や「俺ニュース」のような動きがあり、アパレル業界でも「セレクトショップ」が大きな影響力を持つようになったりと、「情報」に関しては「仲卸」的な機能・役割が、注目を集めています*2

「モノ」に関する仲卸が減っているのに、「情報」の仲卸は増えている。どうしてなんでしょうか。

ここでは理由を推測することしかできませんが、「モノ」にしても「情報」にしても、受け取る側の慣れや成長が大きく関係していると思います。我々は大量の「モノ」を受け取ることには慣れたけど、まだ大量の「情報」を受け取ることに慣れていない。

「仲卸」というのは、一箇所で大量に生産されるものを広く細かく流通させるために必要とされたシステムでした。社会全体の平均はそれを扱うほど成長していない段階に、いち早く物量を扱うのに長けた人々がその仲介をしていた。

しかし、社会は成熟して「モノ」を扱う手法はこなれてきたし、個人も通信技術の発達によって直接情報を得られるようになった。すると、次第に「仲卸」は必要なくなってきます。実際、不効率が表面化しはじめて以降、「仲卸」を抜いていく作業はスムーズに進んでいるように見えます*3

一方、「情報」はまだうまく扱われておらず、ただ量ばかりが増えている。だから「仲卸」に活躍の余地があり、blog やニュースサイトが人気を集めるわけです。メディアリテラシーの必要性が叫ばれているのも、人々が十分に情報を扱えていないからこそでしょう。

こう考えてみると、「仲卸」を媒介にして「モノ」と「情報」をパラレルに見ることができるのではないでしょうか。さらに時間を進めてみると、情報の「仲卸」は「モノ」のそれと同じ運命をたどる可能性が強まります。「俺ニュース」の閉鎖は、メディアリテラシーの普及を示す、一つの必然なのかもしれません。

*1 「私のニュース@2ch」のような、私的/個人的ニュースという意味にもなるけど。こっちだと、まさに日記。

*2 「セレクトショップは物流じゃないの?」というツッコミが入りそうですが、代謝の早い流行を追いかけたり提案したりする役割に注目して「情報」を扱っていると捉えています。

*3 いろいろ副作用もあるはずですが。

_ みなおし

かなり粗い議論ではあります。たとえば、通信技術の発達が物流効率を促進させたのなら、個人のリテラシーが向上した成果だとはいえない。でも社会全体が「モノ」を扱う方法として情報・通信技術を用意した=リテラシーの向上、と考えることはできると思います。社会を擬人化してしまいますが。

「モノ」を扱うために情報・通信技術が生まれたとすれば、その先に現れるのは、増えすぎた「情報」を扱うための、情報・通信技術ではない技術、ということになるのかな? そんなのあるか?