23日の「インサイター」を読み、その勢いで森川嘉一郎『趣都の誕生』(幻冬舎)と宮本みち子『若者が〈社会的弱者〉に転落する』(洋泉社)を注文した。
オタクや引きこもりにまつわる問題は、自分も含めてなかなか深刻な問題だと思えて仕方ない。僕はそこに片足をつっこんでいると思うが、決して深刻な例ではないとも思っている。でも、自分のことを深刻だと思えないほど他に深刻な例は多いと思うからこそ、総体としての問題が本当に深刻だと思えてしまう。
ここで考えるべきだと思うのは、まず「社会からの逃避」という現象を、解決しなければならない問題として捉えたほうがよいのかどうか*1ということ。そのとき「社会」という言葉をどう使うかが重要になってくる。人同士が関係することによって生まれるのが「社会」だというのが一般的な捉え方だろうけど、もしかすると、ただたくさんの人がいるだけでも「社会」と呼びうるかもしれない。「関係」あるいは「コミュニケーション」の定義を広げ、「生身の」コミュニケーションだけでなく携帯電話やインターネットなどを介して行われるものまで含めると、全体像が不透明でいまのところ誰も捉えきれていない。もう少し詳しく見てみれば、「関係」がないと見えていたところにも「関係」は見えてくるかもしれない。
こう考えてゆくと、広く言われている「社会からの逃避」が果たして本当に逃避なのかどうかもわからなくなってくる。もちろん従来の意味での「社会」からは「逃避」していると言えるだろうけど、それは来るべき社会*2に移行する過渡期(=今)だけ問題視されてしまうものかもしれない。
でも、それが良いことなのかどうかはまだわからない。
著者自身は秋葉原のオタク化を都市の自然発生的な「個性」として最終的には肯定しているわけだから、そもそもの立ち位置が違うんだろう。でも僕は、飯島氏の懸念が分かる。山形氏のような社会的成功者は、日本が趣味の世界に自閉していっても生きていけるだろうけれど、趣都に日本の未来の可能性を見出して肯定するのは、まだちょっと早いような気がする(ちなみに山形氏自身は肯定も否定もしていない)。
と真実一郎・オブ・ジョイトイさんは言っているけど、僕もほぼ同じ立場をとる。個人的にはオタクや引きこもりの気持ちもわかるのだが、同時にそうなる/なっていることには警戒心も持っていて、全肯定することはできない。
現在の状況が解決すべき問題であるとすれば、どのような方策をとることができるのか。たとえばよく言われるように、「古き良き」慣習を復活させようというナショナリスティックな動きが正解なのかどうか。「逃避」が止められない流れであり、「逆戻り」を実現するのが不可能なら、いまの流れをどこに、どういうかたちで帰着させればよいのか。その流れ*3を作り出すためにはどうしたらよいのか。
この問題が気になるもう一つの理由は、とても「社会的」な、「普通」の若者たちがたくさん周囲にいる一方で、「非社会的」*4な若者たちもいて、僕がそのギャップに翻弄されているからだ。自分の見ている景色をすっきりと理解したくてしょうがない。また、自分の中にもそのまま同じような矛盾があると思う。
といったテーマを片隅に持ちつつ、2冊が届くのを待ってみる。
いずみさんの「幸福な人生 Way Over Yonder」を読んだユッカさんの「ウラチェリ。」から。
「女はバカだけど、男はちんこだよ」男とはいえあまりちんこではないが、ある意味バカではあるかもしれない自分は女なのか。と思ったので男脳女脳診断をやってみた。
(男脳度数:52.5%/女脳度数:47.5%)
あなたは、極端な考え方をせず中性的な考え方を持っており、融通が利くため、問題解決の時とても役に立ちます。冷静で論理的に物事を考える男性的な部分と、感情豊かにコミニュケーションをとれる女性的な部分を、両方持っており、また、考え方が理解できるため、異性、同姓を問わず、たくさんの友達ができます。ただし、恋愛に関してはポリシーをもって友達で終わらないように注意しましょう。
気をつけます。じゃなくて、平均的な中性脳。これといって女でもないという結論に。普通。
公開されました。ポスターのURLからじゃなく BREAK TOWN CINEMA のほうから入らないと見られません。
女子高生だったこともなければ、内気な女子高生からほのかな想いを寄せられたこともない身としては、登場人物の誰かに感情移入して見るということはできず(上ではできるようなこと言われましたが)、自然と岩井俊二の演出家アイに同調するようなかたちで見ていました。
そうやってるとだんだん、陽気のいい日に野良猫をゆったり眺めているような感覚になってきました。花とアリスという生物はまったく理解不能なんだけど、その奇妙な生物を観察する視線がやわらかいというか、やさしい。女子高生なんてほとんど不可解で奇妙な生物だけど、それはそれで好奇心をそそられる。でもこちらから出しゃばって何か影響を与えたくはないし、少し離れたところから生態を眺めてるだけで愛しいというかんじ。眺めるといってもストーカーではなく、動物ドキュメンタリーのカメラマンとか生態学者のような姿勢。これが、とても気持ちよかったです。ひとつ学んだ気がします。
次は7月というのがちょっと残念。ゆっくり待ちます。