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2003-06-20

_ わからないならわからないことさえもわからなければいいのかわかる?

価値判断というのは本当にあてにならないもので、結局のところあちらを立てればこちらが立たないという類のものごと、たとえばどちらかしか選べないAとBではAがいいとかそういう判断はまったくのところいいかげんなものだ。両方同時に選べるものでもCとDではDがいい、という判断でもべつにかまわない。社会的、時代的にどちらかがいいという空気が形成されることもあるけど、それだってアテになるものではない。探してみると、そのどちらを肯定する意見にもそれなりの根拠をみつけることができるし、逆もまたしかり。お金、貨幣は共通交換価値であって、つまり価値の一段上にあるメタ価値だからいつも価値であるはずなのだが、それがないほうがいいんだという意見もあるくらいで——まぁそれは持たざるものの嫉妬もあるんだろうけど、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ 10:25)ではないが金持ちが必ずしも幸せとは限らないという意見すら時として妥当なこともある、のだろう。

どうなれば幸せだ、というイメージも価値判断から生まれるもので、結局のところそれは人それぞれという意見に帰着することが多く、「幸せと思えばそれが幸せ」なんて意見まで出てくる始末なのだが、だとするとその「幸せ」を不幸だと思った瞬間にその人は不幸になってしまい、まったくのところ無責任な意見に聞こえる。とはいえ少なくとも幸せだと思い続けている間はその人は幸せとも言えるわけだが、人間はそこまで同じ意見を持ち続けられるものだろうかと考えてみるとそんなことはないような気がする。というわけで僕はこの「思っていれば幸せ説」を自分に禁止しようと思うくらいなんだけど、文脈によっては方便になることもあるので全面禁止には至らないかもしれない——がともかく、幸せとか不幸といった判断を口に出すのはそういうことだと思わなければいけないのは間違いのないことらしい。

何が良いとか悪いとかいうことも同様である。人を殺すのがいけないのはある特定の範囲内のみで、幸いにも僕は人を殺すのが悪いことであるという価値観の中に生きているのだろうが、その中ですら人を殺したいと思う人はいて、その人は人を殺すことが悪いことなのは残念だと思ったりもするのであろうから、限定された範囲の端のほうでは不安定だったりするのだろうし、人づてメディアづてに聞くところでは世界のどこかでいつも人が悪いことだと思われずに殺されているらしい。

いま僕は「幸いにも僕は人を殺すことが悪いことだという価値の中に生きている」と言った時点で、その状況が幸せなことだという価値判断を行っているわけだが、僕は殺されるよりも不幸な未来の可能性に対しても開かれている存在だとすれば僕は殺されたほうが幸せだと言うことも可能性としてはありうるのだ。僕は常にサイコロを振って生きているわけで、無限回の試行を想定すれば均質なサイコロは均等な確率に収束していくわけだけれど回数を決められたサイコロは本当に何を出すかわからないので、だからこの先もギャンブルは商売として成り立ってゆくんだろう、きっと。

さてこうなってくると、それが他人のものであっても主観的な判断を信用できないということになる。そして主観がダメなら客観だというわけで客観的な「事実」ないしは「データ」といったものならアテにできるのかもしれない、と考える。とはいえあらゆる主観から自由な客観はありえないなんて反論がくるのかもしれないけれど、でも人間はそれなりに主観から逃れようとがんばっている例は多々あって、そういったものごとを少なからず頼りにすることで日々を生きているわけだ、たとえば空気抵抗を考えずに何かを自由落下させたときの移動距離は重力加速度に時間の自乗をかけて半分にしたらわかる、とか、直角三角形の斜辺の自乗はその他の二辺をそれぞれ自乗して足したものに等しい、とかそういうことを。

こういう「事実」は日常生活の中で常に恩恵を実感できるものではないけど、でも間接的にどこかで恩恵を受けていると想像することはできる。でもそうした「事実」はごくごく少ないものだし、また聖書を引いてしまうけど「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ 4:4)ともいえる。ちなみにイエスのこの言葉も事実ではなく価値に属するものであって、僕はそれを信用できないことになるからこれもアテにできない。パンさえあれば人は生きられるかもしれない、でもそうじゃないかもしれない。わからない。そう思えるときもあれば、そう思えないときもある。だが僕は僕の主観の範囲で、人はパンのみで生きるのではない*1と、少なくとも今は思っている。こう考えてみると、デカルトが「思う我」にしか根拠を見出せなかったことも、僕の主観からは妥当なことのように思う。僕は「人殺し」の例のところで自分の判断を他人の判断によって相対化しようとしたけど、それでもまだ自分の判断が価値として残っているような気もする。

でも僕の主観だって他人の意見で揺らぐことがあるようなものだし、それ以上に明確なものを見出すこともできない。明確なものの必要性すら疑わしい——と、いつもメタ方向に逃げてゆく力が働く。でもそれは神様のところでストップするような便利な作用ではなくて、いつもいつまでも逃げ続ける蜃気楼、誰かのたとえを借りれば地平線のようなものである。だからその作用が働きはじめるといつも疲れを予感して立ち止まってしまう。僕はこの先も何がいいとか悪いとか好きだとか嫌いだとか言いつづけるだろうけど、それはいつも逆転や無意味に対して開かれてしまっている。このまま生きることもきっとできるんだろうけど、価値判断ができないところでは何をしていいやらわからない。価値判断をすべきかという価値判断とかそういうことについては——やめよう。

サッカー日本代表チームが試合をしている。フランスが勝っても日本が勝っても誰かがよろこんで誰かが悲しがる。そしてすぐ忘れる。ねむい。寝て起きたらこんなこと忘れてるといい、のかもしれない。

*1 「パン」もまた「生きる」ということが必要な価値として認められているときに大きな価値を持つ食料の代表であって、人間が生きるのに食料が必要なのは端的な事実だけど、ひとつの価値判断でもある。