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2003-06-15

_ 遠回りしてると思っている道も、実は単なる死への近道

4838714394今日もまたひとつ募集締切をあきらめる。少しへこんでもみるが、だいぶ慣れてしまった。たまに僕は、他の人に「自分に自信がある」という印象を与えることがあるようだけど、そう見えるものの大半は、あきらめと慣れと演技の集積にすぎない。あとの残りは、未熟な全能感とかだろう。

斎藤環『OK? ひきこもりOK!』(マガジンハウス)を読みはじめた。斉藤環の、初の対談集。冒頭の、上野千鶴子との対談から。

上野——斉藤さんが何度も書いていらっしゃいますが、ひきこもりの若者たちは世俗的な価値観をもっともよく身につけた人々であり、人並み圧力を誰よりも内面化しているそうですね。

斎藤——悪く言えば俗っぽい野望が非常に強いですね。それも自分の本来的な欲望と言うよりは、嫉妬や羨望にきわめて近いものです。本来の欲望の欠如を埋めるべく、世俗的な価値観に基づいて採用された、借り物の欲望のような印象があります。

上野——親のもっている人並み圧力をそっくりそのまま内面化しているのでしょうか。

斎藤——ほとんど一緒のことが多いですね。ひきこもっている場合、親子関係が断絶しているので気づかれにくいのですが、実際に話し合ってみると同じことを考えている。それこそ「働かざるもの食うべからず」的な倫理観を親子で共有しているのです。

(14〜15頁)

上野——ひきこもりが悪循環を招いてそれが病理化すると書いていらっしゃいますが、そこで取り返しのつかない社会的スティグマになるのが、履歴書の空白だと。それは一方で親の無意識の期待に応じ、世俗的な価値観を親と共有した上で、それに対して取り返しのつかないダメージを与えるというある種の報復なんでしょうか。意図的ではないかもしれませんが。

斎藤——一種のヒステリー的なやり方で報復している可能性はありますが、表面上はいやいや悪循環に吸い込まれていくという印象です。それ以外の選択肢を封じられて、否応なしにそこに押し流されて行くという感じが強くて、そこに彼らの選択とか意図が入っているとは、私にはどうしても思えないんです。

上野——そうするとある種の自傷行為に近い?

斎藤——むしろそれに近いんじゃないでしょうか。(……)

(34〜35頁)

ひきこもりの若者は世俗的な欲求が強いものの、それは嫉妬や羨望に似た、外部から取り込まれたものであり、自分の本来的な欲求ではない*1。それはしばしば、親の欲求を内面化したものである。

ひきこもりによって生まれてしまう空白期間は社会的に烙印として機能し*2、選択肢の幅は狭められ、否応なく悪循環に押し流されてゆく。同時にその追い風となってしまうのは、ひきこもった本人が身につけている世俗的な価値観である。それをもっともよく身につけているゆえにこそ、「社会的に機能する」烙印によって自分を責め、「自傷行為」を行う*3

自分のケースをこれにあてはめて考えてみると、ほとんど一致していると思える。「親の」価値観を内面化しているという点には疑問もあるが、「世俗的な価値観」は必ずしも親からのみ伝わるものではないはずなので、ここではそれほど気にせずにおく。

僕の言う「あきらめ」とは、内面化された世俗的な価値観による「烙印」への正当な評価である。自己紹介や履歴書を書くのが苦手なのも、そのおかげからだ。

だが僕には、その「世俗的な価値観」をシニカルに笑っている部分もある。世俗的な価値観と同時に、そこから芯のずれた価値を置くことで、最初の「あきらめ」を別の何かに変換しているのだ。この「別の何か」もやはり「あきらめ」に似たものなのだが、一つ目の「あきらめ」とは軸がズレている。その作用はもしかするとニヒリズムと呼ばれるのかもしれないが、だとしたら僕にとってニヒリズムは大事なものだ。皮肉な笑いを浮かべでもしなければ、とっくに世俗的な価値観*4に押しつぶされていただろう。

だがその皮肉屋も、絶対の自信を守り通しているわけではない。それどころか、いつも鍔迫り合いの危うい勝負を展開している。

そして、鍔迫り合いに疲れると、二つの力は、ひとつの争いの原因に気がつく。そもそもは「烙印」のおかげなのだ。しかも、自分を責める以外に、もうひとつ力を向ける先が残っている。「世俗的な価値」である。「世俗的な価値」さえなければ「烙印」も機能しないのに——そのことはあきらめたつもりなのだが、しかしどうしても興味を惹かれてしまう。なぜそんなものがあるのか、なぜそれを自分が内面化しているのか、どうやって出来上がったのか、どうやって維持されているのか。これは一見、自分の外の社会に向かう興味のように見える——事実、僕がひきこもりスレスレのラインを進んでいながら、かろうじてひきこもらずにいるのも、こうした興味のおかげではあるのだが。

大きなひとつのループがある。世俗的な価値を内面化している者が、烙印を負ったと考え、別の軸を持った価値を作り、前者を笑う。しかしそれは結局のところ、世俗的な価値を持った最初の自分を笑っているのだ。そしてその相克がはじまり、疲れると向かう力の矛先は世俗的な価値、つまりそれは自分でもあるのだ。どこまで行っても、いつか自分に戻ってくる。囚われの孫悟空、とは前にも書いた気がする。やる気は起こせないまでも、少しはまともに機能している「世俗的な価値観」が、警戒信号を出しはじめる。

この閉じた循環を破るには、外からの力が必要だと思う。だがその力は、皮肉屋の防御をくぐらなければならない。この皮肉屋が、けっこう強い。

*1 「本来的な欲求」が何なのかは措くとしても、そこに見えている欲求がどことなく借り物のようだという点には注目すべきだろう。

*2 こうした現状がまだまだ残っている、と解釈すべきか。

*3 ただし、上野の言う「ひきこもりが悪循環を招いてそれが病理化すると書いていらっしゃいますが」の部分の参照元を検討したわけではないことを断っておく。

*4 正確には、主観的な「世俗的な価値観」である。これと、本当に世俗的な価値観——そんなものがあるとして——との間にもまたズレはあるだろう。このズレがどれだけ大きいのか、その大きさも問題である。

_ 仮に循環が壊れたとして、もしそのとき「借り物」や嫉妬や羨望以外に何もないとわかってしまったら、結局元の木阿弥なのではないかという気もする。薄々わかってはいても、正面から向かい合うとなると、それはそれで怖い。

この点は問題として重要なはずだが、下手に踏み込むと底なしになりそうなので、避ける。