頭頂部は禿ではなく、カラーリングですよね? 左右をカラーリングしてるのかもしれないけど。やはり一昨日のリストに彼のニュースを入れたのは正解だった……と一人で納得した一枚。
30日の深夜に再放送された『眠れない夜はケータイ短歌』(NHK)を見ていたら、携帯メールをモチーフにした短歌が紹介されていた。内容は「ケータイのメールを送ったけど返信がなくて、眠りたいんだけど眠らずに待ってしまう」みたいなもので、それに対するふかわりょう*1のコメントが「メールって、基本的に個人の都合のいいときに読んだり書いたりするものじゃないですか。ケータイっていうのは、現代人を以前よりも一層孤独にしてしまってもいるわけですよ」というようなコメントをしていた。
さて、昨日は避けたラインゴールド。まだ著書を読んでいないので彼の意志をきちんとつかめているかどうかは疑わしいが、どうやらその周囲の人々の発言を目にするにつけ、スマート・モブズが形成する社会がよいものであるかのように扱われているようだ。特にビジネス方面からの興味が強いのはよくわかるが、警戒的な視点にしても「監視社会」に対する危惧であったりする。
だけど、本当にケータイを使うと他人の事がわかるようになんてなるのか? むしろ、他人がなにをやっているのかさっぱりわからなくなっているような気がして仕方がない。動きながら連絡できるということは、他人と常に連絡が取れると同時に、他人の居場所に囚われず人々が動き回れる、つまり分散することを許す技術でもある。
どうも人々の社会参加が促進されて民主主義がよくなるのだ、というような意見もあるようだ*2*3。あくまで日本人の、一日記書き(ブロガーでもかまわないけど)からすると違和感がある。以前、三浦展の「コンサマトリー」について云々したとき(20030524)にも言ったことだけど、それが一瞬のつながりでしかないという感覚はフラッシュ・モブであろうと2chオフだろうと拭い去れない。三浦による「プロジェクト型の共同性しか生まれてこない」という指摘も、「フラッシュ」モブズというネーミングも、重要なものだと思う。人々は集まっていても「孤独」なままでしかない。それが果たして「賢い」ということなのか?
「スマート・モブズ」が形成する社会においては、タコ壺化/島宇宙化というモデルすら雲散してしまうかもしれない。2ch的なコミュニケーションが創造的か否かということではなく、そもそもそれは集団にすらなり得ないようなものであるかもしれないということだ。ラインゴールドの言う「新しいつながり」は、「つながり」としての役目を果たさないかもしれない。それは冒頭のふかわりょうが述べた言葉にも表れている。8月1日の朝生において、適切な「型」の必要性が、少なくとも60年代生まれの世代まで含めて同意されていた*4。それは、「個性」の呪縛に囚われ分散している人々に対し、ある種の共有事項を生み出すことが必要だという意見である。
仮に、ふかわりょうの言う通り、携帯電話やネットなどを介したコミュニケーションが人間同士の距離を広げているとして、問題は、僕自身も含めてそうした技術を前提とした方向をすでに選択し、これからも望んでしまっているということだ。それを嫌だとも思いながら、どうしても携帯電話やメールを使ったコミュニケーションを、それが生み出す距離感も含めてラクだと感じてしまう部分がある。それが生んでいるのであろう孤独には危機感を抱きつつも、この生活を便利だと感じてしまっている。普及した技術を後戻りさせるのは難しい。携帯電話の契約数は6500万台を超え、この流れは緩むことはあっても止まらないものであるように見える。それは単に人とのつながりを求めるばかりではなく、人にわずらわされない自由な行動を求める動きでもあると思う。「進歩とは常に反面で後退だ」とどこかで読んだ記憶がある。
この先、個人にとってはさらにキツい時代になる——というのは、すでに古い世代の感覚なんだろうか。生まれたときから携帯電話がある世代は、そんなことに悩まないのか。それが本当に「賢い」群衆ってこと?
以下、事前に目を通した文書リスト。