来年の入試をにらむ小学生が、勉強漬けの日々に「毎日苦しいばっかりだよ」とグチをこぼしていたので、「大人になってからも苦しいばっかりだよ」と諭してみた。
昨日または今朝の「朝生」では、人間を「去勢」する社会的な装置≒規範もしくは反面教師とするための「型」が欠如しているというところに結論が行きそうになっていた*1。
幼児的な全能感や責任なき自由は否定されるべきだけど、問題なのはそれが否定された後に社会の中で位置づけを模索していくための手がかり・足がかりがないことだと。で、まずは「自由」を制限し、「型」にはめていくという作業が必要だと(その前に「型」を作らなければいけないわけだけど)。言い換えれば、いま現状において認識されている「自由」の意味づけを変えていく作業ということになるんだろう。
さて。自分自身が育った環境について考えてみると、この「朝生」の文脈に沿って言うなら「誤解された『自由』」を与えられ、あるいは強制されて育ったという感覚がある。自分で考え、判断し、「個性的」となることが求められていた。少なくとも僕の中には今でもそうしたものへのこだわり(それこそ「複雑なもの」という意味での「コンプレックス」)がわだかまっていると感じる。
見習うものとしてか、反面教師としてかどうかはわからないが、僕自身もある種の「型」を求めているとは思う。10代への教育課程だけではなく、フリーターやひきこもりという問題まで射程に入れるとすれば、この「型」の適用はいま30歳前後の世代に対しても必要なものだということになる——可能なのか、どういう形でなのかはわからないけど。
だとすれば、「自由」を与えられ、強制されてきたらしい僕にとって、厳しい時代がくるんだろうか。それとも生きやすい時代になるんだろうか。「型」が必要であるということを客観的に理解してはいても、それに対する窮屈さをも感じてしまうところが「コンプレックス」なのである。とりあえず、どちらへの準備(心構え、覚悟)もしておこうかとは思いながら。
*1 そのあたりのメモ。
福島「しかし、かつてのそれに対する反発が現状を招いたはず」
宮台「今は過去のようなシゴキは通用しない」(「型」の必要性は否定していない)
田原「殺しちゃうのはシゴくのが下手なだけ」
喜入「今は言葉で型にはめてやるのが子供にもやさしい」
和田「精神医学では行動療法で型にはめる方法が主流」
田原「(『型』、『らしさ』などは)中曽根時代に否定された」
和田「内申書に教師の主観が入ることを許容した」
誰か「全共闘世代が『らしさ』を壊した」
宮崎・藤井「『らしさ』はまったく壊れていない、いびつな形で残ってしまっただけだ」
井尻「『しゃべり場』を見ていると、型を否定されたあと『個性的』の要求に本気で悩んでいる」
などなど。わかりづらくて申し訳ない。