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2003-04-12

_ あまりにもあまりにもオリジナルすぎる履歴書を また破りたくなる

自分のやってきたことにそれほどの価値がないと言われてしまうのは、なかなかきびしいものである。

「努力」を質と量の側面に分けることができるとすれば、それは質だけでもいけないし量だけでもいけないものだ。質の悪い努力がたくさんあっても密度は薄いし、質が良くても量が足りなければ意味はない*1。だがその質と量のどちらをより評価するかという基準・配分にばらつきがあり、そのことが「評価」という行為を難しいものにしている。

特に「質」の側面は曖昧で、二つの意味を持っている。それは先にも出た「密度」という意味での質と、それがどのような方向への努力なのかという意味での質だ。前者を「効率」として、後者を「価値」であるとしよう。

「価値」が評価のポイントになってくると、問題はより複雑になる。求められる的の中心にどれだけ近いかが評価のポイントになれば、とたんに勝負は息苦しくなってくる。ただ闇雲にボールを投げるだけでなく、ストライクゾーンに入れなければならない。そのストライクゾーンは明確ではなく、評価者の主観に左右され、それを読むことも必要になってくる*2。だから、どちらかといえば「量」だけを測るほうが公平だと言えるだろう。

でだ。そういう難しさはよくわかるというか、仕方がないことなのだと納得もする。それでもまだ納得できないのは、上で言ったようなことのうち、どれが適用された上でダメだったのかがわからないことに、なのだ。それによって、受けるダメージも大きく違ってくるし、わからないままでは、改善しようにも意志が空を切るばかりだ。雲をつかまされているような。もしわかったとしてもいままでの努力を水増しすることはできないけど、でも気になる。

*1 この量と質がほどよくマッチした先に表れるのが「結果」とか「実績」で、その「結果」や「実績」をもとに「努力」の質と量を推測するのが結果主義だと言えるだろう。「努力」を見るよりも判断の基準として明確にも見えるが、しかしある「結果」に対してどれだけの「努力」が必要かを測ることは相変わらず難しいので、ここにも曖昧さは残る。結果を出せなかった努力が結果を出したそれよりも質・量ともに優れていることもありうる(と思う)。

*2 この点は、現実には社会的価値基準=「常識」(これも曖昧だが)をもとにして測られることが多いので、ある程度までは読むことができる。当然ながら、犯罪に費やした努力は普通ならまったく評価されない。

_ きみのした努力をみとめないままで 僕の努力をみとめてほしい

でも拒否されて痛がっている自分も、誰かにそういうことを言ったり、行動で間接的に表現してしまったり*1することはやっぱりあるもので、そうしたことにまつわる自と他の関係とか矛盾とかに身をよじりはじめたらそれだけで今日が終わってしまった。

努力の質が悪い*2

*1 ときには意に反してそう解釈されてしまったりする……場合は、この主題と微妙にズレている。

*2 「しつ」と読んでも「たち」と読んでも意味が通じます。

_ ここ数日、負荷率がゼロになったり高くなったりを繰り返している。ページビュー数はそれほど大きく変化してないので、ここの問題っぽい。うーん、 amazon.rb で画像を引っぱってくるときの負荷が大きいのか?