トップ «前の日記(2003-03-28) 最新 次の日記(2003-03-30)»

2003-03-29

_ こびりつく疑問にもカビキラーすれば、たった5分で根こそぎ白く!

個人の回想なんて他人が関心を持つものではないというのは承知しているつもりですが、エンターテイメント化の足りない排泄行為の一種としてご了承ください。

今日も引きつづき、就職活動に対する熱の低さに困る。困っているだけで一日が終わるのはかなりもったいないが、困らないこともできないから困っているので仕方がない。熱がないのに困っていないよりはまだマシであろう。

「働くことは生きること」と言うけど、限られた人を除いて通貨という共通交換価値を労働の対価として得なければ人間の生命維持に必要な資源を入手できないので、この命題は正しいと言える。ただし、おそらく人間が働くのはただ食べ物を得るためだけではなく、住居や衣料、その他の生活インフラや福祉サービス、嗜好品などを手に入れるためでもあるだろうし、また社会的評価や人間的つながりを手に入れるためでもあるだろう。労働はそんなに単純なものではないが、まず大元では「飢えない」=「死なない」という意味での「生きる」ことを目的としている。

生きるためには働かなくてはならない。これはほとんどの人が疑う余地のないことと捉えている。しかし僕は、まず生きる理由がわからなくて小学校のときからコケてしまった実績をもつ人間である。「生きるなら働く」のはわかるが、「生きる」がわからない。生きる決断に至っていない。こういう疑問は今までに何度も浮かんできたもので、そのたびにいろいろと考えてもきた。

この種の疑問が、特に若者にはありふれたものであることも知ったし、これまで本当に多くの人が考えあぐねてきた問題だということも知った。その結果、共通した答えが出たわけではないこともわかった。宗教だの「生きがい」だのエロスだのなんだのかんだの、色々な人の暫定的な結論を総合してみただけでも実にバラバラで、それは暗に答えの不在を例証しているようでもあった。この問題について議論をすると、議論が盛り上がるわりにあまり実がない。どこかで聞いたことのある結論が出るか、ほとんど共通理解が生まれないまま「人それぞれ」で話題を変えるかのどちらかになる。せいぜいストレス発散にはなるかもしれないが、逆にたまってしまうかもしれない。実は他人との話題にはあまり向いていないと思う。

同時に、この種の疑問が逃避の一形態であるともよく言われる。生きることが自明であるという前提に立った批判だ。この種の主張に根拠を与えるのは、次のような言い分だ。「生きたくないのなら死んでしまえばよい、しかしおまえは自殺できるか? まだ生きているではないか。できないのなら、生きなければならないだろう」云々。「この世にはおまえよりも苦しんでいる人が大勢いるんだ」云々。もっともである。「生きたくない、でも死にたくない」というのは甘えに過ぎない。どうせ生きるなら、積極的に生きたほうが得をするはずだ。うーんたしかに、積極的に生きたほうが得をするのはわかるけど、やっぱり生きることを自明視していないのであまり乗り気にならない。

それでもなお、生きることを自明視できない。この疑問を引きずって日常生活を送るのは、なかなか面倒だ。「自分から死を選ぶ積極性」を持ち合わせず、かといって逆方向の積極性も持っていないのである。

この種の疑問は周期をもって浮かんでくるもので、時間が経てば過ぎ去ることも知っている。寝て起きたらまるで疑問とは思わなくなっていることもあるし、突発的な事件があるだけで消え去ってしまうこともある。今日だって、あと1時間くらいしたらどうでもよくなっている可能性はかなり高い。こうした性質を根拠に「大したことではない」と言う人もいる。反論の難しい主張だ。

でも、この疑問はこびりついている。いつもこびりついている。疲れる。

_ 性能の差が戦力の決定的差でないことを教えてやろう

昨年発表された日本人男子の平均寿命が78.07歳。いま26歳で死ぬ*1と、ちょうど平均寿命の1/3で人生を終える。つまり通常の3倍速で人生を終えることになり、赤い状態になれる。遺言にはこうある。

機体性能は30%上回っていたにすぎませんが、操縦技術が優れていたために3倍速で人生が終わってしまいました
う〜ん、これはこれでおいしいけど、まず生き残るだろうなぁ。

病気や戦争のために亡くなってしまう同世代に対して不謹慎なので、このへんで。自己分析なんてするもんじゃないな(だったのかよ)

*1 26歳のとき、松尾スズキは「大人計画」を立ち上げ、ディック・ブルーナは初めての絵本『りんごちゃん』を出版し、石川啄木は病死している。