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2004-04-30

_ シーソーの支点に立って下を視る 地面は前より遠のいている

昨日の論を自分の問題に引きつけて考えてみるとすると、まずわからなくなるのは自分のことだ。僕は複数の、互いに関連が薄く、それぞれ使うのに時間がかかる道具を持っており、その上に怠惰な性分も加わって、時間が足りなくなっている、と思うことがある。ただ同時に、それらは本当に一つでも身についているのか。ともすれば、自分は一つも道具を身につけてなどいないのかもしれないと思えてくることもある。僕は道具の扱いに関して、素人の域を出るのはとても得意だが、その先になるとすぐ次の道具が視界が入り始めてしまう。

各々の扱いがどの程度「素人の域を出ている」のか、あるいは「出ていない」のかについては様々な見方ができるので、ここでは判断しない。どちらであるとしても結論は変わらないので心配はいらない。

道具の数が多すぎ、かつそれを同時に使おうとするために、それぞれがそれぞれを圧迫しているのなら、最も簡潔な解決策は、どれかを捨ててしまうことだ。しかし僕は、どの一つにも他のどれかを捨てさせるだけの魅力を感じていない。どの一つも身に付いていないとしても同じことが言える。身に付けるにも時間はかかる。

すべてにそれなりの魅力を感じている、またはどれにも魅力を感じていない、どちらでもいい。浮き上がってくる問題はこれである。何度目かはわからないが、またここに戻ってくる。まただ。

ここで取りうる道はふたつ、その平均的な「魅力」を評価して取り上げつづけるか、すべてを捨ててしまうかである。いくつかを選択し、いくつかを捨てるという選択肢はない。選び取るものを一つにするとしても、やはりない。それは結局、また増えていくだけのことだろうからだ。どちらか一方に移動しても、きっと僕は、シーソーが平らなまま静止する場所に戻ってくるだろう。そして地面がいくら下にあっても、立ちすくむか飛び降りるかに悩んでしまう。

今まで何らかの形で、そのどちらをも選択したことはある。どちらを選んだあとであっても、僕はまたここに戻ってきた。きっとまだ繰り返す。どちらがポジティブだとも、ネガティブだとも、もう思わない。どちらを選んだとしても苦しいことはわかっている。それは今までもそうだった。

ただ、そのどちらかを選んだとき、苦しむとわかっていても、僕は快楽を感じてしまう。これが、最も根の深い問題であるに違いない。

……異性関係のメタファーだとしたらとんでもないやつですね。