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2003-02-01

_ 「人と関わることに疲れる」ことを考えることに疲れる疲労

チャンネルを回していたら、思わず「しゃべり場」を見てしまった。今日のテーマが「他人と関わることに疲れませんか?」だったから。といっても最後の10分くらいだったけど、だいたい議論の概要は察しがつく。このテーマ、そんなに議論が広がるものではないし。で、いつものごとく、テーマ提出者の「わからずや」ぶりに一部がキレつつ終了。

こういうのを見ていると、自分が成長していないことがわかってしまってダメージを受ける。相変わらず同じところから大して(まったく?)進めていないわけで。しかも、中にはすごく大人なスタンスで話をしようとする十代もいて、さらに凹まされたり。収録終了後のインタビューで「なんとか同じレベルで話をして、妥協点を見つける手助けができたらと思ったけど……」みたいなコメントをしていた彼には「やーすごいなぁ」と思わされてしまった。皮肉ではなく、本気で感心。

_ 「嘆き」

つき合いが長ければ長いほど、友人から「悩みキャラ」だと評され、また自分でも「自分は悩んでいる」とずっと思っていたわけですが、最近、それは違うんじゃないかと思うことがありました。「悩み」ではなく、単に「嘆き」なんじゃないのかと。「自分は嘆いている」のかもしれない。

「悩み」というのは、解決可能な問題に対してこそ意味のある行動です。解決できる見込みはありそうだけど、方法がよくわからないときに、その方法を考える行動が「悩み」だと思います。「悩み」は、解ける見込みのあるパズルをいじくりまわしているような状態。だから、ある問題が解決可能かどうかわからない場合、まだ悩むことにも意味はあります。解決不可能だという結論が出ていない間は「悩み」でよいわけです。

逆に、解決などありえない問題に対して悩み続けることには意味がありません。というより、それは「悩み」ではなくなります。もし解決不可能である場合、もう「嘆く」ことしかできなくなる。解決しないことがわかってもそこから気を逸らさず、なおその困難や問題にこだわりつづける人は、ただ問題が解決しないことを嘆き悲しんでいるだけになります。

前述のテーマ「他人と関わることに疲れる」にまつわる問題は、かなり「解決不可能」なものだと思えます。説得を試みる多くの人も、「それはしょうがないことであり、自分もやはり疲れることはあるが、でも私はつき合うのだ」という論にまとめることができるでしょう。説得者たちは、「他人と関わることに疲れる」ことは解決不可能なのだという立場にいて、それでもなんとかやっていくのが人の道というものだ、というようなことを言います(自分が説得者になったときでもこう言います)

逆に、まだ「他人と関わることに疲れる」ことに「悩んで」いる人は、その問題が解決可能だと考えている人でしょう。きっと「疲れずに人とつき合う」方法があるのではないかという希望を少しでも抱くことができている人は、悩んでいるわけです。

で、「悩む」のではなく「嘆いて」いる人とは、もう問題が解決しないことがわかったあとになっても、ただただ悲しんでいるだけの人です。なぜ悲しみつづけてしまうのかは、よくわかりません。おそらく、それが解決してほしいと思ってしまっているのだと思います。解決してほしいけど、解決しないことはわかっている。でも解決してほしい。「悩みたいけど悩めない」から、「嘆く」。

問題が解決しないとわかっている説得者たちは、嘆いてないのでしょうか。無自覚・無感覚に見えることも多く、ただ単に自分が考えすぎているだけという意見にも説得力はあります。でも、もしかすると多かれ少なかれみんな嘆いているのかもしれません。「疲れる」という意見は説得者たちも持っているわけだし。もし両者共に嘆いているとすれば、このあたりに共通点はあるわけで、ひとつの起点にできそうです。ただし、説得者とは、嘆きつつもそれなりに妥協点を見出すことができている人たちなんだろうと思います。それはどのあたりにあるんでしょう。

ここまで。少しずつ進もう。

_ そこへ福田先生登場。

ぼくも先生の若き友にー。

 これはやっぱり下らないことだと思うんだ。
 思い切りざっくり云ってしまうと、他人を当てにしている、他人にないものねだりをしているだけの話だ。
 そして、僕は、いわゆる「悩み」というのは、ほとんどそういうものだと思う。
 他人が自分の願望を満たしてくれない、と云って、自分では行動を起こさないでいることが、「悩み」の本質だと思う。
 だから、それは下らない、というか無意味だ。

(福田和也『価値ある人生のために 若き友への手紙』第7通より)
 はい。そう。そうなんですよね。そうなんです、そこまではわかってるつもりなんです。で、「悩み」ではないところまで、とりあえず来た。ここまでけっこう長かった。でも、まだだと思うんです。

_

「嘆きの壁」というのは、すごく象徴的だと思います。壁を前にして、もう嘆くしかない状態にあって、それに解決を与えるためのひとつの選択肢として宗教があって、その象徴が「嘆きの壁」だというのが。