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2003-09-25

_ 中村文則『』(新潮社)

惜しい、すごく惜しい本だと思った。100ページを越えたところから加速がはじまり、そこからの主要なシーンにみなぎる緊張感はたまらないものがある。その部分は特筆すべきで、この先への期待を持たせるものだと思う。ただ、それ以外の、地の文と日常のシーンは通してイマイチだったので、総合してみると「う〜ん」とうなってしまうかんじだった。

最初の違和感は、地の文の一人称が「私」だという点にあった。主人公は男の大学生という設定なのだが、最初の章では直接語られない。そのせいもあって、冒頭、主人公が偶然のおかげで銃を手に入れる章を読んでいる間ずっと、中年のオッサンが喋ってるんだとばかり思っていた。「ああ、拳銃が手に入って、このしがないオッサンのうらぶれた人生に亀裂が入ってゆくのかしら」と思いながら読んでると、場面が大学に移ったので「大学の教員か助手か事務員あたりなんだろうな」と予測した。しかし友人との会話がはじまってみると、その内容が明らかに若い。誘われた合コンに行くとか行かないとかいう話をしていて、どう考えても30代中〜後半と予想した僕の予想と噛み合わなくなり、やっと大学生なのだということがわかった。

まず、自分のことを「私は〜」と言いながら考えている大学生の姿を、うまく想像できない。他人と会話するときの主人公は「僕」や「俺」を使って喋っているのに、自分に対して自分を語るときだけ、つまり地の文の中でだけは「私」になるのだ。普段から「私は○○だ」と自己認識する大学生というものを、僕は想像できない。

さらに、主人公は手に入れた銃の上に「COLT」や「MAGNUM」という単語が穿たれているのを見つけても、その意味するところをまったく理解できない*1。銃に関係あるものだということすら知らない、大学生。僕はそんな大学生を想像しづらい。コルト社は百歩譲って赦すとしても、現実の銃の中で「マグナム」という単語にはじめて出会う大学生なんているのか? そのあたりに対する作者の無頓着さは至るところに見え隠れしていて、本当にもったいないと思う*2。まぁこの点に関しては、細部ということもあり、軽く流してもかまわない、かもしれない。

一人称が「私」であるという点に関しても、わからないこともない。大学生は一般に、公式の場で話をするときや課題のレポートの中でなら自分のことを「私」とも称するはずで、大学生が書いたレポートを読んでいるような気持ちで今作を読んでみると、そこまで不自然なものにはならない(大学生のレポートでいいのか、という点はうっちゃって)。そう考えてみると、小説の中に登場する主人公が「私」を使うのもわからなくはないような気がしてくる*3

作中での主人公は、まったく「普通」である。あまり乗り気ではないながらも友人に誘われるまま仕方なく合コンに行き、そのまま相手の一人を「お持ち帰り」してしまったり、あるいは大学のある女友達と徐々に親密になるという目標を立て、それを着実に実行できたりする。さらに、一人称で語られる物語としては異例のコメント*4が登場する。

私はあまり考えるということが、得意ではなかった。自分を分析することも、得意ではなく、むしろそれは私に嫌悪感を抱かせるものだった。私はそういったことから、自分の考えを進めていくことに時間がかかった。

日常に飽きていて、自分にも他人にも淡泊なキャラクターとは言えるが、しばしば小説に出てくるような、ある種の強力なエキセントリックさとは無縁である。大学生としては一種の典型的なライフスタイルを持った、ごく普通のキャラクターなのだ。

以前、吉村萬壱『ハリガネムシ』を読んだときに、僕は「色情狂とか暴力魔とかキチガイとか変人とかサブカルはいらないから、もっとまともな人が出てくる話が読みたい」と書いた。このときの「まともな人」は「普通の人」と読み替えてもらってもほぼかまわないのだが、『銃』はまさに「普通の人」を主人公とする話だった。内容には触れないけど、オチに至るラストシーンもまったく普通の大学生が陥りうる姿だと思えて、リアルだと感じた。

でも正直にいってしまうと、やっぱり主人公が面白くない*5。以前「まともな人」と言ったときに僕がイメージしたものは、『銃』の主人公の姿とは異なっていたらしい。さらに、舞城王太郎『山ん中の獅見朋成雄』を読んだときにも主人公のことを「普通」だと言った。このときの「普通」はまた、『ハリガネムシ』とも『銃』とも違う意味での「普通」だった。ここに至って、今まで「普通」という言葉を様々な意味・文脈で使っていたことに気づき、またそもそも「普通」という言葉も多様でありうることを発見したりもしたのだが、僕が読みたかった「普通」は、おそらくそのどれとも違っていた。

少なくとも「色情狂とか暴力魔とかキチガイとか変人とかサブカル」ではないらしい。かつ、背中にたてがみがみっしり生えていて足が速くてケンカも強い、わけでもないらしい。さらに、親から仕送りをもらいながら独り暮らしをしつつ日常に飽き飽きしてるところに偶然銃を手に入れて大興奮しちゃっても、いけないらしい。

じゃあ、何なんだ? 「もっとまともな人が出てくる話」って、どういう話なんだろう。そのときイメージしたものは、ぼんやりと記憶にあるのだが、いま具体的なかたちとして出てこない。それはもしかすると、僕にだけ流通する「まとも」で、さっぱりまともなものじゃないのかもしれない。いや、かなりそんな気がする。

*1 ちなみに「COLT」はメーカー名/ブランド名。「MAGNUM」は弾薬の種類で、銃に刻印してある場合、マグナム弾を使用できることを意味している→参照

*2 作中に、誰が銃を発砲したのかが大きく問題となるシーンがあって、そこに警察が絡んできても、一度も「硝煙反応」のことに触れていないというのも、ものすごく引っかかってしまった。

*3 実は作者自体が「普通」なのだろうなぁと思った。

*4 一人称の物語の根本的な問題として、思考や自己分析を嫌うキャラクターが長々と自分について語るのはそもそも不自然であるために、どうしても少し内向的で理知的なキャラクターになることを避けるのは難しいと考えていた。たとえ「考えるのが嫌い」という説明が文中にあったとしても、それを語っているという事実が言遂行的にキャクターを作りはじめてしまう。だから、この作品にも全体としてどことない矛盾があるように感じる——が、ここではあくまで主人公が自分をそう認識しているだけだし、作中でそれほど自己分析に深入りしないとも言えるので、先に進む。

*5 この先、主に人物に焦点を絞ったが、この「面白くなさ」は文体に起因している部分も大きいと思う。