■ここでまたも、猪木先生の教えが私の蒙を啓いてくださるのです。
馬鹿になれものすごい圧縮率です。ていうか文脈違いますがね。元気ですカー。
■各所での私の発言により、私のイメージが混乱しているケースがあるようです。現代の社会像を、成熟期を迎え、多様化の果てに肥大しきったものと捉えるならば、その中で様々なネットワークへとタコ足的に帰属せざるを得ない個人の人格像は、見方を変えることにより様々な像を結ぶ多面的なものとなるのは不可避であり、私もまた例に漏れずそうした多面的な人格像あるいは自己像を持っており動物占いはゾウです。
哲学者の欠点ズギュルッ(核心を突かれた音)。言うまでもなく、俺は単なる「ぶってる奴」(pedantist)なんですけどね。でもね。
- 3 名前:考える名無しさん投稿日:2001/03/30(金) 04:17
- 考える事を放棄している人の相手が出来ない事
■で、寝て起きて、行ってきました、青山真治監督『EUREKA ユリイカ』。
予想した通り、泣きました。といっても、「ラストで大泣き」とかではなく、中ほどで「同じじゃないバス」が出てきてから後の、要所要所でグッときてました。
「自分のやり方を探す」ことと、「変化する」こととの関係はとても微妙であり、しかも「癒し」の形なんて、「癒された」と感じるその瞬間になるまでわからないはずなわけで。いや、その時点になっても気づかないかもしれないし。そこはとても難しく、そして、「人が関係する」ということは、またとても難しい。難しいことだらけですが、難しくないでしょうか。俺は難しい(聞いてない)。
いや、よかった。これは。あんまり言葉が出てこないんだけど。どう言っても足りないような気がして。
■しかしラストは、「なんでこうなっちゃうかな〜」というか、「やっぱり」ってカンジで、監督はどうしても男なのであった。そもそも、全編に漂う「宮崎あおい萌え〜」感が全てを表しているとも言えますが。
■つーか、ラストの感触としては、亜血亜くんの新作(ここの読者で見る人は少ないでしょうが)にも似た感触がありました。と、メモしてみよう。
■で、帰り道で大岡川沿いの桜も見物。満開に近かった。黄金町で見る桜、ってのが、なんともたまらなく。
桜は幹が黒いからいいんだよね。もしここまで黒くなかったら、これほど人の関心を惹くものではなかっただろう、などと思う。
■ああああ、ダメージがなくなるどころか増幅されていく毎日。これを解決するには、状況でなく内面の価値観を操作するしかなく、つまり自分をマインドコントロールする必要があり、まずはそのためのロジックを組むことから始めなければならないわけだけど、ロジック作成&マインドコントロールにはえらく時間と労力がかかる。「またこれかよ」ってカンジなんだけど。でも、イヤだけど、やらないといけないんだろうなぁ。
しかも、「○○よりはマシ」というロジックだけは死んでも使いたくないので、大変なんです。
無価値になったこの場所から、何かを発見する。って、どこにあるんだよそれ。ここではないどこか、なんて無いだろうし。でもやっぱり外か。少し動かないといけないんだろうなぁ……だから動きたかったんだって!(ふりだしにもどる)
■テレビ朝日で、「ふつう」を問うのがテーマの番組が始まるみたいですね。俺は「ふつう」の存在がまったく理解できないで苦労しているタイプのため、前々から目をつけていた部分だったんだけど、ちょっと悔しい。いや、むしろチャンスと見るべきか。
圧縮していえば、「ふつう」はちょっと揺さぶりをかけてやればすぐに壊れる脆弱なものである、ということで。でも、ほんとはどこにもないんだけどね。「あるように見える」だけで。って、みんな気づいてますか。実は必要なものでもあるんだろうけど。
みんな気づいてるという気もするんだけど、どうなのか。それにあえて乗っているだけなのか。そういうタイプも確実にいるはずなんだけど、そうでなく、盲目的な「ふつう信者」ってのもいるはずで。その分布がよくわからないんだ。
■今日の75〜77年生まれのコーナー(いつのまに?!)は、ヨシダプロさん。けっこう有名だと思うけど。そうでもないかもだけど。「万物占い」は「眼鏡タイプ」でした。
■佐藤マコト『サトラレ』(講談社)は、とにかくすこぶる評判がいい。漫画板@2ちゃんねるでさえ、評判がいい(ていうか、漫画板は漫画に対してかなり妥当な評価が下る、と思う)。
この現象を、「スパイ」活動への「疲れ」から説明できるような気がする。本当は、みんな他人を信じたいんだけど、でも信じることもできない、というストレスが『サトラレ』を読ませるというか、むしろ「生んだ」と言っても過言じゃないかも。
でも、サトラレが身近にいたら、他の人は自動的に「優秀なスパイ」となっているわけで、それへの憧れが微妙に入ってるかもしれない。
興味深いテーマではあるなあ、「スパイ」と「サトラレ」。
■なぜか家に落ちていた(母親が借りてきたらしい)、スペンサー・ジョンソン著、門田美鈴訳『チーズはどこへ消えた?』(扶桑社)を30分で読了。アントニオ猪木は、この本がグダグダと述べていることを9行にまとめている。いや、13文字にまとめていると言ってもいい。「迷わず行けよ 行けばわかるさ」。
といっても、この本はもうちょっと具体的にいろいろ述べているわけだけど、その「具体的」な部分を俺自身の問題に対応させようとすると、さらにややこしいことになりそうだ。俺の現状は、変化しようとしていると見ることもできるし、今までのやり方に固執していると見ることもできてしまう。しかも、「チーズ」は永遠に姿を消しつづけるのだから、そもそも「チーズ」に価値を求めることそのものが問題化していたりする。そして、そうやってグダグダ考えているうちに、自分が「ヘム」になっている。しかし、「チーズ」を求めることの価値が自明ではないのだから、どうしようもない。そこから変化を求めても、それはすなわち「ヘム」になることを意味する……という永遠循環になってしまう。「メタ・ヘム」が現れるとでも言うべきか。
まぁビジネス書ということらしいので、深くつっこまないことにした。占いと同じで、どのキーワードに何をあてはめるかでどうとでもなっちゃうし。[2001.2.6-7]にでもリンクしてみようかな。
■螺旋型の進行っていうイメージは、かなり昔からあるみたいですね。東洋ではクンダリーニ(電波っぽい)とか、西洋にもあるみたいだし(哲学用語の「アウフヘーベン」も近いかも)、なんつってもDNAが螺旋だし……と適当なことばっか言ってみたけど、なんだか人間にとっては根本的なことのような気がします。
「デフレ・スパイラル」などという場合の「スパイラル=螺旋」には、(悪い状況が)加速度的に進行していくようなイメージがありますが、ここで言う「螺旋」はそうではなくて、堂々巡りに見えるけど、実はじっくりじっくり進んでいる、というようなイメージです。ていうか「とぐろ」のほうがいい気がする。
……うまく伝わってない気がしますが。
■「いとこ同士で結婚」というテーマを聞いて、「3×3、4×4、5×5のインブリードが一本ずつできるなぁ」などと考えてしまう俺は、かなりダビスタ度が強まっていると言えよう。
■さて、そろそろ鬱した状態にも疲れてきたので、解決法を考案してみた。この疲れを「テクノストレス」という言葉に押しつけて、コンピュータのせいにするというのはどうだろう。実際、最近は一日のかなりの時間、ノートの前にいるので。
と、思ってはみたものの、この依存状況を脱しようとしてコンピュータから離れると、今度は「テクノなしストレス」が溜まってくることに気づいた。この状況をもう少し詳しく見てみよう。
睡眠時間を除いた一日の時間を100と考える。そして、一日ずっとPCの前にいると、100のストレスが溜まるとする。一方、一日中PCから離れるとすると、それでもまた100のストレスが溜まるとする。100のうち50をPCの前で過ごし、そうでない50を他にあてるとする。100のストレスがたまる。
うわ、どうしようもねェ。「テクノストレス」じゃダメだということがわかりました。
■「一度じっくり話を聞いてみたい人ランキング」の上位に食い込んでます、田村淳。ていうかMacをいじるのが趣味らしいので、見てたらメールください。
などと書いて、たとえ本当にメールが来たとしても、ネット上の接触は本人であることを保証し得ないし、そもそも田村淳が田村淳であることを確認する方法が……という「スパイ」的、「ロンブー」的循環に閉じこめられるのです。
■「稲妻! ロンドンハーツ」は、例によってPTAから叩かれてるらしい。たしかに淳の趣味は悪いけど、その一方で、淳という関数を通って出てくるのは、かなり純度の高い社会像だと思う。これを否定することは、現実を見ないまま臭いものにフタをかけてやりすごし、つまり、社会に触れるのを遅らせているだけであって、子供にそれを見せないことが最終的に「教育的」と言えるのかどうか……まぁPTAってのは、臭いものにフタをしてまわるのが専門の組織なんだけどね。いつものことで。
しかし、「デジタル多チャンネル化時代」が実現したら、PTAも忙しくてたいへんだろうなぁ。あ、でも「ゴネ商売」のゴネる相手が増えるわけだから、おいしい時代でもあるのかも。知らないけど。
■「アツシ」といえば、Over Driveの石野敦士も気になってるんだけど、「ワンダフル」では特に何もしてないので、何かしてほしいところ。日テレの深夜番組にも、中島らもやら笑福亭鶴瓶やらと一緒に出てたけどね(その番組で気になった)。
■「自分の弱さを他人に誇示して押しつけるにしても、それは最低限エンターテインメントとして成立した上でなければならない」という主張を以前した[2001.3.14-2]。そこで言われる「エンターテインメント性」とは、どんなものだろうか。
ある表現活動がエンターテインメントとして成立しているか否かは、もちろん受け取る側の判断に委ねられている。受け取る側がその表現を楽しめば、それは有無を言わさずエンターテインメントと呼ぶことができるはずだ。そして、そのエンターテインメントの形に普遍的なものはない。つまり、どんなものを作ろうと、すべての人がそれを楽しいと思うことはありえないわけだ。
この点は、「タコツボ化」とか「島宇宙化」とか、あるいは「価値観の多様化」なんていう言葉を持ち出すまでもないだろう。ある人々にとっては楽しめることが、他の人々とっては楽しめないもの、どうでもいいものになってしまう。登山家がサーファーに山登りの魅力を語っても無駄だろうし、マザコンがロリコンに熟女の魅力をどれだけ語ろうと、無力である。あるいは、「ジャニーズ顔も好きだけど、蟹江敬三の渋味もたまらないのよね」という人もいるかもしれない。しかしそれは、その2つを同時に理解しているにすぎず、全ての人にとって同じく価値となるものの存在を証明するわけではない。
逆に考えれば、「エンターテインメントとして提示しろ」などとわざわざ言わなくても、端的に「弱さ」自体をエンターテインメントとして受容できる立場を想定することができてしまう。ただ弱い人を見ているだけで楽しい、という人が存在しうる。つまり、わざわざ手間をかけてエンターテンインメント化してやるまでもなく、「弱さ」そのものがエンターテインメントとして成立してしまう可能性があるということだ。
ここで、一気にわからなくなってきた。わざわざエンターテインメントにするよりも、何もしないままでいたほうが「エンターテインメント性」を持ってしまう可能性があるならば、それこそどう動くべきか、まったくわからなくなる。
しかし、私はそれでもなお、「エンターテインメント化するべきだ」という主張をくり返さなければならない。その理由は二点ある。
まず一点め。現実的に考えれば、「単なる弱さ」がそれ自体で価値を持ちうることは、いくら可能性があるとはいっても、ほとんどありえないからである。ここでは複雑になるのを避けるために「弱さ」としか言っていないが、現実にその「弱さ」は様々な形で成り立っている。ただ「弱い」ことが、それだけで他者の価値となっているように見える場合でも、実は他の点がそれを補っているだけ、という場合がありうる。たとえば、ものすごく外見がイケてるとか、そういう付加価値が「弱さ」を許している場合はありうるだろう。
しかし、ここでそれを想定するわけにはいかない。純粋な「弱さ」は、なかなかそれだけで価値とはなりづらいと考えなければならない。そして、外見がイケている例にしても、「エンターテインメント性」と「弱さ」は、うまくいけばお互いを引き立て合う可能性があるだろう。ここでも、「エンターテインメント性」と「弱さ」が相まって、他者の価値となっていることに変わりはないのである。
次に、二点め。「エンターテインメント化された弱さ」と、「単なる弱さ」との間には、明らかに違う点がある。それは、言うまでもなく「エンターテインメント化されている」という事実だ。そのために労力が払われている、という事実こそが、他者にとって価値となる可能性を生むのである。そのほうが、価値となり「やすい」ということだ。
しかしそれだけでは、あくまで「可能性がある」にすぎない。それは同時に「無駄な努力」である可能性も孕んでいるだろう。では、その無駄な努力をしないためにどうするのか。といえば、それは「どうやって、どんな価値にするかを考える」ことしかない。つまり、他者のことを考える、他者の立場に立って考える、マーケティング・リサーチをする必要が出てくるということだ。この「他者のことを考える」ことが、「弱さ」を持った上でも、結局は必要となってくることなのだ。可能性を高めるため、他者のことを考える作業をする、というのが「エンターテインメント化」の重要な部分である。
いくら「弱さ」そのものが他者にとって価値となる可能性があろうとも、それを想定してしまえば、常にリスクを背負うことになる。さらに、現実にその可能性は極めて低いのだから、可能性を高める努力をするべきだ。そして、その方法とは、他者の立場から自分を見つめるマーケティング・リサーチに他ならない。
「他者」の存在を想定していない「弱さの誇示」は、結局のところ虚しく終わるだけなのである。
■ということはわかっているんだけど、それでもまだまだ問題は山積しているのです。
普遍的な価値が存在しないならば、どこに狙いを定めればいいのか? どんな他者を想定したらいいのか? そもそも、他者のニーズとは何か? 他者を知ることなどできるのか? などなど、頭痛のタネ、つまづきの石は尽きないのです。
■昨日は日記を書かなかったため、連続日記書き記録は82日でストップ。82日間、いろいろあった。が、結局は日記しか残らなかった。ぐぐぐぐぐ。
■新学期が始まろうとしているが、学業へのモチベーションは真剣に皆無。SFCのカリキュラムに納得がいかない、というか俺のニーズと合わない部分が大きいからこそ、そこを出ようとしたわけで、しかも「納得していないことを納得しないままやる」というのが、俺の最も苦手とすることなわけで。
しかし、つんくは「まず、やっちゃえ」と言いますが、言われてもできないっちゅーの。「っちゅーの」って懐かしいけど。
■やる気が起こらないのは学問に限ったことではなく、その他各方面へのやる気もことごとく消え失せていく毎日。こういうのをひっくり返すツールが無いんだよね。いわゆる「ストレス解消法」みたいなのが。そういうのはだいたい「効かない」。我ながら救いようのないことではあるが。
今までの経験からだと、こういう時は徹底的に胃を痛くする方向に持っていき、「これ以上はヤバイ!」と身体に判断させて、身体にひっくり返させる、という方法が有効。身体が生きようとする力はけっこう強い。内臓にダメージもありそうだけど。
■と、ウザイことをつらつらと書いてるうちに自分でウザくなってくるのはどーしたらいいのかなー、と考えてたら、どーも俺はこのウザイ部分も含めてこの日記に保存し、閉じこめようと考えているんではないか、と思いはじめてきた。「日記はもっとも純粋な自己保存装置である」とは富永茂樹の言だけど(『都市の憂鬱』)、それはまさにそうだという気がしたんだ、この日記と、それを書いてる自分を鑑みても。
だからといってどーなるわけでもないのかもしれないが、ひとまずはそういう目的がありそうなのである。明日はどっちだ。踏み出せば、その一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ。ありがとー!(ジョー→猪木化)
『さくや妖怪伝』
とにかく、「安藤希萌え〜」の一言につきる。「ガメラ」では地味な役回りだったからね。もちろん、松坂慶子の「土蜘蛛」も見所ではあるけど。
造形とエフェクトの技術力は、さすが原口智生&樋口真嗣というガメラコンビだけのことはある。その点だけは大画面で見てもいいかなぁと思わせるが、他の点(特にストーリー)を気にしはじめると、全体的にちょっと1800円とか払いたくないカンジ。てことはカウチポテトが正解なのか? と思うが、しかしカウチポテトだと肝心のエフェクトの楽しめ度が下がるため、見所がなくなる……じゃあどこで観るのがいいの? という疑問には沈黙を以て答えるしかないんだけど(あえて言うなら一般はビデオ、お子様には劇場)。だからすべてを決めるのは「安藤希萌え」なんだってば。
それらすべてを受け容れて楽しむのが粋であり、あれこれと文句をつけるのはスジ違いであると言えよう。
■その後、マイカル本牧のマイカルシネマズに向かう。マイカル本牧には初めて行ったんだけど、ものすごい計画的な区画整備を行っている一方で、当初から指摘されていた、車以外を拒絶しているようなアクセスの悪さは決定的らしく、ほぼゴーストタウンだった。買い物に来てるのも、地元のおばちゃんばかり(つまり「サティ」以外は人がいない)。といっても今日は水曜日なわけで、これが休日だったら少しは違うのかもしれないけど、違わないような気もする……こりゃマイカルは傾くわなぁ、というカンジ。
■さて、まずは「まんがまつり」時代以来の『東映アニメフェア』から。
「デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲」
これは、前作との比較をするのがいいんだろうか。作画については、前作も今作もかなりの水準で、「これからのアニメ」の模範と言えそうな出来。宮崎駿が切り開いた「3DCGとセルアニメの中間形態」は、これからも順調に伸展していくのだろう、と思わされる。
画的な見せ場を作るためにストーリーは犠牲になってる気がする……というか、ドキドキ感という点では、前作の「ミサイルがクラックされて東京がピンチ!」という展開のほうが、ありがちではあるが(だからこそ)スジが通ってたと思う。今作は「最強デジモン」はこんなにすごいぜ! という演出に終始していたというか……。
デジモン同士の戦闘は見所が多い。といってもエヴァの踏襲なのだが、それもこういう形で生きていくならまぁ許せるかな、というところ。
「ワンピース ネジマキ島の冒険」
俺はもともと原作のファンであり、「少年漫画としてドラゴンボールを超えた」と思っているほどなのだが……これねぇ。まずは脚本家があと150回原作を通読する必要があるかも。
「ワンピース」という作品は、現実に死滅していると思われるような、クサくてクサくて赤面するようなテーマを、さらに煮詰めて煮詰めてもっともっとクサくしておいてから、それを使うために、さらにクサいクサい演出と鬼のようなヒキを用意して、はじめてやっと作品に出す、ってことをやってるんだから。まだ足りない。泣けなきゃ認めねェ。
といっても、それを60分弱でやれというのはかなり難しいかもしれないけど。
ていうか、やっぱり「アニメフェア」って総じて時間が短いよね。2+1本だからね。難しいところだろう。いっぱい観られる「お得感」を取るか、「深み」を取るかという選択の場合、お子様は「お得感」を選んでしまうんだろうか。俺が昔「まんがまつり」を観たときも、な〜んか味が薄くて納得いかなかった記憶があるんだけど、どうなんだろう。
■で、やっとメインの『サトラレ』について。
原作をかなり読み込んだ上で観ているため、かなりバイアスがかかった見方になってしまった。原作では4話に分けて使われたエピソードを、1つのストーリーに組み立て、さらに映画版独自の演出も多く加えている点は、見事としか言いようのない労作(このへんは考えずに観たほうが楽しいはず)。その上で、「娯楽」の重要な要素である「笑い・ドキドキ・涙」の3点を、見事に押さえている。
ただ、「娯楽」にする必要があったためか、原作にはいないほどの、かなり露骨な「悪役」が登場していたりする(もちろん最後にはサトラレに感情移入)ので、「サトラレ」に対する視線も、原作と多少異なった印象になっている。個人的には「原作」派なので、「人間くささ」が多少薄められている気がした。白木さんにしても、原作ではもっとダンディなんだけどね。
「得能保全委員会」の作り込みは、本広節が炸裂してる。原作では、必ず「サトラレ」側か「対策委員会」側かのどちらかに重点を置いているが、映画ではその両方をバランス良く配分している(そのぶんバラけた印象が残るったのも事実)。「巨大組織」のコミカルな描写は原作以上に面白くて、「踊る大捜査線」でのノウハウがしっかり生きてるカンジ。さらに、全編に流れる音楽の使い方にせよ、クライマックスにせよ、「本広克行」が全面に出ていて、「踊る〜」を楽しめる人ならこれも間違いないでしょう。
でも、俺としてはちょっと「狙いまくり」の部分で引いてしまい、イマイチ入り込めなかったかも(俺がスレてるだけか?)。さらに、原作のエピソードをムリヤリ詰め込んで、シーン同士のつながりが希薄になっている印象もあったので、もうちょっと原作を離れて自由に組み立ててもよかったのかもしれない。制作側は、原作を使った「パズル」を楽しんでたのかもしれないけど。
ていうか、原作と対応させたり比較したりする作業で脳味噌を回しすぎて、映画自体に集中できなかった。またこんど家でゆっくり見てみたいカンジ。
■っつーか『A.I.』!! ちょ→観たいんですけど! もう、予告とかやらないでほしい。これがまたいいんだけどね。指紋が、もーね、アレなのよ。公式Webのほうもいいカンジだし。特製ネックストラップ付きの前売り券、買ってくればよかった……。
スピルバーグは「先生」の遺作を受け継ぐんだから、きっと死ぬ気でやってるはず。だからこっちも死ぬ気で待て!!
■さて、ネットを離れて何かしよう、と思ってもみたものの、ほんとにどこにもモチベーションが向かず、かな〜り塞がっているカンジがしてしまうのだった。上からお椀を逆さまにをかぶせられたような。「抑圧」というのカンジではなく、むしろ「袋小路」のような。で、振り向くと後ろが閉まってて「ハッ、もしや罠かッ?!」というアレに近い。
■その閉塞に向かい合う気力はまだ無いので、ひとまず『ダビスタ』で気を逸らす毎日。しかし、明後日はとりあえず『サトラレ』を観て泣きに行く予定。さらに、どうやら「東映アニメフェア」との2本立てになる予定。『ワンピース』でも泣く予定。
つーか、いつのまに「まんがまつり」から「アニメフェア」になりましたか。知らないうちに。俺が最後に観たのは、まだ「まんがまつり」の頃だったなぁ。
■東京No.1ソウルセット『黄昏'95〜太陽の季節』をかける。
あぁ、ビッケが全部言ってる。すべて言われている。くそ。
いや、ビッケだけでなく、それ以前から、本当に多くの人が言っていたのだ、おそらくは。昇天への欲望は狂気にしか見えなくて、でも、たとえ昇天できたとしても、光源はすぐに魅力を無くすのだ。そして、いずれにせよ墜落するしかなく。
しかし、それでも人は昇天したがって、それはすなわち墜落したがっているのであり。しかし、ひとまずは昇天に成功してから墜落するほうがまだマシなはずだ、などとつい考えたり。
■つーか、落ち込んじゃって、落ち込んでる自分に酔うのにも疲れて、そろそろなんとかしたいなーと思っている時期には、妙に HipHop が合います(『黄昏'95』はむしろレゲエだけど、レゲエも合う)。BPM がちょうどいいという説も浮上していますが、やはりその「ソウル」みたいな、いつもなら言っててはずかしいようなものがいいのかもしれません。
ビースティに "Money Makin!" とか言われると、ちょっと復活します。いいかげんなもんですね。
■つーか、密かにハマっているのが、ドリフの「ヒゲのテーマ」だったりするのですが、これよくない? もちろんメインのベースもカッコイイし、密かに後ろのギターがまた泣けるしで。この盛り上がっていくカンジも、なんとも。うう、いい。
最近はチョーさんのベース弾きまくりCMがなにかと話題ですが、ビートルズの前座というお約束の伝説もさることながら、やはり「全員集合!」においても音楽へのこだわりはしっかりあったのだなと、今さらにして思ってみたりした深夜。
ていうか Teddy Pendergrass というひとの曲なんですな。あ、なんかしかも有名な人っぽい! Jazzな人にとっては常識だったりしますか、もしかして?
■スピリッツ増刊「イッキ」(小学館)を買ってしまいました。
松本大洋、山本直樹、黒田硫黄、しりあがり寿、さそうあきら、竹谷隆之、諸星大二郎、石川賢など、他にも日本の「ある層」だけが確実に買うタイプの作家が揃っています。小野塚カホリとか、米倉けんごで反応する人もいるのかな。ホームランではないがコツコツ当てるカンジの。
しかし俺的に最大の注目連載は、原作:渡辺浩弐、キャラクターデザイン&構成:岡崎武士、制作:ACiDというメンバーの3DCGマンガ。あんまし面白くは(当然)ないんだけどさ。
ここしばらく「マニアックサイコー!」という気分ではまったくないんだけど、でも買ってしまうのである。
■ものすごく「ダビスタ全書」を注文したくなったけど、がまんした。ぼく、がまんできた! がまんできたよ! みんなー!
■もうすぐ春ですね。キャンディーズ。僕はストライクな世代ではありませんが。
春とは微妙な季節です。四季の豊かな日本では、冬と夏の狭間で、夏へと向かってゆくダイナミズムを感じる時期でもあります。冬の終わりと、夏のはじまり。徐々に空気は暖まり、そろそろ虫が飛び始めます。昼間のうららかな陽気に油断していると、夕方の急激な冷えこみにおどろかされたり。この、冬でも夏でもない、という微妙なところがいいのです。春は好きな季節です。
日本では「はじまり」の季節でもあります。そこには「希望」に満ちた感触が伴います。しかし、「はじまり」の直前には、必ず「終わり」があるわけです。「入学式」は、「卒業」という名残惜しさの上に立っていてこそ輝くものです。「別れ」が春のベースを作り出しているのです。春には、少しセンチメンタルな空気が伴っています。
春には常に、どこか影があるわけです。後ろ髪引かれつつも何かを振り切るような、振り返りたいけどそれはいけないことのような、前を向いているような、後ろを向いているような。そういう不安定な感覚があるのです。空中ブランコを飛び移る瞬間の、刹那のストップモーション。加速から加速へと移りゆく中間で、ふわふわしてるかんじ。
そして、「別れ」が「希望」の直前にあるならば、「希望」の彼方には「失望」と「絶望」があるでしょう。「希望」は「失望」のはじまり、「失望」は「絶望」のはじまりであるとも言えます。今ここにある「希望」の直前に「別れ」があったのならば、この「希望」の先にも同じものがあるはずです。「出会い」の裏側には、常にその危うさが伴うものです。しかし「希望」とは、そうあってこそ輝くのです。
毎年、この時期にはつい、梶井基次郎を開いてしまいます。「希望」に満ちたように見えつつも、春は、その裏側に腐った屍体の存在を想像させる。根の下に埋められた屍体の養分を吸い取ってこそ、桜は美しく咲いている。梶井がそう言うのが、よくわかるような気がするのです。
■テレビで、アメリカ人が "un-spoken trust" という表現を使っていた。「以心伝心」みたいな文化は、なんとなくアメリカには無いようなイメージを勝手に持っていたんだけど、考えてみれば、あってあたりまえなんだなぁと、なんとなく思ったりした。言葉への意識には違いもあるだろうけど、どの文化だってやっぱりそれだけじゃないよね。
言わずとも伝わるもの……むむ。
■PS版の初代『ダビスタ』は、戦法に「逃げ」を選ぶとゴール前でタレる確率がかなり高い。全部◎ついた馬が1200mでタレるのはマズくないか?
ってことで教訓、「逃げちゃダメだ」(え、もしかしてオチ?)
■PS版『ダビスタ』の攻略本を求めて本屋へ行ったら、『ダービースタリオン公式ガイドブック』をゲット。本当は『全書』が欲しかったんだけど……。
で、例によってほかに3冊も買ってるし。
■ところで、自分の弱さを他人に誇示して押しつけるにしても、それは最低限エンターテインメントとして成立した上でなければならない、という意識は間違いなくするべきことである。弱さがエンターテインメントの効果を増幅することはあっても、弱さだけで成り立つことはない。
と、松尾スズキも思っているにちがいないと思った。とても大事なことだと言えよう。
■てなことを話すときに相手をしてくれる亜血亜くんの作品は、今年もひとまず賞をとることが決まったらしいが、賞のグレードがまだ決まらないらしいです。目論見としては、去年より上になるってことなんだが、はたして。
■大学に落ちたことからの復帰のきっかけを、期待してもしょうがないとわかってはいながら、しかしどこかで求めてしまってもいたのですが、『エロスの果て』を観て、復帰どころかやっぱりもっと考えていたくなったし、自分の抱えている疑念も正しいと言われた気がしたし、学校変わりたかったなぁと思ってしまう結果に。井の頭線「下北沢」のとなりのとなりが「駒場東大前」だっていうのもあったけど。
しかし「まあいいか、ずっとそう思いながらでも面白いかな」と思ったりもした。どうせこれからもそう思うことのほうが多いんだろうし。つらいけど、一つ所を盲信するよりずっと健康だろう。盲信するやつが嫌いだからここにいたくないんだけど。ぐぐぐぐぐ。
■つーかネットを見ていて「こいつはおかしい」(ほめ言葉)と思うやつの生年が、ことごとく75〜77年に集中している気がするのですが、やっぱりなんか変な電波が日本に注いでたんでしょうかね、そのあたりで。
「気がついたらネットがあった」第一世代がそのあたりだ、っつうのもからんでくるのかもしれませんが。どうなのか。単に同世代が気になるだけなのか。
■成績表が届く。進級はもちろんのこと、最低30単位あれば進級できるにもかかわらず、39単位(上限40)もゲットしてるし。うち、Cが2つしかないし。
明らかに受験してたやつがもらうべき成績表ではなく、こりゃ落ちるよなぁ、と再び自己嫌悪に陥る。楽しかったのか? いや、楽しい部分もあったにせよ、芯の部分では決して楽しくなかった。まぁワザと楽になるよう科目申告したというのもあるけど。にしても、うぐぐぐぐ。
ヌルいッ! 俺も学校もヌルすぎるッッッ! モチベーションは減退してゆくばかり。
■おそらく誰にも助けてもらえない状態、というよりも「救い」の具体的な形がすぐには想定できない状況はありえて、そのときには自分でなんとかするしかないわけで、でも今回はちょっと大変そうだ。
生きるモチベーションが低いっていうのは決定的に良くないんだけど。
■「笑っていいとも!」に三谷幸喜が出ていたんだけど、テレビをつけたのが12:30で、もうお友達を紹介していた。
「あ、見たかったなぁ」と思った。そして、まだ見たいものがある、と気づいた。他にもいろいろある。まだ大丈夫、なのだろうか。
ってああこんなこと書いちゃうなんて、三上ちさ子の悪影響だろうか。
■「ダビスタなページ」の「DS96,PS,98,SS,99,Win用配合検索ツールDSBFT」が有用すぎ。自分で考えなくなりそうなほど使えるので、使用はひかえめにしていきたい。
96対応ですが、「ダビスタ徹底攻略」も参考になります。あとは「ダビスタRING」とか。
■と、「自分! 自分!」とか書いちゃってる自分が一番ウザいんだよ、マジで!>俺。どーにかならんかね〜と思っているわけだったんですが、ならない。
学問を使えば、そいつをそれなりに馴致できそうだな〜と思っていたんですが、「当SFCでは、そのような目的に使用する学問は扱っておりません」ということらしいので、「じゃあ、しょうがない」と思って移動しようとしたら、こんどは移動しようとした先々から「あなたにはそれを行うだけの学力が備わっておりません」と言われてしまいました。
何もすることがなくなりました。八方ふさがり。月亭八方。
■さあ、しょうがないからダビスタの配合でも考えよう。まずはG1とらなきゃ……。
そういえば、前にもゲームが逃げ道を与えてくれた気がするなぁ。それは決してマイナスではなかった、と思うのだが。そういう世代なのかな、とか思ってもみたり。ゲームはいいよね。良かれ悪しかれ社会に与える影響も大きいだろう、この先もきっと。
ゲームに逃げられるからこそ、そこ以外の閉塞がそのまま保存されちゃうとも考えられるかもしれないけど、逃げ道もなく完全に閉塞するのとどっちがいいんだろう……どっちでもいいか。ここでそんなことを考えながら空回りを続けるのも賢い選択だとは思えないし……とにかく、疲れた。
■自分へのおつかれボーナスとして用意しておいた、3月14日の大人計画「エロスの果て」を観に行くため、とにかく体調を元に戻さなくてはならない。
しかしノドを痛めているのにタバコは増える。タバコを止められるのは、彼自身の強さを示すのだろうか、それとも彼が満たされているというだけなのだろうか。
■とかなんとか言ってる間に、阪神3歳牝馬ステークスと秋の天皇賞ゲット。面白配合有効すぎ。
ニックスと面白だけでインブリードが無いのに「理想的な配合ですね」とコメントされる気がするけど、そうなのか? プレステ版はそれなのか? 実際、制作側には近親配合に警鐘を鳴らしたいという思想もあるらしいけど。
手元にある資料は、96に対応しているのは『ダービースタリオン96 公式パーフェクトガイド』と『ダービースタリオン96全書』、プレステ版に対応しているのは『ダービースタリオン ブリーダーズバイブル』『ダビスタ読本』で、ちょっとプレステ版固有の情報が少ない。
血統を考えてると、文化人類学をやってる気分になるのでちょっといいカモ。いや、むしろだめカモ。
■建設的な作業をする気力があまりにも無いため、血迷ってプレステ版『ダービースタリオン』(しかも99じゃなくて97年の最初のやつ)を始めてしまうが、ダビスタ関係の知識が脳内から消え去っている&資料も部屋から消え去っているため、思うように進まない。調教ってどーすんだっけ? プレステ版攻略本ってまだ売ってんのかな〜。ブックオフでもいってみるか。
■しょうがないので、未読本の岸壁から村上春樹『風の歌を聴け』(講談社)を拾い、読了。2時間くらいで読めたのは俺としてはかなり速い。っつーかもとからそういう本なのね、たぶん。
当時、この本が文壇に与えた影響など知る由もないが、70年代最後の年に出版されたこの作品が、来るべき80年代のムードを持っているように見えるのは気のせいじゃないのかもしれない、っていうかだいたいそんな感じだろう。
具体的な心理描写がほとんど無く、ただただ淡々と夏休みの情景が目の前を行き過ぎる。おそらくは「熱き」60年代が終わり、そこから今まで延々とつづくなだらかな下り坂(バブルというコブがあるけど)は、ここにも見て取ることができる。これを「シラケ世代」と呼ぶのが正しいのかどうかはよく知らないんだけど。
でも、まだ彼らには「消費」が逃げ道として用意されていた。「消費」によってなんとかヒマを潰すことができた。それが「コブ」を生み出す力ともなったわけで。しかし、今となっては「消費」も何も与えてくれることはない。それが単なる差異の反復、朝三暮四だってことにはみんな気づいたからだ。
と、まあそれはともかく、この作品から感じる気分は、スタイルは別としても、今と大して変わらないような気がしたわけだ。しかし彼らの解決法をそのままもう一度採用することはできなくて、そこでやっぱり「どーしたもんかなぁ」というところに戻ってしまうのであった。
でもきっと、ぐるぐるとそこに止まっているうちに時は過ぎているんだろう。そんなときにはいつも、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と思ってしまうわけで。でもまぁ焦るよりはいいか。「思ってるより先は長いよ」と誰かが言ったのを信じることにしておこう。
■ヘボいエンコーダ使ってンじゃねェぞゴルァ!! 192なのに128より明らかに音が悪いっつのはどういうことだゴルァァァ!!(やり場のない憤り)
エンコーダだけじゃなく音源の問題もあるんだろうけど。
■浅田彰『構造と力』(勁草書房)を衝動買い……これを読んでないのはマズイらしいので。どこの大学の図書館にも常備されてるはずの本だけど、俺の場合、読むのに気合が必要な本に対しては、鉛筆片手に傍線を引きまくりながらでないと読めないというクセがあるため、どうしても買わざるをえないのであった。
ああっ、今月に入ってから本に使った金が、早くも5,000円を超えているッ! バカか俺は……これからさらに『猪木詩集』が届くから……ゲ、ゲフウゥッ(吐血)。
片山まさゆきなら頭にハコがのるし、西原理恵子だったら鼻血を出すでしょう。
■そういえば、猪木の引退メッセージの録音を入手しました。ううう、燃える。
■ファファン、ファファン、ファファ、ファファンファン、ファファファン〜チュ〜チュルチュ〜チュルフンジャラフンジャラフン〜ジャ、ジャジャジュジュジュジュジュジュジュンジャナ、チュルチュ〜チュルクン〜ジャ〜ジャラクン〜ナン、チャンチャラチャンチャンチャン、ハイ!(トラック6イントロ)
ああ、ぜんぶ抜ける〜抜けちゃう〜ゥルルルルルリッヒー!
【くるり】とあったので、急遽併せて椎名林檎『正しい街』をかける。さらなる上京&望郷モードに。したこともないのに。
[……]林檎さんは「正しい街」とくるりの「東京」は同じことを歌っているのではないか、と語っている。[……]
(「QuickJapan」Vol.31 51頁)
■まんさき@DDBの紹介で、shinjyo5.netへ。ヤ、ヤベエ、かっこ良すぎだぞ新庄剛志、いや T.S ! 特に T.S Gallery がたまりません。もうメロメロっスYO! ちょっと京本政樹なんだね、いま気づいたけど。京本政樹も微妙だが、 T.S はさらに微妙カモ(何が?)。
[……]スパイは、どのような状況下であれ、他者の言葉から二重、三重の意味を読みとらねばならず、相手が味方であってもそれを怠ってはならない。[……]そして、スパイは特異な存在である自己を社会においては常に平凡な存在として仮構していなくてはならず、同時にその特異な才能を発揮しつづけてもいなければならない。つまりスパイは自分が他者の眼にどう映っているのかという問いをくり返し発動させ、そこで得た回答を幾度も吟味しておく必要がある。だから優秀なスパイとは、より多くの眼と耳、もしくは複数の意識を、絶えず連動させつつバランスよく統御し得る者だといえる。[……](87頁)これは「高踏塾」の指導者である「マサキ」が塾生に対して「スパイ」となるべく指導する際の言葉なのだが、この言葉はそれだけにとどまらず、作品全体の基調を表している。主人公の「オヌマ」は、常に他人の言葉を深読みし、想像力を働かせ、その一方で「平凡な自分」を仮構しつづける中で、疲弊していく。しかし、自分が狂っているのか、騙されているのか、それとも相手が狂っているのか、あるいは自分が正しいのか、はじめから正常なのか、それらに結論を出すことは最後まで、永遠にできない。たとえ安心を得られたと思っても、またそこには新たな疑うべき情報がもたらされる。情報は、望むと望まざるとに関わらず、常に更新されなければならない。あるネットワークに流れる情報の総量があるレベルを超え、個人の処理能力では全体を把握することができなくなるとき、個人には断片化された情報から全体を想像する能力が必要となる。しかし、そこで待っているのは永遠のペンディング、可能性の自己増殖だけなのである。限りなく近づくことはできるとしても、全体そのものと完全に合致することはありえず、常にいくつかの可能性を留保しなければならない。その可能性の先には更なる可能性が、フラクタルのように触手を増やし、延びていく。
■『大日本天狗党絵詞』において、幻術を人に見せつつ自意識を温存する「天狗」であるものと、そうでないものがいて、両者のうち少数派である「天狗」は社会の「外」にいるものだ、と黒田硫黄は言う。それに対して阿部和重は、みんな「スパイ」なのだ、という。「スパイ」でないと思っている者は、ただ無自覚なだけなのだ、と。たしかに「天狗」も、「天狗の国」の建設を目指して革命を起こそうとし、いくらか「天狗」となる(気づく)者も現れはする。しかし、結局それはあえなく自滅の道を辿るのだが。
まあ、「天狗」と「スパイ」の表すものが違うのだ、と言えばそれまでかもしれない。しかし、どちらが正しいのだろう、と考えてしまう。ここで阿部和重は「いや、そもそもみんな元から『天狗』だったのだ」とでも言うのだろうか。あるいは、そうなのかもしれない。いやしかし…………ペンディング。
……そう、ペンディングしかないのだけは確かである。
■飯塚真弓オタクが本人ゆかりの商品をかけて本人の目の前でバトルする、という企画をテレビで見る。それに出てくるオタクは、飯塚真弓という価値によって統一されており、とても幸せそうだった。俺はこれにもなれなかったのだなぁ、と羨ましくなり、劣等感を抱いてみたりする。
■アントニオ猪木『猪木詩集 馬鹿になれ』の注文が、3回目にしてついに通る。むう、eS! Books で2回注文すると重版かかるのだろうか。前にもデュルケムの本を何度か注文したら重版された、ってことがあったんだけど。
■と、思いながら、自分でもよくわからないままなぜかブックマークからやまだないとのページに飛んでみたら、「重版出来」は「じゅうはんしゅったい」と読む、という豆知識が仕入れられてしまった。ずっと「じゅうはんでき」だと思ってたよ。しかも、しっかりATOKが変換しやがるのにムカついた。俺の知らないところで、知らないうちに。くやしいからこんど誰かに自慢してやろう。
「ねぇねぇ、これなんて読む?」「できじゃないの?」「バッカだなぁ、ふふふ」(妄想中)
まるで僕らはエイリアンズ/禁断の実 ほおばっては/月の裏を夢見てという部分に反応してみたりするものの、この歌の文脈上において使われる「エイリアン」とは「ほら、僕らは世界で二人っきりだぜベイベー」と言うためのレトリックだという気もします。彼女に「世界における唯一性を共有しようぜ」と、もう少し翻訳すれば「たとえ世界を敵に回しても、僕はうのたんのことを愛してるよ」と語りかける、みたいな。まあキリンジの表現のほうがいくらかカッコイイわけですが。
■Aphex だの Cocco だのキリンジだの Fatboy Slim だの Fantastic Plastic Machine だの Hot Butter "Pop Corn" だの、節操なく音楽を回しています。情緒が不安定になると音楽に走るのはいつものクセなんですが、今までその期間はだいたい1ヶ月くらいでおさまっていたところが、今回はかなり長引いてます。もう3ヶ月くらいに。
でも、最近は Fatboy Slim や FPM や小西康陽などの、中でも特に軽めのラインナップがもっとも体に合うようになってきており、そのへんから自己診断するに、徐々に快方へと向かってはいる模様。
いや、快方といっても情緒の良し悪しなんて決められやしないので、「安定期に向かっている」というくらいのもんでしょうか。
春は吉外の増える時期、という昔からの通説がありますが、僕にとってはわりと安定した時期であることが多いようです。