■この忙しいのに、マウスのホイールの動きをセンサーに伝えるための軸が、折れた。この、忙しいのに。
そしたら、ものすごいストレスが。うう、ホイールがないだけなのに……もうホイールなしでは生きられない日本の私。ホイールごときに。
■白黒の話。
で、まぁ「黒から見る」ほうはそこそこいけるのですが、「白から見る」という視点が弱めであり、また増強が必要であるとも思われ。
意志ですか。意志。しかし、相反する意志の相克が。ぐるぐると渦巻く白と黒が。インヤンが。果たして、この均衡はいつ崩れ、どちらが生き残るのか。神のみそ汁。
■たとえば、白地に黒を入れるなど、色を対比させると、人間の目から見た場合、実際の物理的な明るさよりも、その違いが際立って見える。物理的に同じ色であったとしても、対比されている色が違えば、異なる色に見えてしまう。
黒いものからは、白いものがより白く。白いものからは、黒いものがより黒く。さらにひどいことに、人間の目は、白と黒の境目に、実際は存在しない輪郭線をも見てしまう。つまり、両者が接している部分は、もうひときわ白く/黒く見えてしまう。これを「マッハ現象」という。
■明るいところにいるとき、目は、明るい状態に適応しようとする。明るいところから、急に暗いところへ移動すると、しばらくは目が慣れず、何も見えない。だがしばらくすると、目が暗さに対応し、周りが、まずはぼんやりと、そして次第にはっきりと、見えてくる。夜に急に停電になったとき(停電はいつも急なのだが)など、このような状態に陥る(朝、雨戸を開けたときなど、逆もまた然り)。
■対比の構造は、相手をより良く見ることができ、わかりやすいものである。だが、それは時に、あまりにはっきりしすぎる。その対比ばかりに目を奪われ、細部が取りこぼされることがある。そして、その「取りこぼし」は、同じ色/明るさからでないと、見ることができない。つまり、こうも言えるのだ。白からは、白いものがより白く、黒からは、黒いものがより黒く。白から見た黒と、黒から見た黒は、同じものではない。
黒からしか見ることのできない、黒もある。
■そして、白と黒との両方を、つまり白から見た黒と、黒から見た白と、白から見た白と、黒から見た黒、それらすべてを、「より」良く見ることは、とてもとても難しい。ひとまず、不可能ではない、と思いたいのだが、しかしとても難しいことだ。むー。
■EGO-WRAPPIN'『満ち汐のロマンス』を買う。
■石井總亙監督『逆噴射家族』旧ジャケ版ビデオをゲットしたものの、ビデオが微妙に壊れ状態のため見られない。うぐぅ(あっ)。
■「これが俺なんダー!!」とか言ってる人は笑ってあげてもいい、と書きましたが、中には笑ってあげなくても良い例もあります。それは、他者からの影響をきちんと自覚しつつ、「それが俺なんダー!!」と主張する人ですね。
しかしまぁ、他者にもいろいろあって、特に親からの影響なんて「生まれつき」とほとんど変わらないようなもんなので、あまり不用意に笑っちゃいけないかも。
けど、それが他人からのものであることを、きちんと自覚できてる人と、無自覚なまま「自分」だと思ってる人とでは、自覚してる(しようとしてる)ほうが偉いと思うんですよ。ってことを言いたかったんです。
でも、「それが、オレだから……」とか真顔で言い切れる人は、逆に向こう側まで突き抜けていてイイかんじもします。
■しかし、昨日のはもっと他のことをいいたかったような気が……なんか結論の方向が違ってます。でも修正はしないのです。めんどいから。またいずれってことで。
■あああああ、BSマンガ夜話「キン肉マン」見逃したあぁ。つーか、知ったのが終わったあとだった。
■「自己」の内に、「他者」は積層されてゆく。このことは、新しい社会に触れたとき、特に大事になってきます。
若いうちは、「他者」の層が薄いため、常に新しいものを求め、それに重きを置く傾向にあるでしょう。新しく出会うものを、素晴らしいと思いがちであるわけです。そして、ある程度、自己が積層されると、人間は保守的になってゆきます。ある程度の年齢になり、以前の経験が堆積し、その堆積されたものが価値を保ち続けている場合、なかなか新しいものの価値(=新しい「他者」)を受け容れることができなくなってきます。
この、時間とともに新しいものを受け容れられなくなってゆく理由は、いろいろと説明が可能でしょうが、ひとまず、一般的にこのような傾向があることは間違いないでしょう。以前の価値によって、現在の価値判断は影響を受けているのです。だから、「今時の若者は……」という愚痴も永遠になくならないのです。
■しかし、インストールできる価値があるならば、まだいいのです。最近は、近年稀に見る「価値」の無い状況であるように思われます。「無い」というよりも、「なんでもアリ」の「ありすぎ」な状況が続いているというべきでしょうか(支配的であった価値が、急に無くなったため、その反動が大きいだけで、一時的なものなのかもしれませんが)。
で、その煽りをくって、私のように、「全部オッケー」とか言いながら、結局「どれでもない」という相対主義の蟻地獄にはまり込むタイプも、増殖しているようです。
「そんなの、○○すりゃいいじゃん」と言うやつは、わかってません。できてりゃ苦しんでないっつの。そんな人に会うと、いつも相対主義の無間地獄をチラッと見せてあげることにしています。たいていの人は、怖くなって引いちゃうみたいですけどね、イッヒッヒ。
いま、ある規範に身を置いている人も、実際のところ、その価値を絶対に信頼している人は、以前よりだいぶ少ないはずです。
■こういった、規範のない状況においては、より一般的な「わかりやすい」価値へと、人の興味が集中しがちです。「権威」「金」などなどですね。
これはつまり、一発逆転のチャンスが減っていくことを意味します。社会調査によれば、ここ数年は「階層の固定化」が進行しているのだそうです。つまり、単純に言えば、「金持ちの子は金持ちに」という状況が進んでいるんですね。
それを良いと思うか、悪いと思うかは、また別の話ですが(というより、金持ちは喜ぶし、他は「ふざけんな」と思う、という単純な話)。
■ヘーゲルさんは書きました。「ミネルヴァの梟は立ち初める黄昏とともに飛翔する」(『法の哲学』)。観察者が「○○○とは、つまり▲▲▲ということである」と言えるのは、全てが終わりつつあるときだけだ、というような意味だそうです。
いま、じんわりと状況が見えつつあるということは、その状況が終わりつつあるということを意味するのでしょう。じっくりとではありますが、少しずつ変化が始まっているのは、認めざるを得ない部分があります。
さて、この流れを注意深く観察するのは、いま必要なことでしょう。しかし、その流れに乗るべきか否かは、まだ判断できません――つまり、遅れてはいけないが、流されてもいけない。
このありがちな結論は、現在の状況を色濃く表していると言えるでしょう。そこに表れるのは、「どちらにも/どこにも居られない」という、相対主義的な現状です。
でもいつか、必ず「動くべきとき」が訪れることを、信じてはいるのです。胡散臭いとは思いながら、信じては。今度こそ、ミネルヴァの梟が飛び立つ前に。
■上で使われている、「ありのままの自分」というのは、「生まれついての」という意味ではありません。「私の欲望は他者の欲望である」なのです。詳しくは説明しないけど。ていうか、する力もない。要するに、身体的なこと以外に、「生まれついて」なんて何もないはずなんです。
しかし、「ありのままの自分」がありえないかというと、そうでもない気がします。それはつまり、以前の他者とのつながりの中でインストールされた、欲望だとか価値だとかが、現在の他者によるそれと異なっているということなんでしょう。
要するに、適応できてないってことです。
■しかし、いつでも、何にでも適応すれば良いのかというと、そんなことはないはずなんです。それは常に、以前の価値と現在の価値とを比較し、検討する必要があるはずで。
ですが、「以前」と「現在」の価値を比較する際に必要となる価値基準、つまり一段上にあるメタな価値基準は、どこにあるんでしょうか。それがまた難しいのです。というよりも、おそらく、それは「ない」のです。
この、「ない」ことが厄介なのです。どんな価値であろうとも、どれも無価値化していってしまいます。そして、どこに身を寄せることもできず、漂うことしかできなくなってしまうのです。
しかしそれは、人間が歩んできた、そしてこれからも歩むであろう歴史と、どうも近いような気もします。「ない」からこそ、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。あるいは、その「ない」ことだけが、唯一の「価値」(と呼べるなら)でしかないような。
このように考えられなければいいのですが、どう考えてもそうなってしまうのです。
■えー、読んでない本を紹介するのは、無責任だと言われてもしょうがないんですが、「面白そうな本」くらいの意識で、買ったけどまだ読んでない本を紹介してみます。今日の文脈で書くのが良さそうな本なので。
石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書253)は、受験「現代文」の問題をあれこれする本(なんせ読んでないもんで)です。
この本は、大学受験国語の参考書の形をとった教養書である。あるいは、教養書の形をとった大学受験国語の参考書である。さっき書いた、「私の欲望は他者の欲望である」というのも、この本から借りてきたものです。
(7頁、「はじめに」より)
■あーでも、疎外感は強まるかも。いやでも、「ウソ臭いなー」と思ってることが本当にウソなんだ、ってことがわかります。
■ちなみに、「私」が一番最初に出会う他者とは、両親なり、それに類する人々であるはずなんです。こいつがまた厄介で、手を焼くんです。
■理想的なかたちを求めるな。偶然の幸運に対応できる備えを。
ジャッキーはいつだって、その場に落ちてるモノを武器に使うじゃないか。でもジャッキーが戦う場所って、やたら棒と椅子が落ちてるんだよな。
■『恋の門』3巻が読みたいです。読みたいです。読みたいです♪(また?)
って、すぐ出るんじゃん! うぎゃあ。そういうことは、ちゃんとWebで告知してもらわないと困ります。
■しかしなぁ……ここで学ぶべきことが、そういうことであるというのなら、やはり俺は、他へと目を移さざるを得ないのカモ、と思われ。まぁ、それ「だけ」ではないのも、また確かであろう、と思われ。思いたい。いや、メインでない部分では、学ぶことがいくらでもあって。
……なんだか、いつもいつも順番が逆になる。フライングというか。それで戻ったりとか。
■ブルース・リーの有名なインタビューから、さらに超有名な一節を(全文はこちら)。
I said, empty your mind, be formless, shapeless, like water.
Now, you put water into a cup, it becomes the cup.
You put water into a bottle, it becomes the bottle.
You put it in a teapot, it becomes the teapot.
Now, water can flow, or it can crash!
Be water, my friend.
(Interview with Bruce Lee ―― THE PIERRE BURTON SHOW)
心を空にしなさい……決まった形のない、水のように。この教えは以前から知っていたのですが、今、妙に響きます。この教えは、猪木先生の「馬鹿になれ」にも通じるものがあるような気がします。
そう、水をカップに入れれば、カップの形になる。
瓶に入れれば、瓶の形に、ティーポットに入れれば、ティーポットの形に。
水は、流れることもできるし、壊れることすらできる!
水になりなさい、友よ……。
(テキトー訳)
ジャッキー・チェン自らが……小説並みに波瀾万丈な数々の出来事をユーモアたっぷりに語る。「ユーモアたっぷりたっぷりぷりぷりぷり……」(エコー)。そうです、これなんですよ。アオリといい表紙といい、この絶妙なヌケ具合こそが、ジャッキーなんですよ。やっぱ、ジャッキーなんですよ。
■夜、まんさき@DDBより電話。fra-foa『小さなひかり。』(TOY'S FACTORY)について話し合う。
夜の風に響く声に怯えた「そっと髪を撫でる」他者の登場、「小さくひかりが、見えた」こと。今までは一人称に「僕」が使われていたのが、今回は「わたし」になっている点など、着目すべき重要なポイントを確認。
そっと髪を撫でるあなたが、いた。
小さくひかりが 見えた
■これが、戦略的な変化ではないことを願いたいものだけど、でもジャケットがさぁ……いや! これぞエンターテインメント也、ということにして、なんとか納得しようとしてみる。
■ジャイアンツの清原選手は、スランプ状態から、大量のウェイト・トレーニングを含む特別メニューをこなして復活しました。当時、『プレイボーイ』のインタビューで、「復活」の理由を尋ねられた清原選手は、「遠くに飛ばさなくちゃ、と妙に力んでいたのだが、以前より力がついたんだから、今まで以上に力を抜いて打っても、遠くに飛ぶんじゃないかと思って……」みたいなことを言っていました。俺も、そんなかんじを心がけるべきなのかもしれません。
しかし、過信するのもマズイわけです。……「過信せず力を抜く」という境地が難しいんだろうなぁ。
でも、ひとまず過信してみて、ダメだったらまた考えればいいのか?
■"bedroom"というキーワードをHOTBOTで検索して、ここにたどりついたあなたへ。もう二度とここへは立ち寄られないことでしょうが、あなたの期待に応えられなくてごめんなさい。Sorry for the short of my ability.
単にインテリアをお探しであったなら、私の杞憂に終わるのですが、私としては、あなたの下半身が欲求不満に陥っていないかどうかだけが気がかりなのです。私が、透き通る白い肌をしたロシアの女性であったなら、と悔やまれてなりません。
■「KDDI、ツーカーとDDIポケットについて重大発表!」(携帯24)だって。
auについてはKDDIのコア事業として推進していく。……うげげげげ〜。たしかに、俺のまわりの、学生かつ非ドコモユーザーどもが、軒並みauにしてるしな〜(「ひと月3,000円いかなかった」というコメントを聞いたときはびびったけど)。H"はやっぱりベータみたいな末路を辿るのか。
DDIポケットについては、ノンコア事業という位置づけがなされた。2002年3月中にPHSをデータ通信に特化させ、経営のスリム化をはかるという。
■そういえば、引きこもってる人数も、75〜77年世代がいちばん多いんだとか。どーゆうことなんですかねえ、これ。
■最近、アホみたいに本ばっか読んでいる。「そいつぁちょっとマズイのでは?」と自分でも思ったりもするが、他にすることもないのでいいかなぁと思った。
でも、頭のなかでいろいろなもんがぐちゃぐちゃになってる。要デフラグかも。つーか、何を読んでも同じことが繰り返されてるだけのような気がする。
あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。っていうのと関係あるんでしょうか。ご両親がクリスチャンだったりするのかもしれませんね。
(マタイによる福音書 第5章13節)
■ブックオフ、本を売るならブックオフ。それは、俺を疎ましく思う組織が計画的に設置を続けている、俺のための陥穽である。最近、特にその設営ペースが早い。組織の中で、俺が危険であるという認識が強まり、また新たな対策予算が組まれたのだろう。狙われるのも楽じゃない。
14冊はただでさえ重いのだったが、今回の最大の罠は、『ソフィーの世界』ハードカバー版、100円。購入後、電車に乗り、右手はつり革、左腕に13冊+『ソフィーの世界』の入ったビニール袋をかけていた(本を読むため)。すると、瞬く間に「ためらい傷」のような跡がつきやがったので、やむなく読書を断念。
■あー(またか)、
■日記フォーマット統一のため、Perlスクリプトを作成中。そのうち、ここで使えるようにします。範囲を指定したり、降順/昇順も自由自在に閲覧できるようにしたいところ。
■しかし、そもそもなぜ「ナルシシズム/ナルシスト」なんていう呼び方をするんでしょうか。そこを確認しておきましょう。
この言葉は、ギリシャ神話のエピソードを元にして生まれたものです。あるところに、ナルキッソス(Narkissos)という美少年がいたのですが、ある日、彼は湖面に映った自分の姿に恋をしてしまい、ついにはその恋心のあまり、死んでしまうのです(ここには「同性愛は罪である」という暗黙の前提があります。その意識を共同体に植え付けるためのエピソードなんですね)。で、その後ナルキッソスは水仙の花になったんだそうな(英語では、水仙のことを "narcissi" ともいいます。仏語も似たようなものらしい)。
……悲劇のヒーローに見えないこともありませんが、それよりむしろ、バカですね。「ナルシスト」は、他人から見るとしばしば「バカっぽい」ものですが、元の元からしてバカだったわけです。しょうがないですね。今度、水仙を見かけたら、バカにしてやりましょう。
■今度は、学問とのつながりです。最初に「ナルシシズム/ナルシスト」という言葉を学問体系に取り入れたのは、エリス(Henry Havelock Ellis)というおっさんだそうです。この人は、「性科学」を創始した人です。その一方で、奥さんがレズビアンだったり、変態的な性癖があったりもしました。やっぱりろくでなしだったんですね(日本の誇る変態学者、高橋鐵ともつながりそうです)。
西洋では、ある人間の行動様式に新しく言葉を与えようとするとき、ギリシャ神話だの聖書だの、シェイクスピアの著作だのから、キャラクター名を引いてくることを好みます。しかし、単なる知識自慢というわけではありません。西洋では、普通のひとでも、子供の頃からそういった著作に親しんでいるらしく、いわば「常識」であり、「ナルシシズム/ナルシスト」という術語も、彼らにとっては「わかりやすい」ものなんですね。
■しかし、西洋文化圏ではなく、あまつさえ極東の島国に住む我々にとっては、そんなの常識でもなんでもありません。日本では、聖書はともかく、ギリシャ神話だのシェイクスピアだのが置いてある家は、尋常じゃありません。あるいは見栄です。少なくとも、「一般に親しみがある」ってことはないでしょう。
ならば、私たちはここで、「ナルシシズム/ナルシスト」に、新たな言葉を与えねばなりません(長いフリだったなオイ)。私たちに親しみのあるもの、それは「少年マンガ」。
力石徹 モードいくつかチョイスしてみました。基準は「なんとなく」。ただ、「自己愛」よりは「悲劇のヒーロー」や「自己犠牲」を優先しました(例:日向小次郎<三杉純、ラオウ<トキ)。
不動明 モード
トキ モード
三杉純 モード
フェニックス一輝 モード
流川楓 モード
ロビンマスク モード
ビッグ・ザ・ブドー モード
三面拳 モード
■くるぶしさんのページが、やたらオモロイ。で、それを昨日まで知らなかったというのはマズイ。
■しかしそれにしても、読みたいものが限界以上にあるというのはストレスが溜まります。しかも、読みたいものばかりであればまだいいのですが、見たいものやら聴きたいものやら食いたいものやら触りたいものが、見れる聴ける食える触れる以上にあるというのは、一体どーゆうことなのか。世の中どうなってるのか。というわけで、世の科学者はすぐさま『攻殻機動隊』な世界を実現すれ! 脳味噌にプラグをぷすっと刺したらそのままインプットできるようにすれ! そうなると素晴らしい。
と思わせながらも、そうなったらなったで、今度は脳味噌プラグインの限界以上のものを求めてしまうのだろう、なんて思ったりして。結局のところ、この欠乏状態は解消され得ぬものなんですよ。これが、資本主義に汚れっちまった悲しみってもんですよ。下部構造でのたうちまわるんですよ。重力に魂を縛られるしかないんですよ。いや、「縛られてる」というネガティブな認識が、そもそもの原因なのか。
どうか神様、「下部構造サイコー! 大オッケー!」と、思えますように。ここで「重力に魂を縛られた連中に何がわかる!」という台詞を吐くのは、最大の誤りなのです。吐きたくても、吐いてはいけないのです。猪木先生の教えを、ここにまで拡張しましょう――「馬鹿になれ」。
■次の段落で、『蟲師』のネタバレがあります。楽しみにしつつも未読な方は、ご注意ください。
■というわけで、今回の漆原友紀『蟲師』第七話「露を吸う群」(アフタヌーン シーズン増刊 Summer Vol.7/講談社)も、そんなお話でした(わりと偶然)。
今回は、人間に寄生する「蟲」の話。その「蟲」は、一世代の寿命が一日しかなく、その日のうちに、人間の体内で子を産んでは死んでいく。さらに、「蟲」は自らの体内時間を、寄生した宿主のそれとシンクロさせ、宿主は「蟲」が「一生を送る」一日を、毎日体験することになる。宿主にとっては、毎日が「一生」の反復であり、毎日が新しい日々なのである。
一日一日しかし、「生き神」であった「あこや」は、「蟲」を失い、「人間」へと戻らされる。
一刻一刻が
息をのむほど 新しくて
何かを 考えようとしても 追いつかないくらい
いつも
心の中がいっぱい だったの……
…… 何だか…… 不安で たまらないのそして、「あこや」は再び「生き神」として生きる道を選んでしまう……。
……生き神 だった頃は
陽が暮れて 衰え始めて 眠りにつく時
――いつも とても満たされた 気持ちで 目を 閉じられたのに
今は…… 恐ろしいの
目が覚めても ただ 昨日までの 現実の続きが 待っている
目の前に 広がる
あてどない
膨大な時間に 足がすくむ……
■そういえば、本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』(中公新書1087)を買ったはずなのだが、読んでないまま行方不明中。
■ああ、昨日は大人計画『マシーン日記』の一般発売開始日だったんじゃないか! と気づくが早いか、ぴあチェック→eplusチェック→ローソンダッシュのチェーンコンボを繰り出すも、すべて販売終了。ガクシ。
先行販売のとき、なぜきちんと買っておかなかったのか……まぁいいや、浮いたチケット代でなんか買うか……。ちなみに、『悪霊 ―下女の恋―』はしっかりゲットしてるんですけどね。
■CGをメインに据えたCMが増えたけど、最近では、エビアンとJINRO(眞露)のがお気に入りです。動かなそうなものが動くとおもしろい。
■カール・マルクス曰く、「下部構造(生産関係、経済)は上部構造(観念、政治etc)を規定する」んだそうですよ。くるぶしさんの「よい子の下部構造」(thought.ne.jp@冬弓社)によれば、「下部構造」は「下半身」のことでもあるんだって、ポッ。
ていうか、俺の上部構造は下部構造の欠落により危機に瀕しているわけですよ。って、変に深読みしてもらうと困るんだけど、要するに金がないってことなんですよ。あー、A.S.ローマから移籍の話が来ないかなー。
■ところで、「よい子の下部構造」を読んでたら、「あれ? ガンダムってマルクス主義なんすか?」と思ったりした。で、ちょっと調べてみたら、もしかしてこのつながりって、わりと基本知識ですか。そうですか。最近、かなりガンダムシリーズが見たまっていたのですが、さらに見たまる。
亜血亜くん曰く、「初心者は、初代に関しては映画版だけでもかまわん」とのことなので、なるべく早めに見ていきたい。でも、先立つ下部構造がね……。
完ぺきなイタリア語で討論に参加していた中田は将来の夢について尋ねられると迷わずこう答えた。あ、ちょっとシンパシー。学年同じだし。日記書かせても、やたら長いし。……もしかして、オレたち似たもの同士?!
「大学に行きたいね」
■ちなみに、ヒデ(早くもアダ名で)が現在最優先する「スクデット」について。
スクデット(SCUDETTO)とは、イタリア語で「小さな楯形のもの」を表す。優勝チームは次のシーズン、ユニフォームの胸にイタリア国旗をデザインしたスクデットをつけられるため、優勝することをスクデットと呼ぶ。単なる「優勝」ってわけではないんですね。
(DAHLIAさんのページより)
■さらにちなみに、「ローマ 中田」をGoogleで検索すると、一番最初にヒットするのは「ローマ中田吉彦医院」。ローマ市内の西、ヴァチカン市国の傍で開業されているそうです。これで、イタリア旅行中に病気になっても安心ですね!
■自分の自分に対する要求が、実現不可能であるなら、その要求を譲歩するしか道はないと思うのですが、しかしその「譲歩」とは、どのように譲歩するべきなのか……あるいは、それは「譲歩」ですらなく、単に「幼さ」という無駄なものを捨てるだけであるかもしれないのです。しかしそれは同時に、確かに「譲歩」でもあるのです。そのとき私は、二つの場所に同時に立っているような気になるのです。
そして、私はどちらの自分がマシだと思っているのか。それがまた、問題なのです。
■小此木啓吾『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析 パーソナリティそのミクロな狂い』(大和書房)読了(文庫版もあります)。
あまりに私的すぎて、ここには書けないような問題が、少しだけ先に進みました。己を鑑みてみたとき、特に気にかかるのは、「回避型」「依存型」「シゾイド型」、そして「エディプス・コンプレックス」といったキーワードです。できれば、「エディプス・コンプレックス」を自分の問題として考えたくなかったのですが、しかし避けては通れないのかもしれません。やっぱり、フロイトは面白い。
自分や周りが、クリアに見えてくると思います。すべての人が、読んで面白いのではないかと。
■本から張られているリンクは、「bk1」につながっています。ブリーダープログラムに登録してみました。
■新しい枕との相性が、抜群の予感。よく眠れます。首の下に入れるだけの、ものすごく小さなもので、中にはチェリーの実が詰まってるらしい。
■この日記は、(内容のわりには)けっこう時間をかけて書いてたりするのですが、それは主に深夜の時間を利用して、というか深夜でないと書けなかったりします。ですが、学校の時間割の関係で、あまり夜更かしできなくなり、最近は思ったように時間がとれずにいます。やっぱり俺って夜型なのね、と再認識。
だから、「サボってんじゃねえ」とか「キレがイマイチ」とか「つまんねえ」とか、言われること自体はリアクションがあってうれしいんですが(まだ言われてないけどさ)、そのような事態があるとすれば、上のような事情があるのです。
俺としても、ストレスたまってたりして。
■ドリームランドが休みだったので、仕方なく未舗装路面でブレーキターンしてみたら、おもしろかった。つーか、滑り出した瞬間に、『デイトナUSA』や『セガラリー』や『スカッドレース』で培った感覚がよみがえり、それほど慌てずに、カウンターあててる自分がいた。ゲームおそるべし。
■[2001.4.26]にひきつづき、もう一度、中島義道『孤独について』(文春新書005)から。
私の「孤独城」がさまざまな仕掛けをもった難攻不落のものとなってゆくにつれて、私は意図的に城の外に出てみる。つまり、私は城の外の他人に何も本当に何も期待しないのだから、彼らに寛大になり、数ヶ月に一度くらいはいろいろな集まりに出かける。その主要目的は、他人を観察すること、いわば「取材」であり、もう一つはこんなに孤独を満喫している自分に少しばかり自責の念があるので、あえて自分を苦しめるため、いや抵抗力をつけるため、いやあらためて孤独のよさを実感するためである。だから、たいへん気楽であり、その場が楽しくてもよく、苦しくてもよい。いつまでもそこに居てもいいし、ただちにそこを去ってもいい。みんなから好かれてもいいし、みんなから嫌われてもいい。予定通り吐きたくなるほど不愉快であれば、また孤独っていいなあと再確認できるわけであるし、思いがけず愉快であっても、もう絶対に「他人っていいなあ」と思わないので(ああ、このことだけは自信がついてしまった!)、さっさと元の孤独に舞い戻ることができるのである。この境地に至れるか否かが、最大の難関であると言えよう。至らなければ至らないで、それはオッケーなのであるが、しかし「至ってしまう」可能性も大きいわけで。
(172頁、強調は引用者による)
■その後、バーミヤンで中華を喰らいつつ、「『攻殻機動隊』→『マトリックス』と来て、これ以上『サイバースペースもの』に道は残されているか?」とか、「演出する側の意図と、見る側の解釈とのギャップは、どこまで譲歩するべきか?」といった話をする。
議題の前者に関しては、「今後は、現実に近づく方向と、まったくのファンタジーに向かう方向の、二極に分かれていくのではないか」という結論に。
■うーん、書きたいことはたくさんあるし、考えたり書いたりする時間もあるような気がするのだが、思考をまとめ、書ききるまでのモチベーションとエナジーが足りない。そいつらを引き出すのは、けっこう大変なんだよね。基本的には「待ち」の姿勢しかないのだが(金でももらえるってんなら別だけどね)。
最近また、半歩ほど「じわっ」と先に進んだ気がするのだが、なぜ思考に向かえないのだろう。
……もしや、これが老化なのだろうか(プププーッ)。
■ってか、最近読んでいる数冊の本から、答えを得てしまっているからかもしれない。
本に限らず、何かインプットされるもの(会話やテレビや雑誌などなど、広い意味での「メディア」からの情報)には、「なにか引っかかる」ものと、そのまま通り抜けていくものがある。「引っかかる」ものは、俺の内部で「問い」の種となるか、そうでなければ「答え」となる(そのうち、9割くらいが「問い」である)。
インプットされたものから「問い」が発生すると、それに対して「答え」を編み出そうとする。アウトプットされるのは、その「問い」自体、あるいは「問い」への「答え」を模索するのに必要な場合である。
だが、インプットされたものが、それ以前の「問い」に対する「答え」になっていた場合、そのインプット自体がアウトプットと等価なのであるから、俺がそのままアウトプットする必要は特になくなる。
「『じわっ』と先に進んだ感覚」は、その「答え」を得られたという感覚に他ならないのだが、今回はそれが、本という「外部」から得られた(とても珍しい)。だから、動機も活力も消えているのかもしれない。
■「答え」といっても、それさえあれば終わりというわけでもなく、また次の「問い」の土壌となってしまうわけなんだけど、まだ次に移るところまで行ってないのかもしれない。
■他にも理由は考えられる。誰かに見てもらう可能性のあるものを書くということは、つまりそれが「知ってもらいたいこと」だということになる。でも、必ずしも「知ってもらいたいこと」ばかり考えているとは限らない。だから、現在の俺は、何も考えていないわけでもないが、たまたま考えていることが「知ってもらいたいこと」ではない、というだけかもしれない。
どっちでもあるけど、むしろこっちが強いのかな。
■つーか、「動機」について現在と比較しているのが、今年の1月〜3月あたりなんだけど、それはあの頃が特に異常だっただけかも。
■入不二基義『相対主義の極北』(春秋社)読了。最も印象に残ったのは、以下の部分。
「ルイス・キャロルのパラドクス」に登場するのは、アキレスと亀。「『PならばQ』という規則があり、さらに『P』なので『Q』と言うことができる」という推論をアキレスが説明しても、亀は納得しない。その亀を説得しようとするアキレスは、「『PならばQ』という規則があって、さらに『P』であれば、『Q』ということができる。そして、『P』であるから、『Q』」……と、PからQに至るプロセスを、ノートに書き続ける。しかし、それでは永遠に亀を説得することができない。そして、ノートの紙幅が尽きるか、亀とアキレスの物語を語るものが語ることをやめれば、不意に「終わり」がやってくる。
しかしもちろん、「外からの不意打ち」はパラドクスの「解決」なのではない。いったん亀が露わにしてしまった「隙間」は、つねにすでに飛び越えられてしまっているが、埋まらないままである。パラドクスは、通り過ぎられてしまうことはあっても、「解決」はされない。「納得しない者」だけに見ることができる、見てしまう、見ざるをえない「断絶」がある。だが、その先には「答え」もまた、「つねにすでに」用意されている。「問い」を発すると同時に、「答え」もまた、「つねにすでに」目の前にある。「答え」がなければ、「問い」も「断絶」も現れることがなく、そこには何もないだけだ。すなわち、「断絶」は「つねにすでに飛び越えられている」のである。
(111頁、第4章第7節より)