Sometimes life can be such a wild ride.力強い、詞が、曲が。
I don't let that worry me at all.
I try to keep my eyes on the highway.
Just grab that handle, don't let go!
I want to learn what life has to show me.
I want to see and hear everything.
I want to find the spice and meaning.
Just grab that handle, don't let go!
私の不幸は、その理由を説明するのが恐ろしく難しいことにあった。私は五体満足で、身体のどの部分も医学的にはまったく健康であった。ルネのような深刻な分裂病患者でもなかった。心身ともに普通の意味では至極正常なのである。しかし、あらゆるところで躓いてしまう。普通の子供なら簡単に飛び越えられるはずの他人の言葉や視線が、眼前にそびえる高い塀になってしまう。他人の視線や言葉を越えようともがけばもがくほど、その視線や言葉が私をがんじがらめにしばってしまう。
このメカニズムを、私は誰にも説明できなかった。……
(77頁より、強調部分は実際には傍点)
私はこうした「悩み」を抱え、はち切れそうになって少年時代を過ごしたのだ。それは、本当に独特の意味で辛いものであった。私が医学的に公認された(身体的あるいは精神的)「患者」であったなら、近親相姦の結果できた子供であったなら、殺される瀬戸際までいじめられていたなら、たしかに辛かったであろう。しかし、私の悩みはこうした「深刻で崇高な悩み」ではなかった。だから、誰も相手にしてくれなかったのだ。私の悩みは矮小で、些細で、暗く、陰気なものである。だから、誰も真剣に取りあげてくれなかったのだ。よく作家などの伝記で、母に幼少のころ死に別れ、愛情に飢えて育ち、兄が優秀であったためグレて……などという説明を読むたびに、こうした「小綺麗な」悩みはにせものくさいなあと思う。私が抱えていた陰湿で矮小な悩みこそ、リアルな悩みなのだと思う。
(78-79頁より、強調部分は実際には傍点)
……人間嫌いな人とはじつは自分が嫌いな人なのである。他人との関係にある自分が嫌いなのだ。他人と一緒にいると、他人の虚栄心や傲慢や卑劣も狡さも誤魔化しもすべて見通せる。それは汚物を目の前に突きつけられたように嫌で嫌でたまらない。だが、それにも増して嫌なのは、たえず警戒し、虚栄心に翻弄され、高慢でしかも小心翼々としていて狡く陰険な自分なのだ。こうして、他人と一緒にいたあとで楽しいことはほとんどない。反省すべきことが山のように襲ってきて、冷や汗が出るのである。「理由はよくわからないが、どうしてもできない」ことがあるとする。そして、もしそれがどうでもいい、自分にとって価値のないことであるのならば、それを捨ててしまえば終わりである。しかし、「どうしてもできない」自分に我慢ならない場合、そこで選ぶべき道は一つしかない(それが「何気ないこと」である場合、ことさら問題なのだ)。それは、「どうしてもできない」行為をしっかりと見つめ、なぜそれを行う必要があるのか、なぜ自分はそれに躓いてしまうのか、躓かずに行うにはどうしたらよいのか、を考え、学び、後天的に身につける以外に方法はない。「できない」理由はわからなくとも、それを考える以外に道はないのだ。
つまり、あなたは自分を含めた人間が嫌いなのだ。……
(178頁)
現在韓国からの猛烈なサーバアタックに対して対策を講じておりますが、サーバアタック……最近多いなぁ。迷惑な話だ。
CGIサーバの場合、ユーザプログラムが自由に動かせる為に難航しております。
復旧の見通しですがもうしばらくかかる見込みです。
ご不便をおかけいたしまして誠に申し訳ございません。
■解り合えないことを受け容れるのが怖ければ、それに対する方法は大きく2極に分かれるはずだ。
一つは、リスクを分散する方法。こちらは無神論者であり、千人斬りを達成する。そしてもう一つは、信じる方法。こちらは狂信者であり、幻想に実体を見るストーカーである。
その両極の中間地点には、暗く奥深い砂地獄が用意されている。
反復強迫 何の快感も得られないのに、過去のつらい体験や状況を繰り返し再現しようとする無意識の衝動のこと。……『EUREKA ユリイカ』の「違うバス」もまた、これなのかもしれない。
■スーパーやコンビニで、ジュース一本だけ買うと、代金を払った証拠として、そのお店のロゴが入ったシールを貼ってくれるけど、今日もローソンで「DAKARA」(サントリー)を1本買ったら、ラベル部分にローソンのシールを貼ってくれた。そうしたら、色がハマっていてちょっと気分がいい。「DAKARA」1本買うなら、ローソンがオススメですよ。
■今日という休日の俺の行動を、表象的に、客観的に、冷静に、内面に踏み込むことなく、叙述してみる。
午前、起床。朝食。読書。…………隠居?
午後、昼食。洗車。テレビ(総裁選)見ながら夕食。テレビ(巨人vs横浜→ラブストーリー→堂本兄弟)。日記。ネット。就寝。
■その友人のモチベーションの源泉は、高校時代に赤松健『AIが止まらない!』(講談社)を読んで「カッコイイ!」と思ったことなんだそうだ。脱力。
でも、「社会的正義を実現するために……」とか「国民の意思を正確に……」のように大仰な理由よりも、そういう個人的なきっかけのほうが、しばしば強い意志として働く、というのはよくわかる気がする。
■さっそく、学校で無線LANをテスト。かなり快調で、サイバーなカンジ。サイバー感を味わうと、つい顔がニヤついてしまい、友人に気味悪がられたりする。
■ホンダの、アシモと少女が一緒に踊るTVCMと、ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いを楽しむ人の……」のラジオCMが、最近のお気に入りです。アシモのやつはそれほど「最近」のでもないか。
■横浜駅でサラリーマンの渦に飲まれる。「これだけの人が経済っつうのを回してるのか」と思った瞬間、気持ち悪くなった。脳味噌のキャパシティを超えたものを想像しようとすると、吐きそうにならない?
■佐藤雅彦の講義には、落ちてしまいました。実技以外にペーパーのテストもあったんだけど、大問3問のうち、1問目では「解答例を3〜5つ書け」という設問に対して2つしか書けず、さらに2問目が、よりによって数学or物理の選択。で、それは致し方なく無回答。
そんな状況から、実技で逆転を狙ったものの、逆転ならず。ガク。なんだかめっきり「試験」に弱くなっている模様で、凹み気味に。
■日記らしく、「夢」のことでも書いてみましょう。この「夢」とは、「将来の夢=ドリーム」ではなく、「寝てるときに見る夢=ナイトメア」のほうです。
よく見る夢があります。歩くことはできるけれども、それを困難と感じるほどの重い荷物を背負った状態で、急な坂を上るというものです。現実に自宅の前が急な坂なので、たいていはそこを上っているという状況になるのですが、家まであと30mくらいのところで、どうにも進むことができなくなり、倒れてしまいます。そこから、匍匐前進してでも進もうとするのですがやっぱり進めず、ただもがいているうちに目が覚める、ということが多いです。ていうか必ず進めなくなります。
最近は夢自体をあまり見ない(覚えてない?)のですが、この夢だけは昔から、断続的にではありますが、ずっと見続けています。この夢を見るといつも、「我ながら、なんとわかりやすい」なんて思うんですけどね。
全部オレのもんだ/孤独も/苦痛も/不安も/後悔もといっても、この後ハチマキはタナベに「負け」てしまうのですが。誰でもきっと最後には「負け」てしまう(あるいは「負け」たいと願っている)のでしょうが、でも、こうやって「張る」でもしないと進めない状況というのは、やっぱりあって。ハチマキみたいに明確な目標でもあれば、なおいいんでしょうけどね。
もったいなくて/タナベなんかに/やれるかってんだよ
■価値の共有があり得ない場であっても、意味や価値を持ちうるコミュニケーションは、あり得るのでしょうか。それとも、「オヤジギャグ」的な、薄っぺらい「共有」にすがりつくしかないのでしょうか。あるいは、「未来日記」や「あいのり」的な、作られた「物語」を「共有しているフリをする」ことしかできないのでしょうか。「スタンダードなきコミュニケーション」はあり得ないのか。
もし、スタンダードは必要だが、いま目前の関係においてそれが無いとするならば、どうすれば……「薄っぺらい基盤」以外にも、「『スタンダードが無い』こと自体を共有する」とか、「スタンダードを作っていく」といったコミュニケーションの方法は考えられるのですが、そのためには、ある程度の自覚と能力が必要であり、現状ではなかなか難しいかもしれません(それを克服するには、社会が「自覚する」ことが必要であり、それはすなわち「新しいスタンダード」である、という転倒が……というのは置いておこう)。
今現在、「スタンダードが無い」とは認識していない場合が多いわけで、そういう人はとても幸せに見えてしまいます。認識していないということは、つまり、その人の周囲に「スタンダード(らしきもの)」が存在しているということだからです。しかし、それがミクロなものであることには、おそらく気づいていない人が多いような気がします。いや、気づかないように、認識しないように心がけているのでしょう。至極まともな防衛機制です。
自らの「スタンダード」の外側に接近し、触れそうになったとき、その人の「スタンダード」が壊れないように、唱える「呪文」があります。
それって、人それぞれだよねー。この「呪文」が登場したときは、その場のコミュニケーション基盤が危機的状況にあると思って間違いないでしょう。多くの場合、ほぼ無意識に発話されるため、まさに呪術的な力を感じます(コメントできない状況に陥っているという自覚はあるだろうけど)。ここ最近は、特に出現頻度が高まっていると思われます。「普通」を執拗に確認しようとする作業が行われがちなのも、同じ問題から発生しているものだと思われます。
■1年前までは、一度言葉を交わした瞬間に、最低でも5手は先を読まなければならないような、あるいは、そのやりとりに使用された引用元を瞬時に検索し、その文脈を読みとらなくてはならないような、そういうコミュニケーションばかりをしていたわけです。それは、常にある種の訓練と警戒を怠ることができない状態であり、真剣勝負でもあったわけです。
ひるがえって、今、さっぱりわかりません。この「5手先モード」あるいは「検索モード」を必要としないコミュニケーションって、どうやるの? マジで。いや、適当に言っておくと場が収まるからいいんだけどさぁ。で、一体どのへんが楽しいのかねチミたちは? ……と、ここを見ている、「5手先モード」や「検索モード」をしっかり装備したあなたに言ってもしょうがないのですが。
■小畑建『ヒカルの碁』は、塔矢名人と左為がネット碁でガチンコバトル中。燃えます。
■しげの秀一『頭文字D』では、ニューマシンが登場して盛り上がってます。ていうかニューマシンの車種は予想通りでした。つっても、「それしか残ってないよな」ってカンジなんだけどね。唯一出てなかった車だし。あ、あと、ついにイツキのハチゴーにターボがついたらしい。
■ううう、日記書いたり掲示板に書いたり「alt-ctrl-del」のネタ(?)を考えたりするヒマがない〜。まぁひとまずあと1週間で多少落ちつくのかもしれないけど。
■せっかくこのまえビデオいっぱい買ったのに、いきなりデッキのほうが不調。30秒ごとに、トラッキングが乱れたような砂嵐が表示されちゃう。最初はテープの不良かと思ったんだけど、問題なかったテープに替えてみても同現象が再現。
デッキなんか買う余裕ないっつーの。
■と思ったが、午後になってみたらデッキの調子が回復したようなので、『勝手にしやがれ!! 強奪計画』と『〜 逆転計画』を見てみる。
このシリーズ、『寅さん』なんだよね、実は。ポスト『寅さん』として、延々と続けてくってのはどうだろう。『釣りバカ』よりはよっぽど『寅さん』テイスト持ってるよ。
あ、でも人が死ぬからダメか。でも、そのへんはなんとかするとして。いやでも、人が死んでも底抜けに明るいところがいいんだしなぁ。
■春学期が始まって一週間が過ぎた。そこそこ楽しい。そう、「そこそこ楽しい」のだ。そして、最大の罠もまたそこにある。「そこそこ楽し」んでいると、ふとした瞬間に襲ってくる、最大級の「楽しくなさ」。おそらく、この先にも確実に襲ってくるであろう「楽しくなさ」をどう捌くかが、課題であると思われる。
■恵まれた環境にいる人間は、見ていて面白くないことが多い。たとえば、FLASHを使えても教科書(ていうかimagedive)通りのアニメーションしか作れないやつとか、既にある考え方を、まる覚えしてくり返しているだけのやつなどなど、目の前に既に用意されたものを意図された通りに使うばかりであって、頭をひねって思いがけないことを発明したりするやつは、極端に少ない。「このゲームにそんな遊び方が!」とか「このソフトをそうやって使うか普通?!」とか、そういった驚きは、本当に少ない(ゼロではないが)。つまり、「乾き」が足りないのである。「必要は発明の母」であり、その「必要」こそが「乾き」なのである。
「予想を覆された驚き」に出会う機会は、むしろ以前のほうが格段に多かったと思う。それは、「乾いている」人間がそれだけ多かったということであり、逆に現在は格段に少ないということを意味しているのだろう。
■「そこそこ楽しい」ことに潜む罠とは、「意外性」へのモチベーションを消し去るところにある。用意されたところへ落とし込めばそこそこ楽しいのだから、それ以上頭を回す必要はない。
とはいっても、「そこそこ楽し」むことが悪いとは言いづらい部分もある。それでうまくいっているならば、それでいいのだろう。「そこそこ楽しい」くらいで満足できるならば、それは幸せなことだろうし、「そこそこ」のものが求められる機会は、むしろそれを超えるものを求められる機会より多いかもしれない。「そこそこ」を超えるには、時間や労力がかかる場合も多いからだ。
しかし、「そこそこ」の限界というものも確かにあるのではないか。「そこそこ」しか生み出すことができなくなり、周囲がすべて「そこそこ」で満たされたとき、「そこそこ」への不満は徐々に沈殿してくるはずだ。そして、「そこそこ」を超えるものが登場したとき、それまで周囲を満たしていた「そこそこ」は、「超えるもの」の登場をお膳立てしていたとしか見えなくなってしまう。
■少なくとも、誰かを成長させようとする意図がある場合、「乾き」を与えようとしないのは危険であると言えるだろう。かといって、何も与えないわけにもいかない。そして、成長させられる側も、「乾き」を感じようとしないのはやはり危険であると思う。ただし、その「乾き」があまりにキツいのならば、「そこそこ楽しい」ことに希望を見出すべきかもしれない。
この両者のバランスは、どのように保たれるのか。供給する側は「与え」ながら「乾き」を誘発し、受ける側は「乾き」ながらも疲れてはならない。与える量と求める量、そのバランスが大事なのは、経済と変わらないのだろう。うむむむむむ。
■「つまらないものしかできてこない」という問題に関連して、SFCに限って言えば、「忙しさ」がネガティブに作用しているという部分もあると思う。一つのものに、十分な時間を割くのが難しいんだよね。
それでもなんとかするのが本当の「能力」だ……といえば、そうなのかもしれないけど、でもそれだって限界がありそうだ。が、SFCはその限界を超えているか? と言われると……うむむむむむむむむ。
■長い時間かけて、本当に通算5年=43,800時間くらいかけて、ずっと「どういう状況の場合、人はどう動くか」ということばかりを考え続けてきた。それは、まずありうる状況を考えて、人をそれにあてはめながらシミュレートしていく場合もあれば、ある結果がまずあって、それはなぜそうなったのかを考えていく場合もあったけど、とにかくそんなことを延々とくり返してきた。「ありうる状況」や、「人はどう動くのか」のサンプルを採集するのにかかった時間を加えれば、ほぼ「全人生」みたいな話になってくる。
そのおかげで苦しくなったりすることもあるわけだけど、でもそれだけ時間をかけてきたということは、やっぱり必要なことだったんだろう、とも思うわけで。
なんとかその蓄積を生かせないものか、と思っているわけです。まぁ本当に役に立つのかどうかもわからないわけだけど、その真価も知りたいしね。むむむむむ。
■"Study or Die" と知れ、心に刻め。そうすることしかできないんだったら。あがけ俺。
■「どこでなにしようと私たちの勝手でしょ? 携帯空間 Fun! Car! Go!」って、ぜったいカーセックス需要にアピールしようとしてるよな。今までも、そういう需要にアピールしようとしてなかったわけではないんだろうけど、それにしても「抜群の居住空間」とか、そういう婉曲な表現を使っていたわけだが、しかしここまで直な表現を使うようになったってことは、それなりに車産業もせっぱつまっていることの表れなのかもしれない。
脚本には「どこでナニしようと私たちの勝手でしょ?」と、ちゃんと書いてあったかもしれない、マジで。
"If you tell the truth, you don't have to remember anything." ―― Mark Twain深い。
「本当のことを話していれば、何も覚えておかなくてよい」 ―― マーク・トゥエイン
■しかし、マーク・トゥエインが、その「嘘」にまつわる複雑な事情をすべて理解していたと、さらに仮定してみる。本当のことを話せれば一番いいし、嘘をつかなくていいように生きられれば最高なんだけど、でも本当のことはやっぱり話せなくて、嘘だってつかなくちゃならなくなることはあるし、嘘をついてから本当のことを話すのは怖いから、やっぱり嘘をついておこうかなー、と人間は思いがちである。
が、しかし、だからこそ、「本当のことを話」すのがこのようにとても複雑であるからこそ、「告白」という言葉には、さらに妖艶な魅力が宿る。とても複雑な回路の中をぐるぐる回って、途切れそうになったりしながらも、最後にたどり着く「ピーク」。あるいは、複雑な過程で圧縮され、空気が抜けそうになりながら、それでも最高にまで圧縮されたとき、こちらを誘惑しているもの、それこそが「告白」なのである。
■「告白」をテーマにした物語はたくさんあるし(というかまず現実において「劇的」)、小説家であるマーク・トゥエインも、そういう魅力を理解していたと見たほうが自然だろう。とすれば、彼はやっぱり「嘘」の後にある「告白」の素晴らしさを語ってるのかな。
でも、彼が代表作「トム・ソーヤー」シリーズで「少年」を描いた理由のうちに、「素朴さ」や「正直さ」への憧れがあったなら、「嘘をつく必要のない生き方」を、つまり最初から「告白」が必要にならないように生きることを薦めてるんだろうか。
と、ここまで来て、この言葉が本当に深いと思うのは、そのどちらかというわけではなく、圧縮された「告白」を薦めてもいるし、はじめから嘘をつかなくてもよい「正直さ」を薦めてもいるところだ。つまり、「告白」が魅力的であることの先に、「正直さ」への憧れがある。そしてすべての発端には、「嘘」の複雑さがある。「嘘」の、仕方なさと苦労がまずあって、それが「告白」を魅力的にして、さらにその先に「正直さ」という理想が生まれる。実は、すべて同じことから始まってたわけだ。
■だから、「話せる」んだったら魅力は無いし、「正直さ」にも憧れない。で、結局は「言えないのである」(VA. キートン山田)に戻ってくる。あぁ、また終わらない回路を動き回るんだな。
と、いくら考えても結局は進めずに疲れていたりすると、そこへマーク・トゥエインが妙に楽しそうな笑顔で近づいてきて、後ろから「ぼそっ」と
"If you tell the truth, you don't have to remember anything."と言いやがる気がするんだな、確信犯で。実は、相当イヤな親父だったのかもしれない。まぁそれも俺好みではあるけど。
「本当のことを話していれば、何も覚えておかなくてよい」
■依願退職希望者の募集に社員が殺到。ブーム来ましたよ。スキルアップブームですよ。
■どうしてもPentium4のCMを見てしまう。つーかこのシリーズいいよね。
■今日の75〜77年生まれのコーナーは、この人もそうだった、本上まなみさん(最新情報はここ)。
最近は「陰陽師」ですか。
■紺碧の空を背負って満開の桜。「入学式」がフラッシュバック。「五月病」の種子は俺の身体の奥深く、一番やわらかい急所に、深々と突き刺さる。桜は好きなので、嫌いになりたくないんだけど。ベートーベンをバックに、強制的にビデオを見続けさせられたアレックス君(@時計仕掛けのオレンジ)の気持ちがわかるような。
■最近、某K女子大のレベルが落ちてきた気がする。2〜3年前はかなりの上昇率を示していたんだけどなぁ。それもバブルか……って、なんでも「バブル」にしちゃうのは良くないね。
「何のレベルだ」って? そりゃあ桜ですよ、桜の「咲き具合」に決まってるじゃないですか。
■テンションを上げていかないと保たないため、学校にいるときの俺は変なテンションである。いやー、できれば何も言わなくてもいいほうがいいんですけどね、自分としては。
■新学期に向けて、OSの再インストールのためのバックアップ作業に入っているので、更新が滞りがちになるかも。しばしお待ちください。またしばらくすると、精神的に追いつめられる(ていうか自分で追いつめることになる)予定でおりますので、楽しんで(?)いただけるかと思っております。
■まったく脈絡なく、新しく思いついた定番シャレ。「炊飯ジャーで炊飯じゃ!」。これをオープンソース・シャレとして、ここに公開します。GPL準拠。存分に流行らせてよし。「布団が吹っ飛んだ」の対抗馬として。シャレの神に愛されてるって怖いよ、まったく。
■ウチの母親は、なかなかに信心深い。しかし、そこは俺の母親だけあって、というか普通かもだけど、詐欺宗教に金を貢ぐようなことはない。それでも日本人らしく、神やら仏やら先祖やらまじないやらを素朴に信じていたりはする。
今朝も忙しそうにいろんなものに手を合わせているので、「信じるものがあっていいねぇ」(本心)と言ったら、「信じる者は救われる」という台詞が返ってきた。
しかし、おそらくそれはそうじゃなくて、「信じるものがある時点で救われている」、あるいは「信じることができる時点で救われている」のだと思う。おそらくそうしているほうがラクなんだろう。