■ June 2001
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30 SAT
『ファイトTV24』で、ガチンコ講師軍団と、不良少年たちがトークバトル。しかし最後には、講師陣と少年たちがまったりと歩み寄ってオワリ。なんじゃそりゃ。もっと激しいルサンチマンはないのんかオマエら。
 しかし現実に、日本の堅固な保守層を担っているのは、日本各地の元不良少年・少女たちなのであろう。不良少年・少女たちは成長し、各地の共同体にしっかりと根をはって、夜な夜な「いまどきの若いもんは……」と、同世代の仲間と愚痴をたれあっているわけだ。
 そもそも、「ヤンキー文化」というものは、地域共同体を基盤とした世代的秩序の上で、しっかりと受け継がれているものである。共同体を否定してもいないし、世代的な秩序/権力関係を否定してもいないのだ。つまり、彼らは、既成の文化に身を寄せることができる、さらに言えば、身を寄せるのが大好きな人々なのである。既成のもの(「大人」)を否定する既成のもの(「ヤンキー」)でオッケーなのである。「否定するもの」を肯定してしまっているのである。
 不徹底。それじゃあ説得もされる。やっぱり大人は強いのである。
 でも、徹底するよりぜんぜん正解なんだよね。助けて! ルサンチマン!

あ、「大人」を否定してるんじゃないです。大人がいいこと言ってたり、自分たちのこと認めてくれるだけで説得されちゃう「子供」にムカついてるのね。ものわかり良すぎ。
 まぁ、わからなすぎるのもウザイのだが。どっちやねん。いや、つまんなかったんですよ、とにかく。もちろん、議論によって互いが歩み寄ることは、当人たちにとっては充実感もあるのだろうし、日常的な話し合いの場では目指されるべきことであるとは思う。けど、それはひとまずテレビ向きではないと思った。『朝生』の確信犯的な白熱ぶりは、やっぱエンターテインメントとして必要なのである。議論の上では問題もある、タナカマキコやスズキムネヲも、テレビを意識していると考えた場合、非の打ち所なく素晴らしい。

28 THU
レインの詩のごとく、関係性の奥深くへ分け入る必要性を感じる。しかし、そのためには、全身をマジックミラーで覆わねばならない。マジックミラーの中はとても孤独で、しかし周りには孤独でない(少なくとも外面上はそうであり、本人もそう思っている)人々がひしめくわけであるから、それはそれで重労働だ。
 マジックミラーを装備しなければ、関係性を紐解く作業はできない。マジックミラーを除去することは、関係性に完全にからめ取られることを意味するからだ。いや、そもそもそのマジックミラーを取り去ることなど、私にできるはずもないのではあるが。
 ひとつ補足説明をするならば、ここでいう「マジックミラー」とは、他者と主体の狭間にある徹底的な断絶、つまり認識の限界といったような、基本的なレベルのものではない。そうではなく、もう一つ上の(メタな)レベルにある(と思われる)断絶のことだ。
 マジックミラーに映し出される他者自身の像を、他者は様々な思いをもって眺め、私はそれを観察する。だが、その全身に装着されたマジックミラーも、完全に主体を覆い隠せるわけではない。すきまから主体は漏れだし、他者は侵入する。漏れを止めようともがいても、すきまを完全に完全に塞ぐことは不可能なのだが、しかしその漏れはいつも、不安定で不確定な要素を生ぜしめ、しかるべき時間投資を行って均衡させたものに、揺さぶりをかける。
 ……その、すきまなのだ、様々な〈事件〉を引き起こしているのは。

ここ数日、日記の電波指数が高まっているのは、レポートに追いつめられながらも何も手を着けていない状態にさらに追いつめられているからです。そうすると電波受信状態になるのです。脳味噌のジョグダイヤルがぐりぐり回って、チャネルがシンクロしはじめるのでするれびしあぼすべてはフリーメーソンの陰謀陰謀陰棒陰陰謀棒陰謀陰謀陰陰棒謀棒謀謀謀

27 WED
今日も生き延びてこの報告を記すことができたことを、神に感謝するとともに、あなたにも感謝を捧げておこう。
 また作戦が一段階進行した。某日本最大手企業により大学に寄贈された建築物への進入に成功したのである。
 ここの設備はすばらしい。筆舌に尽くしがたいものがある。キッチン・シャワー・仮眠室が完備され、そこに投入される予算・設備は、想像を絶する。
 某最新規格の某端末にも触れることができた。といっても、これを持っている人はすでに数千人いるのであるが。

ああ、違う違う。私が行うべき活動は、そのようなものではなかったはずだ。スパイする対象が違っている。違うんだ。そうじゃないんだよボブ。いやボブなんていなかった。違うんだよジョゼフィン。いや、ジョゼフィンもいなかったな。誰がいるんだっけ。いや、誰もいない。そうじゃないんだ。
 私がスパイすべき対象とは、たとえば、レインの言う「彼ら」のような人々のことだ。

彼らは面白がっていない。
彼らが面白がらないと、私は面白がることができない。
彼らに面白がらせることができれば、そのときには私も彼らといっしょに面白がることができる。
彼らに面白がらせるのは面白いことではない。それは辛い仕事だ。
彼らが面白がっていないわけを見つけだして面白がることができるのかもしれないのだが。
私のたてまえとしては、彼らが面白がっていないわけを解き明かして面白がったりはしない、ということになっている。
しかし、彼らが面白がっていないわけを見つけだして面白がっているのではない、というふりを彼らにしてみせるなら、いくらか面白くなることだってあるのだ。

(R. D. レイン『結ぼれ』)
 レインは鋭すぎです。怖いほど。

とある場所に代打日記を書いたのですが、最初から最後までボケ通してしまったために、代打日記なんだか何なんだかわからなくなってしまいました。が、いちおうリンクしておこうかな。これです。

26 TUE
何かを隠しつつ、隠していることを明かしてしまうのは、それをまったく隠していないことに、限りなく近い。本当に何かを隠すのならば、それを隠していることまでも、隠し通さなくてはならない。隠すとは、本来そういうことだ。そして、隠していることを隠し通せないのは、端的に、弱さに由来するのだと思う。本当に強ければ、隠していることすら悟らせないはずだからだ。
 例えば、この文章なども良い例である。何ら具体的な場に降り立つことなく、中空に浮かんだまま、ふらふらと彷徨いつづけるばかりだ。さながら、地雷原の上で、地面に沿って一定距離を保ちながら動かされ、ピーピーと電子音を響かせている、金属探知器のようである。探知機は、地雷がそこにあることを、大きな音で知らせてくれる。

それでも、隠しながら、隠していることを知らせようとしてしまうのは、それが暴かれるのを、どこかで望んでいるからかもしれない。地雷は、爆発してこそ、その使命を全うすることができるのだ。だが、地雷は、爆発の瞬間まで、決して自分が埋まっている場所を知られてはならない。爆発の前に発見されてしまえば、彼の使命が果たされる可能性は、無に等しくなる。
 しかし、地雷にはジレンマがある。事前に発見されてはならない。が、それでも地雷は、踏まれなければならない。最終的には、発見されなければならない。敵がその真上に歩を下ろす、最後の最後まで発見されてはならないが、しかし、敵に自分の存在を、爆発という手段によって、後悔とともに、徹底的に思い知らせなくてはならない。つまり、地雷は、自分の位置を知られたがらないが、しかし、知らせたがっているのである。
 敵がまだ遠くにいるのに、自分の存在をバラすのは、馬鹿な地雷である。敵がその殺傷距離に接近するまで、耐えていることができないのだ。「ここには地雷が埋まっています、僕はあなたの足を吹き飛ばしますから、はやく踏んでください!」という台詞は、単なるギャグにしか聞こえない。地雷としては失格である。
 だが、敵の接近までの間には、限りなく退屈な、長い時間が横たわっている。

言うまでもないが、地雷は兵器である。地雷は爆発する。しかも、地雷は、標的の生命を奪うことを目的としたものではない。その場で標的の生命を奪うことはせず、しかし軽傷ではすまないダメージを与え、標的を介護するために数人の手が必要となるような、そんな状態に陥れることを目的として設計される。地雷とは、非常に質の悪い兵器である。
 敵が接近するまでの長い時間を堪え忍び、さらに幸運にも、敵に踏まれ、その使命を果たすことができる地雷は、しかし敵を重傷に陥れねばならない。
 地雷の存在はつねに、敵の存在が前提されている。敵の存在が想定されていない地雷は、そもそも地雷ですらない。だが、地雷の大きな二つの目的のうち、一方は果たせるが、他方は果たすことができない地雷というものも、やはり存在する。それは、地雷処理班に発見され、人に被害を与えることなく、遠隔操作で信管を作動させられ、爆破処理されるものだ。
 爆発することはできるが、敵を重傷に陥れるという、最大の目的を果たさぬままの地雷。彼は果たして、幸せなのだろうか。敵を傷つけることを望まず、爆発だけを望む地雷など、ありうるのだろうか。

23 SAT
オランダはフェイエノールトに移籍することが確実らしい、と話題になっている小野伸二(浦和レッズ)。彼の顔は、Jリーグデビュー当時に比べると、ずいぶん精悍になっており、彼が厳しい環境をくぐり抜け、着実に成長してきたことを雄弁に物語っています。
 が、それはそれとして、その顔をふと冷静に眺めていると、どうしても「出○信者」という言葉が頭をよぎるのです。その坊主頭、無精ヒゲ、そして半開きの眼。かなり成就してます。ステージ駆け登ってます。
 いや、小野伸二は何をしたわけでもなく、そのように見えてしまう俺が悪いのであって、本当に申し訳ないと思ってしまうのですが、それにしてもそれにしても。ああ。
 ていうか、それが何であれ、何かを達成した人の顔というのは、似てくるものなのかも(ナイスフォローだべ?)。

ぎゃあ! ノートPC(ちょっとカバーが割れてる)の中にアリが! きゃあきゃあ! 巣にされちゃうゥゥ!
 と思ったらすぐ出てきた。

三たび、岡北有由『わたし』について。この局の、3分過ぎたあたりからのサビの部分は、こんなかんじで歌われています。

でもわたしは こんな
単純だけど 複雑なやつを
わかってあげてるつもり……
わかって……わかって……
わかって……あげてる……つもり。
 この、《わかってあげてるつもり》の後につづく、《わかって》三連発が、微妙にニヤリとさせられるポイントである気がします。気をつけていないと気づかないのですが(現に俺は今日まで気づかず)。
 つまり、この《わかって》三連発だけを抜き出して解釈すれば、それは他者への語りかけともなりうる、ということなのです。しかし一方で、《わかって》を繰り返す前と、その後に、《あげてる》を、さらに《つもり》までもつけて、自分への語りかけという解釈可能性を、おそらくは意図的に残しているあたりが、非常に可愛らしい。
 でも、どう聴いても、《わかって》がいちばん強調されているのです。そして、《よく笑うし声もでかい》んだけど、《でも そっと泣くの》よね。独りでそっと泣くんです。……健気です。好感。
 いや、勝手な解釈なんですけどね。意図してないかもしれません。

そして、ボニーピンク『Thinking of you』も聴いているのです。やっぱオトナ。っていうか、この人の詩の変遷をたどると、成長の跡がかいま見えるような気がして、面白いです。でも、通底してるのは、そのオトナな感覚をかもし出す、「諦め」のような感覚カモ。
 岡北有由は、どことなく「抵抗」を試みている感があるのですが、一方のボニーさんは「抵抗」なんかしないで、一度きちんと、かなり徹底的に「諦め」てしまう。そして、いちばん底に立った状態から、何かを探そうとしはじめて、それで見つかったものだけを歌っていると思うのです。
 んー、やっぱボニーさんのほうが深いカモ(まぁ「巧い」だけなのかもしれないけど)。九鬼周造も「諦念」が「いき」であるための重要な要素だって言ってたしな。あきらめれ。
 ていうか、二人の年齢差・経験等々を考えれば、そういった違いがあるのもあたりまえなのかな。しかしボニーピンクは、幼稚園の頃の自分を持ってきたりとか、《さみしいときは「さみしいよ」って歌》う、なんてことは、今も昔も決してしないはずで。そのへんが俺好みなのかもしれない。岡北有由の直截さが、それとは別の意味で魅力的でありうるのは、もちろん言うまでもないが。

22 FRI
おねがい。今日の日記において、「WASP」みたいな、いわゆるステレオタイプな「人種問題」のことを語るつもりはありません。そのことを念頭に、お読みいただきたいと思います(もしかしたら演繹できるかもしれないけど)。ただ、ある種の人種問題でもあるのですが。

削り取られていく毎日。黒は白に挟まれたら白くならねばならない。それはルールであり、守らねばならないものとして圧力をかけるのであるが、しかし私の背面は白くなんかないのであって、ひっくり返っても黒であり続けるしかないとなれば、どう対処したらいいのだろう。
 しかし、よく周りを見回してみると、白の中にもいろいろあるようで、黒でいたほうが楽であるにもかかわらずムリヤリ白になってるのだとか、客観的には黒であるにもかかわらず自分を白だと思い込んでるのだとか、黒の上から白を粗雑に塗りたくったの等々、それはもうバラエティ豊かで。

自分は「黒」にいるものと思っていたが、それはそうでもないのかもしれない、と思いはじめてきた。白と黒のどちらの価値をも理解し、しかしそのどちらでもなく、ましてや灰色でもない。灰色とは、その両者が混ざりあってできる中間形態であるが、しかし灰色として「色」を獲得する瞬間、それはすなわち帰属を意味するからだ。
 色さえない。どちらをも理解はするが、どちらをも価値とはしない/できない。白の価値を支持するということは黒の価値を認めないということであり、黒に帰属するということは白を拒否することだ。だがそうではない。ここでこの言葉を使うのが正しいかどうかはわからないが、おそらく止揚/揚棄(アウフヘーベン≒批判的統合)のイメージに近い。どちらでもなく、どちらにも帰属せず/できず、かつそれらを、そのどこでもない、メタな視点から眺めることしかできない。
 「そうして世界は進歩するのだ」と、ヘーゲルは言ったそうだ。しかし、それが本当に「進歩」なのかどうかは、多分に疑わしい。いや、ヘーゲルが、帰属できない状態を止揚/揚棄と呼ぶことを認めるかどうかが、まずわからないのだが。
 しかし、そもそもここはどこなんだ。

「オセロ」(ツクダオリジナル)とは、ものすごくお気楽なゲームだと思えてならない。ただ挟んでしまえば、色は容易に反転するのだから。
 だが、白と黒が勢力を競い合うという構図に視点を移せば、それはまさに現実を反映したモデルとも見えてくる。しかし現実は、オセロのように積極的な勢力拡大は行われない。それらは無意識に、その色など気にされることもなく、ただゆっくりと分かれ、反転し、移動してゆくばかりだ。
 それを、離れた場所から眺めるばかりだ。

21 TUE
しかし、岡北有由の、《感情豊かで》という部分における自画自賛ぶりは、ちょっとアレかとも思うのですが、しかしそのナルシスっぷりも必要であると考えることにしておこう。ってか、「OLヴィジュアル系」のテーマソングになるくらいだからな。

20 WED
なぜこうも、自己言及とは魅力的なのか。永遠に半分になりつづけるとわかっていながら、それでも自らについて自ら語るという作業を延々と続けてしまう。「私を他者としてそこに留めることが重要なのだ」と、誰かが言ってた気もするけど。

というわけで、岡北有由『わたし』をパワープレイ中。すいませんラジオで聴いてボニーピンクと間違えました、でもボニーピンクはこんな直球投げないしなーおかしーなーニューヨーク生活で若返ったのかなーと思っていたら、やっぱり違う人で。
 岡北有由、1980年1月31日生まれ。最近、80年代生まれと交流する機会の多い俺ですが、こういう攻め方するんですね。直球で来る、というのは、若さのゆえばかりではなく、その時代性というか、空気感からしても、なんとなくわかるような気もします。気がするだけだけど。

しかし、他人の「わたし」を見ている人が、その中に「私」を発見して共感する、という構造は、不思議なことである。いや、これこそがもっとも基本的なコミュニケーションなのか。わたしとあなたの合わせ鏡。わたしは鏡に映ったあなたであなたは鏡に映ったわたしであなたとわたしはあなたでわたしでわたしであなたで。たわしであらって。

レポート7本とプレゼン1本なのです。忙しいのです。学校の図書館3階の住人です。図書館内の喫煙室が廃止されたため、タバコを吸うときにはいちいち外まで出なければならず、とても非効率です。しかし、その距離を移動するプロセスは悪いものでもないのですが。あれ、何の話だっけ。とにかく、忙しいのです。

19 TUE
昨日、こんな講演を見に行ってきたのです。学校からそう遠くなかったので。実存系の話をしてました。やっぱウマイわ。

18 MON
ていうか「12モンキーズ」も自己言Qだったのです、なんか。参ってしまいます。そしてこの日記も。そんなんばっかや。ポスト自己言Qー。ムリか。永遠か。

ところで、リアルワールドで私をご存じな方々、私の物言いは、時おり対応に困りますでしょうか、皆様。歯に衣着せぬ物言いとか。うう、薄々わかってはいるのですが、ええ、わかってはいるんですとも。でもですね、アレですね、ううう。
 自己嫌悪ー。――「解説しよう! ゐわんは自己嫌悪で自己改造パワーが増すのだ!」――うりゃー。改造ダー。モールド、削り、モールド、削り、サーフェーサー、削り、サーフェーサー、ポリッシュポリッシュ。
 塗装までいかないー。

街を歩いていたら、「どー考えてもおまえらはキャバクラ同伴だろ」ていう二人が歩いていて、ほほえましいような、微妙な気分に。
 とはいえ、もしかしたら本当の恋人同士なのかもしれませんが、見た目に同伴なものは同伴なのです。みんなも「同伴だ!」て思われないように気をつけましょうね。でんこからのお願いでした(でんこ?)。

17 SUN
最近、大学での人間関係を、年齢をばらさない方向で進めているのは、間違いなのではないかと思いはじめてきました。
 というのも、年齢が3〜6年違うと、知識の量や範囲もけっこう違います。しかし、相手は「ほぼ同年齢」という前提のもとにこちらと交流します。すると、知識面でプライドを持っているタイプからは遠回りに敵意(ライバル心)を表されたり、プライドを持ってないタイプはびびって引いてしまったりするのですね。どっちもウザいわけです。
 で、そういった問題に対して、「年齢差」という理由を導入すれば、少しはクッション効果が生まれるのではないかと思ったのです。もちろん、この「異者性」が年齢だけに起因しているわけではないのも明らかですが、それでも多少は効果があるんじゃないかと。
 この行動が正しければ、共同体内において同質であるという前提の上で異者となるよりも、異者という前提のもとに共同体に加わるほうが楽である、という結論が導かれることになります。といっても、この結論は他の条件によっても左右されるでしょうし、場合によりけりでもありそうで、普遍性はないでしょうけどね。

さて、来学期に加わった共同体あたりで実験してみようかしら。こういう実験ができるあたりは、グループができては別れ、できては別れる、SFC的構造の利点といえるかもしれません。

こういう実験を考えてると、どうも自分が思い上がっているような気がしてなりません。僕の経歴/学歴と通常のSFC生のそれを突き合わせて、普通に考えたら、明らかに向こうのほうがスマートなわけですし、こっちとしては、むしろ教えてもらいたいこともたくさんあるつもりなのですが。
 ある程度「学校」的条件の外に出た経験があると、「なんでもアリだぞ」という準備をして、つまり「周りは異者ばかりだぞ」という前提で他人に対処する方法が身につくんじゃないかと思ったりします。が、そこはそれ、「学校」的コミュニケーションのフェアウェイを通過してきた人々が中心の社会ですから、なかなか難しいのかもしれません。うう、めんどくさいなぁ。

大学教育を受ける前に、いったん社会に出して働かせるべきだ、という主張は誰か言ってたっけ。そういう方法もアリかも。
 といっても、必ず「現場」を経験させられる警察キャリアの汚職はなくならないしなぁ。やっぱカリキュラムでどうにかなるもんじゃなくて、個人の問題なのかな。あるいは、その「現場」に問題があるとして、システムを改善すれば、また良い効果があるかもしれない。
 って、汚職と人間関係は違いますな。

話は変わって。
 いわゆる「トレンディドラマ」はめったに見ないんだけど、なんか見てみた。そうしたら、この種のドラマがどこで勝負しているのかがわかった。
 つまり、この種のドラマは、オチがどうなるのか、ある数パターンにおさまる。それは、もはやお約束である。つまり、脚本家や監督は、オチで勝負していない、することができない(あくまでたいていの場合)。だから、オチではなく、そのオチに至るまでの過程をどう見せるか、という部分で勝負している(あくまでたいていの場合)。この構造は、「トレンディドラマ」だけでなく、最後に必ず主人公が勝つ「ヒーローもの」や、どんなことがあろうとどんなストーリーだろうと必ず濡れ場があるエロマンガ(あるいはハリウッド映画)にも見られる構造だ(ちなみに、「水戸黄門」における由美かおるの入浴シーンは、ストーリー的必然性とは関係が薄いため、この例にはあてはまらない)。
 と、考えてみると、世の人々の多くが支持する作品というのは、次のようなものになる。オチはだいたい予想できるが、それまでの過程がどうなるかわからない、という類のもの。つまり、「このオチどーなるの?」って類の話のほうが少数派なのである。おお、これはけっこうびっくりの結論カモ。わかってたのかもしれないが、しっかり確認したことなかった。
 つまりだ、オチなんて、どうでもいいのではないか(しつこいがたいていの場合)。そういえば、落語の「サゲ」も、あまりインパクトのないものが多い。落語だって、「サゲ」までの過程でいかに笑わせるか、あるいは、いかに演技によって人物にリアリティを持たせるかが勝負であり、「サゲ」そのものは、すっきりと、主張しすぎずに引いていくものがほとんどだと思う。
 俺は今まで、かなりオチを重視していた。いわば「オチ主義者」であった。だが、やはりオチを楽しんでいたのはではなく、あくまでオチは前提としながらも、やはりそれは前提でしかなく、そこまでに至る過程を中心として楽しんでいたはずなのだ(これは全体に占めるオチの比率を考えてみても当然のことだ)。
 オチが重要であることは、もちろん否定しない。オチがなければ、物語そのものが成立しない。だが、それはあくまでそれだけのもので、それ以上ではなかったのだ。オチの上に立っている構造物のほうが、より重要な役割を果たしていたのだ。
 今さら気づくなんて。もうストーリーが「構築物」だという考え方もぐらつきつつあるのに(絶滅することはないだろうけど)。

この構造はさらに、「物語」ではない様々なものにまで拡張することが可能だ。たとえば、将棋やチェスや囲碁のようなもの。あるいは、サッカーや野球のような、二チームで行うスポーツでもいい。これらの「オチ」は、「どちらかが勝つ」以外にありえない。というよりも、最初からそういう前提=ルールのもとに行われている。
 だが、勝敗結果だけ知っても、スポーツはひとつも面白くない。もちろん、あるチームのファンであれば、どちらが勝つかということは過程そのものよりも重要なのであろうが、しかし、いかに応援しているチームといえど、楽勝したのでは面白味が半減するだろう。あるいは、負けたといっても、チームがその過程で善戦すれば、十分楽しんだと思えるだろうし、そのチームを祝福する気にもなるというものだ。
 ドラえもんは、のび太のもとへやって来たとき、次のような内容の説明をした。「同じ未来へ連なる過程は無限大にある。(ある一点の)未来を変えることなく、その過程を違うものにすることはできるんだ」と。
 このような構造を持つものを、広義の「物語」と称することができるかもしれない。そして、物語は、ある限定された「オチ」を目指しながら、それまでに無限の過程を有している。
 というわけでみなさん、私は今日から「過程主義」に転向します。オチ主義のみなさん、長い間お世話になりました。オチを廃せよ過程を我にー、ザッツ過程主義宣言。

でも、もし「オチがつまんねぇ」とか言っててもゆるしてね。

と、いう文章を書きながら、テリー・ギリアム監督『12モンキーズ』を観た。ていうか、正確には『12モンキーズ』を一時間半観た時点でテレビに切り替えて、北川江史子脚本『ラブストーリー』(TBS)を観ながら上の文を書いた。んで、終わったあと、『12モンキーズ』を最後まで観たわけね。
 「過程主義」の直後に、こういう「オチ主義」的に楽しめる作品を観てしまうと、「過程主義」に転向した心意気も、いきなりグラつきはじめるのであった。やはり完全転向はできそうにないが、とりあえず、「オチ主義」だけでなく、「過程主義」も俺の中で芽生えた、ということなのである。

しかし、『12モンキーズ』も0か1かというオチであることに変わりはないのであって、「オチ主義/過程主義」といっても、くっきりと分けられるものではないのだなぁ、と、風呂に入りながら考えたのだった。

今日は「ローマVSパルマ」を見てからでないと眠れないのです。歴史的一瞬だぜー。優勝すればだけどね。いずれにしても、中田には出てほしいものであります。

と思ったら、これ録画なんじゃん。危うく「2ちゃんねる」で結果知りそうになったぜー。ていうか、結果を臭わす書き込みも見ちゃったぜー。

その「2ちゃんねる」では、しばらく前から、「『暴走族』という呼称を『珍走団』に変えよう」という運動(?)が起こっていました。もともとは「カミナリ族」だったのだから、まだ変わる可能性もあるわけで。
 その運動は、今までも細々と続いていた(このへんで)のですが、とうとう今日、松本人志が「ガキの使い」のトークで、「珍走団」に言及したみたいです(スレ@ニュース速報)。残念ながらその瞬間は見逃したんですが、今後どうなるのか楽しみです。やはり2ちゃんはあなどれません。ここからもし大規模なムーブメントになってくると、現役の皆さんからの反発もあるかもしれませんねぇ。既にあるのかな。

15 FRI
学生と戯れることをその生活の中心と考える学生を目の当たりにするにつけ、まったりと諦めながらも、虎視眈々とオイシイ人脈を漁ろうなどとつい考えてしまう自分の姿がありありと浮かび上がり、やっぱり俺は、それなりに社会を見てきてしまったのだなぁ、なんて、慨嘆すること山の如し。盗んだバイクで行き先も解らぬまま走り出してたあの頃よ、フォーエバー。
 でも、よくよく考えてみたらそんなの元からなかったのです。だいたい家にいたね、15の夜。ツッコまれる前に自分でツッコんでおくのです。それが大人のやり方なのです。汚え。それが大人のやり口かよっ。三村かよっ。

SFCは、「やりたいことがある人にとっては良い大学だよ」てな風に評されることが多いようですが、しかしこの主張には、若干の誤りがあります。より正しい表現にするならば、「学校でやってることをやりたいか、学校でやってることをやりたいと思えたら良い大学だよ」となります。
 大学もやはり社会のひとつですから、ヒエラルキー構造があります。そして、そこにはやはり、ある種のテンプレート、あるいはフィルターが用意されているわけです。つまりですね、ここにおいても「選択肢の選択」があらかじめ行われているわけです(おお、某講義の成果が)。
 だからですね、いかにSFCといえど、そこに「やりたいこと」をそのまま持ち込むことは適わないわけです。それを「自由」と呼ぶことは可能ではあるでしょうが、しかしそのままの形ではいけないのです。そして、そこが「社会」である以上、それは仕方のないことであるわけです。

いろいろと紆余曲折があって、遠くまで来たはずだと思っても、やはり目の前に現れるのは自分なのです。すべての問題が自分に還り、すべては自分になってゆく。決して逃げることはできないのです。
 釈迦如来「我が手のひらから出られれば汝をして天帝にせしむ」と言えば、悟空、くるくる回転しつつ瞬く間に世界の端まで到りしに、そこにありしは肉色をした五本の柱。それを見た悟空、「ここは世界の果てに相違なし」とて、「此に一游到る」と記し小便をひっかけて、「いざ天帝」と如来のもとへ戻りしが、如来の手には「此に一游到る」とあり、いささか小便臭かりけり。(<引用ではありません)
 釈迦如来が自己であるとすれば、釈迦如来の五本の指が変化して五行山となり、悟空を押さえつけるというのはいったい。社会に押しつぶされるのか、それとも自己につぶされるのか。
 相変わらずこの循環から逃れることができません。たまに廻ることに疲れたりもするわけですが、それしかないのでしょうがないのです。
 そして、猿の縛を解く玄奘とは。

つーか、釈迦と悟空のエピソードがなんとなく自己言及的な気がしたので、呉承恩作、小野忍訳『西遊記』(岩波文庫)をちらっと読んでみたわけなんですが、すげえおもしろい。テンポが良くてサクサク読める。

最近、『ガラスの仮面』を読んでこれまたおもしろかったのですが、このごろ定番モノが妙にハマります。展開が容易に想像できるところがいいのです。偉大なるかなマンネリズム。マンネリズムを使いつつ、新しさをかもし出す方法論など考えるのもまた一興。でも読んでるヒマはない。いや、あるのかも。

13 WED
久しぶりに、Fiona Apple『When The Pawn』をかけてみたりする。
 この人の歌の気持ちよさは、おそらく英語でなければ出ないものだと思う。今のロックだとかポップスは、やっぱ英語圏で育まれたんだよな〜なんて思ってみたり(彼女をロックだとかポップスだとかにカテゴライズするのが正しいかどうかは措くとして)。
 日本語でこんな唱法はやっぱり難しいのであって、だから最後だけちょこっと英語にしてみたりするのだろう。
 それでも、桑田佳祐とかはかなり近い気持ちよさをかもし出してる気がするけど、それは例外的であって、全般的に、日本語の歌の気持ちよさは、Fiona Appleの気持ちよさとは違っているような気がする。
 中途半端に終わり(頭に余裕がない……)。

レッツ諦め! 諦めですよ、やっぱり。みんな! がんばるな! 誰も応援してないよ!(©ヨシダプロ
 といわけで、テーマは諦めです。がんばってはいけません。状況が悪くなります。迷惑なんです、だいたいの場合。は〜い、なにもしな〜い。ぶらぶら。「なにもしないことをしてませんか?」<ウゼー。
 でですねお客さま、ここだけの話なんですが、実はこのメッセージ、うまいことオブラーツにくるんでやると、お金がもうかるんですよ。ウケケケ。

つまづいたって
いいじゃ
ないか
にんげん
だもの
み○を(ハンコ)
 ナイス! それよそれ! 諦めることを、「今までがんばってきたんだから」という理由で正当化! 言い訳って甘美だよね〜。そうしてお金が流れこみ、諦めてない出版側がもうかるという構造になっているのです。ほら、たったこれだけで階級が固定化するぞ! わーい!

コンフェデ杯でトルシエの通訳が君が代を歌ってたらしいのですが本当ですか。

12 TUE
気がつくと、他人にアプリケーションの使い方を指導している自分がいたりいなかったり。これはイカン。脱・コンピュータの人。ポストコンピュータリアン。コンピュータの超克。いったいどうしたらいいのか、それ。
 某友人に相談したら、「詩を暗唱せよ」て言われた。ボードレールとか原文で暗唱したらいいのか。じゃあセッティング。憂いを秘めた眼ー。樹の下ー。木漏れ日ー。ハイ朗読朗読。ジュマペー。サバビヤー。
 怖い。

10 SUN
東浩紀が書いているというので、文庫版『インディヴィジュアル・プロジェクション』の解説が読みたいな〜と思っていたら、今日たまたま立ち寄った古本屋に置いてあったので、思わず買ってしまったのであるが、それを読み終わってから、ふとイヤな予感がしたのでネットにつないでチェックしてみたら、やっぱりしっかり「公開原稿たち」のコーナーに掲載されていた。ガク。

09 SAT
「演技可能性」が、常に気になっていた。「演技」あるいは「嘘」の可能性を極力排する努力も、滑稽な形でしてはみた。だが、まず「演技可能性」という考え方は、そもそも「真実」が存在することを前提としている。「真実」があるのかないのか、それが証明されなければならない。
 そして明らかになったこと。どうやら、「真実」を裏づける根拠など、永遠に得られないらしい。「私たち」は、永遠に拡張をつづける有限の存在である。「地平線は、またぎ越すことが原理的に不可能である」(入不二基義)。「真実」は得られず、「嘘」だけが残る。「演技可能性」などではなく、そこにあったのは、「真実の不可能性」だけであった。「不可能」な「真実」を「演技」し続けること、それだけが可能なのである。
 といって、できれば苦労はしないのだが。

しかし、この意味における「嘘」とは違うレベルの嘘も、また存在するような気がする。しかし、それは「誠実」などといった、倫理の領域に踏み込む問題であると思われる。その点は、「嘘」とは別に、もう少し精緻に見極める必要があるかもしれないが、結局のところ、それは「人それぞれ」の砂地獄に取り込まれる問題であるのかもしれないし、他人に語ってどうこうする問題でもないのかもしれない。

阿部和重『アメリカの夜』(講談社文庫)読了。
 むむむむむ、これはなんか、チクチクするなぁ。痛いです。「私小説」、あるいは「自己言及小説」としたほうが、より妥当するのかもしれない。
 俺はもっとじっくりと、この本について、あるいはこの本がテーマにしている類の問題について考えるべきだと思われるのだが、そんなことをしている余裕を与えてくれない学校のカリキュラムと、忙しくなる科目ばかり選択してしまった自分自身に文句を言っておこう。悔しい。疎ましい。
 メモ。「春分の日」的なものと「秋分の日」的なもの、オタク、吉田佐吉と村田藤吉。

08 FRI
鬱が云々[2001.6.6]ていうの、前[2001.5.14-5]にも似たようなこと書きましたね。つっても、引用ばっかでしたが。

テレビブロスの柳下毅一郎の連載「アイちゃん雲に乗る」を読んでたら、根本敬『生きる 村田藤吉寡黙日記 増強版』(青林工藝社)が紹介されてた。こんなのが出てたのね。買わねば……。

わりとよく行く古本屋は、根本敬作品がかなり充実していて、それだけで嬉しくなったりするんだけど、残念ながら、ここんとこ経済状況が芳しくないおかげで、ぜんぜん買えてません。しかし根本作品は、俺以外の誰かに買われてしまうことが、まぁほぼあり得ないというか、仮にあったとしても、それはむしろうれしいくらいの出来事であるため、じっくり行くのです。
 しかし、新品で買えるものは新品で買いたいなぁ、できれば。

今日の75〜77年生まれのコーナーは、「性的人間」で鮮烈なデヴューを飾った脅威の新人(日記系)、カワせんぱい25歳さん。もう、いままでの「性別」という概念を破壊しながら突き進みつつ、しかしまぎれもなく「女性」であるカワせんぱい25歳。ちょっと未来を感じます。「ジェンダー」とか「セクハラ」という言葉が、紙切れのように飛び去っていく。
 違うんですか。彼女こそが前時代的女性だっていうんですかユーセイソー、郵政省。いいんです、おもしろければ。(©カビラ)

Gacktさんが、カウントダウンTVで、「モノマネせよ」てな命令に対して、カイ・シデンのモノマネをしてました。カイ・シデンて。Gackt、おまえもか。オー・ティー・エー・ケー・ユーか。
 で、まぁそのモノマネはどうでもいいんですが、Gacktを見てても思うのは、要するにこの人が「女顔」だってことなんですよ。Gacktに限らず、最近の男タレントなどを見ていても、確実に女顔だと思うんですよ、少なからず。もちろん、そればっかりってわけでもないんですけど。
 それってのは要するに、たとえ女の側から見た場合であっても、女に近い顔に対する需要が高まっているわけです、少なくとも「見る」ことに関しては。つまり、男から見ても女がいいし、女から見ても女がいい。ちょっと待て。ここで求められているのは、女のみであるわけです。男も女も、「女化」することが求められている。……これってなんかキモチ悪くないですか。
 女性の地位向上が叫ばれて久しいし、それが必要なことであったとも、確かに思いますよ。でもねアンタら、そのお題目は「男女平等」だったんじゃありませんかドゥユリメンバ。それがナニ、全部女か。女女女で「姦しい」か。どーなのそこんとこ。「美意識に文句言ってどーすんの」て言いたいのか。んでも、それってやっぱ無関係でもないんじゃないですか、色々と見てみても。ってまぁ、すぐに「変えろ」って言いたいわけじゃないんだけど。きっとムリだし。
 要はまぁ、「なんかキモチ悪い」てことなんですよ。あ、いま「ヒガミだろ」て思ったろ。思ったね。いや思った。

07 THU
あっしァ「わがままキャラ」を前面に押し出しておりやして、まァ、生まれが一人っ子、なんてェこともありゃァすんで、そいつが一等性に合ってる、なんてェことも、まァあるんでェございましょうが、そこは皆様方にいたしましても、ゐわんはわがままだ、てェことで、ぼちぼち認知されていると思うんでェございます。
 が、そんなあっしでも、まぁ時にゃァ柄にもなく、「他人のために」なんてェことを考えるんでごぜぇやして、まァその、ちッたァ頭をこう、ひねくってみたりもすることが、あるんでごぜぇやすが……どォもこいつがうまくいかねえんですなあ。そうして頭をひねってるッてえと、ここんとこ、いつにも増しやして、いッつも自分のことばかしかんげェてたってことが、いまさら身に迫ってくるんでごぜぇやすんで……まァそんなこともありゃァして、そのあたりの切り返しがうまくいかねェんでございましょうか、まァ、なんにいたしましても、慣れねぇことはしねぇってのが、一番でございます……
 「ごめんくださいやし」
 「よォ、八つぁんじゃァねえかい、いってえどォしたってんだい、こんな時分に」
 ……

06 WED
ただでさえ周囲に鬱気味な人が多い私ですが、そんな人々も、この時期は特にその傾向が強まるようで、あまり調子がよろしくないようですね。かくいう私もそんなカンジで、そんなに調子が良くありません。
 そんな時はApex Twin、というわけで Aphex Twin『Richard D. James Album』をかけてみたり。雨のノイズと相性がいいカンジ。

きのう本屋を徘徊していたら、『私は「うつ依存症」の女 プロザック・コンプレックス』って本に遭遇。
 帯には、「鬱じゃないと不安になる」みたいなことが書かれており、なんつー語義矛盾、などと思ったものの、そういう状態ってのは、ありうる気がしなくもないような。鬱でいたほうが安心する。普通の状態って不安かもなぁ。ふわふわするっつうか。強度か。インテンシティなのか。(以下、私の疾走する妄想が展開されます。本の内容とはまったく関係ありません)
 ていうか、俺も、厳密に鬱病の定義にハマるのかどうかは知らないけども、鬱的な状態になるときはあるわけである。その状態と、そうではない状態を比較してみると、鬱的な状態というのは、物事に対して敏感になったり、反応速度が速まったりするような気がする。そして、鬱的な状態から脱すると、当然ながらその敏感さも同時に失われてゆくわけであるが、それは、鬱的な状態にいたときよりも、なんとなく漫然としているというか、「ユルい」状態になってしまい、鬱的な状態にいたときよりも入力される情報が少ない気がするため、何かを見落としているのではないか、などと、どことなく不安になってしまう。
 敏感になるというと、精神系薬物の作用を連想させるものがあるが、脳味噌の内部でもまさしくその類の物質が生産されているわけであり、鬱的な状態である間にそのような物質に浸され続けた脳味噌は、たとえ鬱的な状態を脱して平静に戻ったとしても、再び鬱的な状態を求めてしまうということはないのだろうか。

さて、今日の日記に「鬱」という文字は何回出てきたでしょうか。答え→「12回

「あー、電化製品から離れたいなー」といった願望が、ここ数ヶ月にわたって漠然とあったわけなのだが、そういった願望を持ちながら日々を暮らしていたら、まずビデオの映りが悪くなり、今日はCDが焼けなくなった。今後、電化製品に注ぐ愛と誤動作の相関関係に注目してみることにする。

04 MON
ここんとこ、永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書020)とか、町田康夫婦茶碗』(新潮社)とか、江國香織『きらきらひかる』(新潮文庫)だとかを読了し、新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書1278)を読了寸前で、どれもけっこう面白かったのですが、感想を書く時間と心の余裕がありません。
 授業を少し切るか……って毎学期こんなこと言ってる気がする。先学期は、切ろうと思ったけど結局切らずに単位とって、肝心なとこで失敗したんだよなぁ。

ケムマキ」の新作が、ヤバイくらい面白いんですけど。この興奮をどう伝えれば。

03 SUN
たまには引用だけで済ませてみようのコーナー。
疲れやつれた美しい顔よ、
私はおまへを愛す。
さうあるべきがよかつたかも知れない多くの元気な顔たちの中に、
私は容易におまへを見付ける。

それはもう、疲れしぼみ、
悔とさびしい微笑としか持つてはをらぬけれど、
それは此の世の親しみのかずかずが、
縺れ合ひ、香となつて籠る壺なんだ。

そこに此の世の喜びの話や悲しみの話は、
彼のためには大きすぎる声で語られ、
彼の瞳はうるみ、
語り手は去つてゆく。

彼が残るのは、十分諦めてだ。
だが諦めとは思はないでだ。
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫だ。

(中原中也「疲れやつれた美しい顔」)

「中原つながり」なのは単なる偶然なのですが、中原紀生さんが発行するメールマガジン、「不連続な読書日記」から。

……本書は私の現在の関心事とあまりに合致しすぎていて、うっかりすると思考を決定的に規定されてしまいそうになる。こういう時は要注意。(それでなくとも本書の論述は少しできすぎているように思った。)
(「不連続な読書日記」No.50より)
 ここで、中原さんは、一部が自分と合致しているだけで、それ以外の合致していない部分まで、さも自分と一致するかのように思い込んでしまう事態を警戒されているのだと思います。
 最近の俺は、ちょっとあぶないっす、これ。常に心がけてはいるはずだけど、しかしそれでも飲み込まれそうになることがあるわけで。本を読むこと自体は悪いことではないだろうけど、一度きちんと咀嚼・吟味してからでないとね。非常警戒宣言を発令。

方向の定まらぬ意志に、惑わされるのです。しかし、決して意志が無いわけではないと思われ。誰しも、そうやって進んでゆくしかないのだろうと思いつつ、迷走します。押忍。

02 SAT
新鋭胸キュン映像作家の、三浦大助こと亜血亜家へ。「胸キュン」なのは、いまのところ胸キュンな脚本ばっか使ってるから(だと思う。命名は俺にあらず)。
 「PRIDE.14」を観ながら藤田のセクシィぶりを愛でたり、「DoGA CGAコンテスト」第13回のビデオをダビングしてもらいながら、ヤツの最近作『空のひとり』に文句をたれて裏参謀としての任務を遂行したり、北久保弘之監督『BLOOD THE LAST VAMPIRE』(プロダクションI.Gや、うちのビデオが壊れ状態のため持っていった石井總亙監督『逆噴射家族などを観賞。

『BLOOD THE LAST VAMPIRE
 世界観の構築に命をかけているといった印象であり、それは寺田克也デザインのキャラを殺すこともなく、むしろ増幅させており、成功をおさめているといっていい出来(おまけで収録されていたスタッフの談話では、やはり「苦労した」と言っていたが)。ストーリーは、その「世界」の中で、ある日起こる、ひとつの事件を切り取ってきたもの。
 そう、「部分」感がある。これは「押井塾」系の作品全般に漂う雰囲気だ。あくまで「世界/観」に重点を置き、「部分」感を出すことによって、その向こう側にある「世界/観」に深みを与えようとするのが、「押井塾」系の人々のやろうとしていることなのかもしれない。逆にそれが、「わかりづらい」「自己満」などと不評を呼ぶ結果になったりもするのだろう(とはいえ、今回の『BLOOD』に関しては、十分わかりやすいと思う)。
 複雑な世界を伝えようとすると、時としてわかりづらくなり、それが作品自体に閉鎖的な(内輪ウケ的な)印象を与えるのは否めないが、同時に、しっかりとした世界観こそが作品に魅力を与えるのだ、という意見もまた正しいのである。
 この問題は、「シンプルで魅力的な世界」を作れれば一気に解決してしまうのだろう。が、複雑な世界もまた魅力的でありうるのだし、シンプルであることばかりが価値あるものだとするのも、短絡に思える……と、ここでこれ以上つっこむのはやめておこう。懸案事項。

『逆噴射家族』
 郊外の住宅地にマイホームを買い、80年代的には「幸せ」な、普通のサラリーマン家庭の、崩壊と復帰を描いたもの。わりと時代風刺の色が強い。「家族の崩壊」なんてテーマは、公開時の84年にはエッジなテーマだったのかもしれないけど、いま観ると、「なんだ、ありふれた状態じゃん」みたいな感想を持ってしまったりもする。
 しかし、原案(脚本にも参加)の小林よしのりは、当時から「ゴーマニズム」的なものをちらつかせていたのね。って、そういえば「東大一直線」だって、学歴信仰をシニカルに笑おうとしたんだろうし、「ゴーマニズム」よりもずっと前から、小林は社会派(?)な作家だったんだなと、いまさら気がついてみたり。
 で、その小林の脚本を実写で生かせるのは、やはり『狂い咲きサンダーロード』を撮った石井監督しかいなかったのだろう、というのは納得。狂ったキャラを描かせたらうまいですよ、やっぱ。ていうか、いまでは絶対に公開できないような台詞やシーンがいっぱいあるので、俺としてはそれだけでもお得感があった(「病気」「キチガイ」を連呼したり、おじいちゃんが満州に出兵した頃を思い出してコスプレしたり)。
 あと、工藤夕貴(当時)萌え〜。

 「逆噴射」上映中、亜血亜が『ゾイド』を観るために逃亡する一幕も。

んでその後、マイカル松竹シネマズ本牧へ移動し、大友克洋×手塚治虫×りんたろう『メトロポリス』を観賞。
 まず、映像に関しては、素晴らしいとしか言いようがない。これをモデリングする、とか考えると吐き気がするようなものばかりが、惜しげもなく1シーンだけのために使われたりする。うっ、うええ。
 ここで、どうしても手塚治虫の原作と比較してみたくなるのであるが、あんまりやるとネタバレてしまうので、やめておこうかな。とにかく、原作とはかなり違っていて、手塚治虫の夢見た「21世紀」という文脈の上に、再び『メトロポリス』を乗せようとする試みだ、なんて書いてみると少しカッコ良さめかもしれないけど、おそらく脚本と監督の両氏は、手塚の抱いた「希望」と「危惧」のそれぞれに対して、現状なりの回答を示そうとしている、あるいは、手塚の「問い」を再び考え直そうとしているような、いないような。

「もはや『ロボットが人間を超える力を持つ』という事態も、現実の視野に入れて考え始めなければいけない時期に来ている」といったことを、以前、アシモの開発者だったか誰だかが話してたのを思い出した。それに近いものを実際に作ってしまった人が、そう発言しているわけで、「人間を超える力」という部分に、ことさらリアルな響きがあったことを覚えている。
 で、ひとまずいま現在、手塚が予測したあたりまでは、来ているのだ。そして、手塚が予測し得た問題や、できなかった問題が、いろいろと目の前に並んでいて、それはいまのところ、解決されそうなのやらされなさそうなのやら、さっぱりわからない状態なのである。

『千と千尋の神隠し』『A.I.』など、映画ラッシュ。まずい。予告とかやるな。いや、やって良し。いや、やっぱダメ。

01 FRI
はや、オフィシャルに皐月病(さつきやまひ)と称することのできる日々は過ぎぬ。矢の如きこそ光陰なれ。皐月病よ、あなたとの蜜月を想ひだしては枕を濡らし、はや幾とせや。いや、まだ一日だから。そうですか。