■ August 2001
d i A r y TOP | d i A r y MENU | H O M E



31 SAT
安易にクリエーターという言葉を吐ける人を信用しない、という信条を掲げている私であるが[2001.7.23-2]、しかし「安易にクリエーターという言葉を吐ける人」というのは思ったよりも多いようで、将来的にはそれらの人すべてを信用しないというわけにもいかなくなるような気がしてならない。
 そもそもこの信条がどのようにして成り立っているかというと、クリエーターという肩書きを前面に打ち出している人には明らかに胡散臭い人が多かったからであり、そういった人々のイメージ(実績ではない……ことにしておく。多少胡散臭くとも、実績は認めざるを得ない例は多々あるので)が「クリエーター」という肩書きにまで乗り移っていたのである。
 しかし、「クリエーター」という外来語の一般名詞が、そのようなイメージを払拭し、それを超えて浸透するようになったならば、この信条を降ろすこともありうるだろう。
 が、今のところはまだ掲げておくことにする。

30 THU
河村隆一は『ジュリア』で「Tommy february6化」したがっているようですが、残念ながら彼の強すぎるアクは、抜け切りません。やはりできる人とできない人があるようですね。
 川瀬智子もさることながら、それ以前にも小沢健二が「痛快ブギウギ化」に成功していますが、小沢にも抜群の素養があったと言うべきでしょう。
 河村の最大のネックは唱い方にあるのですが、その失敗ぶりがまた面白く、笑いにつながっているという意味で、それはそれで成立しているとも言えるかもしれません。実際、彼のアクは抜けきってこそいませんが、確実に抜けてきていますしね。
 河村は現在、微妙なポジションにいるという意味で、貴重なサンプルではあります。今後の動向に注目したいところですね。

KERA・MAP『暗い冒険』を観賞。
 有頂天の元リーダーで、ナゴムレコードの主催者でもあるケラリーノ・サンドロヴィッチが作・演出したものだったんだけど、この人はものすごく普通の人だという気がした。つーか普通にコメディなのね。それ以上でもそれ以下でもなく。そういう潔さはむしろエライかもしれない。
 『フリクリ』で春原ハル子の声を担当していた新谷真弓のナマ声は、やっぱりかなりキていた、ていうかまんまハル子だったので、そういう意味でも感動した。

映画版『FINAL FANTASY』の主題歌である、L'Arc-en-Ciel「Spirit dreams inside」のPVは、フルCG+モーションキャプチャでありながら、なかなか自然なカンジでよろしい。
 従来、モーションキャプチャのCGキャラといえば「キモい」「ニュルニュルしてる」「プルプルしてる」などと言われ放題だったものだが、演奏中のバンドの動きに関してはなかなか相性が良いのではないかと思った。
 といっても、15秒のCMで見ただけで全体を見て判断したわけではないので、あくまで「良さそう」っていうだけなんだけど。

29 WED
羽生生純さんの日記から。
 石川球人『巨人獣』を読む。プールに浮かぶ一本糞だけで全てOK。今の漫画がいかに無臭を志向しているか(絵柄を含めて)を思い知らされる。
 んー、「無臭志向」って鋭いなー。そう捉えたことはなかったんだけど(というのは、俺が臭気の強い漫画を愛好する故なのかもしれないが)、こう言われてから昨今の漫画を思い出していくと、確かにそんな気がしてくる。
 ここで、「無臭漫画」の代表をいくつか考えてみると、武井宏之(『シャーマン・キング』)、小畑健(『ヒカルの碁』)、赤松健(『ラブひな』)、藤島康介(『ああっ! 女神さまっ』)、村田蓮爾、あずまきよひこ(『あずまんが大王』)、リーフのゲーム、その他その他。特にギャル系は、圧倒的にその流れにあるっぽい。あと、グルーヴィジョンズ(チャッピー)なんかはもっとも先鋭化された例として挙げられるかも。
 考えてみると、俺が子供の頃、つまり「ジャンプ黄金期」の85〜90年くらいは、まだまだ臭いの強い作品が圧倒的に多く、むしろ無臭な絵柄とかストーリーは貴重なものだった。で、俺もその当時、「無臭」なものがイイなーと思いはじめたりもしていた(コミックコンプとかを読んでいた……)ので、「無臭志向」っていうのは、その頃(か、もっとそれ以前)に「主流」へのカウンターとして端を発した流れなのかもしれない。と考えてみると、当時その希少性を特に発揮していた鳥山明も確実に影響を与えてるのかもしれない。
 ひるがえって現在、「無臭」が全盛を誇り「主流」となっている中で、逆に臭いを放つ漫画が面白いと感じられてくるのは自然なことだと言えよう。さて、10年後あたりはどうなってるんだろうか。今は絶対、臭い系の作家が輝いてますよ。臭いの再評価という流れも始まりつつあると思う……と、バンチを連想してしまったけど、あれは違うか……。
 というわけで、チャンピオンとかコミックビームあたりにはがんばってほしいところ。

少女マンガには明るくないので前段では考慮外としてるけど、ストーリー的にも絵柄的にも有/無臭の対立はありそう(美内すずえ=有、岡崎京子=無、とか)。
 ただ、女性ファンが少年/青年マンガへと流入したことが、「無臭志向」に影響してそうではある(特に絵柄に関しては)。

「無臭志向」は語れるネタだなー。大友克洋とか井上雄彦とかのポジションを考えてみると、一概にどちらとも言えないんだけど、この二人の影響も確実にあるはずで、それだけでもすごく語れそうな気がするし、他にも様々な影響を考えていくだけで面白そう。
 手塚治虫や藤子不二雄をルーツとする「無臭」系と、梶原一騎系の作家や永井豪がルーツの「臭い」系との対立の歴史とか……萌える〜。

27 MON
むぅ〜、Socket478のPentium4-1.5Ghzを狙ってみようかな〜と考える。

相変わらず目やに増量キャンペーンが展開されているため、眼科に行ったら、結膜炎になってますと言われましたよ。うう、何事も使いすぎはいけませんね。しばらくは寝てすごすことにします。

まんさき@ダイダラボッチーズよりタレコミがありました。ALiC日進横浜店が潰れたのは、「スゲエ前」だとのこと。そうだったんすな。浦島太郎ですな。
 と言われて考えてみたんですが、日進が潰れてから、少なくともコムサストアに改装できるだけの時間があったってことだもんね。コムサストアがオープンしたのもスゲエ前なのかな?

26 SUN
さきちんからメッセージをいただきました。というわけで、対話です。対話が大事なのですよ。
message = 生きるということは、着実に死にむかって一歩前進することだ、って誰かがいってたよーな気もする。フリッパーズギターの3rdアルバムにもそういう歌があったよーな。
guest = さきちん
 てことなんで、久しぶりに『ヘッド博士の世界塔』を聴いてみましたよ。このアルバム、レンタルで聴いただけかと思ってたら、ちゃんと買ってあったので、自分で驚きました。
 むー、「ゴーイング・ゼロ」の「だんだん小さくなる世界で僕は無限にゼロをめざそう」あたりかな? てゆうか、このアルバム全体としても、そんな雰囲気をかもし出してますよね。なんつーか、第二次性徴を迎えてホルモンバランスが変化することに端を発するアンニュイ、とでもいうか、具体的な形をとらないモチベーションが炸裂しちゃってるというか。あるインタビューでは、おくすりを使いながら歌詞を書いた、みたいなことが軽くほのめかされてたりもしてましたが。
 俺のお気に入りは「奈落のクイズマスター」です、って聞いてませんね。

本題はフリッパーズギターではなくして、いわば「死に対する姿勢」とか「死の捉えかた」なわけですが、この点に関しては、「だんだん死んでる」とか「徐々に死んでる」という考え方が気に入っています。
 たしか、生物学的な死と社会的な死の違いを考える場合に出てきたんだったと思うんですが、つまり、死というものは、生物学的に考えれば、デジタルなものではないと。人間はいつ「死ぬ」のか? と考えても、意識がなくなった瞬間(うっ……ガクッ、というアレ)なのか、心臓が止まった瞬間なのか、脳波が止まった瞬間なのか、結局どこなのかよくわからない、ということです。
 で、この考えを勝手に拡大解釈して、心停止とか脳死とかそういう状態を考えるまでもなく、普通に健康な状態であっても、それは死の過程であると考えることもできると思っています。つまり、一生涯すべて「死んでいる/死につつある」と考えるわけですね。ある一点において「死」があるのではなく、連続的にある、というか。グラデーションのような。だからこの場合、「生≒死」というような図式にすることができるわけです。
 ていうか、「生きてるのに死んだ人」ってのも、こういうイメージなんでしょうかね。

25 SAT
朝起きると、左眼の目やにが通常比30%増量キャンペーン中。ヤバイ。読書しまくったのに加えて、ミスタードリラーの「とことんドリラー」に再びハマってるのがマズかったか。
 というわけで、眼精疲労減量キャンペーンの開催を検討する。が、他の暇つぶしを考えてみても、パソコンとかゲームとか、眼精疲労の温床みたいなのしか思いつかない。
 眼精疲労しない暇つぶしってなんだ。なんだろう。やっぱアウトドア? 海? 山? 草原? サーヒン? トレッキング? パラグライダー?
 つーかよ、暇つぶすにも資本が必要なワケよ、平たくいえばカネなわけよ。暇つぶし=消費なわけよ。てことはよ? 働くってことを考えるじゃない? で、自分にできそうなことのうちカネになることといえば、やっぱりコンピュータ関連ってことになるじゃない? つまり、モニター凝視業じゃない? 眼精疲労じゃない?
 というわけで、どうやっても眼精疲労から逃れられないということがわかりました。ぎゃー。機械の体をー。メーテルー。

と思ったのですが、視覚ではなく聴覚を使うという意味で、音楽ってのはいいかもしんないっすね。楽器よ楽器。部屋をふと見れば、ギターがホコリかぶって転がってるじゃないさ。
 というわけで、まずは基本コードから覚えますよ。えーと、教本教本。イー、イーマイナー、ディー、アーマイナー。
 本、読んでんじゃん。

今後は眼精疲労関係業種への就労者がますます増えると思われるので、視力矯正関連株(?)への投資を考えてみる(だけ)。

ビックカメラから「もうすぐポイントの使用期限が切れちゃうぜ」というDMが来たので、じゃあゲームキューブも発表になったことだし、そろそろ『ムジュラの仮面』でもこましたろかしらん、っていまさらムジュラかよっ! なんていう関東一のツッコミもまじえながら、ブラブラと横浜へ。
 横浜駅は相鉄口を出て、さっそくビックカメラへ向かおう……と思ったら、なんか景色に違和感があって、ビックへの道の途中にある見慣れたはずの建物が、妙に瀟洒な構えになってるような、なってないような、てんでよく目をこらしてみると、建物そのものの形は変わってないものの、壁面に "COMME ÇA STORE" なんて書かれてる。
 予想はしていたものの、とうとう潰れたか、ALiC日進。あそこの6Fにあった、ワケのわからない洋食屋のオムライスは、予備校時代の心の友だったのになぁ。それにそれに……と、ALiC日進との思い出が走馬燈のように……駆けめぐるほどの量はないんだけど。
 てか、日進つぶれたのいつ?

なんて軽くショックを受けつつ、ビックカメラへ。店員に「ムジュラあります?」て聞いたら、奥まで在庫を探しにいってくれたはいいものの、戻ってきたときに彼女が手に持っていたのは、『ムジュラの仮面』の拡張パックなし版と、別売り拡張パック。
 おいおい、それじゃ高くついちゃうだろ〜と思いながらも、ここでポイントを使わないと約3000円ぶんが水泡に帰すため、「パックつきのありません?」「ないです」なんつー事務的会話をこなしつつ、仕方なく購入。う〜、ドンキーコング64のパックつき版+ムジュラの仮面パックなし版をどっかの中古屋で買ったほうが絶対にお得なのだが、でもいますぐやりたいという欲望も強まっていたため、抗しきれずに買ってきてしまったのであった。まぁいいか。

てなこともありつつ、ひとまずムジュラを買って、さらにそこから東急ハンズに寄って、その帰り道に、ハンズ方面からコムサストアすなわち元ALiC日進を眺めてみる。あ〜ここいらの景色も変わったね〜って、あれ? 看板に「ALiC日進」てしっかり書いてある。あれれれれ? 生きてるのかしら、と思って中を覗いてみたら、やっぱりほとんどコムサばっかり。だけど、かろうじて上のほうのフロアで生きているらしい。
 どう考えても使えなかったALiC日進横浜店でも、地下のホビーコーナーだけは、唯一オタクに評価されていた部門だったのだが、やはり唯一の黒字部門であったのか、名称を「ALiCホビーミュージアム」なんてのに変えているものの、しっかりと生き残っていたのだった。
 で、コムサ店内をチラ見しつつ、問題の「ホビーミュージアム」へ。なんだか店構えもシャラシャラ感をかもし出していて、圧力受けまくってんな〜などと邪推してみたりする。しかし横浜のモデラー&鉄ちゃんどもは、ここを利用する以外にほぼ選択肢がないわけで、まぁ直通エレベータはあるものの輸送能力は乏しく、それ系の人とコムサストアから流れてきた客が混在することになるであろうこの店は、今後注目に値するスポットであろう。
 さらに上の事務所フロアには、ファイブ・フォックス(コムサなどのブランドを経営してる会社)とALiC日進が混在しているらしい。幼少のみぎり、タミヤの「フォックス」を買ったのもここだったのだが、その店がファイブ・フォックスに乗っ取られるという事態に、なんとなくゆる〜い因果を感じつつ、コムサストア(気分的には「元日進」)を後にしたのであった。

24 FRI
うー、部屋の整理をしようとして、長い間動かしていなかった箇所の荷物を動かしたときに、堆積したホコリと生息していた病原菌を発動させてしまい、ノドを痛めていたのですが、だいぶ良くなってきましたよ。

江國香織『流しのしたの骨』(マガジンハウス)と、町田康『屈辱ポンチ』(文藝春秋)を読了。
 さて、次は何にするか……。

福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社)には、作家への採点のほかに、いくつかのコラムが収録されていて、こちらも採点部に劣らずなかなか面白い。特に一発目の「純文学とエンターテイメントはどう違うか」における指摘は、かなりビシッと言い当てていると感じる。
 福田はまず、「エンターテイメント=商品、純文学=芸術」という見方に対して、現在の流通/消費システムの上では両者の垣根などなく、「相互浸透的」なものであると批判している。売れないものは普及しないので商品性は欠かせないが、しかし売れるものしか流通しないのでは、質的に向上しなくなってしまう。商品性と芸術性は、どちらも欠かせない要素であると。
 次に、「エンターテイメント=直木賞、純文学=芥川賞」といった、ただ単に制度的な区分けであるという見方に対しても、直木賞作家が純文学作家として、芥川賞作家がエンターテイメント作家として認知されている場合もあることなどを挙げ、批判する。
 しかしそれでもなお、彼は「エンターテイメント」と「純文学」の間に差異はある、と主張する。その根拠は以下のようなものだ。

 その差異を一言で云えば、意識の差、書く時における意識のもち方の違いということになるだろう。あるいは方向性であろうか。
 エンターテイメントにおいて、作家は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、作品は書かれる。その枠内において、人間性なり恋愛観なり世界観といったものは、いかに見事に、あるいはスリリングに書かれていても、読者の了解をはみだし、揺るがすことがない。
 純文学の作家は、読者の通念に切り込み、それを揺らがせ、不安や危機感を植え付けようと試みる。
 あるいは、このように云ってもいいだろうか。
 エンターテイメントの作品は、読者に快適な刺激を与える。読者を気持ちよくさせ、スリルを与え、感動して涙させる。
 純文学の作品は、本質的に不愉快なものである。読者をいい気持ちにさせるのではなく、むしろ読者に自己否定・自己超克をうながす力をもっている。
 いわばエンターテイメントが健康的なビタミン剤であるとすれば、純文学は致命的な、しかしまたそれなしでは人生の緊張を得ることのできない毒薬である、と。
 う〜ん、なるほど。エンターテイメントの作品が読者にスリルを与えることはあっても、それは根本的に読者を不安にするのでなく、基本的には通念の範囲内で行われていて、不安の前に基本となる安心があるのだと。エンターテイメント(安心)のサスペンス(不安)という場合、[安心→不安]という二段階構造になっている。それに大して純文学の作品は、最初から不安を煽るわけだ。作品内容がほのぼの系のものであっても、根本的には読者の通念からはみ出ているので、基本的に不安であると。純文学(不安)でほのぼの系(安心)の場合は、[不安→安心]という構造になっている。
 なんとなくはわかってた気がすることだけど、ここまではっきり言語化できてなかったので、かなり気持ちよくなったカンジ。
 このフレームは使えるなー。小説だけでなく色々使えると思うし。今後しばらくは、このフレームを使ってみるかもしれない。といっても、すべての作品をエンターテイメントと純文学にあてはめることができるかというと、それはたぶんムリで、やっぱり「相互浸透的」になるんじゃないかなーという気もするけどね。でも、「どちら寄り」くらいは判断できる気がする。

21 TUE
以前、「テレビ漫画」という言い方がどうこうと書いた。
 んで、今日、江國香織『流しのしたの骨』(マガジンハウス)を読んでたら、主人公の「こと子」が『妖怪人間ベム』のことをまさしく「テレビ漫画」と呼んでいたので、笑ってしまった。
 作中で、「こと子」は19〜20歳。江國香織が「テレビアニメ」という表現を知らない、ってことは万が一にもあり得ないので、ここではあえて「テレビ漫画」という表現を使っていると考えられる。ってことは、江國にとって、20歳前後の普通の女の子が「テレビアニメ」を指すときに使う典型的な語彙が、「テレビ漫画」だったんだろうなぁ。
 芸が細かい。

本を開いたまま立てて固定しておけて、かつ持ち歩きできるほどコンパクトな、そんなアイテムを探しています。この機能をそのまま実現したアイテムを学校の図書館で使っている人がいて、それを見て以来欲しくてしょうがないんですが、文房具屋とかで探せばすぐに見つかるだろうと見込んでたらぜんぜん見つからなくて、困っています。
 どこで買ったのか聞けばよかった……と後悔しても始まらないのでネットで検索してみたものの、まずとにかく呼び名がわかりません。
 一般名詞として候補に挙がるのは、「書見台」「ブックホルダー」「ブックスタンド」などなんですが、この三つは、微妙に異なる目的の器具を指す名詞としても使われている言葉ばかり。「書見台」といえば、時代劇で武士が漢文を読むときに使ってるような、文字通り木製の「台」を指すことのほうが多いし、「ブックホルダー」は、ただ単に雑誌を何冊か立てておくための細長い箱だったりするし、「ブックスタンド」はかなりイイ線いってるんだけど、ときには「ブックエンド」と同じもの(閉じた複数の本を両側から挟んで立てておくための器具)を指すのに使われることもあって。
 というわけで、イメージ的には「エレコムデータホルダーブックスタンドタイプ」みたいなカンジで、本を立てた状態で固定できるんだけど、針金で作られていてもっとコンパクトなものです。これもなかなかよかったんですが、ちとゴツすぎる。アケミちゃんも惜しいとこだけど、できれば立てておきたい。
 どなたかご存知ないでしょうか。

前回のキャンペーン期間中には応募し損ねたんだけど、またYonda? CLUBのプレゼントキャンペーンをやるらしい。こんどこそYonda? ビデオもらうぜ!

20 MON
江國香織『落下する夕方』(角川文庫)読了。
 一人だけ「まったり」と生きるのが下手な人がいて、その人をめぐって「まったり」と生きるのが(比較的)うまい人たちが「まったり」する、という、まったりドラマ。生きるための「強度」をなかなか得られない人というのは、皮肉にも、自分以外の人に「強度」を与える存在となりやすいってことなのかもしれない。
 ん〜、いまいち言葉が出てこなかったので宮台真司の用語で説明してみたけど、これでもわかんないね。

18 SAT
俺は大学に入ってからはじめて『風の歌を聴け』を読んだという程度に村上春樹から縁遠かったわけだけど、しかし俺は、村上春樹の傾向を把握している人から見ると、おそらく「村上春樹とか好きそうなやつ」という風に見られていてもおかしくない、と思った。もしかしたら、実際にそう言われたこともあったかもしれない。
 そして自分でも、間接的にではあれ、自分が確実にこの人の影響下にあると思う。それは、80年代に小〜中学生時代を過ごし、その時期に人格形成がなされたからだったりするのかもしれない。それとは別に、村上春樹が先なのか時代が先か、という議論もすべきだろうけど、それはともかくここで重要なのは、現在の俺の考え方が、やっぱり80年代風だということで。もちろん、ゼロ年代に入ったからといって、村上春樹的な気分がそれほど変わったとも思えないけど。
 と、書いている現時点では、まだ『ノルウェイの森』の下巻を読み途中なので、また読み終わったら何か書くかも。

ひとまず、村上春樹を把握しておく必要を感じたため、『ねじまき鳥クロニクル』<1>〜<3>と、『1973年のピンボール』を買ってみたり。ていうか、面白いってことが一番の動機になってるのはもちろんですが。
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、某ブックオフのセール時に下巻だけ買ってあったりします。たまには下巻から読み始めてもいいかな〜と思って読み始めたものの、ただでさえパラレル構造になっているところが、余計わけわかんなくなったので中断中。上巻をゲットせねば。

あと、福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社)を購入。
 価値観なき時代に価値を提示するという、一見無謀にも思える試みをあえてするという態度に興味をそそられる本ではあります。この人は、石原慎太郎を支持していることからもうかがえるように、「父的な」規範的価値(の復権)を重んじている人でもあるので、こういうことをしても違和感を感じない(あるいは、あえてやろうとしている)のかもしれません。ある人は、「あの人は文壇を政治的に牛耳りたがってるんだよ」とも言ってましたが、いずれにしても、この果敢な行動は、見ていて面白いです。
 あるいはそこまで言わなくても、80年代に流行った「マニュアル化」の流れの延長線上にあるとして理解できるかもしれない(マニュアル化が悪いと言いたいわけではない。便利だし)。

精神分析系の本とか社会科学系の本もずいぶんたまってるけど、どうも食指が動かない……しばらくは文学でいいかな。

引き続き『ノルウェイの森』進行中。ああ、決定的な表現を見つけてしまった。

人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。
(下巻159頁)
 作中では1969年の時点で、この表現が使われている。とすれば、69年からすでにこういう気分は蔓延していたか、少なくとも村上春樹はこのような気分の中にいたんだろう。で、そこからもう30年以上経ったはずなのに。
 あるいは、20代という年齢(作中の69年当時、主人公は20歳)のほうに起因するものなのかもしれない。とすれば、この問題は歳を重ねるごとに、「バイオリズムが」とか「天気が」とか「秋だから」とか「いや、風水的にね」とか「ポストが赤かったから」とか「太陽がまぶしかったから」(©ムルソー)とか「それがぼくには楽しかったから」(©リーヌス・トーバルズ)といったことへと還元されてゆく気がする。もちろん、強いて納得しようとするなら、の話だけど(いや、しようとしなくなるのか?)。

さらに別な箇所を引用してみよう。こちらは、「当時」と現在において「変化」があったと思われる点なんだけど、それが「進歩」や「成長」と表現できるポジティブなものなのかどうかはわからない。

 おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。[……]なぁキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。
(下巻180頁)
 とにかく自殺する人の多い作品なんだけど、その中で、生き残っている主人公が吐くセリフが、これ。でも、現在では、生きることにここまでの積極性が必要なのかどうか、さらに曖昧になっていると思う。
 死にながら生きる、とか、生きたまま死ぬ、とか、生きてるのに死んだ人(©さきちん)とか、まぁいろいろあり得るだろうけど、もちろん《生きつづけるための代償》は何らかの形で必要でありはするものの、それを支払うからといって、生きることにそこまでこだわることはなくなっているはずだ(もちろん、そうできるほうがベターだけど)。
 これは、主人公が悟る《真理》、すなわち
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
(上巻46頁)
よりも、ほんの少しだけ深化しているのではないかと思う。

というわけで、発売当時はべつに欲しくもなかったんだけど、最近じわじわと欲しくなっていたので買ってみた、鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版)から。

 僕の知人に、それを飲んだら平気でビルから飛び降りちゃうほど頭のなかがメチャクチャになっちゃう“エンジェル・ダスト”っていう強烈なドラッグを、金属の小さなカプセルに入れてネックレスにして肌身離さず持ち歩いてる人がいる。「イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから」って言って、定職になんか就かないでブラブラ気楽に暮らしている。
 この本がその金属カプセルみたいなものになればいい。
 諦めが一歩進んだのか、それとも気楽になったのか、強くなったのか、甘くなったのか。いや、ポジティブ/ネガティブという価値判断は、相応しくないだろう。
 (特に、親しい人の)死は、おそらく相変わらず哀しいもので、それはきっとこの先も変わらないんだろうけど、でも生のほうは、少しずつ変わっているのだと思う。「死が生の一部として」存在しているのか、「生が死の一部として」存在しているのか、どちらがどちらを包含しているのか、わからなくなってきている。でも実は、それはどっちでもいいはずのもので。

んでもって、村上春樹『ノルウェイの森 』(講談社)読了。
 「倫理」をキーワードにして、漱石の『こころ』とかと比較してみても、けっこう面白いかもしれない。漱石の悩みがシンプルに思えて、羨ましくなったりするかもしれないけど。
 でも、ほんとにこれベストセラーになったの? という感覚が拭えなかったりする。というのはつまらないという意味ではなくて、内容が思ってたよりマニアックな気がしたから。これを一般に売ってしまうあたりが、村上春樹の文章/文体の恐ろしさなのかしらん。すげえ。

17 FRI
ああっ、『百萬男』で藤沢が買い物してるっ。このへんなんじゃん。俺に100万よこせー。本屋とCD屋と電器屋とコンピ屋だけで、あっという間に使い尽くす自身があります。

柘植久慶『戦場の人間学』(集英社文庫)読了。
 1987年に発表された本だけど、終戦記念日や靖国問題と絡めながら読んだら、予想以上に楽しめた。実は、「俺はすごいぜ! こんなに男らしいぜ!」という自慢本でもあるんだけど。
 マジで掛け値なしに、すごい人です。

16 THU
土屋賢二、いしいひさいち【マンガ】哲学者かく笑えり』(講談社)読了。
 意識してそう振る舞っている場合はまぁいいのだが、そうでない場合までも「皮肉屋」と評されることが多く、まったく見る目のない友人にばかり恵まれている私であるが、かといって皮肉は嫌いではなく、むしろ大好きである。そういう私のような類の人間であれば、ブックオフで100円払っても存分に楽しめる本だと言えよう。しかもツッコミなしで延々とボケ倒すので、さらに私好みな内容となっている。
 著者は、お茶の水女子大で哲学を教える先生である。
男の中には、「女子大」ということばの響きに胸がときめいてしまう人もいるだろうが、これに「哲学」ということばが追加されているため、頭がしめつけられるような感じが加わり、全体として、ヘッドロックをかけられているような、心悸亢進と偏頭痛が一緒にきたような感覚に襲われるのではなかろうか。「胸がときめいて頭がしめつけられる」ような組み合わせとして、「初恋」と「偏微分方程式」、「酒池肉林」と「道徳形而上学原論」、「南十字星」と「重加算税」などが考えられる。
(11頁)
 と著者も言うように、女子大で哲学とはいかにも大変そうで、ここまで笑いのネタを仕込まないとウケないのかしらんと邪推したりもするのであるが、しかし、皮肉はあまり女性に好まれないという個人的な経験則もあるため、単なる著者の性質なのかもしれない。
 でも、哲学を笑いという方向に向けるのは、まったく健康なことだと思う。常識/既成概念をズラしたときに起こるのが笑いであるとすれば、常識/既成概念に疑問符をつけて揺さぶりをかけるのが大きな役割の一つである哲学とは、通じるところの多いものなのかもしれない。まぁいずれにせよ、どっちも大して世の役には立たない。
(註:ここまでの文章は、土屋風を採用しています)

作:アゴタ・クリストフ、訳:堀茂樹『悪童日記』(早川書房)読了。すげー面白ぇー。
 主観的な表現(「似ている」「美しい」「親切だ」「好きだ」など)を排し、あくまで客観的な事実の記述のみを採用して、主人公の双子が記した日記、という形式をとった、中編小説である。出てくるのが変態やキチガイばっかりで、とてもやられた。
 しかも、こんな作品が、(手元の本で確認する限り)91年の初版から4年半で39版までいってるあたり、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思った。といっても、変態とキチガイだけの本では確かにあるのだが、そのベースとして、戦争(の冷酷さ?)をテーマとしているので、そっちの効果なんだろうけどね。変態やキチガイを扱うにしても、その裏に普遍的なテーマを忍ばせておくとよい、という教訓も得られる。
 『A.I.』に関して、「希望」だのと日和ったことを言ってたところに、いきなり冷や水を浴びせられたカンジ。『A.I.』を観てから一週間もたたないうちに、しっかりこういうものが目の前に現れてくれるあたりは、「さすが俺」といったところ。運命の神様はよくわかっておられます。『ふたりの証拠』『第三の嘘』も読んでみたい。
 ところで、この主人公の双子がやってる「鍛錬」ね、こういうのやってた気がする。いや、今でもずっとやってるのかもしれない。

15 WED
靖国神社へ参拝するとかしないとか、そういうこと以前に、「国会議員で組織されたみんなで参拝する会」という、ネーミングセンスのほうが、まず気になってしまうわけである。

14 TUE
江國香織『ホリー・ガーデン』(新潮社)読了。
 残酷なことをしている人や、残酷なことをされている人が、「自分は残酷なことをしている/されている」ということに気づかず、あるいは意図的に目をそらしながら生活している、という話。
 残酷なことをしている人というのは、残酷なことをされている人の好意に甘えているわけで、そういう甘えというのが、個人的にあまり好きではない。残酷なことをしてしまうのには、仕方のない場合があるにしても、しかしそれに(たとえ事後的にでも)気がつき、向き合う努力というのは、なされるべきことだと思う。たとえ仕方がなくどうしようもない場合でも、少なくともそれを自覚するべきだ。
 この作品中では、最後になって、残酷なことをされているうちの一人が、残酷なことをされていることに気づき、しかもそれときちんと向き合うことを決意する。それに対応して、残酷なことをしているうちの一人も、残酷なことをしているということに気づいて、しかもそれに向き合ってみようとしている(ようだった)。
 残酷な状態がつづく途中まではものすごくストレスをためながら読んでいたのだが、最終的にきちんとカタルシスが得られたので、読後感スッキリ。スッキリしないのも好きだけど、ときにはスッキリしてほしい場合ってのもあるわけで。
 この人の作品がかもし出す、どことなく「トレンディ」な香りが少し気にくわなかったりもするのではあるが、でもやっぱり面白い。

11日、もしスタンリー・キューブリックが『A.I.』を監督できていたら、「残酷さ/救いようのなさ」を強調したはずだ、という主張をした。だが、果たしてそれは本当に「残酷さ/救いようのなさ」だったのだろうか、という点には、最初から疑問符がついていた(前回は論を一貫させるためにそうしてしまったのだが)。もちろん「残酷さ/救いようのなさ」を描こうという意図は(部分的に)あったとしても、それだけではなかったのではないか、という感覚は強くあった。
 つまり、この物語には「愛」が欠かせないのである。そして、「絶望」の背後に潜む「希望」、あるいは「希望」の背後に潜む「絶望」というものがあり、つまりその表裏一体の関係こそが、この作品のキモなのである。そもそも「希望」がなければ「絶望」も生まれはしない。また、「絶望」がなくても「希望」はあり得ない。まず最初に、その背中合わせの関係があり、そこから改めて、その「希望」と「絶望」のどちらを強調するか、という点が問題となっているのである。このようなテーマは『A.I.』に限らず、キューブリックの作品全体を眺めたとしても、多かれ少なかれ変わらないことだと思う。
 スタンダードなキューブリックのイメージは、次のものであろう。まず背中合わせの関係を提示しておいて、そこから「絶望」の面を強調する作家。確かにそれは的を射ている。だが、死ぬ間際までそうだったのかどうかはわからない。「希望」の面を強調しようとするようになった、あるいは今までも伝えていたつもりだったが、それが伝わっていないことを悲しんでいたのかもしれないと思うのだ。
 この感覚は、『A.I.』のパンフレットを読んでいて、さらに強まった。

一度スタンリーはこう言っていた。“君が『A.I.』の監督をやるべきだ。私がプロデュースする”と。実際、紙に“スタンリー・キューブリック製作・スティーブン・スピルバーグ監督作品”とタイトル・カードを書いて見せてくれたんだ。[……]ショックを受けた僕は『なぜ自分で監督しないんだ、スタンリー?』と言った。すると彼はただ『なぜって、この映画は私よりも君の感性に近いと思ったからさ』と答えた
(『A.I.』パンフレット「『A.I.』誕生秘話」より)
 キューブリックは、表裏一体の「希望」と「絶望」のうち、「絶望」を強調することに、非凡な才能を発揮した作家だった。しかし一方で、常に「希望」を描くことをどこかで願い続け、しかしそれがうまくいかないことにジレンマも抱き続けた作家であったのだと思う。
 『A.I.』において、永遠に愛を抱きつづける存在を望んだのも、またそれを作り出したのも、他ならぬ人間であった。このことを、わがままで残酷で絶望的なことと解釈することもできるし、またそこに希望を見出すこともできる。
 キューブリックは、この両者(あるいは一体)の関係を描きつつ、残酷な面を強調しようとする。だが、そのもう一方の面を強調しようとする努力も、していたのではないかと思う。そして、それがうまくいかないジレンマをもまた、抱えていたのかもしれない。前作の『EYES WIDE SHUT』でも、その希望は垣間見えていたと思う。だがそれは、非常に微かなものだった。キューブリックは、それを少しずつ広げていこうとしていたが、しかし一方の絶望もとても力強く、そのあたりの葛藤が、スピルバーグに監督を任せるということを考えさせたのかもしれない、とも思う。
 キューブリックの遺志をそのように考えた場合、スピルバーグの監督した『A.I.』は、キューブリックの目指したものと、そう遠くはないのかもしれない。あるいは、それを超えてしまっているのかもしれない。

13 MON
全体的に減退気味のところへ、物欲がちょっとだけ出たので、この機を逃すまいと、なんとなく横浜へ買い物に。
 で、そんなに金があるわけでもなく、目的の物を買っただけでそそくさと帰ってきたのだが、フラフラと歩いていても、どーも面白い出来事に出会わない。以前はもっと面白いことが目に入ってきていた気がするのに、最近ずっとこんなかんじだ。
 でも、「面白い出来事」に出会っていないわけではないんだろう。きっとそこにはあるんだけど、自分がそれを発見できていないのである。2年くらい前は、横浜を歩く回数も圧倒的に多かったし、街の状態もそこそこ把握していたので、見るべきポイントが定まってたんだと思う。
 はぁ、またも居場所を失ったような。

あるいは、以前面白いと感じていたことが、現在は関心の外にあるということなのかもしれない。それは望んだ変化でもあり、望まざるを得なかった変化でもあるのだろうが、しかしそのことが喪失感を増幅しているのも間違いなさそうだ。
 行く河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず、やっぱ諸行無常。この気分だけは、前からずっと変わらない。

12 SUN
新規オープンしたブックオフへ買い物。かなりデカいので、今後の財政に危機感を抱かせる。開店直後ということもあってか、他店からかきあつめた売れ筋商品が雑多に並んでるカンジだけど、すでに開店3日めということもあり、掘り出し物は少なく、すでに漁られたあとなのかもしれない(といっても、真のマニアはブックオフなんぞチェックしないんだろうけど)。
 ブックオフは、100円均一の棚と通常価格の棚が明確に分かれてるんだけど、新規オープンということもあってか、本に貼ってある値札と入れられている棚が一致してなかったりして、ちょっとストレス。100円の棚にはときどき信じられないものが入っていて、今までに定価4800円のものを100円で買えた経験もあったりするのだが、このように棚が混乱した状態では、ブツを発見してもぬか喜びに終わる可能性が高い。
 あと、買おうとした本の中に値札の貼ってない本が一冊あったんだけど、カウンターで「これ、どちらの棚にありました?」と聞かれ、思わず「あ……普通の棚だと思います」と答えちゃった正直すぎる自分に乾杯。100円の棚って言えよ。てか、本の状態がすげー良かったのよ、と言い訳してみる。

11 SAT
ああっ! リーブ21のCMが和田アキ子になってるっ! 松崎しげるの今後が非常に心配です。ちゃんと食べて行かれるんでしょうか。まぁ、結婚式に呼ばれて『愛のメモリー』を熱唱するという余興だけでもなんとかなる人ではあると思うんですが。

もうひとつCMで気になることといえば、「サガミオリジナル」(相模ゴム工業)のCM(ここで全てのバージョンが(!)ダウンロード可能)。
 果たして、伊勢谷友介が演じているのは、チンコなの? それともサガミオリジナルを装着している人なの? と考えただけで、今日も眠れません。ウソ。

土曜日だとはわかってたけど、お盆休みに入ったから、一応は「首都圏」に含まれるこのへんの映画館は空いてるに違いない! という目論見でマイカル松竹シネマズ本牧へ向かったら、その目論見は大外れで、大盛況でした。チケット売場が大行列してやんの。でも、もう帰りたいという気持ちをグッとこらえて、大量のカップルと共にチケットを買うのであった。
 というわけで、『A.I.』を観賞。

『A.I.』
 今さら説明するまでもないが、この映画はスタンリー・キューブリックが長年にわたって構想し、そしてついに生前に完成することができなかった企画を、スティーブン・スピルバーグが引き継いで形にした映画である。そのため、どうしても「ここは、キューブリックだったらどう演出しただろう」と考えながら観てしまう。
 キューブリックが一貫してテーマとしつづけたのは、人間の「残酷さ」「救いようのなさ」である。今回もその例に漏れず、語られる物語そのものは残酷で、救いようのない話だった。だが、その残酷さは、スピルバーグによって見事に薄められている。当然のことかもしれないが、やはりキューブリックのように徹底した姿勢は見られず、どうにも「ヌルい」のである。もちろん、それがスピルバーグ作品の馴染みやすさに直結しているのであって、「ヌルい」という表現は決して「手抜き」という意味ではない。偏執狂的なまでに気を配った緊張感がない、ということだ。逆にいえば、スピルバーグ作品に見られる「ほのぼの感」が前面に出ているわけで、肩に力を入れなくても楽しめるものではある。
 話そのものは、とても残酷なものである。普通に考えたら、この映画は残酷に作る以外あり得ないのではないかとさえ思うほどに。と、ここで本来は映画の内容を説明しておくべきなのかもしれないが、まだ公開中ということもあり、説明は省略する。とにかく残酷で救いようのないものなのである。だが、驚いたことに、エンドロールが流れている間、その「苦み」を感じない。もちろん、しっかりと頭を回せばその残酷さは感じられるのだが、ただ普通に観ている限りでは、それは伝わってこないのだ。残酷なストーリーだという印象を持たないままの人も、相当数いるかもしれない。これはむしろ驚くべきことである。
 おそらく、スピルバーグの演出によって、物語そのものが持つ「臭み」が消されているのだ。素材そのものが持つ残酷さという「臭み」が消されているのは、まさにスピルバーグの才能以外の何ものでもない。いや、まさにその才能が炸裂している。ただし、それを良しとするかどうかは、また人によって分かれるところだろう……キューブリックファンであり、それほどスピルバーグファンではない私としては、イマイチもの足りないのだが。
 スピルバーグは、どこかの評の表現を借りるが、「大衆向けで後味の良い映画を作る監督」である。対してキューブリックは、徹底的に「後味の悪い」映画を作り続けた人である。この点で、両者は鋭角に対立している。
 今回の『A.I.』も含めて、スピルバーグの作品はとてもテンポが良い。対してキューブリックの作品は、テンポが良いかといえば決して良くはなく、むしろ重苦しい。しかしそれはおそらく意図的であって、表現を変えるとすれば、とても激しく強弱をつけるのである。そして、強調されるのは常に「人間の残酷さ」という部分だった。だが、『A.I.』は非常にテンポが良く、さらにその良いテンポの中でもしっかりと強調されるのが「暖かみ」なのだ。同じシーンを作らせても、そこから二人はまったく違う意味を鑑賞者に伝える。
 『A.I.』観ている間中、ひとつのジレンマに苦しめられた。というのは言いすぎかもしれないが、これをキューブリック作品として観るべきなのか、スピルバーグ作品として観るべきなのか、「残酷さ」に焦点を絞るべきなのか、「暖かみ」に焦点を絞るべきなのか、混乱してしまうのである。「物語」そのものは残酷だが、しかし「映画」は暖かい。この点は、とても困った。そう、「困る映画」だった。キューブリックとスピルバーグそれぞれの特徴がよく表れているという点で、興味深くはあるのだが、しかし、この物語は、どうしても、残酷な演出で観たかったという気持ちが、やはり残る。そうした期待を込めつつこの映画を観ていると、困ってしまうのである。その残酷さを期待しているところへ、「なぜか」暖かさが迫ってくるのだ。
 だが、この失敗は私個人のもので、全ての人にあてはまるわけではないと思う。「キューブリックの企画」という部分を意識しすぎたのがまずかったわけで、素直にスピルバーグの作品を観に行けばよかったのだと思う。次に観るときはスピルバーグの映画として観ることにしよう……。

(ピノキオ+鉄腕アトム+メトロポリス+妖怪人間ベム)×(ディズニー+手塚治虫)×(キューブリック)÷(スピルバーグ)
 ああっ、つい本当のことを、手が勝手にっ。

スピルバーグファンの方へ。スピルバーグに恨みはないんです、いや本当に。でも、キューブリックが撮ったものを観たかったんです。ただ、ただそれだけなんです……ううううう(崩れ落ちながら)。

しかし、興行的にはこちらのほうが明らかに成功してるわけで、その点はしっかりと評価しなければいけない。
 優れた作品とは何か、というテーマに関わるジレンマがはっきりと表れている点でも、やっぱり面白い映画ではあります。

10 FRI
思ったより本を読みたくならないので、バイトでも探すかな〜って、夏休みに入ってから探しはじめても残ってないのかしらん。
 いやいやしかし、時間を資源と考えるフォーディズム的合理主義の虜になって焦るのはイカン。ていうのは単なる正当化なんだけど。うー、勉強なんかしてると言い訳ばかり巧くなってよくないですね。とはいっても、「時は金なり」という言葉には同意しかねる部分がかなりあるんだけど。でも資本主義社会に生まれてしまった以上は仕方ないことなんだろうなぁ。
 てか、んなこといってる間にバイト情報誌でも読めって>俺。でもいやほら、本を読む気力がないから(永遠循環)。
 でも、ちょっと働いたほうが良さそうっていうか働きたいカンジ。久しぶりに。

09 THU
コイズミさんは、「虚心坦懐に、熟女としてみる」のはどうか。
 ああ、小ネタにもキレがない。

ここで、今日の無断引用のコーナー。

24 許せないタイプのサイトは?
「ほうら私(俺)ってこんなにつらいの」っていうサイト。

25 嫌いなサイトを教えてください。
「ほうら私(俺)ってこんなにかわいそうなの」っていうサイト。
 うはははは! この意見には全面的に賛成なのですが、しかし自分でもやってしまったりするので、他人にあまり強くは言えませんな。
 個人的には、その「こんなにつらいの/かわいそうなの」の表現がものすごく面白いとか、かなり高いレベルで結晶している場合は許せると思うのですが、もちろんそう簡単にできることじゃないし。

むー、「つらいの/かわいそうなの」とアピールすることによって自意識を温存する、という形式もなかなか興味深いカモ。なぜ温存したいのかな。人間は、「できれば変化したくない」という原則を常に抱えていて、過去によって規定された自分を否定されたくないという願望があり、いわば人間は、物理的にだけでなく、時間的・社会的・人格的にも「慣性の法則」に従って行動している。
 変化しつづけながら生きることができても良さそうなものなのに、そうすることはなかなかできない。でも、なぜ人間は「慣性の法則」に従わなければいけないのだろう。そもそも変化することに対してストレスを感じなければ物事がスムーズに運びそうなのに、残念ながら人間はそうできていないみたいだ。
 その問いへの解答をムリヤリ考えてみると、次のようになる。人間は日々、すべての状況に対応しうる一般的な行動原則を作ろうとして生きているのではないか。つまり、「現在の自分」を一般法則と仮定し、それを眼前の状況に対してひとまず適用してみるのである。そして、「現在の自分」という行動原則によって眼前の状況を乗り切ることができた場合は、「現在の自分」が以前よりもさらに一般的な(に近い)行動原則である可能性が高まるわけで、人間は常にそれを求めているのだから、喜ばしいことであると。で、人間は「現在の自分」が一般的な行動原則であってほしいという願望を持っているので、たとえ「現在の自分」が眼前の状況に対応できるものではなかったとしても、できればそれを認めたくないし、現在の原則によって解決されないものかとしばらく様子を見たりもするのだ。こうして人間は変わろうとせず、変わることができない。
 と、「人間は一般法則を求める動物だ」と仮定してみると、解決するかもしれないと思った。もちろん、「変化する」という機能がなければ人間は絶滅してしまうので、それもできるわけだけど、でも「変化しなくてもよければいいのに」という恒常性が備わっているわけである。
 む、生物学的なシステム論の本が読みたくなった。

07 TUE
あ、トゥナイト2に石井總亙監督が出てる。ああ、初めて見たけどすごく普通の人だ。新作『ELECTRIC DRAGON 80000V』のプロモなんだな。相変わらずバトルものだけど、いつもどおりキレてていいなぁ。やっぱいいよ。
 『チェブラーシカ』とセットで行くか……でも『A.I.』も観ないといけないしなぁ。うがががが。か、金がっ。

06 MON
メモ。服部隆志さんが@ITで連載中の「DoJaによるiアプリの開発入門」。って、どっかで見た名前だと思ったら、この人ウチの講師じゃん。

Virtua Fighter 4』(SEGA-AM2が稼働し始めているらしいので、なんとなく見に行く。が、やっぱりそれほど血は騒がず。ちょっと『テトリスT.A.』をやっただけで帰ってしまったのだった。

電気グルーヴ『The Last Supper』を衝動買いしてみたが、聴こうという気が起きない……なんだこの状態は。単なる夏バテだったらいいんだけど。

ゲームといえば、この前亜血亜家にてプレーしたSILPHEED THE LOST PLANET』(GAME ARTSが面白かったですよ。シューティングも普通に楽しめるし、ムービーも青山北田パワーで強力になってるしで、お得感が味わえます。難易度も、(ほぼ)引退ゲーマーにちょうどいい。

あーしかしヤル気がない。ないない。昨日の日記とか、何だこれ。タイピングソフトまとめるだけまとめて、コメントの一つもないし。
 ヤル気ないなら読書。読書なのだ。本を読んで過ごそう。つーか、それしかないのよね、娯楽。何ということだ。

05 SUN
『ゴルゴ13』がモチーフのタイピングソフトを作ったHOLONですが、その次なるシリーズは、『燃える闘魂タイピング アントニオ猪木1、2、3、打ぁーっ!!』、さらに『恐怖タイピング新聞』だそうです。やられた。
 タイピングソフトはなぜ俺の好きな作品/キャラを確実に突いてきますか。ていうか、ただ単に俺がタイピングソフトにしやすいタイプのものを好むということなんでしょうが。やりてー。つってもまた初プレイクリアなんだろうけど。

ヒマなので、版権がらみのタイピングソフトを並べてみる。実はこのジャンル、多くの企業が競合している激戦区ですね。以下は代表的なもののみ。

SSI TRISTER

  • 北斗の拳 激打 〜タイピング覇王〜 シリーズ
  • あしたのジョー 闘打 〜タイピング泪橋〜 シリーズ
HOLON
  • タイピングスナイパー ゴルゴ13 極射(ゴクウチ)
  • タイピング横浜銀蝿 〜仏恥義理〜(ぶっちぎり)
  • ハートフルタイピング すしあざらし 打ちゅ。
  • ハローキティのFingerTap
  • ラスカルのFingerTap
  • 燃える闘魂タイピング アントニオ猪木 1、2、3、打ぁーっ!!
  • 恐怖タイピング新聞
e-frontier
  • 頭文字D 高橋涼介のタイピング最速理論
  • 機動戦士ガンダム ZAKU打 タイピング一年戦争
  • BRUCE LEE打 〜死亡遊戯的打鍵道
  • スペースインベー打
SOURCENEXT
  • 特打ヒーローズ 宇宙戦艦ヤマト タイピングワープ シリーズ
DigiCube APCOM
 ああ、こんなのまとめてるヒマがあったら働けというツッコミが耳元に聞こえるようですよ、みなさん。

04 SAT
頭痛が痛い、胃も痛い。それがいつまで続くものかは知らないが、ひとまず一生涯こいつと付き合わなくてはならないのである。そう考えただけでも頭痛と胃痛が来るというのに。

「Tommy february6化」という語を考えつく。これは小沢健二における「痛快ブギウギ化」にも通じる概念である。あるいは「猪木原理主義」と言っても良い。

03 FRI
中沢新一『夜中の学校09 宗教入門』(マドラ出版読了。
 とってもお勉強になりました。「キリスト教と仏教、あるいはその他の宗教を含めたとしても、それらが見据えているのは同じもの/ことであり、その表現が異なっているだけだ」という部分が、とても印象深い。
 宗教に限ったことではなくて、科学書や哲学書を読んでいるときにも、「見えているものは同じだが、表現が異なるだけだ」と感じることは多い。難解な科学や哲学がしばしば「宗教」と呼ばれることがあるのも、きっと同じもの/ことを見据えているからなのではないかと思ってみたりする(もちろん、単に「胡散臭い」という意味でもあるが)。

「見えているものは同じだが、表現が異なる」というのは、宗教や科学や哲学を離れてもなお、考えてしまうテーマであろう。それは日常生活でもしばしば感じることであるからだ。
 表現したいものが同じでも表現が異なる、という事態は、もしそれが無かったとすればこの世の中がとてもつまらないものになってしまう。みんなが一つの表現で理解し合えるのならば、文化や芸術の多様性はなくなってしまうはずだからだ。
 しかし、表現が違うことによって起こるディスコミュニケーションは、しばしば苛立ちを感じさせるものでもあって、「うう、脳味噌を直結できたらいいのに」などと、昔からずっと空想していたような気がする。以前にも書いたが、「どうしても言葉が多くなって、それが伝わらなさになっていく」というジレンマも、この空想を後押しするのである。

いちおう注。「脳を直結」という表現を使ったけど、たとえ士郎正宗の漫画のように電脳化した人間同士が脳を直結してコミュニケーションできるようになったとしても、上の問題が即座に解決するわけではないと思います。たぶん、難しい概念を脳味噌に直接伝えても、受ける側にそれなりのベースがないとそれを理解することはできないのではないか、と。わかんないけど。

もう一度、『宗教入門』に話を戻す。
 キリスト教というのは、その最初の存立基盤からして不安定であり、それゆえにダイナミックな動きをするものなのだが、ヨーロッパ人が決めた「正統」という観念はその生来のタイナミズムを固定するものだったので、自然と自滅することになった。それを最も象徴的に表現したのがニーチェの「神は死んだ」というセリフであったが、これは「キリスト教そのものの死」を意味しようとしたのではなく、キリスト教を縛っていた「正統」が死を迎えたことを指摘したのであり、縛りから解放されたキリスト教は、今後もますますダイナミックに動いてゆくはずだ。つまり、この先も「ヨーロッパ的」なものが世界全体に及ぼす影響に変わりはなく、むしろますます重要になってゆくだろう。
 と、中沢は言う。このへんは、かなり驚いた。ニーチェのセリフにしても、それほど深く考えて理解していなかったのだが、この中沢の解釈は一顧するべきだと思う。

他にも仏教の話だとかイスラム教の話だとか、まだまだ面白い部分がいろいろあって、「なるほど、中沢はスター扱いされていたわけだ」と合点が行くのであった。オウムの一件さえなければねー。
 とはいっても、この人はとにかく「信者」ではなく単なる「宗教オタク」なのであって、オウムをほめたのも単なる宗教オタク的な「わかってるねー、オウム」といったことの表現だったのではないかと思うのだが。まぁツイてなかったというべきか。
 とにかく、オウムが云々ということは気にしないで読んでみるのが良いと思われます。
 でも、マドラ出版って面白い本がたくさんあるんだけど、なかなか本屋に並んでないのよねー。また、置いてあったとしても、どの棚にカテゴライズされるべきなのかわからない本が多かったりして、探すのがまた難しいかも。

01 WED
亜血亜と共に映画ツアー。桜木町に行ったら、花火大会による交通制限のため車で入れず、仕方なく本牧へ。んでもって、ほんとは『A.I』と『千と千尋の神隠し』の二本立ての予定だったが、『千と千尋』のみに。

千と千尋の神隠し』(スタジオジブリ
 観賞後の印象は「ジジくさい作品」というものであった。『紅の豚』は「オヤジ臭さ」であり、『もののけ姫』もまたオヤジ臭を放つ作品であったわけなのだが、今回さらに歳をとった感があるのは、おそらく主人公を見守るという視点が前面に展開していることに由来するのだと思う。
 ストーリーが無い、というよりもストーリーはまったくドラマティックではない。というのは、もちろん今までの宮崎作品と比較しての話ではあるが、今回の作品は、千尋という主人公をまず設定し、その千尋が動き回るための世界をじっくりと作り込んでいったという印象である。主人公には実在のモデルがいるらしいので、その子を実際に想定しながら、ジジイである宮崎駿は、その子を楽しませる、あるいは成長させるための世界をじっくりと考えていったのであろう。
 ストーリーは、その世界観よりも前にあったものではないように思える。といっても実際の制作過程がどうだったのかは知らないが、少なくとも完成した作品を観てみると、千尋が実に自由に動いているように見えるのである。なぜそう見えるかといえば、もちろん千尋のキャラクターという要素があるのは間違いないが、それ以上に、千尋とその家族が迷い込む世界の素晴らしさに尽きると言えるだろう。細い穴を通り抜けた先に広がる、ノスタルジックな(しかししっかりと現実離れした)町並みや、「油屋」の内部の作り込み、そして登場するキャラの「匂い」(<ほめてます)を放つリアリティに、すべての情熱が注がれているような気がしたのである。そしてそれらは、宮崎が子供に注ぐ優しさだとか厳しさだとか、感じている苛立ちだとかから生み出されているものなのだろうと思うのだ。
 テクニック面を見てみると、今回はかなりカートゥーンっぽいキャラや演出を増やし、それが全体的に楽しい印象を作る役割を果たしている。ここ最近作に見られた徹底してリアリティを目指す方向とは、意図的にズラしているような印象。同行した亜血亜は、そのへんに関して「若返ったか?」という印象を持ったようだが、あえて最初の「ジジ臭さ」にこだわるとすれば、それを「老いたるがゆえの原点回帰」と説明することも可能だろう。まぁどっちでもいいのではあるが。
 それはともかく、宮崎駿は、この歳になってやっと、家族や身近な人々へと視線を向ける余裕が出てきたのかもしれない。家族孝行してあげてね、って下司の勘繰り余計なお世話ですが。