■KERA・MAP『暗い冒険』を観賞。
有頂天の元リーダーで、ナゴムレコードの主催者でもあるケラリーノ・サンドロヴィッチが作・演出したものだったんだけど、この人はものすごく普通の人だという気がした。つーか普通にコメディなのね。それ以上でもそれ以下でもなく。そういう潔さはむしろエライかもしれない。
『フリクリ』で春原ハル子の声を担当していた新谷真弓のナマ声は、やっぱりかなりキていた、ていうかまんまハル子だったので、そういう意味でも感動した。
■映画版『FINAL FANTASY』の主題歌である、L'Arc-en-Ciel「Spirit dreams inside」のPVは、フルCG+モーションキャプチャでありながら、なかなか自然なカンジでよろしい。
従来、モーションキャプチャのCGキャラといえば「キモい」「ニュルニュルしてる」「プルプルしてる」などと言われ放題だったものだが、演奏中のバンドの動きに関してはなかなか相性が良いのではないかと思った。
といっても、15秒のCMで見ただけで全体を見て判断したわけではないので、あくまで「良さそう」っていうだけなんだけど。
石川球人『巨人獣』を読む。プールに浮かぶ一本糞だけで全てOK。今の漫画がいかに無臭を志向しているか(絵柄を含めて)を思い知らされる。んー、「無臭志向」って鋭いなー。そう捉えたことはなかったんだけど(というのは、俺が臭気の強い漫画を愛好する故なのかもしれないが)、こう言われてから昨今の漫画を思い出していくと、確かにそんな気がしてくる。
■少女マンガには明るくないので前段では考慮外としてるけど、ストーリー的にも絵柄的にも有/無臭の対立はありそう(美内すずえ=有、岡崎京子=無、とか)。
ただ、女性ファンが少年/青年マンガへと流入したことが、「無臭志向」に影響してそうではある(特に絵柄に関しては)。
■「無臭志向」は語れるネタだなー。大友克洋とか井上雄彦とかのポジションを考えてみると、一概にどちらとも言えないんだけど、この二人の影響も確実にあるはずで、それだけでもすごく語れそうな気がするし、他にも様々な影響を考えていくだけで面白そう。
手塚治虫や藤子不二雄をルーツとする「無臭」系と、梶原一騎系の作家や永井豪がルーツの「臭い」系との対立の歴史とか……萌える〜。
■相変わらず目やに増量キャンペーンが展開されているため、眼科に行ったら、結膜炎になってますと言われましたよ。うう、何事も使いすぎはいけませんね。しばらくは寝てすごすことにします。
■まんさき@ダイダラボッチーズよりタレコミがありました。ALiC日進横浜店が潰れたのは、「スゲエ前」だとのこと。そうだったんすな。浦島太郎ですな。
と言われて考えてみたんですが、日進が潰れてから、少なくともコムサストアに改装できるだけの時間があったってことだもんね。コムサストアがオープンしたのもスゲエ前なのかな?
message = 生きるということは、着実に死にむかって一歩前進することだ、って誰かがいってたよーな気もする。フリッパーズギターの3rdアルバムにもそういう歌があったよーな。てことなんで、久しぶりに『ヘッド博士の世界塔』を聴いてみましたよ。このアルバム、レンタルで聴いただけかと思ってたら、ちゃんと買ってあったので、自分で驚きました。
guest = さきちん
■本題はフリッパーズギターではなくして、いわば「死に対する姿勢」とか「死の捉えかた」なわけですが、この点に関しては、「だんだん死んでる」とか「徐々に死んでる」という考え方が気に入っています。
たしか、生物学的な死と社会的な死の違いを考える場合に出てきたんだったと思うんですが、つまり、死というものは、生物学的に考えれば、デジタルなものではないと。人間はいつ「死ぬ」のか? と考えても、意識がなくなった瞬間(うっ……ガクッ、というアレ)なのか、心臓が止まった瞬間なのか、脳波が止まった瞬間なのか、結局どこなのかよくわからない、ということです。
で、この考えを勝手に拡大解釈して、心停止とか脳死とかそういう状態を考えるまでもなく、普通に健康な状態であっても、それは死の過程であると考えることもできると思っています。つまり、一生涯すべて「死んでいる/死につつある」と考えるわけですね。ある一点において「死」があるのではなく、連続的にある、というか。グラデーションのような。だからこの場合、「生≒死」というような図式にすることができるわけです。
ていうか、「生きてるのに死んだ人」ってのも、こういうイメージなんでしょうかね。
■と思ったのですが、視覚ではなく聴覚を使うという意味で、音楽ってのはいいかもしんないっすね。楽器よ楽器。部屋をふと見れば、ギターがホコリかぶって転がってるじゃないさ。
というわけで、まずは基本コードから覚えますよ。えーと、教本教本。イー、イーマイナー、ディー、アーマイナー。
本、読んでんじゃん。
■今後は眼精疲労関係業種への就労者がますます増えると思われるので、視力矯正関連株(?)への投資を考えてみる(だけ)。
■ビックカメラから「もうすぐポイントの使用期限が切れちゃうぜ」というDMが来たので、じゃあゲームキューブも発表になったことだし、そろそろ『ムジュラの仮面』でもこましたろかしらん、っていまさらムジュラかよっ! なんていう関東一のツッコミもまじえながら、ブラブラと横浜へ。
横浜駅は相鉄口を出て、さっそくビックカメラへ向かおう……と思ったら、なんか景色に違和感があって、ビックへの道の途中にある見慣れたはずの建物が、妙に瀟洒な構えになってるような、なってないような、てんでよく目をこらしてみると、建物そのものの形は変わってないものの、壁面に "COMME ÇA STORE" なんて書かれてる。
予想はしていたものの、とうとう潰れたか、ALiC日進。あそこの6Fにあった、ワケのわからない洋食屋のオムライスは、予備校時代の心の友だったのになぁ。それにそれに……と、ALiC日進との思い出が走馬燈のように……駆けめぐるほどの量はないんだけど。
てか、日進つぶれたのいつ?
■なんて軽くショックを受けつつ、ビックカメラへ。店員に「ムジュラあります?」て聞いたら、奥まで在庫を探しにいってくれたはいいものの、戻ってきたときに彼女が手に持っていたのは、『ムジュラの仮面』の拡張パックなし版と、別売り拡張パック。
おいおい、それじゃ高くついちゃうだろ〜と思いながらも、ここでポイントを使わないと約3000円ぶんが水泡に帰すため、「パックつきのありません?」「ないです」なんつー事務的会話をこなしつつ、仕方なく購入。う〜、ドンキーコング64のパックつき版+ムジュラの仮面パックなし版をどっかの中古屋で買ったほうが絶対にお得なのだが、でもいますぐやりたいという欲望も強まっていたため、抗しきれずに買ってきてしまったのであった。まぁいいか。
■てなこともありつつ、ひとまずムジュラを買って、さらにそこから東急ハンズに寄って、その帰り道に、ハンズ方面からコムサストアすなわち元ALiC日進を眺めてみる。あ〜ここいらの景色も変わったね〜って、あれ? 看板に「ALiC日進」てしっかり書いてある。あれれれれ? 生きてるのかしら、と思って中を覗いてみたら、やっぱりほとんどコムサばっかり。だけど、かろうじて上のほうのフロアで生きているらしい。
どう考えても使えなかったALiC日進横浜店でも、地下のホビーコーナーだけは、唯一オタクに評価されていた部門だったのだが、やはり唯一の黒字部門であったのか、名称を「ALiCホビーミュージアム」なんてのに変えているものの、しっかりと生き残っていたのだった。
で、コムサ店内をチラ見しつつ、問題の「ホビーミュージアム」へ。なんだか店構えもシャラシャラ感をかもし出していて、圧力受けまくってんな〜などと邪推してみたりする。しかし横浜のモデラー&鉄ちゃんどもは、ここを利用する以外にほぼ選択肢がないわけで、まぁ直通エレベータはあるものの輸送能力は乏しく、それ系の人とコムサストアから流れてきた客が混在することになるであろうこの店は、今後注目に値するスポットであろう。
さらに上の事務所フロアには、ファイブ・フォックス(コムサなどのブランドを経営してる会社)とALiC日進が混在しているらしい。幼少のみぎり、タミヤの「フォックス」を買ったのもここだったのだが、その店がファイブ・フォックスに乗っ取られるという事態に、なんとなくゆる〜い因果を感じつつ、コムサストア(気分的には「元日進」)を後にしたのであった。
■江國香織『流しのしたの骨』(マガジンハウス)と、町田康『屈辱ポンチ』(文藝春秋)を読了。
さて、次は何にするか……。
■福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社)には、作家への採点のほかに、いくつかのコラムが収録されていて、こちらも採点部に劣らずなかなか面白い。特に一発目の「純文学とエンターテイメントはどう違うか」における指摘は、かなりビシッと言い当てていると感じる。
福田はまず、「エンターテイメント=商品、純文学=芸術」という見方に対して、現在の流通/消費システムの上では両者の垣根などなく、「相互浸透的」なものであると批判している。売れないものは普及しないので商品性は欠かせないが、しかし売れるものしか流通しないのでは、質的に向上しなくなってしまう。商品性と芸術性は、どちらも欠かせない要素であると。
次に、「エンターテイメント=直木賞、純文学=芥川賞」といった、ただ単に制度的な区分けであるという見方に対しても、直木賞作家が純文学作家として、芥川賞作家がエンターテイメント作家として認知されている場合もあることなどを挙げ、批判する。
しかしそれでもなお、彼は「エンターテイメント」と「純文学」の間に差異はある、と主張する。その根拠は以下のようなものだ。
その差異を一言で云えば、意識の差、書く時における意識のもち方の違いということになるだろう。あるいは方向性であろうか。う〜ん、なるほど。エンターテイメントの作品が読者にスリルを与えることはあっても、それは根本的に読者を不安にするのでなく、基本的には通念の範囲内で行われていて、不安の前に基本となる安心があるのだと。エンターテイメント(安心)のサスペンス(不安)という場合、[安心→不安]という二段階構造になっている。それに大して純文学の作品は、最初から不安を煽るわけだ。作品内容がほのぼの系のものであっても、根本的には読者の通念からはみ出ているので、基本的に不安であると。純文学(不安)でほのぼの系(安心)の場合は、[不安→安心]という構造になっている。
エンターテイメントにおいて、作家は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、作品は書かれる。その枠内において、人間性なり恋愛観なり世界観といったものは、いかに見事に、あるいはスリリングに書かれていても、読者の了解をはみだし、揺るがすことがない。
純文学の作家は、読者の通念に切り込み、それを揺らがせ、不安や危機感を植え付けようと試みる。
あるいは、このように云ってもいいだろうか。
エンターテイメントの作品は、読者に快適な刺激を与える。読者を気持ちよくさせ、スリルを与え、感動して涙させる。
純文学の作品は、本質的に不愉快なものである。読者をいい気持ちにさせるのではなく、むしろ読者に自己否定・自己超克をうながす力をもっている。
いわばエンターテイメントが健康的なビタミン剤であるとすれば、純文学は致命的な、しかしまたそれなしでは人生の緊張を得ることのできない毒薬である、と。
■本を開いたまま立てて固定しておけて、かつ持ち歩きできるほどコンパクトな、そんなアイテムを探しています。この機能をそのまま実現したアイテムを学校の図書館で使っている人がいて、それを見て以来欲しくてしょうがないんですが、文房具屋とかで探せばすぐに見つかるだろうと見込んでたらぜんぜん見つからなくて、困っています。
どこで買ったのか聞けばよかった……と後悔しても始まらないのでネットで検索してみたものの、まずとにかく呼び名がわかりません。
一般名詞として候補に挙がるのは、「書見台」「ブックホルダー」「ブックスタンド」などなんですが、この三つは、微妙に異なる目的の器具を指す名詞としても使われている言葉ばかり。「書見台」といえば、時代劇で武士が漢文を読むときに使ってるような、文字通り木製の「台」を指すことのほうが多いし、「ブックホルダー」は、ただ単に雑誌を何冊か立てておくための細長い箱だったりするし、「ブックスタンド」はかなりイイ線いってるんだけど、ときには「ブックエンド」と同じもの(閉じた複数の本を両側から挟んで立てておくための器具)を指すのに使われることもあって。
というわけで、イメージ的には「エレコムデータホルダーブックスタンドタイプ」みたいなカンジで、本を立てた状態で固定できるんだけど、針金で作られていてもっとコンパクトなものです。これもなかなかよかったんですが、ちとゴツすぎる。アケミちゃんも惜しいとこだけど、できれば立てておきたい。
どなたかご存知ないでしょうか。
■前回のキャンペーン期間中には応募し損ねたんだけど、またYonda? CLUBのプレゼントキャンペーンをやるらしい。こんどこそYonda? ビデオもらうぜ!
■ひとまず、村上春樹を把握しておく必要を感じたため、『ねじまき鳥クロニクル』<1>〜<3>と、『1973年のピンボール』を買ってみたり。ていうか、面白いってことが一番の動機になってるのはもちろんですが。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、某ブックオフのセール時に下巻だけ買ってあったりします。たまには下巻から読み始めてもいいかな〜と思って読み始めたものの、ただでさえパラレル構造になっているところが、余計わけわかんなくなったので中断中。上巻をゲットせねば。
■あと、福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社)を購入。
価値観なき時代に価値を提示するという、一見無謀にも思える試みをあえてするという態度に興味をそそられる本ではあります。この人は、石原慎太郎を支持していることからもうかがえるように、「父的な」規範的価値(の復権)を重んじている人でもあるので、こういうことをしても違和感を感じない(あるいは、あえてやろうとしている)のかもしれません。ある人は、「あの人は文壇を政治的に牛耳りたがってるんだよ」とも言ってましたが、いずれにしても、この果敢な行動は、見ていて面白いです。
あるいはそこまで言わなくても、80年代に流行った「マニュアル化」の流れの延長線上にあるとして理解できるかもしれない(マニュアル化が悪いと言いたいわけではない。便利だし)。
■精神分析系の本とか社会科学系の本もずいぶんたまってるけど、どうも食指が動かない……しばらくは文学でいいかな。
■引き続き『ノルウェイの森』進行中。ああ、決定的な表現を見つけてしまった。
人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。作中では1969年の時点で、この表現が使われている。とすれば、69年からすでにこういう気分は蔓延していたか、少なくとも村上春樹はこのような気分の中にいたんだろう。で、そこからもう30年以上経ったはずなのに。
(下巻159頁)
■さらに別な箇所を引用してみよう。こちらは、「当時」と現在において「変化」があったと思われる点なんだけど、それが「進歩」や「成長」と表現できるポジティブなものなのかどうかはわからない。
おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。[……]なぁキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。とにかく自殺する人の多い作品なんだけど、その中で、生き残っている主人公が吐くセリフが、これ。でも、現在では、生きることにここまでの積極性が必要なのかどうか、さらに曖昧になっていると思う。
(下巻180頁)
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。よりも、ほんの少しだけ深化しているのではないかと思う。
(上巻46頁)
■というわけで、発売当時はべつに欲しくもなかったんだけど、最近じわじわと欲しくなっていたので買ってみた、鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版)から。
僕の知人に、それを飲んだら平気でビルから飛び降りちゃうほど頭のなかがメチャクチャになっちゃう“エンジェル・ダスト”っていう強烈なドラッグを、金属の小さなカプセルに入れてネックレスにして肌身離さず持ち歩いてる人がいる。「イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから」って言って、定職になんか就かないでブラブラ気楽に暮らしている。諦めが一歩進んだのか、それとも気楽になったのか、強くなったのか、甘くなったのか。いや、ポジティブ/ネガティブという価値判断は、相応しくないだろう。
この本がその金属カプセルみたいなものになればいい。
■んでもって、村上春樹『ノルウェイの森 上・下』(講談社)読了。
「倫理」をキーワードにして、漱石の『こころ』とかと比較してみても、けっこう面白いかもしれない。漱石の悩みがシンプルに思えて、羨ましくなったりするかもしれないけど。
でも、ほんとにこれベストセラーになったの? という感覚が拭えなかったりする。というのはつまらないという意味ではなくて、内容が思ってたよりマニアックな気がしたから。これを一般に売ってしまうあたりが、村上春樹の文章/文体の恐ろしさなのかしらん。すげえ。
■柘植久慶『戦場の人間学』(集英社文庫)読了。
1987年に発表された本だけど、終戦記念日や靖国問題と絡めながら読んだら、予想以上に楽しめた。実は、「俺はすごいぜ! こんなに男らしいぜ!」という自慢本でもあるんだけど。
マジで掛け値なしに、すごい人です。
男の中には、「女子大」ということばの響きに胸がときめいてしまう人もいるだろうが、これに「哲学」ということばが追加されているため、頭がしめつけられるような感じが加わり、全体として、ヘッドロックをかけられているような、心悸亢進と偏頭痛が一緒にきたような感覚に襲われるのではなかろうか。「胸がときめいて頭がしめつけられる」ような組み合わせとして、「初恋」と「偏微分方程式」、「酒池肉林」と「道徳形而上学原論」、「南十字星」と「重加算税」などが考えられる。と著者も言うように、女子大で哲学とはいかにも大変そうで、ここまで笑いのネタを仕込まないとウケないのかしらんと邪推したりもするのであるが、しかし、皮肉はあまり女性に好まれないという個人的な経験則もあるため、単なる著者の性質なのかもしれない。
(11頁)
■作:アゴタ・クリストフ、訳:堀茂樹『悪童日記』(早川書房)読了。すげー面白ぇー。
主観的な表現(「似ている」「美しい」「親切だ」「好きだ」など)を排し、あくまで客観的な事実の記述のみを採用して、主人公の双子が記した日記、という形式をとった、中編小説である。出てくるのが変態やキチガイばっかりで、とてもやられた。
しかも、こんな作品が、(手元の本で確認する限り)91年の初版から4年半で39版までいってるあたり、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思った。といっても、変態とキチガイだけの本では確かにあるのだが、そのベースとして、戦争(の冷酷さ?)をテーマとしているので、そっちの効果なんだろうけどね。変態やキチガイを扱うにしても、その裏に普遍的なテーマを忍ばせておくとよい、という教訓も得られる。
『A.I.』に関して、「希望」だのと日和ったことを言ってたところに、いきなり冷や水を浴びせられたカンジ。『A.I.』を観てから一週間もたたないうちに、しっかりこういうものが目の前に現れてくれるあたりは、「さすが俺」といったところ。運命の神様はよくわかっておられます。『ふたりの証拠』『第三の嘘』も読んでみたい。
ところで、この主人公の双子がやってる「鍛錬」ね、こういうのやってた気がする。いや、今でもずっとやってるのかもしれない。
■11日、もしスタンリー・キューブリックが『A.I.』を監督できていたら、「残酷さ/救いようのなさ」を強調したはずだ、という主張をした。だが、果たしてそれは本当に「残酷さ/救いようのなさ」だったのだろうか、という点には、最初から疑問符がついていた(前回は論を一貫させるためにそうしてしまったのだが)。もちろん「残酷さ/救いようのなさ」を描こうという意図は(部分的に)あったとしても、それだけではなかったのではないか、という感覚は強くあった。
つまり、この物語には「愛」が欠かせないのである。そして、「絶望」の背後に潜む「希望」、あるいは「希望」の背後に潜む「絶望」というものがあり、つまりその表裏一体の関係こそが、この作品のキモなのである。そもそも「希望」がなければ「絶望」も生まれはしない。また、「絶望」がなくても「希望」はあり得ない。まず最初に、その背中合わせの関係があり、そこから改めて、その「希望」と「絶望」のどちらを強調するか、という点が問題となっているのである。このようなテーマは『A.I.』に限らず、キューブリックの作品全体を眺めたとしても、多かれ少なかれ変わらないことだと思う。
スタンダードなキューブリックのイメージは、次のものであろう。まず背中合わせの関係を提示しておいて、そこから「絶望」の面を強調する作家。確かにそれは的を射ている。だが、死ぬ間際までそうだったのかどうかはわからない。「希望」の面を強調しようとするようになった、あるいは今までも伝えていたつもりだったが、それが伝わっていないことを悲しんでいたのかもしれないと思うのだ。
この感覚は、『A.I.』のパンフレットを読んでいて、さらに強まった。
一度スタンリーはこう言っていた。“君が『A.I.』の監督をやるべきだ。私がプロデュースする”と。実際、紙に“スタンリー・キューブリック製作・スティーブン・スピルバーグ監督作品”とタイトル・カードを書いて見せてくれたんだ。[……]ショックを受けた僕は『なぜ自分で監督しないんだ、スタンリー?』と言った。すると彼はただ『なぜって、この映画は私よりも君の感性に近いと思ったからさ』と答えたキューブリックは、表裏一体の「希望」と「絶望」のうち、「絶望」を強調することに、非凡な才能を発揮した作家だった。しかし一方で、常に「希望」を描くことをどこかで願い続け、しかしそれがうまくいかないことにジレンマも抱き続けた作家であったのだと思う。
(『A.I.』パンフレット「『A.I.』誕生秘話」より)
■あるいは、以前面白いと感じていたことが、現在は関心の外にあるということなのかもしれない。それは望んだ変化でもあり、望まざるを得なかった変化でもあるのだろうが、しかしそのことが喪失感を増幅しているのも間違いなさそうだ。
行く河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず、やっぱ諸行無常。この気分だけは、前からずっと変わらない。
■もうひとつCMで気になることといえば、「サガミオリジナル」(相模ゴム工業)のCM(ここで全てのバージョンが(!)ダウンロード可能)。
果たして、伊勢谷友介が演じているのは、チンコなの? それともサガミオリジナルを装着している人なの? と考えただけで、今日も眠れません。ウソ。
■土曜日だとはわかってたけど、お盆休みに入ったから、一応は「首都圏」に含まれるこのへんの映画館は空いてるに違いない! という目論見でマイカル松竹シネマズ本牧へ向かったら、その目論見は大外れで、大盛況でした。チケット売場が大行列してやんの。でも、もう帰りたいという気持ちをグッとこらえて、大量のカップルと共にチケットを買うのであった。
というわけで、『A.I.』を観賞。
『A.I.』
今さら説明するまでもないが、この映画はスタンリー・キューブリックが長年にわたって構想し、そしてついに生前に完成することができなかった企画を、スティーブン・スピルバーグが引き継いで形にした映画である。そのため、どうしても「ここは、キューブリックだったらどう演出しただろう」と考えながら観てしまう。
キューブリックが一貫してテーマとしつづけたのは、人間の「残酷さ」「救いようのなさ」である。今回もその例に漏れず、語られる物語そのものは残酷で、救いようのない話だった。だが、その残酷さは、スピルバーグによって見事に薄められている。当然のことかもしれないが、やはりキューブリックのように徹底した姿勢は見られず、どうにも「ヌルい」のである。もちろん、それがスピルバーグ作品の馴染みやすさに直結しているのであって、「ヌルい」という表現は決して「手抜き」という意味ではない。偏執狂的なまでに気を配った緊張感がない、ということだ。逆にいえば、スピルバーグ作品に見られる「ほのぼの感」が前面に出ているわけで、肩に力を入れなくても楽しめるものではある。
話そのものは、とても残酷なものである。普通に考えたら、この映画は残酷に作る以外あり得ないのではないかとさえ思うほどに。と、ここで本来は映画の内容を説明しておくべきなのかもしれないが、まだ公開中ということもあり、説明は省略する。とにかく残酷で救いようのないものなのである。だが、驚いたことに、エンドロールが流れている間、その「苦み」を感じない。もちろん、しっかりと頭を回せばその残酷さは感じられるのだが、ただ普通に観ている限りでは、それは伝わってこないのだ。残酷なストーリーだという印象を持たないままの人も、相当数いるかもしれない。これはむしろ驚くべきことである。
おそらく、スピルバーグの演出によって、物語そのものが持つ「臭み」が消されているのだ。素材そのものが持つ残酷さという「臭み」が消されているのは、まさにスピルバーグの才能以外の何ものでもない。いや、まさにその才能が炸裂している。ただし、それを良しとするかどうかは、また人によって分かれるところだろう……キューブリックファンであり、それほどスピルバーグファンではない私としては、イマイチもの足りないのだが。
スピルバーグは、どこかの評の表現を借りるが、「大衆向けで後味の良い映画を作る監督」である。対してキューブリックは、徹底的に「後味の悪い」映画を作り続けた人である。この点で、両者は鋭角に対立している。
今回の『A.I.』も含めて、スピルバーグの作品はとてもテンポが良い。対してキューブリックの作品は、テンポが良いかといえば決して良くはなく、むしろ重苦しい。しかしそれはおそらく意図的であって、表現を変えるとすれば、とても激しく強弱をつけるのである。そして、強調されるのは常に「人間の残酷さ」という部分だった。だが、『A.I.』は非常にテンポが良く、さらにその良いテンポの中でもしっかりと強調されるのが「暖かみ」なのだ。同じシーンを作らせても、そこから二人はまったく違う意味を鑑賞者に伝える。
『A.I.』観ている間中、ひとつのジレンマに苦しめられた。というのは言いすぎかもしれないが、これをキューブリック作品として観るべきなのか、スピルバーグ作品として観るべきなのか、「残酷さ」に焦点を絞るべきなのか、「暖かみ」に焦点を絞るべきなのか、混乱してしまうのである。「物語」そのものは残酷だが、しかし「映画」は暖かい。この点は、とても困った。そう、「困る映画」だった。キューブリックとスピルバーグそれぞれの特徴がよく表れているという点で、興味深くはあるのだが、しかし、この物語は、どうしても、残酷な演出で観たかったという気持ちが、やはり残る。そうした期待を込めつつこの映画を観ていると、困ってしまうのである。その残酷さを期待しているところへ、「なぜか」暖かさが迫ってくるのだ。
だが、この失敗は私個人のもので、全ての人にあてはまるわけではないと思う。「キューブリックの企画」という部分を意識しすぎたのがまずかったわけで、素直にスピルバーグの作品を観に行けばよかったのだと思う。次に観るときはスピルバーグの映画として観ることにしよう……。
■(ピノキオ+鉄腕アトム+メトロポリス+妖怪人間ベム)×(ディズニー+手塚治虫)×(キューブリック)÷(スピルバーグ)
ああっ、つい本当のことを、手が勝手にっ。
■スピルバーグファンの方へ。スピルバーグに恨みはないんです、いや本当に。でも、キューブリックが撮ったものを観たかったんです。ただ、ただそれだけなんです……ううううう(崩れ落ちながら)。
■しかし、興行的にはこちらのほうが明らかに成功してるわけで、その点はしっかりと評価しなければいけない。
優れた作品とは何か、というテーマに関わるジレンマがはっきりと表れている点でも、やっぱり面白い映画ではあります。
24 許せないタイプのサイトは?うはははは! この意見には全面的に賛成なのですが、しかし自分でもやってしまったりするので、他人にあまり強くは言えませんな。
「ほうら私(俺)ってこんなにつらいの」っていうサイト。
25 嫌いなサイトを教えてください。
「ほうら私(俺)ってこんなにかわいそうなの」っていうサイト。
■むー、「つらいの/かわいそうなの」とアピールすることによって自意識を温存する、という形式もなかなか興味深いカモ。なぜ温存したいのかな。人間は、「できれば変化したくない」という原則を常に抱えていて、過去によって規定された自分を否定されたくないという願望があり、いわば人間は、物理的にだけでなく、時間的・社会的・人格的にも「慣性の法則」に従って行動している。
変化しつづけながら生きることができても良さそうなものなのに、そうすることはなかなかできない。でも、なぜ人間は「慣性の法則」に従わなければいけないのだろう。そもそも変化することに対してストレスを感じなければ物事がスムーズに運びそうなのに、残念ながら人間はそうできていないみたいだ。
その問いへの解答をムリヤリ考えてみると、次のようになる。人間は日々、すべての状況に対応しうる一般的な行動原則を作ろうとして生きているのではないか。つまり、「現在の自分」を一般法則と仮定し、それを眼前の状況に対してひとまず適用してみるのである。そして、「現在の自分」という行動原則によって眼前の状況を乗り切ることができた場合は、「現在の自分」が以前よりもさらに一般的な(に近い)行動原則である可能性が高まるわけで、人間は常にそれを求めているのだから、喜ばしいことであると。で、人間は「現在の自分」が一般的な行動原則であってほしいという願望を持っているので、たとえ「現在の自分」が眼前の状況に対応できるものではなかったとしても、できればそれを認めたくないし、現在の原則によって解決されないものかとしばらく様子を見たりもするのだ。こうして人間は変わろうとせず、変わることができない。
と、「人間は一般法則を求める動物だ」と仮定してみると、解決するかもしれないと思った。もちろん、「変化する」という機能がなければ人間は絶滅してしまうので、それもできるわけだけど、でも「変化しなくてもよければいいのに」という恒常性が備わっているわけである。
む、生物学的なシステム論の本が読みたくなった。
■『Virtua Fighter 4』(SEGA-AM2)が稼働し始めているらしいので、なんとなく見に行く。が、やっぱりそれほど血は騒がず。ちょっと『テトリスT.A.』をやっただけで帰ってしまったのだった。
■電気グルーヴ『The Last Supper』を衝動買いしてみたが、聴こうという気が起きない……なんだこの状態は。単なる夏バテだったらいいんだけど。
■ゲームといえば、この前亜血亜家にてプレーした『SILPHEED THE LOST PLANET』(GAME ARTS)が面白かったですよ。シューティングも普通に楽しめるし、ムービーも青山・北田パワーで強力になってるしで、お得感が味わえます。難易度も、(ほぼ)引退ゲーマーにちょうどいい。
■あーしかしヤル気がない。ないない。昨日の日記とか、何だこれ。タイピングソフトまとめるだけまとめて、コメントの一つもないし。
ヤル気ないなら読書。読書なのだ。本を読んで過ごそう。つーか、それしかないのよね、娯楽。何ということだ。
■ヒマなので、版権がらみのタイピングソフトを並べてみる。実はこのジャンル、多くの企業が競合している激戦区ですね。以下は代表的なもののみ。
SSI TRISTER
■「Tommy february6化」という語を考えつく。これは小沢健二における「痛快ブギウギ化」にも通じる概念である。あるいは「猪木原理主義」と言っても良い。
■「見えているものは同じだが、表現が異なる」というのは、宗教や科学や哲学を離れてもなお、考えてしまうテーマであろう。それは日常生活でもしばしば感じることであるからだ。
表現したいものが同じでも表現が異なる、という事態は、もしそれが無かったとすればこの世の中がとてもつまらないものになってしまう。みんなが一つの表現で理解し合えるのならば、文化や芸術の多様性はなくなってしまうはずだからだ。
しかし、表現が違うことによって起こるディスコミュニケーションは、しばしば苛立ちを感じさせるものでもあって、「うう、脳味噌を直結できたらいいのに」などと、昔からずっと空想していたような気がする。以前にも書いたが、「どうしても言葉が多くなって、それが伝わらなさになっていく」というジレンマも、この空想を後押しするのである。
■いちおう注。「脳を直結」という表現を使ったけど、たとえ士郎正宗の漫画のように電脳化した人間同士が脳を直結してコミュニケーションできるようになったとしても、上の問題が即座に解決するわけではないと思います。たぶん、難しい概念を脳味噌に直接伝えても、受ける側にそれなりのベースがないとそれを理解することはできないのではないか、と。わかんないけど。
■もう一度、『宗教入門』に話を戻す。
キリスト教というのは、その最初の存立基盤からして不安定であり、それゆえにダイナミックな動きをするものなのだが、ヨーロッパ人が決めた「正統」という観念はその生来のタイナミズムを固定するものだったので、自然と自滅することになった。それを最も象徴的に表現したのがニーチェの「神は死んだ」というセリフであったが、これは「キリスト教そのものの死」を意味しようとしたのではなく、キリスト教を縛っていた「正統」が死を迎えたことを指摘したのであり、縛りから解放されたキリスト教は、今後もますますダイナミックに動いてゆくはずだ。つまり、この先も「ヨーロッパ的」なものが世界全体に及ぼす影響に変わりはなく、むしろますます重要になってゆくだろう。
と、中沢は言う。このへんは、かなり驚いた。ニーチェのセリフにしても、それほど深く考えて理解していなかったのだが、この中沢の解釈は一顧するべきだと思う。
■他にも仏教の話だとかイスラム教の話だとか、まだまだ面白い部分がいろいろあって、「なるほど、中沢はスター扱いされていたわけだ」と合点が行くのであった。オウムの一件さえなければねー。
とはいっても、この人はとにかく「信者」ではなく単なる「宗教オタク」なのであって、オウムをほめたのも単なる宗教オタク的な「わかってるねー、オウム」といったことの表現だったのではないかと思うのだが。まぁツイてなかったというべきか。
とにかく、オウムが云々ということは気にしないで読んでみるのが良いと思われます。
でも、マドラ出版って面白い本がたくさんあるんだけど、なかなか本屋に並んでないのよねー。また、置いてあったとしても、どの棚にカテゴライズされるべきなのかわからない本が多かったりして、探すのがまた難しいかも。