■ July 2001
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31 TUE
羽生生純『恋の門』<3>は、eS! Booksで注文しました。

30 MON
俺が投票した人は、地域選出でも比例でも落選していた。うう、無意識にマイナーを支持してしまうクセはここでも抜けないのね。

再び子系さんからお便りをいただきました。

message = テスト受けなきゃマメ!
guest = 子系まさよし
 うう、すいません。レポートその他に追われている間に、頭から抜けてたみたいです。これでこの先の単位計算が狂ってしまうので、自分でもヘコんでるんですよ。うう。
 Yahoo! BBが本サービスの提供を延期する()そうで、子系さんも大変そうですが、がんばってくださいね。

29 SUN
To doリスト。
  1. 部屋の蔵書ダイエット。目標、200〜300冊くらい減。
  2. 部屋のレイアウト変更。ただし蔵書ダイエットが前提なので、こっちは今年度末くらいまでに。
  3. デスクトップPCのOS再インストール。
  4. ノートPCのOS再インストール。
  5. 本を読む。
  6. 映画を観る。
  7. テレビを観る。
  8. 演劇を観る。
  9. 考える。

国民の権利を行使しに向かう。
 いつも通り「ドラえもん」に投票しようかと思ったものの、今回は改革ムードに便乗して「ドラ美ちゃん」を推すべきか、あるいは開票員の笑顔を確実に誘うため「剛田ジャイ子」とするべきか、しかしもし開票員が若ければ「ジャイ子」がストライクであろうが、もう少し高齢であれば「ドラえもん」であろう、あるいはその中間であったならば……と悩んでいるうちに面倒くさくなってきたので普通の候補に投票してみた。

引き続き罠にはまって45冊、2,205円也。

28 SAT
先日書いた建造中のものとは別のブックオフに立ち寄ったら、3日限定で、100円の単行本・文庫・新書・少女マンガどれでも5冊で100円、100円以外の単行本・文庫・新書・少女マンガは100円、という凶悪なセールをやっていたので、そのままブックオフの囚人になる。
 12冊買って420円て。

テストを一つ受けてないことを、テスト期間が終わった翌日になって気づき、ショックを受ける。マジで忘れてた。気合を入れて受けてた佐藤雅彦の講義だったのになぁ。悔しい。

『酔拳2』を観た。やっぱジャッキーは香港モノがいいよなぁ。中国政府はジャッキーをハリウッドに行かせないために返還後の方針を考えるべきだったね、いやマジで。
 今週は「スパルタンX」も観たし、ジャッキー特集であった。

あるところでたまたま『マルコヴィッチの穴』のあらすじを読んだんだけど、これって落語の「あたま山」じゃないか。まぁ、落語は飛び込むとこがサゲなのに対して、マルコヴィッチのほうはその先も続くらしいのだが。
 つーか、自己言及構造なのかしらね、流行の。気になったので観てみようかな、機会があったら(観ない兆候)。

26 THU
『恋の門』の展開が気になってテスト勉強もおちおち手につかないため、今日は駅前方面の探索に向かう。
 でも、どこにもない。漫画の在庫を自ら誇っている本屋に行っても、ない。ので、そこの店員に聞いてみたら「入荷してないですねー」とのこと。実際に発売しているのかどうかは店員もわからないとのことだったが、しかしネットでは「買った」という話も(ほんの少しだけ)目にしたし……。読みてぇ! 読めないとなると余計に!

25 WED
『恋の門』3巻が売ってねェ!! ていうか、「文化の墓場」「文化果つる地」である藤沢市遠藤から鎌倉市岩瀬近辺の駅前ではない地域にある本屋を探しただけなので、ただ入荷していないだけかもしれないのだが。
 と思ったら、bk1では「近刊」になってて、eS! Booksでは「品切れ」なんですけど、ど〜なってるの?! 売れてるノッ? 出てないノッ?

通学路の途中に、そこそこデカイわりに大したことないために潰れた郊外型店舗の服屋があったのだが、まさに今日、その跡地をブックオフにせんとする工作員たちが夜を徹して働いている現場を大目撃術! ああ、俺を陥れる罠がまたひとつ建設されてゆく。しかも今回は俺の直接勢力圏内である……とうとう来たか。今回の計画は力の入ったものと見え、駐車場までしっかり完備されている。まさに俺ホイホイ。
 ああ、部屋の床の耐久力がレッドゾーンに。といっても、立地条件から考えて、それほど俺好みな本がバカスカ入るとはまったく思われないのだが。

フジテレビの、おすぎとピーコをメインに据えた俺のフェイバリットプログラムである「BACK-UP!」のオープニング主題歌を歌っている人は、昔「みんなのうた」だか「ポンキッキ」だかでかかっていた「パタパタママ」を歌っていた人と同じだと思うのだが、それはともかく、とにかく記憶に残る声の持ち主であるため、この人が何という名前なのか非常に気になる今日このごろ。
 と、呼びかけて返答を待っている間に情報収集マシーンヌである私は即座にgoogleのブックマークをクリックするのであった。
 ああ、そしたらやっぱ一瞬でわかってしまいましたよ。『パタパタママ』は「みんなのうた」ではなく「ポンキッキ」でかかっていた曲で、実は最近も「ポンキッキーズ」かかっていたらしく、去年にリプロデュースされてCDまで出ていました。その名も『パタパタママ Dance Remix “パラパラママ”』というもので、元祖『パタパタママ』(新しいバージョンでは西田ひかるが歌っているらしい)とともに、作曲者である佐瀬寿一さんのページで聴くことができます。
 で、肝心の部分ですが、これを歌っていたのはのこいのこさんという方でした。『パタパタママ』以外にも、『のりたいでんしゃはしるきかんしゃ』や『はたらくくるま1』、『ポンキッキ?(はてな)たいそう』、かぐや姫のカバーである『うちのお父さん』などを歌っていたようです(でも『パタパタママ』しか記憶にないけど)。
 とにかくインパクトある強い声です。声がキてます、かなり。

24 TUE
今日の「言ってあげたほうがいいかな、人として」のコーナー。
 CHEMISTRY「PIECES OF A DREAM」聴いてるひとへ。あんたの半端な夢のひとかけらには、不意に他人を傷つけるほどの力なんてないから、心配しなくて大丈夫。

明日は『恋の門』3巻の発売日じゃゴルァァァ!!

23 MON
情報とは、既にあるものを受け取る作業ではない。受け身で頂くものではなく、積極的に受け取りにいくものである。といっても、要求して既に用意されたものを受け取る、という意味ではない。情報は世界に偏在しているが、しかしそれだけでは情報が情報となることはない。そうではなくて、人間(だけではないかもしれない)が環境を「読む」ことによって情報は「発生する」のだ。だから、世界は情報に満ちているし、もし望むならば、情報は限定された環境からでも無限に引き出すことが可能なものであり、それはむしろ創造行為に近い作業でさえある。
 といっても、「アフォーダンス」なんてトニー谷のギャグみたいな学問用語を話題にしたいのではなくて、要するに「そんなの言わなくても、見てちょっと考えればわかるでしょ」ってなことを思う頻度が非常に多いんだけど、それをわざわざ小難しく書くのがオ〜レのやり方〜♪ ギンギラギンにさりげなく〜♪ じゃなくてまあ小難しく書いておけば少しは賢く見えるかな、という虚勢のためのテクニックなんだけど、それはどうでもよくて。
 「情報は自ら読みにいって作り出すものだ」というのは、「ドアノブは、引くことを人間にアフォードしている」なんていう抽象的なレベルの話じゃなくて、もっと日常的な細々とした出来事についてだって言えることのはずで、たとえば雑誌を読んだりとか漫画を読んだりっていう、ごく普通の「読む」という行為を考えても、そこからどれだけの情報を引き出し、書かれていない情報すら読みとることができるか、という能力は重要性を増しているはずだ。
 こういう能力っていうのは、実は大学受験とかで鍛えられていなければならない部分であって、たとえばセンター試験の小説問題で考えてみると、ある川っぺりに少年と少女が二人たたずんでいるシーンがあって、しばらく読み進んでいくと
少年は川に向かって石を投げた。
って一文に傍線が引いてあったりして、すかさずその部分に対応する問題を確認すると
問一 少年はなぜ石を投げたのか、次の中から最も適当なものを選びなさい。(八点)
なんて書いてあるわけだけど、この問題に対する最も典型的な感想は想像に難くなく、「ウゼー。投げたかったから投げたに決まってんだろ」であるのは論を待たない。がしかし、それではイカンのである。「石を投げた」という行為から何を読みとれるのか、という力が問われているんである。
 たしかに少年は「石を投げたかった」のは間違いないだろうけど、それは一歩手前を読んでいるだけでしかなくて、将棋だって少なくとも三手は先を読まないと勝てないんだから、文章だってきっとそうなのだから、次に問題となるのは「何で石を投げたかったのか」という部分なわけであって、その際に考えるべきは、「河原にたたずむ少年と少女」というシチュエーションである。ほら、いかにもじゃないですか。しかも、石を投げたのは「少女」ではなく「少年」なわけで、そこからだけでも色々と可能性が発生するし、さらには、彼らが「歩いている」のではなく「たたずんでいる」というところに着目してもいい。
 とまぁ、要するに「妄想力」ともいうべき力を、受験期間中に蓄える必要があると、私は切に訴えたいわけで、あります。
 で、俺の場合、理論化されたテクニックを学ぶ以前にそうした能力を鍛えていた、っていうかそうせざるを得なかったということがあって、だから受験に関しても「国語」はわりと得意科目だったわけなのであるが、そういう身からしてみると、あまりに「なんでわからないんですかアンタら」などと思ってしまうことが多かったりして。
 しかしそれが絶対にいいことかというと、これまたいつもの俺の論理展開通りだけど、必ずしもいいことではない。というのは、このように強まった「読解」力は、コミュニケーションの必要を減らしてゆくのであって、情報収集マシーンヌとなってゆくにしたがって他人から引き出せる情報よりも自ら読み出す情報のほうが精緻なものになっていってしまい、さらにマシーンヌが自らの実力を過信し始める頃には、自分がある情報を収集しそこねていたとしても、それを確認する作業を怠りがちになり、実はけっこう穴が開いていることに気がついたとしても、しかしそれをコミュニケーションによっては得ようとせず、自らの読解能力によって得ようとする力が自ずと働いてしまったりもする。もちろんそのほうが信頼がおける場合も多かったりすることはするのであるが、しかしそれでは「情報」の重要な定義の一つであるところの「情報は流通することで価値を発生する」という部分が全くもって滞りがちになってしまう。
 しかし情報はただ独りで黙っていても果てしなくプールされてゆくのであって、そこに他人の関与する可能性があるとすれば「供給を受ける」という役割しか残されていないのであるが、しかし情報が「流通する」ものであるとすれば、貨幣の流通を考えたときのように、相反する二方向の流れが重なっていなければ「流通」とは呼べないのであって、貨幣が流通する方向とは逆の方向に、必ず物資の流れがなければならないのであり、お互いが等価値と思えるものを「交換する」という行為は人間にとって最もプリミティヴな振るまいなのではなかろうか、などと反語調で締めることも忘れない。
 と、勢いだけで書き始めてみたものの、いつの間にか「何文字書けるか」という大学生のレポート的な興味が先行しはじめ、さらにはどこまで長文を続けることができるかってことも試してみたくなったりもしたけど実はやっぱり長文を書くのは難しくて、平安時代の人とかちょっと昔の人とかハスミシゲピコはえらいなーなんて感想もちょっぴり持ってみたりとかしながらも、結局は一時間ちょいで2500字強書けてるなー、これを24時間つづけると60000字かー、40字×16行×200頁の本を48時間で書くペースね、てことにちょっぴり嬉しさを感じつつ、でもやっぱおかしいよなーってあたりでアンビバレントな気持ちを抱いてみたりして。
 そうなんです、結論といたしましては、まぁ背負ってしまった業をいかにしてやりすごすか、という、いつもと同じ論調に戻しまして、今宵の幕とさせていただきます。
 あらあらかしこ

「私の信条 Mets Shinjyo」第一回
 安易に「クリエーター」という言葉を吐ける人を信用しない。

22 SUN
「教育・マスメディアの普及が『標準語/共通語』の普及を促し、さらにそれが国民意識の形成を促し、戦争に帰結した」なんて内容を、ただそのままに論証するレポートを延々と書く。うう、退屈だ。退屈に殺される。基本は重要だけど。

あーそうだ、日記のネタとして考えてたんだけど、それを友人に話した時点で満足しちゃって結局日記に書かないままにしてたことを、思い出したので書いておこう。
 福田和也『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(PHPソフトウェア・グループ)を読了。サクッと読めてなかなか参考にもなるし、それなりに有意義だけど1,250円(税別)はちょっと高かったかなーと思わせる本でした。
 しかし福田和也は、彼がこの本の随所で使っている、「ひと月三百枚書く」ために最も有効なテクニックを、本書の文章内では一言も触れていない。繰り返すが、そのテクニックは、この本の随所に使われているにもかかわらず、である。
 そのテクニックとは、「一文ごとに改行する」

21 SAT
ああっ、書くことがないっ。レポートが。いやレポートが。テストが。そしてテストが。そして夏休みが。そして燃える太陽が。そして静かな海が。そして熱い砂浜が。そして妄想が。そして怠惰が。そして日常が。そして日常が。そして日常が。
 気がついたらずっと夏休みだったのであった。夏休みの夏休みとは、いったいどんなものなのかしら。かしらかしらどんなのかしら。

19 THU
「剣」と「玉」っていうのはきっと男性性のメタファーであって、「鏡」というのは女性性なんだろうから、「国生み」という神話の構造と三種の神器を関連させて考えると、女性というのは男性のコピーを生産するものだということになる。
 しかし、現代の最新の「神話」である生体科学を信用するならば、女性が単なる「鏡」ではなく、子供は両性の情報をもとにして作られているということがわかる。子供は単なる男性のコピーではないし、女性はコピー機でもないわけだ。と考えると、「三種の神器」は前時代的な男尊女卑の構造を保持していて、やっぱり古くさいのかしら、などと考えてしまう。だからきっと、士郎正宗も「種の交換」や「非対称な鏡像」といった表現によってそのあたりの矛盾を解消しようとしてるのかしらん。
 そして、「次の千年は鏡の千年」とか言うセリフも、フロイト〜ラカンにおける「鏡像」の概念が云々とかいう推測をすることもできてしまいそうなカンジなのだが、まぁそれはともかく、そんなことをやるのも不毛そうなのでやめておく。
 実はここまで『攻殻機動隊2』について書いていたわけなのですが、そんなこんななわけなので、感想は省略したわけなのですよ。今回の2巻が、まるごと3巻以降への伏線なのかもしれないが、しかしそれだっていつになることやら……。
 しかし、『エヴァンゲリオン』ほどに自己を投影して陶酔できるわけでもなく、イマイチ爆発力不足なんだよね〜と思ってみたり。まぁ、士郎正宗はそんなこと狙ってもいなければ望んですらいないんでしょうけど。

18 WED
ていうか日記おもしれえよ! ネットまだまだおもしれえよ! WWWはやっぱマルチメディアとかどーでもよくてテキストのために用意されたメディアだよ!! と痛感する今日このごろ。
 というわけで、今日はユッカさんの「ウラチェリ。」を読みました。ほのかなせつなさを勝手に感じてみたりみなかったり。あとエロ。

『攻殻機動隊2』は、ワケわかりませんので感想は略。あーと、えーと、エロマンガ。

とにかく金がないのでネットばっか眺めてるわけなのですが、それでもそこそこ時代についていけてる感触があるために、よけいヒッキー度に拍車のかかる毎日。
 って、レポートのことは頭から抜いてるんですけどね。

17 TUE
「論理的なことは、どっか信用ならない。直観を大事にしたい」だとかいう意見を聞くことがあります。「自然な思いを大事にしたい」とか、「感性が大事である」とか、類似の主張はそこかしこで目にすることができるでしょう。また、「簡単な言葉で伝えることが重要だ」などといった言い方もあります。これらの主張は、それぞれ微妙にニュアンスが異なりますが、根っこの部分は同質の問題であると思われます。つまり、「言葉を重ねてゆくにつれ、伝わらなくなる/伝わってこなくなる」ということです。
 しかし、これらの主張は、二つの点で勘違いをしていると思います。
 まず一点めは、「論理と直観は別のものだ」と認識しているという点です。直観がきっかけを与えていない論理など、あり得ません。私の書いたものから例を持ってきましょう。たとえば、2001年2月15日の文。
[……]ヒップホップという音楽を好むやつが、ニット帽を目深にかぶってXLサイズの服を着ていなくてもべつにかまわないわけだ。
[……]
 服装は偶然そこにあって、音楽が偶然そこから生まれた。そこにいる人たちがXLサイズの服を着て「ヨ〜メ〜ン! ワサ? ワッサ〜?」とかやるのはいいさ。そうなんだから。でもさ、日本でヒップホップをする人々がXLサイズの服を着なくてもいいんじゃないっすか? とか思ってしまうんですが。べつに特攻服着たやつがヒップホップかけてもいいじゃん。ていうかむしろ、そっちのほうが面白いじゃん。
 上の主張はそもそも、「ヒップホップをやってるやつがXLサイズの服を着てる必要はあるのか?」という、一瞬の違和感から始まっています。音楽と服装がセットになっている、という事実に対して、違和感を感じているわけです。そう思った時点で、自分はなぜそう思ったのか、よくわかっていません。そして、自分がなぜその違和感を感じたのか、ということに自分で納得したのは、さらに1〜2秒後のことです。この時点で、私の中に「論理」と言えるような構造は、まだありません。つまり、「直観」的な理解をしている段階です。
 ここまでが一点めです。「論理」は「直観」と無縁ではなく、「論理」がはじめから「論理」として出てきているわけではない、ということですね。では、なぜわざわざ「直観」を「論理」に変換しなくてはならないのか? これが二点めの重要なポイントとなります。
 ここで重要なことは、「ヒップホップという音楽をやっている人々はXLサイズの服を着ている」という事実が「常識」であり、「あたりまえ」で、一般的に必然として認識されているということです。
 たとえば、普通は「ヒップホップ系の人間がXLサイズを着ているのはあたりまえだ」と思っている。一方、私は「ヒップホップ系の人間がXLサイズの服を着ている必要はない」と考えている。しかし、私が他の人にそれそのまま言っただけでは、多くの場合、「伝わらない」。こうなったとき、私には何ができるでしょうか。私の「直観」をそのまま発言しても、他人にはそれが伝わりません。私が「ヒップホップの人はXLサイズを着ている」と言えば、そのまま「伝わる」のですが、しかし、その逆である「ヒップホップの人はXLサイズを着ていなくてもよい」は、「伝わらない」。
 他人に簡単に言葉が伝わるということは、他人と自分が同質であるということですね。つまり、その二人には共通した認識があり、同じような前提を共有しているのです。しかし、もし二人の認識が違ったらどうなるのでしょうか。
 そういった状況に陥ったら、私は「論理」立てて「ヒップホップはXLサイズを着なくてもよい」ことを、じっくりと伝えていくしかありません。「ヒップホップはXLサイズを着なくてもよい」は、私の中では既に、「直観」的な理解が成り立っていることがらです。しかし、他人にとっては、必ずしも「直観」的に理解できるわけではないのです。他人にとっての「直観」は、「ヒップホップはXLサイズの服を着ている」ですが、私の「直観」は「着ていなくてもよい」なのです。それは「論理」ではありません。私のほうも「直観」なのです。私は「直観」を、他人に伝えるときに「論理」にしているだけなのです。このように、二者の「直観」が異なったとき、本当の意味で「言葉」が必要になるのです。
 こっちだって、少ない言葉でわかってもらえるなら、そのほうがいいに決まっています。しかし、少ない言葉で伝わるためには、互いが「同質」である必要があります。もし互いが「同質」でない場合には、言葉を増やしてゆくしかないのです。ですが、その多くなった「言葉」を「信用できない」と言われたら、その両者がコミュニケーションできる可能性は、完全に断たれることになるのです。
 「論理はどこか信用ならない」と言う人々は、自分と「同質」の言葉だけを信用しているのではないでしょうか。「論理的に言われたことは信用ならない。直感的に理解できることだけを信用する」という態度は、つまり「『異質』な主張は信用ならない」という姿勢なのではないか。
 「直観」を「直観」のまま理解し合うことができるのは、互いが「同質」である場合のみです。言い換えれば、「論理」が必要になるのは、互いが「異質」である場合です。ですから、「論理」がわかりづらいのは、あたりまえなのです。「同質」であれば、「論理」は必要ないのですから。
 いいでしょうか。「同質」ならば、「直観」さえあればよいが、「異質」ならば、「直観」を「論理」という形式にして伝えるしかない。
 あなたの目の前に、「論理」立った、長々しい文章があるとします。それを少し読んだだけで、あなたがその文章を理解できたとしたら、その文の筆者とあなたは、同じ前提を共有していて「同質」である可能性が高いのです(もちろん、文章がヘタだとか、読解力が足りない、などといった可能性もありえますが)。筆者の用意した長々しい文章は、あなたに関しては必要のないものなのです。しかし、二人が「異質」であるなら、その「論理」あるいは「言葉」によってしか、わかり合うことはできません。
 「二人がわかり合う」ということは、「相手の主張を受け入れる」という意味ではありません。そうではなくて、ひとまず相手の主張を「わかる」ということなのです。ひとまず「わかった」結果、その主張を受け入れられない、と判断するなら、それはそれでかまいません。ですが、「わかる」ことすらもせずに「直観」のみを信用するという姿勢は、その「わかる」努力すら放棄することを意味します。その場合、彼らは「同質」の中で固着してゆくしかないように見えるのですが。

この文章自体も、私の頭の中では、だいたい1分かからずに着想されています。ですが、それを文章に翻訳するのに、少なくとも数時間かかっています。それは、他人に伝えるためなのです。今回の主張は、私とあなたの間の「異質」な部分に属しているからです。あるいは、もしあなたがあまり読まなくても理解できたならば、私とあなたは同じ前提を共有していて、今回の問題に関して「同質」であるということになるのでしょう。

パラドクスが一つ。「論理は信用ならない」という人は、「論理」を信用しないのですから、それを否定しようとするこの文章を信用しない、つまりは「読まない」のです。
 コミュニケーションの可能性を最初から否定している人に向けてコミュニケーションを開こうとする、という作業に、意味はあるのでしょうか。それに気付かせようとすればするほど「言葉」になってしまう。「言葉」を使うしかないにもかかわらず、それは「信用されない」。このことは、彼らが根本的な問題を抱えていることを意味するのですが、それを伝えるにも、また「言葉」によってしか表現しようがない。
 「直観」しか伝わらない彼らに、「直観」的にこのメッセージを伝える方法は、根本的にありえないのです。あな悲し。

……まぁでも、長いのは基本的にウザまる傾向があるよね。長くするにしても、読んでもらう、聞いてもらう努力をしなければならないのは当たり前なんだけど。

eS! Booksで注文しておいた、士郎正宗『攻殻機動隊2』(講談社)が、やっと届きました。発売から半月ほど経っているので初版はあきらめていたのですが、届いてみたらマウスパッドがついてました。ラッキー。つーか、たくさん刷ったってことなんだろうけどな。

16 MON
さて、今日で春学期の授業も終了。いつまでも受験失敗の余韻に浸ってるわけにもいかないわけで、何らかの方向を模索せねばなるまい。といっても、すぐに何か行動を起こすわけでもなく、また考えながら、もったり動いてみるわけなんだが。

14 SAT
6時間半福田和也漬け。

13 FRI
13日の金曜日です。ていうか、なんで13日の金曜日が不吉だってことになってるのか、ずっと気になっていたので、ちょっと調べてみました
 結果、その由来には諸説あって、はっきりわからないようなのですが、その諸説の中でも最も定番っぽいのが、「イエスを裏切ったユダは13番目の弟子で、磔にされたのが金曜日だから」というものらしい。
 しかしだね、よく考えてもみたまえよ。イエスの磔という出来事は、イエスがこの世のすべての罪を背負って父なる神のもとへ還ってゆき、そのおかげで地上のすべての人間が赦された瞬間なんだぜ。それを不吉なんて言ってどうするのか。なんて思ったり。

ラジオを聴いてたら、どーも岡村ちゃんの『だいすき』に似たフレーズが流れてきたんだけど、その曲はどうも『だいすき』ではない、ような気がする。なんか違う。と思いつつよくよく聴いてみたら、その曲はやっぱり岡村ちゃんの『だいすき』だったわけなのだが、実際ラジオから流れてきてた曲は、それを朝日美穂がカバーしたものだったのでした。
 岡村ちゃんの「あの」唱法が、一歩まちがうとかなりヤバめであることは、皆さんもよくご存知と思うが、しかしその曲が朝日美穂のロリータな声で歌われると、これがなんともイイのですよ、皮肉でもなんでもなく。「ああ、こういうアプローチがあったのね」と思わされました。佐藤雅彦的に言うと、「『トーン』を入れ替える」ていうことになるんでしょうが。いや、べつに岡村ちゃんの唱法が悪いと言ってるわけではなく、個人的にはむしろ好きなのです。でも、ぶっちゃけた話、朝日美穂のカバーは岡村ちゃんが歌うより全然アクが抜けていて、一般的には商品価値が高まっているという気がしたんですね。
 というわけで、その曲は、7/25に発売される『TRIBUTE TO YASUYUKI OKAMURA EP』(BIKINI RECORDS)に収録されているそうです。ほしい。

島田雅彦が来た。

12 THU
きゃ〜! 子系まさよしさんからお叱りのメールが来ちゃいました。
message = マスコミにはオフレコなのを日記に書いちゃマメ!
guest = 子系まさよし
 いや〜、まさか子系さんに見て頂いているとは思ってませんでした。申し訳ありません。ていうか、具体的なこと書かなければ、ほのめかすくらいはいいかなと、つい出来心がおきてしまったのです。大丈夫ですよ子系さん、こんなネットの辺境にある日記なんかマスコミではありません。誰も読んでませんから。
 ぜひまた講義をお聴きしたいです。ビバ・ヤフー! ソフトバンクサイコー!

11 WED
レポートばっか書いてると、気が狂いそうになってきますヨ! というわけで、レポート用の参考文献を読む合間に、自分の読みたい本を読んで気をまぎらわしてみたり。
「漫画を描くストレスは……漫画を描くことで解消するのさ」

(画:余湖裕輝、作:田畑由秋『コミックマスターJ』<2>「美しき漫画のために」より)
 教えは忠実に守っております(いまのところ)。いや、Jの言おうとした内容とはちょっと違うかな。本来は「レポートを書くストレスを、レポートを書いて解消する」べきなんでしょうが、んなのムリ。
 ちなみに、哲学者の西田幾太郎の「読書」の位置づけがすごかったらしいです。西田は、ふだんは常に考察をします。そして、考察に疲れると、はじめて「息抜きとして」読書をしてたんだそうですよ。考察 or 読書(=休憩) or DIE というわけです。それはそれで怖いですね。
 つーか、息抜きをしているつもりが、どうも自分の読みたい本のほうばっか読んでしまうので、あまりよくありませんカモ。

そんなこんなのここ最近なのですが、ふと考えてみると、この3年間、ちょっと左脳ばかり使いすぎてきた気がするので、少し右脳のほうを使いたい気分に。

10 TUE
そういえば昨日、孫正義が来て、Yahoo! BBの宣伝をして帰っていきました。「BB」ていうのは「Broad Band」であると同時に、「Back Born」でもあるんだとかで、バックボーン回線のことをしきりに強調。ADSLで下り6〜8Mbitを保証します、とか言ってましたが、利用者が増えても本当に大丈夫なのかという心配は、やっぱりしてしまいます。
 詳しくはこちらにレポートがあるようです。「マスコミの人がいたらオフレコでね」といいつつ喋っていたネタがあったんですが、その言葉は守られてるようです。そのオフレコ部分によると、孫さんはNTTに対してかなりキレているみたいでした。

09 MON
えびで、えびな、うぉちょき、おにょり、くちずぅ〜けぇ〜か〜ら〜はぁ〜じめよほぉ〜。ていうのが、あまりにかかっているので、つい頭の中をよぎる今日この頃。僕の小学校の同級生にヒライケン「ジ」というやつがいたのですが、彼のことはあまり頭をよぎりません。

なんだか疲れが。なんでも、パンチを空振りするのは、ヒットさせたときよりも消耗するんだそうですよ。
 というわけで、来学期は「お休み期間」という位置づけにしようかと思います。というよりも、学校に期待するのをやめて、自分一人で考えるなり、何か作るなりしてみようか、という気分なのです。
 この気分が、夏休み明けまで持続するかどうかはわからないのですが。どうなるんでしょうね。

08 SUN
ああ、なんだか抵抗するのに疲れてきました。何への抵抗なのかよくわかりませんが……やっぱり外圧っていうんですか、「列強の脅威」に対する抵抗なのです。列強からの抑圧に対抗するためには、国民のナショナリズムを喚起してアイデンティティを確立するとともに、場合によっては、(ときには虚構の)敵を作り出し、それへの対抗心を喚起することが必要とされるわけです。鬼畜米英ー、欲しがりません勝つまではー、みたいな? みたいな? って、とてもあぶないですね。
 と、いう作業を、ここしばらく、なんだかよくわからないうちに、やらなければならないような状態に陥っていたわけです。が、それも疲れてきてしまいましたよ。ハァ〜。どうも、エンジンの回転数とギヤがうまく噛み合ってなかったというか、フォーカスがズレているというか、のれんに腕押し、ぬかに釘。
 というわけで、方向修正が必要であるような気がしてきました。回転数を少し下げる必要があると感じているわけです。といっても、ギヤのほうは、それほど自由に変えられませんから、回転数のほうを調整するしかないということですね。そういう意味で、「疲れ」という感覚が出てきているのかもしれないと思えるのです。「疲れ」を大事にしなければいけない。そして、いま手元にある素材のうち、どれが使えて、どれが使えないのか、という部分を、しっかりと見直す必要もありそうです。

そういった「抵抗」のための作業をしていた理由を考えてみると、ひとつの問題が見えてきます。
 一方では「必要に迫られていた」という部分もあるのですが、もう一方では、モチベーションを保つために、自分で「わざとそっちへ追い込んでいた」部分があったのですね。「必要」なことでありながら、同時に「作為」もあった。問題は、その「作為」のほうなのです。
 この「作為」というのが、あやしかったのですね。なんか無理があった。「抵抗」っていうのが、ムリヤリ感があったんですよ。僕は「盗んだバイクで走り出す」タイプの人ではないらしいのです、どうやら。いや、「盗んだバイクで走り出す」タイプではないことは前々からわかってはいたのですが、自分がその状態にあるということに気がついていなかったわけですね。いや、目をそらしていたんでしょうか。いや、そこまで走り出してたわけでもないんだけど。でも、ちょっとわざとらしかった。
 しかしですね、その「作為」が、つまり「盗んだバイクで走り出す」的なことが、必要なのではなかろうか、とも思っていたのです。少しは、そうしないことにはイカンのではなかろうか、という意識が。いや、それは今でもまだ、必要であるという気すらしているのです。
 だから、「作為」を完全に消すというのもまた、マズイという感覚がある。でも、その一方で、現状の「作為」は、どうも違うっぽいぞ、という感覚もある。ちょっとわざとらしすぎるというか、うまくないというか、イケてないというか、リキ入ってるというか、何というか……あれだ、「無駄が多い」。
 というわけで、調整に入ります。全部バラして力を抜いて、点検点検。スキャンディスクー、「不良クラスタが256個みつかりました」。デフラグー、「87%が断片化しています」。ぎゃー。

ていうか、こんな内容をここまで語りまくっているという事実が、まず全くイケてないのですが、それは言わないでよ。やさしさ見せちゃってよ。
 比較的マジメな人々に囲まれてるので、それが移ってきちゃってるのかもしれない。頭が良くて「バカ」な人っていうのは、本当に貴重な存在だということが、よくわかった。
 やっぱり環境的要因って大きいよねぇ。春が青くてみずみずしいっていうのは、多くの場合、毒である。適度に枯れていなくてはならない。
 「モツト枯レマセウ●3点」

07 SAT
なんだかんだと経緯があって、亜血亜の新作で声優をやることになりそうです。
 というわけで、そのへんの段取り云々などで電話をしてたのですが、やっぱり裏参謀としての役割は果たさないといけないので、新作や旧作に関して、またもわぎゃぎゃとクレーマー業に精を出してみたり。
 しかし、こういう作業というのは、だいたいいつも個人の嗜好の押しつけ合いになるか、もうちょっとお互いが理性的で客観的な視点を持っている場合であっても、それぞれの考える「客観/一般」は同じものではないのであって、結局は個々人の違いが問題になってくるのです。
 その作業をした結果が、良いものとなってるのか、それとも悪くしてるだけなのか、というところは、お互いによくわかってません。あるいは、この作業をしてもしなくても、結果は変わらないかもしれないのです。まぁ、少なくとも頭の体操としての効果は十分にあるんですが。
 と、いうような作業を、毎回繰り返し行っているわけです。

06 FRI
「裏切られる」という感覚は、多くの場合、裏切られた側が勝手に「裏切られた」のであって、裏切る側が「裏切ろう」と意図している場合のほうが少ない。
 つまり、「裏切られた」という感覚は、多くが自分に起因するものであり、それは信頼のひとつの形ではあるのかもしれないけれど、しかし他者に責任を帰することが、非常に難しい問題であると考える。
 だが、世の中には、「裏切られた」と感じたとき、その責任を他者(「裏切った」側)のほうへと向け、自分(「裏切られた」側)の責任を感じることのない人々が多く存在する。いや、むしろこちらのほうが多数派なのではないか、とすら感じることがある。確かに、他者にまったく責任がないとは言えないだろう。相手の無思慮に怒りを感じることもあるだろう。さらに、他者へと責任を帰したほうが楽であり、痛みが少ないというのもわかる。しかしそれでも、自分の責任をまったく棚に上げて他人ばかりを責めることが、いかにしてできるのか、理解に苦しむ。
 まぁそういうのは放っておけばいいのかもしれないのだが、しかしそれが多数派である以上は、そう簡単にもいかないのである。

あ、でもたまに、「意図的に裏切ったにもかかわらず無意識に裏切ったように見せかける」というテクも使いますね。指摘されてはじめて「あ、ごめんそうだったんだ」とか言うやつですね。人間ってイヤですね。たまにだけどね。
 ていうか、こういうネタをバラすから、俺という人間の信頼は徐々にすり減っていくのでしょうが、でもみんなやってるだろ、とも思うのであって、それを考えれば、ネタをバラすほうが数倍誠実であると思うのですよ。ああ、なんて俺って誠実なんだ。
 生きていくってむずかしい(笑)

しかし、他人ばかりを責めるのがマズイからといって、自分ばかりを責めつづけるのもまた、同じように問題があると思われる。でも、外に向ける人よりは、内側に向ける人のほうが好きだけど。
 ……むー、ここに見られる「責任」の問題を、法学系から見てみるのも面白そうだ、と思ったりして。時間が足りないっつの。

05 THU
宇宙は膨張を続けている。ビッグバンは、どうやらあったらしい、てなことになっているらしい。で、そのビッグバンという大爆発(同じだ)は、実のところ、今もまだ続いている。というわけで、宇宙は大爆発している状態にある。言い方を変えれば、膨張を続けている。デカくなりつづけている。我々の銀河系から他の銀河を観測すると、とにかく遠ざかっている。で、その「遠ざかりかた」はというと、近所にある銀河はゆっくりと、遠くなればなるほどより速く、遠ざかっているらしい。地球を中心として、相対的に周囲を見回してみると、宇宙は地球を中心として膨張しているように見えるんだそうだ、誰が見たんだか知らないけど。
 地球から遠いものほど、高速で遠ざかっている。で、宇宙の大きさは、とにかくものすごくデカイ。むちゃくちゃデカイ。つーことはですよ、その「遠さ」には事実上限界はないわけであって、むちゃくちゃ遠く、とにかく遠くまであって、そこにあるものはむちゃくちゃ速い。
 だから、地球から見たときに、光よりも速く遠ざかっている銀河もあるわけだ。電波も光も、地球から発する限り、絶対に追いつけないほど素早く、遠ざかっているものがある。いや、あるっぽい。
 なんで「あるっぽい」のか。なぜならそれは、「観測不可能」だから。何も届かない、とにかく届かない。絶対見えない。「いや! 唯一我々の想像力のみは、光をも超えて遙かな先を見通すことが」ハイハイ、妄想はそのへんにしとけよ。おまえがデムパだ。おまえが宇宙の果てを確認しに逝けよ。逝けよ。はやく。はやく逝ってこいよ。
 遠ざかるもの。
 遠ざかりつづけるもの。
 観測不可能な。
 絶対に見えない。
 想像すらも。
 拡張しつづける。
 言おうとすると遠ざかる。
 どんな言葉も追いつけない。
 黒い壁。
 語ることの許されぬ。
 選択肢の外にある。
 自由という制約の外にある。
 あるでもないでもない。
 ないよりもっとない。
 あるもないもあってない。
 次第に唖となるしかない。
 彼女 「唖が聾に話しかけているのね」
 しかしそこには何かが。
 何かが。
 "What is there?" ―― "Yes, there is."
 外へ。
 外へ。
 外へ。
 へ。
 へ。
 。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

……あー、ただいま。

04 WED
他人のことは気になるわたし。
 メイクから服装まで、コンサバでぴしっとキメてるお姉さんが、右手に持っているのは、生協で売ってるノートPCのキャリーバッグ(の一番安いやつ)。ああ悲しきかなSFC生、駅で見かけてもバレバレです。トーンが崩れているのです。生協の(一番安い)やつでは、「キャリア」なトーンもないのです。
 つーか、生協の(一番安い)やつでなしに、もうちょっと何かなかったのか。

アイハブノーマネー。アイワナメクマネー、バトイトダズンミーンズアイワナワーク。

あーそーか、タバコを吸っていると「怖い」のかー。そーかそーか、そんな連想って成り立つんだよなぁ、そういえば。
 俺の中の「喫煙者」という記号は、いつから「友」あるいは「落伍者」あるいは「ダメ人間」になったのだろう。気がついたときにはすでに。ハァ。

あなたがたの「充実」とは何か。一つの駄作を作り上げ、また駄作の山の標高を高めた達成感を噛みしめて、ゴミの砂漠が地球の緑を奪ってゆくことを、一晩かけて祝うことか。そうだというなら、充実なんてしなくていいです、ええ。
 だが、駄作を作ってしまうことを、一生かけて悲しみつづけることもまた、果たして充実と呼べるのかどうか。それならば、享楽の祝祭の中で、その充実を噛みしめることもまた、それはそれで、その、アレなんだよ、きっと。
 しかしまぁ、「禁断の果実」を食べちゃったものはしょうがない。あ、最近は「悪魔の実」がハヤリなんですか。なるほどなるほど。じゃあおれ「メラメラの実」がいいな。エース萌え〜。バラバラとドルドルとバクバクだけはかんべん。

03 TUE
数本のレポート課題を無視しつつ、松尾スズキ作・演出『悪霊〜下女の恋』(スズキビリーバーズ)を観賞。
 ロリ顔+グラマーが、もはや犯罪に近い状態にまで高まっている生小島聖は、それをことさらに強調する松尾の演出もあり、すごいことになっている。が、その一方で、一番おいしいところをさらっていくのは広岡由里子なのであった。
 内容面は、ファザコンとマザコンと「ナンパ師の不幸」と嫉妬と肉欲がグダグダ絡みあうのだが、結局は、冷たく、マヌケに終わっていく。
 この人、『第三の役たたず』で、根本敬大先生と対談してるんだよね。世界観が根本敬なのである。俺も、根本敬の世界がこの世の真理であると信じるものの一人であるので、つい納得してしまうのであった。

『悪霊』は今日が最終日で、数日後には『マシーン日記』がはじまるのだが、こっちは松尾スズキ本人が出演する。個人的に、役者としての松尾スズキにも萌えである俺としては、チケットが取れなかったのが残念である……当日券ねらうか?
 とも思ったが、もしチケット取れてたらレポート数本/公演の二択を迫られていたわけで、どっちを選ぶにせよ、どっちかを切るストレスがなかっただけよかったのかもしれない、と思っておくことにしよう。

八谷和彦インパク編集長を降りた、とのこと。
 本人のコメントから推察するに、この企画も結局のところ、いままでの「公共事業」の枠を出ることができなかったということなのかもしれない。やっぱり官僚は強いなぁ。
 わが校も少なからず関与しているっていうか、実際に友人が作っていたりもして、そいつも「お役所仕事」という愚痴をこぼしていたりもしたので、今回の件も「やっぱりなぁ」みたいな感想が。役人としては、インパクに参加した団体への利権分配を考えなければならないのね、なんて邪推してみたりして。結局、ワリを喰うのは現場の作り手なのであった。といっても、わが校的にはきっと、公的資金によって、俺のあずかり知らぬところが潤っているのだろう。
 「学部長のセクハラ用施設のベッドが少し豪華になっている」に20カノッサ。
 ↑これで股間も「潤っちゃう」ってか? ゲハ! ゲハハハ!!

名無しさんからのおたよりです。

「やればできるさ」は畑山戦に限っては挑戦者にとってのキャッチフレーズであったという温かい目でみるというのはいかがか。
 たしかに、挑戦者は非常にがんばりました。一度チャンピオンになり、敗北、そして今回の勝利で、再び世界一へと返り咲いたということらしいです。カッコイイ。
 しかし、TBSは、『ファイトTV24』で、試合前の30分間、延々と「歴代の日本人チャンプを」振り返るビデオで引っぱりまくっていました。挑戦者の挑発的なコメントを、挑発的な形で流しました。つまり、TBSは『ファイトTV24』において、ジュリアン・ロルシーではなく、畑山隆則に全額「張った」のです。「やればできるさ」というキャッチは、つまりリスクを背負ってギャンブルへと踏み出すことを促しているのですから、そこは厳しくしないと、子供が真似します。「みんななかよし〜」といって一等を決めない運動会は、教育上良いことだと思いますか?

02 MON
メモー。岩松了演出『三人姉妹』、忘れんな>俺。あと、ウーマンリブVol.6『キラークイーン666(ろくろくろく)』と、KERA・MAPと、あといろいろ。
 諸事情が衝突ばかりしてうまく連動しないストレスは、私を暴走へと向かわせるのだった。ていうかみなさん、いかにして退屈をやりすごしていますか。ゐわんの異常な愛情――または・私は・いかにして・金が足らないのは・もちろんのこと・溜まる気配すら・感じさせない・ようになったか。

何かを――たとえば「関係」でもなんでもいい、そういったことをじっくりと考えてゆくと、いつかは「無根拠」の一点に辿り着く。どんなに理由をつけていっても、最後には何も見えない地点に立ってしまう。
 しかしだ。その「何も見えない」地点を少しでも遠くへと押しやりたい、たとえ、どこまで進んでもその地点が先送りされるのみで永遠に完結することがないとしても、あるいはすでにその地点が目の前にあるのだとしても、神経をすり減らしながら、それを少しでも遠くへやる、というのが、最高に面白いことであるような気がするのだ。
 あるいは、その「無根拠」さ加減を徹底して叫びつづける、というのも、また楽しいかもしれないのではあるが。

01 SUN
あっつい!! 地球は確実に温暖化しているらしい。そろそろ沿岸が海に呑みこまれはじめるんじゃないの、ちょっとちょっと。てくらい暑い。なんなの、セカンドインパクトでも起こったの。それとも、レッド党が黒点制御はじめたの。どーなのよそこんとこ。

昨日の日記をアップしたあと、福島県の町民さんからお便りがありました。

元ヤンキーは土建屋となりしっかりおらが町の町長をやってくれたりしてます。
 素晴らしい。栄光の階段を駆け上がり中ですね。まさに黄金パターン。翼くん岬くんもビックリです。うらやましい。俺も既得権益にまみれてみたい。でも、町長クラスではそんなことないのかしらん。

その『ファイトTV24』ですが、「一夜漬け『走れメロス』丸暗記」企画はすべて一人目で失敗、その後のオーケストラ演奏はなんとか成功したものの、最大のクライマックスである畑山の防衛戦も、盛り上がりに欠けたまま、判定負け(判定負け!)。キャッチコピーであった「やればできるさ」は、もろくも反証されるという結果に。トキオの顔もこわばるわ、そりゃ。
 という有様を見て、「マラソンとか富士登山とか、危なげない企画にしときゃいいのに」と思いつつ、爆笑する私。ギャンブルしすぎだっつーの>TBS。
 つーか、「やればできるさ」なんて100%の大ウソであって(まぁ、そこをあえてやってみましょうよ、という企画なのだが)、せめて「やらなかったら確率ゼロ」くらいの内容にしておけば、今回の結果でもおさまりがついたのにねぇ。
 ていうか、猪木をひっぱってきて「行けばわかるさ」と言わせればいいのだ。

私に連絡したのだがレスポンスがない、という皆様、申し訳ありません。当方バタバタしておりまして、トラフィックが増大しており、非常にレスポンスが悪くなっております。7月も半ばをすぎる頃には、快適な通信環境に復帰するものと思われますです。
 『攻殻機動隊2』も買えてないしよー。